Episode12 無邪気になるということ
……そこに刻まれた名前を、何回か見直した。
黒目瑠衣。
何度見ても、そう書いてある。
「うそ──────っ!!」
私は思い切り叫んだ。
黒目瑠衣! どうもどこかで見たことあるような気がしてたんだ! 最近めちゃくちゃ売れてるって噂の、新進気鋭の画家さんだ!
この前、新聞の特集記事で読んだよ! 何かすごい賞を立て続けに取ってるって!!
どうしてもっと早く気が付かなかったんだろう⁉ 追いかけたら間に合うかな? そう思って駆け出そうとしたけど、もう黒目さんの姿は見当たらない……。
あんまりショックで、私はへなへなとカバンの横にしゃがみ込んだ。そうと分かった途端、手にしたその絵がいっそう綺麗に見えるようになった。
私、粗相とかなかったかな? 失礼な物言いしてないかな? ああ、不安が次から次へと湧いてくるよぉ……。
「………………」
じっと、絵を見つめる。
超売れっ子画家さんに、こうして自分をモデルに絵を描いてもらった。しかもそれを、タダで譲り受けた。その事実をプラスと受け取るもマイナスと受け取るも、私次第。
つまりは、そういう事なんだな……。
画家さん、もとい黒目さんのさっき言っていた事が、ようやく少し理解できたような気がしていた。
考えてみれば、『無邪気』の大切さを説いていたのは黒目さんが初めてじゃない。かつて蒲田くんにも、同じ事を言われたっけ。
難しい事、考えすぎていたのかもしれないな。昔の私はプラスマイナスゼロの法則こそ信じていたけど、それを元にその日の未来を予想したりなんてしなかったもん。ただ起こるままに任せて、やって来る出来事を楽しんでいただけだった。あの頃、今みたいな悩みを感じた事はなかったのに。
私はプラスマイナスゼロの法則に、囚われてしまっていたのかな……。
絵を持ったまま立ち尽くす私のスマホが唐突に鳴り出したのは、その時だった。
電話だ。誰からだろう、そう思って画面をつけた私の目に入った相手の名前は、〔蒲田秀昭〕。
蒲田くん⁉
私は慌てて現実に戻ってきた。やばい、ついに我慢できなくなって電話されたか! どうしようどうしよう! あれからまだ返事なんて何も考えてなかったのに!
「…………」
目を固く閉じて、暫し考える。このまま画面を落として通話を拒否する? ううん、ダメ。そんなの不誠実すぎるよ。さっきメールを打ち切ったタイミングだって、相当に不審だったじゃない。同じ手を二度は使えないよ。
仕方ない、出るか。
覚悟を決めた私は〔通話〕ボタンをタップした。
──『藤井!』
「あ、蒲田くん、あのさ」
──『決めたぞ、俺!』
「……えっ」
──『今度一緒に遊びに行こうよ! そん時の振る舞いで、お前に惚れさせる!』
ちょ、ちょっと待って。会話の進展速度が早すぎて理解が追い付いてないんですけど。
電話口の蒲田くんは大興奮だ。どうだ名案だろ、とでも言わんばかりに鼻息が荒い。
と言うか、惚れさせるってっ……。
──『な、それならいいだろ? 藤井に選択権はないから安心しろよな!』
「選択権ないの⁉」
──『だって藤井さっきまで、俺への返信をずっと悩んでたんでしょ?』
私は返事が思い付かなくなった。
得意気なのか照れ隠しなのか、蒲田くんの声量は大きくなるばかりだ。
──『俺が藤井に相応しい男かどうか、藤井の目で判断してくれよ! な、それならいいだろー。今ここで無理に決めるより、ずっといいよ』
「う、うん…………」
──『んじゃ決まりな! 後で遊び場所の候補はメールに送っとくから!』
うん、って今度は言えなかった。蒲田くんの変わりっぷりに、ただただ戸惑っていた。
最後に蒲田くんは言い置いて、電話を切った。
──『言い忘れたけどさ。藤井、合格マジでおめでとう!』




