Episode10 憂いと優しさ
「……私、いま十五歳なんです」
そう切り出すと、すぐに画家さんは色々と察したみたいだった。
「お、じゃあ今年、高校受験だったんだね」
「さっき、受かったって証書を受け取って来ました」
おー! って画家さんは歓声を上げてくれた。ああ、本物の声で誰かに祝福されたの、画家さんが最初かもしれない。
「やったじゃない!」
「なんですけど……」
「えっ?」
私、話した。
私が信じる『プラスマイナスゼロの法則』の事を。
そして、それが今回は裏目に出た事。私の努力も頑張りも──ああ、両方同じか──、『プラスマイナスゼロの法則』は何もかも飲み込んでしまう事。
もしかして、もしかしなくても、私の頑張りは結果に結び付かないんじゃないか。さっきからずっと、悩んでいる事。
別に、答えなんていらない。真実があるなら、真実を知ったなら、もっとつらくなる気がするから。
そんな気持ちで語る私の話に、画家さんは茶々も突っ込みも入れずに聞き入っていた。私が話を終えると、ただ一言、言った。
「……うん。あたしもそれ、分かるなぁ」
「分かるんですか?」
「うん。あたしは本で読んで初めて知ったんだけどね」
画家さんは少し恥ずかしそうに笑うと、私の隣に歩いてくる。そうして、目黒川の手すりに寄りかかった。見上げる横顔は夕陽色だ。
「『正負の法則』っていう言い方で、あたしは聞いたんだ。たぶん意味するところは同じ。君の言う通り、人生楽ありゃ苦もある。山があれば谷もある。そしてそれは均してしまえば、真っ平らのゼロに落ち着く。つまりはそういう法則だよね。──ううん、人生訓、かな」
ああ、それならきっと、おんなじだ。
「あたしも分かるよ。切り口は違うけど、似たような事であたしも悩んだから」
画家さんは自分に語りかけるように、ぽつり、ぽつりと言葉を口にする。
「あたしね、プロの絵描きになりたくて上京してきた当時は、描いても描いても売れるどころか評価もされなかった。今は少しは報われるようになったけど、それ以前はつらかったよ。努力なんかいくら重ねたって、どうしようもないんじゃないかってね」
「じゃあ、今は」
「今はちょっとだけ、考え方が変わったの」
画家さんは私を振り返って、微笑む。その頬に刻まれた小さな皺が、夕陽の陰影ではっきりと浮き出ていた。たぶん、私にしか見えない。
「本当に君の言うように、今日はもういい事は起こらないのか。起こらなかったのか。少し一緒に、考えてみようよ」
そんな事、言われても。思い付かないからこんなに悩んでいるのに。
そう言おうとしたけど、何とか思い止まった。
すると画家さんは、思いもかけない事を言い出したんだ。
「じゃあ、今ここで描いたこの絵、あたしが君にあげるって言ったら、それは『プラス』にならないかな?」
ええっ、そんな!
「いいですいいですっ!」
私は手をぶんぶん振る。「絵が欲しくてモデルを引き受けた訳じゃないですしっ!」
「いいのよ。あたし、こういう事よくやるんだ」
そう言って手を振ってみせた画家さんの目は、なんだか深い深い色をしていた気がする。
「今のあたしの提案だってさ、捉え方次第ではプラスにもマイナスにもなるでしょ? 申し訳ない事をしたって思えばマイナス、絵を描いてもらえたって思えばプラスだもの。案外みんな、そういうものなんじゃない?」
「──えっ」
一瞬、言っている事が分からなくて、思わずそう聞き返そうとした。
「じゃあ」
「どちらにもとれてしまうのは、君が直接関与していないから」
微笑みを崩さないままの画家さんの瞳から、私は目が離せなくなった。
だって、そこに反射した光が、あんまりに真剣だったから。
「正負の法則っていうのはね、本当は法則でも人生訓でもないんだ。つまり、起こった出来事の損得勘定がうまーく平等になるように、勝手に脳が微調整しているの。不自然なくらい何もかもがプラマイゼロになるのは、そういう仕組みだからなんだと思うよ」
言葉が出なかった。
そんな発想、私は今まで、したことがなかったから。




