ヒーローにはなれない僕だけど
見てみろ。◯◯。僕の耳に入る先生の言葉。先生の、僕一人の体ならつまみ上げるくらいに太い指が向いた先の建物は、まるで幼稚園か何か、子ども向けの施設のようだと思った。
山道をずっと登って行く車。××はずぅっと無言で、顔を下げている。僕も××も、制服を着ている。先生も、珍しいほどに黒い、真っ黒なスーツを着ていた。時折、窮屈そうにネクタイを弛めていたのが、妙に気になった。
××は、そこに安置されている箱を見つめて、撫でて、そこに顔を埋める様にして突っ伏して。目は、赤く腫れ上がっていて、痛々しかった。
僕と××は、物心ついた頃から一緒にいた。
「もうあたしたちはきょうだいだな」
そう彼女が言って、僕達の親を笑わせたこと。今でもはっきり思い出せる。
「じゃあ、どちらがおねえさん? それとも、おにいさん?」
そんな風に、僕の母が聞いた時、何の迷いもなく、
「もちろん。あたしがおねえさん!」
と言い切り、僕とけんかになったこともありありと思い出す。
そのやり取りを、この人は。もう、動かないこの人は。……××の父親は。黙って見ているばかりだ。何を思っていたのか、何を思っているのか、何もわからないまま、××の父親は死んでしまった。
××は自分の父親の臨終を伝えられたその瞬間から、泣いた。泣いて、泣いて、いつになっても、泣き晴らす、っていう言葉は嘘だって思うくらいに、泣いてた。
その時僕が何をしていたのか、ハッキリと覚えていない。ただ、薄暗い診療所のベッドの前で、僕も目の前が真っ暗になったようにして、ただただ突っ立っているだけで、その癖、先生と医者と、僕の両親とが何かしらの会話をしていて、××が一人きりで泣いている。そんな状況だけは無駄に捉えられていた。
結局のところ、僕は、僕は何もしていない。何一つ、できていないのだと今気付いた。その時には、まるで僕はここにいないかのようにして、××を一人きりで泣かせている大人の冷たさに、静かに怒りさえ覚えていたのだから実に滑稽だ。笑える。どんだけだよ。クソが。誰が? 言うまでもない。クソだ。
葬式という場がどうしてこんなに大事なものだと捉えられているのか、僕にはわからない。退屈なお経、誰が誰だかわからない参列者。冬休みを一日無駄にしたクラスメート。家を出て行ったきり、結局戻りもしない××の母親。血は繋がっていない僕ら。取り仕切る僕の両親と先生。
大学の友人だったそうだ。最期の時を一緒に迎えた診療所の医者も含め。身寄りがない××の件も、話はあっさりとまとまっていた。うちに引き取られることになっていた。離れることなく過ごせることはいいことかもしれない。僕と××は、物心ついた頃から一緒にいた。から、今更分かれて過ごすなんていうのも違和感があるし、良かったのかもしれない。
「あいつまだ来んの? がっこー」
「さぁ? 来んじゃねーの? いらねーけどな!」
「お前そういうこと言うなやー。ひゃっひゃ!」
諌める言葉も感情に微塵の説得力がない。先生はいない。忙しく動いていて、留まっていられない。そしてこういう奴等は、先生がいないタイミングを積極的に嗅ぎつけ、狙って、選んで叫ぶ。下卑た連中。葬式の暗い雰囲気を彩る、真っ暗な連中。真っ暗な一員。それは僕もか。僕も下卑てるのか。あぁ。そっか。だって僕、何もしてない。
××の耳に、これらの声は届いている。連中に見つからないように影に隠れて、でも、体が震えていた。言葉が××を打ち付ける度、体が目に見えて震えていた。
そんな時間が無為に過ぎた。僕は葬式という場がどうしてこんなに大事なものだと捉えられているのか、わからない。昨日の所為で、余計にわからなくなった。
××の父親の遺体は、今から火葬場で燃やされ、骨になる。当たり前のこと。そうしなければ、墓に埋めることもできない。知っていた。きっと××も、知っていた。だろう。
見てみろ。○○。 僕の耳に入る先生の言葉。先生の、僕一人の体ならつまみ上げるくらいに太い指が向いた先の建物は、まるで幼稚園か何か、子ども向けの施設のようだと思った。……ここが、火葬場だった。
人の死は不吉だと、何となく僕は思う。これは多分皆そうなんだろうなとボンヤリと感じている。当たり前の日常の中に、死というものは存在しないことになっていて、それを嫌うから、何故かこうして明るく仕立て上げられた建物で、人の死を迎えている。それに何の意味が? わかる訳がない。
僕の両親は遅れて到着する。××の父親の体が入った棺と同席できるのが三人まで、と聞かされた時に、何故か母が先生と僕を××に付き合わせる形を提案した。最初先生は遠慮したが、強く押してくる母に、先生が折れた。
建物の中は落ち着いた雰囲気に溢れていて、妙に広い空間、空気がどうにも落ち着かなかった。案内の指示に従って、というより、ただ歩く先導について行くだけで物事は進行していった。
いつだって、僕も××も自分の意思で歩いてなんかいないって。
「あいつ消えれば良くなーい?」
語尾が上がって行く。私バカでーす! って声高らかに宣言してるようにしか聞こえない。
「あいつどうしてここに来るのかねー? さっさといなくなればいいじゃーん」
別に恨まれるようなこと、××は何もしていない。
「あいつあれじゃん。くっせーじゃん?」
僕は鼻づまりではない。××から不快な臭いがしたことは一度もなかった。
「あいつみたいなバカ、どこ探したっていねーよ!」
××は確かに勉強はできない。ただ、上には上がいるように、下には下がいるものだ。例えば、この張本人。チラリと見た最初の地理、××よりも更に悪かった。
「退学とかさせらんねぇの?」
「今時教員を追い詰められるんだろ〜? ハハァッ!」
「くっさいくっさい! あいつ便所くせぇもんな! ヒャハハ!」
「くっせぇ上にバカでブス! 何の取り柄もねぇもんなー! ギャハハ!」
市立に退学なんてあり得ない。僕達は中学生だ。××が便所くさくなったのは、こいつらが××の持ち物を便所に捨てたから。ご丁寧に糞までやらかして。そしてそれを××は泣きながら拾ったから。可愛いかブスなのか、僕にはよくわからないが、僕は××を一度もブスと思ったことはない。僕から見れば、こいつらの方がよっぽど取り柄ない。
だから××は学校に行けなくなった。別に今時珍しくも何ともない不登校生の誕生の瞬間。こんな連中に、先生は一度も声を荒らげたことがない。事なかれ主義じゃないことはわかる。一人ひとり呼び出しては、時間をかけて話していた。全てにおいて冷静で、無闇矢鱈に笑顔を振り撒き、それでも容赦は無かった。塾も休ませた。習い事も。部活も。家の用事も。いちいち全部に電話を掛けて休ませた。保護者からのクレームが凄いと聞いた。それにも一つひとつ対応した。倒れない辺りいろんな意味でバケモノだわと職員室で誰かが呟いていた。親が家で語る。職員からも睨まれてるんだろうって。『周囲にまで迷惑かけやがって』って。クズばっか。クソばっか。バカばっか。なーんてな。一番はどこのどいつだろうか。聞くまでもない。
不登校。珍しくも何ともない。でも当事者は別だった。一人娘が不登校。こんな子に育てた覚えはない。叫ぶ母親の声が隣の僕の家に響いて聞こえた。明日は行きなさい! お母さん送っていくから!
送って行ってもいいことないよ。僕ですら知ってる常識のはずだった。嫌だ! 嫌だ! 泣いて叫ぶ××の声を久しぶりに聞いた。まるで子どもだった。子どもだと、思って。
そして僕は気づく。あぁ、今も子どもだった、って。
父親の仕事が朝早いから、送れるのは母親だ。今はいない母親だ。結果なんて語るまでもない。思うよりも、長い距離を僕たち三人は歩いていた。
××は、何も口を聞けなくなっていた。今の話じゃない。結果っていうやつだ。僕が知っているだけで、聞いていただけで、
「いちいち親に頼らなきゃ学校にも来れねぇのかよ」
「何々、マザコン? 便所にバカにマザコンまで追加? もうアタシなら生きていけな〜い! アッハハ〜!!」
「誰アイツ? ゴメンマジ俺今の今までこんなクズのこと忘れてたわ〜。思い出しちゃってマジ不愉快!」
そんな羅列が続いて。僕はこんなクズに不愉快な思いを繰り返す羽目になった。
机は廊下に投げられて、カバンが便所に飛んで行った。
先生はこの両親を止めていた。説得していた。××が今学校に来ても、自分が見ていないところで攻撃される、と。これは××が悪いのではないんだと。自らの力不足を詫びながら、説得したのだと、僕も親から聞いた。無駄だった。何もかもが。先生は、叫ばなかった。怒りにかまけて感情をぶちまけたりしなかった。腕が震えていた。教卓を叩き割ることも容易なんじゃないかって思える程に図太い腕が、わなわな震えていた。
今度は、××の家が、おかしくなっていった。叫び声。ヒステリックな女の声が聞こえることが増えてきた。
アンタノセイデ××ハアンタノカカワリガワルイカラソウナッタノヨアンタノセイデアンタノセイデアンタガソンナダカラ××ハオカシクナッタノヨ! アンタハアンタノアンタガアンタハアンタノアンタガアンタハアンタノカセギハワルスギルアンタガアンタハアンタノアンタガアンタノアンタハ。
意味不明な言葉達。ずっと落ち着いていて、先生に負けず劣らず体が大きく、でも何も言わなくて、笑わない。だから怖いと思う××の父親が、
オマエニマカセテキテタノニナゼコンナコトニナッタ××ガドウシテコンナフウニナラナキャイケナイ××ハコンナコジャナカッタハズダコンナフウニナルハズジャナカッタイッタイナゼダナニガドウシタ××××××エェ! イッタイナンデダナンデナンダヨナンデダナンデダナゼダドウシタ××××××!
意味不明に叫んでるーーように聞こえるーーのが、あまりに滑稽だった。あぁ、コイツも同類項で括れる奴だった。
すぐ側で聞いているであろう××が、かわいそうだ。何でか、僕はその程度にしか××のことを考えられなくなってしまっていた。それが何でなのか、未だに僕はわからない。歩く足は止まり、その意味不明なことを叫んでいたはずの一人が、何も言えない状態で箱に閉じ込められ、そして狭く真っ暗な部屋に入れ込められた。
係から説明があって、ボタンを押せば火がついて、後は外の煙突から天に昇って行くのを見届けて、後は僕の両親と合流して箸渡し。淡々と進んでいく。淡々と進まなかったのは、進めなかったのは、××だった。
手がボタンを押せないでいた。押さなきゃ進めない。進みたくない。××の首が何度か横に振られた後に、××は跪いたまま、嗚咽を漏らして動けなくなってしまった。
先生に押すように頼んだ係に対し、
「すみませんが、これは僕が押すべきものではありません。どうか、待って貰えませんか?」
それは酷ではありませんか、という問いかけにも、先生は同じようなニュアンスの言葉を繰り返して、僕達は××の父親の抜け殻を放置したまま、待合室へと通されることになった。
待合室に入ってすぐに、僕の両親がそこに入ってきた。事情は既に係の人から聞いていたらしく、あえて僕や先生に問いかけるようなことはしなかった。××が部屋から出て行こうとして、母に止められる。トイレ。ただそれだけ言って、××は部屋を出て行った。先生が僕も少し出るよ。と母に伝えてから××の後を追うように部屋を出て行く。
三秒間の沈黙。誰も喋らないのが、妙に落ち着かない。今いるのは家族だというのに、家族を一気に失った××とは違って、不謹慎ながら、良い景色の中で団欒しているようにさえ見える快適な空間で、僕らは沈黙し続けていた。居心地が、悪い。……罪悪感? 違う。そんな切って貼ったような言葉が出てくること自体、まさしく僕が人でなしの最低最悪のクズ野郎だと証明してしまったみたいで、腹立たしい。
「○○もトイレ?」
母の言葉に、うん。そう嘘をついた。出て行って何をするでもない。何かをするために出ていくでも、ない。
先生はトイレの前、廊下を少しだけ歩いたところにある広まったところにいた。テレビが何かしら大音量で叫んでいるけれど、先生はそれを聞いていないようだったし、その音は僕の耳や頭に何かしらの意味を与えなかった。先生の手にはペットボトルのお茶が二本。ここで何をしているんですか? と聞いてみた。
「××があのスイッチを入れられなかったのは正解だったな」先生の答えは僕の問いの答えにはなっていなかった。
「あっという間に骨になる。ずっとバタバタしっ放しだったからさ。こうしてゆっくりする余裕なんざなかったろうし、今時珍しい籤付きの自販機で大当たりを出すこともなかったろうさ」
お茶を一本僕に差し出しながら、奢りだ。なんて楽しげに言って先生は笑った。当たっただけだろ。僕の顔には露骨に出ていたろう。普段僕はこういう大当たりとは無縁なんだが。先生の笑いも微妙に乾いているように感じて、僕はそのお茶をある程度のところまで一気飲みする。喉は渇いていたけれど、普段一気飲みなんてしないから、腹に一気に流れ込む濁流がズドン、と落ち込み、溜まる感触が気持ち悪かった。
「○○や××を担当できると知って、気合が入ったさ」
ペットボトルの蓋を閉めて、先生は笑顔のまま言った。僕はふぅん、とだけ言って、そのまま流す感じでいようと思った。
「もっと上手に、伝えられると思っていた。……単なる愚痴さ」
それのどこが愚痴なのか、わかるようで僕にはわからなかった。先生はそれきりしゃべらなかった。
××一人くらい、もっと上手く救えると思っていた。
××のこと、別に好きなわけじゃない。単なる幼馴染で、友人で、うん。そうだ。顔見知りで、特別なんかじゃない。けれど、うるさいくらいしゃべる××を。僕のことを平気で振り回す××が。勉強ができなくて他人に愛想悪くても、僕のことだけは妙に気にする××に。
「僕は、何ができたんだろ……」
ポロリ、こぼれ落ちた。僕はあいつらが憎い。だってそうじゃんか。××は何をした? 特別迷惑なんかかけてないし、ただ寄ってたかって××のこといじめてただけでさ。両親だってそうだよ。一番苦しいの××だって普通に考えりゃわかるじゃんか。わかるだろ。普通。何で勝手に出てっちゃうんだよ。意味わかんねぇ。何勝手に死んでんだよ。ふざけんなよ。
気づくと、先生の手が僕の頭の上にあって、時折、ポンポン、と触れる。
あいつらって一体何なんだろ。最低最悪な奴らだよ。ホントに、あいつらの方が死ねば良かったんだ。
僕もしゃべるのをやめた。言っても、何も変わらない。ポンポン、ポンポン。この感覚が妙に気になって、僕の言葉は止まってしまったんだろうか。
「何かできること、ないかな」先生の言葉は、短かった。
「何もないよ。あるわけない」僕は無力だ。何もできやしない。今までも、ずっとそうだった。
「ホントにそうかな」
「そうに決まってる」
言葉のやりとり。繰り返すたびに僕は無力だって思い知って、落ち込んでいく。先生に聞かれるまでもなく、こんなやりとり。自問自答を繰り返してきた。答えは出てる。だから僕は黙ってた。
先生は違った。笑っている。まだ希望を持っている顔をしている。分かりやすい顔をいつだって、今だってしている。そして出る言葉は、
「例えばさ、××、遅くない?」
ただ単純に迎えにいけ、というだけの話かよ。がっかりした。
僕は、まるで先生が今までの状況を全部リセットして、何もかもを変えてくれるんじゃないかって思ってて、そんな訳があるわけない。あり得ない。冷静に考えればそうでしかないはずなのに、無性にがっかりした。
「どこにいるんですかね。探してきます」
トイレ、というのはきっと嘘だ。僕はそう思って、席を立つ。
「いやいや。普通にトイレに入ってったよ」
先生はこともなげに言った。……じゃあ何故僕に迎えに行かせる。
「女子トイレに入れって言ってるんですか」
「え? ダメかな!?」
先生は本気で僕に問いかけてきているように見えた。
「ダメに決まってんだろ常識どこに置いてきたんだよ」
がっかりして、その勢いのまま僕はつっこんだ。
「まだ○○は子どもだから良いかなって。身体小さいしまだ大丈夫かな、と」
「と、じゃねえ。普通に学ラン着ててまだ子どもも何もないでしょ。分別つく年でしょ、どう考えても」
「うん、そのノリ」
先生は親指を立てて僕に言った。意味がわからない。何のノリだ。
「××に何ができるかって肩に力いれて考えるのは僕達大人の仕事だ。××を支えるのは、やっぱ楽しくなきゃツマんないだろ。そう思うよな? お母さん?」
「いや私貴方のお母さんじゃないです。先生」
気がつくと母が後ろに立っていた。
「え? じゃあママ?」
「同い年です。こっちが恥ずかしいのでやめて下さい」
キッパリと切り捨てる母の態度に先生は、ちぇー。と言った。
「ちぇー、じゃねぇ」
「ちぇー、じゃない」
親子でつっこむ羽目になるとは思ってもみなかった。
それでは、××ちゃんは私と○○で迎えに行きます。先生はそのまま火葬場まで行ってください。主人ももう向かっていますので。
あえてーーと言った方が良いのだろうーー事務的な口調で母が先生に伝えた。先生は黙って頷くとそのまま席を立った。
「××ちゃんのことも○○のことも見ててくれたのよね。ありがとう。それにお茶まで」
母が先生の背中に言うと、
「えー? いや、僕は喉が渇きまくっててヤバイと思っただけよ。あ、とりあえず百五十円はツケってことで」
先生は脱力した様子で歩きながら答えただけだった。あと、絶対にお金は払わない。
女子トイレの洗面所に入るだけでも、相当に緊張する。実際、僕は入るまでのことはしていない。××は女子トイレと廊下の境目のところから十分に見える位置にいた。××ちゃん。母の声に反応して顔を上げる。そして鏡越しに母と僕の両方に気付く。××の手は赤くなっているのが遠目でもわかる。明らかに長い時間、そして回数的にも手を洗い過ぎている。そして、僕達に気付いているにも関わらず、××はまだ手を洗おうとする。
長い髪の毛が二つにまとめられている。焦って体制を下げたから、髪の毛がふわっと膨らんだようになって、そしてまたしぼんで下に落ちた。
「もう大丈夫よ。洗いすぎよ。こんなになるまで洗い続けるなんて……」
××の両手をとって母が呟く。ハンカチで優しくその手を包む。
「あたしは、……臭いから……」
××のか細い声が辛うじて届く。
「臭いなんて、誰が言ったの? ××ちゃん、臭くなんてないじゃない」
母のそれは正論で、誰が聞いてもーーあいつらは、別だーー正しいに決まっている。でも、そんなんじゃない。××が欲しているのは正しい言葉じゃない。××の顔が晴れることはなくて。いつも、今も、ずっと苦しそうな顔をしている。呼吸が浅い。吸ってるのに全然酸素が足りてないんじゃないか。手が痛むはずだ。それでも、××は手を強く握っている。痛む両手を更に痛めつけていた。
「さあ、行きましょう」
母は××の話を聞きながらも、やっぱり都合もあって急かされているのだろうか。××の背中を押して火葬場へと急がせようとする。動かそうとしていた。まるで××が歩けないようじゃないか。いても立ってもいられなくて。トイレから二人が出たところで、僕は、
「ねぇ、××」
その腕をとって、名前を呼んだ。
「…………」
××は何も答えない。何を言えば良いのか、何を感じ取ったら良いんだろうか、何を思えば良いんだろうか、……何をすれば、良いのか。何もかもわからない。僕たちの顔は、きっと互いにそんな顔だった。
「ごめん。僕は何もしてなかったよね」
意を決したつもりで放った言葉は、謝罪になった。そのまま、続きを紡げないまま、母に急かされ押されるようにして僕と××は火葬場に歩みを進めて行く。腕をとったはずの僕の手は、だらしなく××の制服の腕の部分を掴んでいるだけになってしまった。これで、僕は××を支えることなんて、できっこない。
もっと上手く救えると思っていた。都合の良いヒーロー。僕も××も憧れた、かつてのヒーロー。テレビに映るヒーロー。悪い奴なんか俺がやっつけてやるよ! バシッと変身なんかしてさ。かっこいいね。カッコイイな! 僕の中で蘇る二人一緒に見たテレビ。皆一緒だった風景。もう戻ることはない。戻れない。母親は出て行った。××はこんなにも弱くなった。そして父親は誰も手の届かない所に行ってしまった!
右手に力が入る。ねぇ! ××! 言葉だけが、出てこない! どうして僕は、こんなに弱いままで、××のことを上手に救えるなんて、支えられるなんて、思えたんだろう! 僕は俯いたまま、××と二人きりで歩いているみたいだった。二人して俯いたまま、何もできない弱い子としてトボトボ歩いてて。希望なんて、どこにも、ないんだ。
火葬場に入ると、先生と父が棺を挟んで××の父親を静かに見つめていた。友人が死んだっていう状況を冷静に二人ともが受け入れ切っているように見えて、大人っていうのは、本当にわからないな、と思った。この人たちは、泣くことがあるんだろうか。そういう風にしてられる感覚っていうのは、一体どういう風にしたら手に入るものなんだろうか。僕は××を見ることができなかった。××の父親の抜け殻を見るのも、どうしてか心が拒否していた。
二人ともが、何も言わなかった。××や僕を急かすようなことはしなかった。その内の一人、先生は静かに笑っていた。いつでも、この人は笑えるんだろう。係と大人たちで棺をもう一度、真っ暗な部屋に入れ込める。
「では、よろしくお願い致します」
言葉は短く、二度目の点火を促す。××が、一人で、小さく、小さく、歩く。おとうさん。呟いた声が僕には聞こえて。
……それは、助けて、にも聞こえて。
また、僕は××の制服の袖を掴んでいた。それに何の意味があるのか、ちっともわからないまま。……意味なんて、あるわけないって、わかっている癖に。
「あたし、悪い子だ」
袖を僕に掴まれた状態で、××は小さく呟いた。これは僕にしか聞こえなかった。
「あたしがもっといい子だったら。もっともっと皆と仲良くできれば、おとうさんはこんなに苦しまずに済んだ。生きてて、くれた」
その目から、涙が溢れていた。
「クラスでもっと上手にいられたら、いや違う。もっとあたしが、もっともっとクラスで頑張れてたら、こんなに辛い思いを皆しなくて、良かった……!」
そんなはずがない。あんな連中と上手にやっていけるはずがないんだ。頑張ることが正解だったなんて、僕には思えない。到底思えない。気づいたら、僕は××と一緒に歩こうとして、上手に歩けなかった。前がうまく見えなかった。目の前には膜が張られたみたいになってて、足下が覚束ない。××に体が当たる。××が咄嗟に僕が掴んでいない右腕で僕のことを支えてくれていた。そして気づいてしまったようだった。
「どうして○○が泣いてるの……?」
「だって、××は何も悪くないじゃないか……!」
嗚咽混じりでみっともない声で、僕は××にしゃべりかける。
「××のこといじめてた奴等だって、……××のお母さんも! お父さんも! 一番辛いの××だってわかってたろ!? 僕だってわかってたさ。××。僕は××が辛いの知ってて、けど、何もできなかった。違う。しなかった。最低だよ。本当に僕は最低だ」
左手で顔を抑えて涙と鼻水を拭っても、止まってはくれなくて。いつまで経ってもグズグズで。しょうがなくて。
「けど、さ。××」
泣きながら僕は××を見ていた。
「もし××が許してくれるなら、さ。僕は今度こそ××と一緒に頑張るよ。××、もうお父さんもお母さんも、いないけど、僕は、いるから」
××はきょとんとした顔をしているようだった。周囲を見てみようかと思っても、泣いてる顔を横に向けたくなくて、どうしようもなかった。
「なんか」
××が口を開く。××の目に、もう涙はないみたいだ。
「うん?」
「告白みたいだな。○○」
「え?」
「唐突すぎて、なんか困る」
このやり取りに、僕はびっくりしてしまって、でも何故か今更慌てたりすることはなかった。
「顔、赤いぞ。○○」
そこは許して欲しい。
「そんなんじゃ、ないよ。さぁ、……大丈夫だよね」
××は、口を開かなかったけれど、確かに頷いた。
僕はヒーローなんかになれやしない。上手に救えなくて、歩けなくて、みっともない。
だけど、だけど。
僕の右手と××の左手が重なって、僕は久々に××の暖かさを感じた。昔は当たり前だった温度だ。
「久々に○○の声を聞いたような気がする。昔は当たり前すぎるくらいだったのにな」
手に力を込める。最初の一歩を、僕達は足じゃなくて手で、踏み出した。