ストーカーと私
あるはずの物がないことよりも、ないはずの物があるほうが逆に怖い。今、彼女はまさにそういう状況であると言えるだろう。
彼女が目を丸くして覗き込んでいる先。クローゼットの中のわずかな隙間にその男は確かに存在している。彼女は思わず凍りついてた。そこにいるはずのない人間がいるのである。誰だって、凍りつく。しかも男は殺気立った視線でこっちの様子を窺っている。
(もしかして殺される?)
彼女の脳裏に最悪なシナリオが浮かんだ。おそらく、この男は強盗だと彼女は思った。
「おおお、お金ならありませんよ……」
とっさに出た一言がそれだった。緊張のあまり声が出ないような気がしたが、意外にもそうでもないらしい。多少、声が上擦った感じになったが、自分では、この状況の割には冷静というか、落ち着いている気がする。
「おまえ誰だ?」
男が低い声で、予想外の一言を返した。
「えっ? 誰って、私、すっ、菅野尋乃ですけど……」
「菅野尋乃?」
男がなぜか名前を聞き返す。
強盗ではないのだろうか? 自分が前もって押し入ろうとした部屋の住人の名前ぐらい、知っていてもいいはずである。尋乃には、この男が何者なのか全く見当もつかなくなってしまった。というよりも、もしかしたら今日たまたま強盗しにきたのかもしれない。その可能性も否めない今、まだ一瞬たりとも油断はできないと、尋乃は思った。
「あなたこそ、誰なんですか?」
恐る恐る、彼女は訊いた。相変わらず、声が上擦ってしまう。
「誰だと思う?」
男は不適な笑みを浮かべながら、そう言った。
「強盗?」などとは、たとえ口が裂けたとしても言えないだろう。尋乃はこの男を強盗だと勝手に思い込んでいたが、そうではないとしたらいったい、何者なのだろうか?
尋乃は、この男をよく観察してみることにした。顔には無精ひげを生やしている。年は三十代ぐらいだろうか。黒っぽい服装をしていて、頭にも黒いニット帽をかぶっているようだ。しかも手には黒い革の手袋。怪しい。見るからに怪しい。どう考えても犯罪者にしか見えない。
「何、じろじろ見てるんだ? 俺の顔に何かついてるのか?」
男は真面目な顔をして訊いてきた。
尋乃はこのとき、この人はそんなに悪い人ではないような気もしてきた。そうだ。人は見かけで判断してはいけないと、昔誰かが言っていた。もしかしたらこの人は、ただ道に迷ってここにたどり着いただけなのかもしれない。そう思った瞬間……。やっぱりそれは絶対にありえないと即座に否定する。普通に考えれば、たまたま道に迷った人が人の部屋のクローゼットのわずかな隙間に身を隠しているなんて、ありえないことである。そもそもクローゼットの中に隠れている理由が分からない。もし強盗だったとしたなら、正々堂々と脅してくればいい。そうではないにしても、なぜ彼はここに身を隠す必要があるのだろうか?
「も、もしかして、あ、姉のストーカーさん……ですか?」
「はあ?」
男はいかにも怪訝そうに彼女を見上げる。彼は未だ、わずかなスペースに身を縮こませて座っている。
「姉は、今日はもう、帰ってきませんが……」
尋乃は、彼のことを姉のストーカーかもしれないと思ったのだ。強盗ではないとしたら、その線が有力である。
姉の穂波は、尋乃とは違い、明るくて美人で誰からにも好かれている。そんな姉の穂波は最近、誰かに付きまとわれている気がすると言っていた。きっとこの男は姉のストーカーなのだ。ここに身を隠して、姉の私生活を覗いていたのだろう。
「はあ? おまえの姉ちゃんのことなんか知らねーよ」
男は尋乃の予想に反した答えを言ってきた。尋乃は思わず、目をぱちくりさせる。
「はぁ? じゃあ、あなたはいったい……」
ストーカーでもないのか? この男。いや、それはないだろう。ストーカーだからこそ、息の根を潜めてここに身を隠していたはずである。……しばらくして、ここは姉の部屋ではなく、尋乃自身の部屋であることを思い出した。夜遅くにふと目を覚ました尋乃は、クローゼットの中から視線を感じて、この男の存在を発見したのである。ということは、この男は……。
「も、ももも、もしかして、私のことストーカーしてくれてるんですか?」
「は? 何言ってんだ。おまえ」
そうだ。そうとしか考えられない。この男は、尋乃のストーカー。姉ではなく尋乃の……。彼女は男の困惑した様子などお構いなしに、一人で勝手に舞い上がってしまった。
「わ、私のどこがいいんですか?」
「知らねーよ」
男はそっけなく答える。それに反して尋乃は「うれしいです。私のことを好きになってくれる人がこの世の中にいるんですねぇ」と、感心しきった様子で目を輝かせている。
男は思った。この女、少しずれている。
いや、少しどころではないのかもしれない。どうやらこの女は、なぜか男のことを自分のストーカーだと勘違いしているようだ。
これは面白いことになった。運悪く見つかってしまったが、これはこれでよかったと胸を撫で下ろす。この女は、男のことを警察に通報する気配など全くない。暇つぶしにストーカーを演じてみるのも悪くはないなと、男は考える。
「それより、腹減ったな。なんか食いもんねーか?」
「夕飯の残りのカレーならありますけど……」
「ちょっと待っててくださいね」と付け加えると、女はキッチンへと向かった。
男は一人になると、クローゼットから出て、部屋を見渡した。ふと、棚の上に飾ってある写真立てに目が留まる。彼女と姉と思わしき人物が一緒に写っている。この姉妹は本当に仲が良さそうだ。でも確かに、姉のほうが妹よりも美人でモテそうである。妹が最初、男のことを姉のストーカーだと勘違いしたのも頷ける。ちょうどそのとき「カレー温めましたよ〜」という女の声が聞こえた。
女はカレーを皿に盛ると、男の前に差し出した。
男はとにかく、腹が減っていた。もう何日も前からまともな食事をとってはいなかったのだ。とりあえず、出されたカレーを一口食べてみる。おいしい。かなりおいしい。男はあっという間にペロリとたいらげてしまった。その様子を見ていた女は、呆気に取られたような顔をしていたが、すぐにその表情は緩んだ。なんだかうれしそうである。
「このカレー、おまえがつくったのか?」
男の問いに、女は頷く。
「お姉ちゃん、あんまりうちにいないし、家事は苦手だから、料理とかそういうのは私がやることが多いの」
その後、彼女は自分の身の上を語りだした。
幼いころ両親が離婚し、姉妹離れ離れで育ったこと。大人になって、ここで一緒に暮らすようになったこと。姉と暮らすよになって、自分と姉があまりにも違うことを思い知らされたこと。
男は黙って、女の話を聞いていた。
「お姉ちゃんのことは嫌いじゃないけど、お姉ちゃんといると私はすごく惨めになる。お姉ちゃんは美人で頭も良くって、誰からも好かれてて……それに比べたら私は、今無職でお姉ちゃんに食べさせてもらってて、根暗で友達も少ないし、彼氏なんかいたこともないから……」
そう言って彼女は、少し笑ってみせた。
「だから私、あなたにストーカーされてうれしい」と言って、彼女は微笑んだ。
男にはこの女が、出来の良い姉と比べて劣っている自分。そんな自分を養ってくれている姉。この間で葛藤している健気な妹に見えた。
この男には、女の気持ちが少し分かるような気がした。「ストーカーされてうれしい」などと言って、喜ぶ女が目の前にいる。きっと彼女も寂しいのだろうと思った。
今度は、男が自分のことを話し出した。
幼いころ、母親が家を出て行き、その後すぐに父親が死に、ほかに身寄りのなかった男はそれからずっと、天涯孤独なのだと女に話した。
女は黙って、男の話に耳を傾けていた。
「ガキのころに母親が家を出て行ったとき、俺の心のどっかに穴が開いちまったようだった。それからだな。暗くて狭いところに居るのが落ち着くようになったのは……」
「それで、クローゼットの中に隠れてたの?」
「ああ、もちろんそれもあるな。だけど本当は……」
男は、本当のことを言ってしまいたい衝動に駆られた。この女は純真で無垢な心を持っているに違いない。そんな彼女に嘘をついたままでいることが、どうしてもできなかった。
「……悪いが俺はストーカーじゃないんだ」
「え?」
「ただの泥棒さ。しかもちょっと変わってる。衣替えして奥に閉まってある虫食いの衣類しか盗まない。もちろん、たまに金目の物を盗むこともあるけどな」
「……そうなの? ストーカーさんじゃなかったんだね」
女は少し伏目がちになって、言った。
いつの間にか雨が降り出していることに、二人はやっと気づいた。雷がどこかに落ちている音も聞こえる。
雨が激しさを増したころ、誰かが玄関の扉を叩いているのが分かった。だが、その扉を叩いているのが、何者かは分からない。
「穂波。居るんだろ! 開けろよ!」
叫びながら、謎の訪問者はドアを叩き続けている。こんな時間にいったい誰なのだろうかと、男は不審に思う。
「たぶん、姉のストーカーだと思います」
女が怯えるようにして、小声で言った。
「穂波。居るのは分かってるんだ! 開けろ。頼むから開けてくれ!!」
不審な訪問者は、いっこうにドアを叩くのをやめない。しばらく無視していれば、諦めて帰るだろうと、男は考えたがそういうわけにはいかないらしい。
「俺がなんとかするから、あんたはあっちに隠れてろ」
男は女に小声で指示をすると、ゆっくりと玄関扉の前に向かった。女は男の指示に大人しく従った。
――ガチャ
ロックを外し、扉を少し開いた。もちろんチェーンは外してはいない。
そこには、びしょぬれになったまま立ち尽くしている男が一人いた。
「誰だおまえ?」
びしょぬれの男が、玄関扉の隙間からそっちを窺い見ている男に対して言った。男はもちろん「泥棒だ」と言うわけにもいかず、しばらく黙ったままだった。
すると突然、女が悲鳴をあげた。二人の男は驚いて、室内にいるはずの尋乃の安否を気遣った。
「どうしたんだ? 大丈夫か?」
泥棒のほうの男が尋乃に声をかける。
「何が『大丈夫か?』だよ。おまえが穂波に何かしたんだろ!」
びしょぬれのほうの男が泥棒男に向かって叫んだ。泥棒男は少し、何か変だなと思いながらも、穂波のストーカーである彼が勘違いしているのだと思い、穂波はどこかに出かけていて今日はもう帰ってこないこと。今、室内で悲鳴をあげたのは尋乃であることを説明した。
「そんな嘘ついても無駄なんだよ! 尋乃はもう半年前に死んでるんだからな」
そう言って、チェーンを外すよう男に要求した。泥棒男は頭が少し混乱していた。この男は、嘘を言っているようには見えない。なぜか真に迫る感じなのである。
穂波のストーカーだと思われる男は、必死にドアをこじ開けようとする。どうしてそこまでしてこの部屋に入りたいのだろうか? でも、まだこの男の疑いが晴れたわけではない。本当にストーカーなのかもしれないので、そう易々とこの部屋に入れるわけにもいかないのだ。ドアをこじ開けようとする男に対し、泥棒男は負けじと必死に抵抗した。
しかし突然、何かの拍子にチェーンが切れてしまった。ストーカーかもしれない男は、尋乃の部屋に足を踏み入れる。
「おい穂波! どこに居るんだ?」
その男は尋乃ではなく、穂波を探し回る。風呂やトイレまで隈なく探し終えると、残るは泥棒男が密かに潜んでいたクローゼットがある尋乃の部屋だ。彼は相変わらず「穂波」を呼び続けながら、尋乃の部屋へと向かった。
そこには尋乃ではなく、穂波がいた。
下着姿で一人怯えている穂波が……。
「穂波。どうしたんだ、いったい?」
「……」
彼女はあまりのショックで何も言えない様子だった。部屋は誰かに荒らされたように散らかっている。彼は、下着姿のまま体操座りをして震えている彼女に、そっと自分の着ていた上着を掛けた。すると彼女は「健二」と、彼の名を呼んだ。そのとき、あの泥棒男は黙って、二人の様子を見ていた。泥棒男の目に映っている女は、まぎれもなく尋乃である。あのカレーを食べさせてくれた尋乃である。このとき、泥棒男は事態を把握しきれていなかった。
「あいつにやられたのか?」
健二と呼ばれた彼が、穂波に訊いた。
「私、たぶん変な薬で眠らされて……さっき気づいたらこんなふうになってた……」
「そっか」
部屋の入り口に立ち尽くしたままの泥棒男には、二人の会話は声が小さすぎてよく聞こえない。
健二という男は急に立ち上がると、自分の身に着けている衣服のポケットを弄った。それは、確かに必ずあるはずの物を探しているように見えた。ないことが分かると、健二は「穂波ちょっと待ってろ」と言い残し、その部屋から出て行った。
泥棒男は相変わらず、事態がうまく呑み込めないでいた。彼女は尋乃であるはずなのに穂波と呼ばれ、それを彼女自身もなぜか否定していない。それにこの状況はいったいどうしたというのだ? まるで本当に誰かが侵入してきたように思える。
「だ、誰かがこの部屋に入ってきたんです」
女は突然、男に向かって言った。
「だ、誰かって?」
「……分からない。でも」
そう言いながら、彼女は窓のほうに視線を移す。男は彼女の視線の先にある窓のほうに歩いた。確かに窓は向こう側から鍵が壊されているようだった。第三者が不法侵入してきたのが容易に想像できる。さきほどの短時間のあいだに、誰かがここに侵入してきたとでも言うのだろうか。
「あの人は健二さんといって、姉の恋人だった人です。実は、姉はあの人の言う通り、半年前に交通事故に遭って突然亡くなりました。でも彼は今でも姉のことが忘れられず、私のことを穂波だと思い込んでいるんです。死んだのは冴えない妹の尋乃のほうだって、そう思い込んでいるんです」
彼女はついさっきまで怯えていたのが嘘のように、淡々とそう語った。男は素直にそうだったのかと思い、なるほどなと納得した。
しかし次の瞬間、女は何の前触れもなく、不意に悲鳴を発した。男はもちろん驚いたが、彼にはどうすることもできない。
すぐに健二が彼女の悲鳴を聞いて、この部屋に駆けつけてきた。彼の右手には、おそらくキッチンにあったであろう包丁が握られていた。
「電話線切ったのはおまえかぁ? 携帯は家に忘れてきててさ、この家の電話から警察に通報しようとしたら、電話線切れてんだよ! おまえが穂波のストーカーなんだろ? 全部、おまえの仕業なんだろ!!」
健二は熱り立った様子で、男の胸倉をつかんで激しく叫んだ。肯定も否定もせずに黙ったままの男のわき腹に突如、何か激痛が走る。恐る恐るその場所を男は確かめようとする。そこには、包丁が突き刺さっていた。その異物を体外に押し出そうとすると、それは思いのほか簡単に抜けて、床に滑り落ちた。あまりの痛さに、男はその場に倒れこむ。包丁を抜いてしまったためか、血液が川のように静かに流れ出してしまった。
しばらくすると、男の意識はかすれ始めた。きちんと洋服を着た穂波、いや尋乃が男を見下ろすようにして、その場に立ち尽くしていた。
「おまえ……、怪我は……ないか?」
男は朦朧とする意識の中、女のことを心配していた。
「あなたもしかして、まだ何にも気づいてないの? う、嘘よ!全部。嘘なのよ。私は本当は、尋乃じゃなくて穂波なのよ!?」
嘘だったなどと言われても、男には女の言っていることが、すぐには理解できそうにもない。
「尋乃は確かに半年前に事故に遭って死んだの。でも尋乃は私じゃない。私は穂波なの。妹の尋乃は、昔から大人っぽくて美人でスタイルがよくて、童顔でチビの私はいつも妹のほうだと間違えられてた。今日はそれを利用してみただけなの……」
彼女は泣いているように見えた。
「ごめんなさい。私、こんな方法しか思いつかなくて……」
男には彼女の真意がよく分からなかったが、素直に謝っている彼女を見て、これは嘘ではない。この気持ちだけは彼女の本心だと男は悟った。
救急車だか、パトカーだかの音が耳元に近づいてきているような気がしたが、男の意識は消え入りそうになっていった。
それから数ヵ月後。男は菅野穂波という一人の女性と腕を組んで公園を散歩している。
男はあのとき、健二に刺されたのだが、思ったより傷が浅かったらしく、命に別状はなかった。健二はもちろん傷害の現行犯で逮捕された。だが男は、逮捕されるどころかちゃっかり、穂波と付き合うことになってしまった。実をいうと、これこそが彼女の真の目的だったのだ。
「ほんとはね、私、あなたのストーカーだったの」
穂波の衝撃の告白。男はどういうことだと、彼女に問いただす。
半年前、菅野尋乃という女性が交通事故に遭い、亡くなった。そのときその事故を偶然、目撃していた男こそが、あの晩、あの部屋にこっそり忍び込んでクローゼットの中に身を潜めていた泥棒男だったのだ。
運悪く、人気のあまりない場所でひき逃げされてしまった尋乃をこの男は、救急車が来るまで応急処置とまではいかないものの、ずっと彼女に付き添い励まし続けたのだった。そのことを後である人から聞いた穂波は、彼のことが気になり、探偵に彼のことを調べさせた。すると彼は、表向きにはホームレスで、実はある特定のものしか盗まない泥棒なのだということが分かった。
そんな彼のことが気になり続け、彼女はある日、どうにかして彼と知り合いたいと思い、ある計画を考えた。それがあの晩の出来事である。
彼女にはもちろん付き合っている彼氏がいた。健二である。でも彼は何かと穂波を束縛するタイプの男で、正直、彼女はもうこの男にうんざりしていたのだ。ということで、彼女はこの男も一石二鳥で排除する方法を考えた。
男はこの話の真相を知ったとき、開いた口がふさがらないというのはこういうことなのかと、思い知った。彼女は全部計算で、全部演技だったということなのだ。
きっとカレーを温めに行ったときに、健二に来るように連絡したのだろう。電話線はあらかじめ切っておいたのだ。部屋が荒らされてたように見せかけてたあれは、自作自演。どうやったのか分からないが、窓ガラスも自分で割ったんだろう。ほかにも分からないことがある。どうやって彼女は、この泥棒男が自分の部屋に忍び込ませるように仕組んだのだろうか?
男は、なぜあの晩、彼女の部屋に忍び込んだのか自分でもよく憶えていないことに気がついた。
―了―
最後まで読んでいただきありがとうございます。
初めて短編に挑戦してみました。自分で最初思ってたのより、長くなりましたが、実は生まれて初めて最後まで書きあげた記念すべき第一作目です。