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路地裏のクマ・9

これでおしまい。お付き合いありがとうございました。

                 9


 病院の売店に置いてある、チロルの林檎クリームクレープが好きで。両方ともバターの味が強くて口に入れた一口目は、う、ってなるけど、すぐに生クリームの甘さとシロップでぐずぐずになってるスポンジケーキが口の中で混ざって、その後で煮林檎のシナモンいっぱいの匂いがしてきて、食べててうんと幸せになる。

「あー、やっとだよー」

 松葉杖をついてひょこんひょこん歩いている千里は、あたしに林檎クリームクレープと苺のワッフル、抹茶とあんこのワッフルとキャラメルクリームクレープとダブルチョコレートクレープの入ってるビニール袋を持たせただけで、自分の荷物はリュックで背中に背負った。

 自転車を押して、あたしは千里の隣を歩いてる。彼女に合わせてゆっくり歩くのって、結構変なところに力が入る。

「持つよ、荷物」

「うん、でももうほとんど先に持ってってもらったし」

 数日前までしょぼくれたような雨がずっと降ってたのに、千里の退院日だけいきなりキレイに晴れた。日頃の行いが悪すぎるから、こんなときだけでもって神様が同情してくれたんでしょ、って千里が言うもんだからあたしは笑っちゃったけど。

「はー、しかし一ヵ月半の病院生活って暇だったけど、こうしてみるともっと長かった気がするよ」

 脚固定されてたしね、って言ったら、千里が頷いた。

「動けないのってマジ辛い。……ありがとね、何度も来てくれて」

「あたしこそ、病人に相談事ばっかしててごめん」

「いや、病人じゃないし、私」

「あ、怪我人か」

「そうそう、殺されかけた怪我人」

 あはははは、って笑い声が晴れ渡った青空の下で響く。白い雲が綿飴みたい。

 病室から荷物をまとめて出る前に、千里のお義父さんをはじめて見た。背の高い、血は繋がってないはずなのにどこか千里に似た感じの、顔が小さくて静かそうな人。義父ってだけで、勝手に助平そうな顔のおっさんを想像してたあたしは、思わず心の中でごめんなさいって言ってた。

 お義父さんはひとりで来ていて、千里にやわらかな声で、退院手続きはすませたから、と告げた。送って行く、と言う彼の申し出をどうして千里は断ったんだろう。

「帰ったらおばあちゃんにお腹の子供のこと言わないとなー」

「え、なに、まだ言ってなかったの?」

「言ってない言ってない、孫娘がいきなり脚の骨折って入院、って時に、ついでに妊娠もしてますよー、なんて言ったらおばあちゃんひっくり返っちゃうよ」

「……退院してきた孫娘が、実は妊娠もしてました! って言ったってひっくり返ると思うけど」

 千里のお腹はまだ目立たない。ゆったりした服を着てるせいもあるんだろうけど、手足は細いし顔は小さいし、このお腹にもうひとつ命が入っているとはきっと誰も想像しない。

 どうするの、って、聞くのが親切なのか聞かないのがやさしさなのかちょっと悩んで、やさしさじゃないよな、あたしは何にもしてあげられないし、と思いつつ聞いちゃった。千里は、可愛い顔して笑って見せて、分かんないよまだ、って答えただけだった。怖くないのかな。お腹に赤ちゃんがいること、恋人だと思ってた男が自分を高いところから突き落としたこと、脚がまだ完全じゃないこと――これからリハビリして、一年くらいかけて治していくんだって言ってた――、いろいろ。

「あ、学校、」

「うん、出席日数さえぎりぎりなら、あとはテストの点と課題レポートの提出とかでどうにか留年なしにしてくれるって担任言ってたみたいだけど。でも、妊娠してちゃ退学だね、あそこ一応お嬢様学校だし」

 黙って堕ろしちゃえば、バレなければ、ってのは、今度は思ったけど言わなかった。そんなに簡単な話じゃないし。まだ生まれてなくたって、お腹に存在してる時点で赤ちゃんは命で、あたしの言おうとしてることは殺人で。ひどい言い方をすれば。中絶に反対とか、宿った命はすべて生まれる権利があるとか、そんなのは主張する気もないし、妊娠したって育てていけないなら無責任に生まれちゃうよりは堕ろされちゃった方が幸せなのかもしれないし、レイプされて子供ができちゃった人なんて、いくら自分の血が半分って言ったって産みたくないだろうし、生んだとしてもその子を愛せないだろうし。

 でも、千里の中に千里の子がいるなら、あたしはそれを堕ろしたって聞いた瞬間、きっと千里を半分失くした気分にはなっちゃうんだろうな。

「私、実感沸かなさ過ぎててさ。赤ちゃんもだけど、骨折ったのも。バカすぎんのかな、どーにかなるんじゃないかなーって思うだけなんだよね、ダメかな」

 ゆっくり病院の正面門に向かって歩くあたし達の横を、車椅子の人が通り過ぎていく。

 あの日。

 タカちゃんに我儘を言ってキスをしてもらった日。

 あたしは結局バレーの試合を見に行かなかった。由美さんを見たくないのもあったし、タカちゃんとそれ以上一緒にいるのも辛かったし。

 思い返してみれば、もっと言いたいこともあったし、もっと上手くやれたんじゃないかって後悔するところもたくさんあるけど、どうあがいてみてもタカちゃんは結局あたしを選ばなかったと思う。

『バカだね、なに弱気なこと言ってんのよ、これからが本番! 振られても一度でめげるな、何度も行くの、男ってのは女より惚れやすくできてるし、自分に気がある女をほいほい手放したりはできないんだから、本能的に!』

 千里はそう言ってくれたけけど。きっと千里もあの恋愛講座の番組見てるんだな、深夜の、服着てるんだか布巻いてるんだか分かんないようなお姉ちゃんがいっぱい出てるやつ。でもあたし、再挑戦を今すぐ、って気分にはなれない。タカちゃんのどこが好きだったんだろうって考えるよりは、今もタカちゃん好き! としか思えなくて、でも振られたのは一日寝ても三日寝ても一週間寝てもちっとも薄れてくれなくて現実感だけありありと主張させてて、あたしの胸は痛みまくってた。夜になるともっと辛くて。いきなり地面が消えちゃったみたいに不安定になって、なんでなんでタカちゃんどうしてあたしじゃダメなの、って叫びたくなって今すぐ会いに行きたいってぼろぼろ泣いて、嗚咽が漏れて家族に聞こえるのが嫌で自分の腕を噛みまくってて。今もあたしの腕は歯形だらけ、青くなったり紫になったり薄れて黄色になったり、だけど意外と人間の皮膚って丈夫で、そんなに簡単に食い千切ったりはできないもんなのね。

 タカちゃんとキスした日、大人になったらまた遊びにきてもいいかって聞いた。髪を伸ばすから、由美さんより魅力的になってたら、あたしを迷わず選んでよね、って。タカちゃんは笑いながら首を横に振ろうとしたけど、嘘でもいいからうんって言っとけって、無理矢理うんって言わせた。

『髪長くなったら女っぽくなるかもな』

 タカちゃんはそう言って。あたしの髪をもう一回撫でた。だからあたしは、もうこの髪を切らないって決めた、タカちゃんが撫でたこの髪、タカちゃんの手を覚えてるこの髪を。

 タカちゃん。

 路地裏のアパートに住む、あたしのヒーロー。

 車にぶつかっても平気な、クマさん。

 あの日のキス、へたくそだったけど忘れない、そしていつか、また。ねだりに行くからね、そのときまでには、あたしがキス、上手になっておくから。

「脚がこんなんじゃなきゃ、咲の後ろに乗っけてもらうのになー」

「あ、バス一緒に待ってたげる」

「バス座れるかなー、なんかバス乗るのとかって久しぶり、あれって遠足気分にならない?」

「あー、なんか分かる、バスってそうだよね。っていうか、千里は怪我人だから席譲ってもらえると思う」

「そっかな?」

 相変わらずおさげにしてあって、眉毛も描かれてない、化粧もしてない、っていう千里はちょっとだけ幼い横顔をしてる。

「私が学校行かなくなっても、うちに遊びにおいでね。化粧教える約束、覚えてるよ、ちゃんと」

「あー、化粧! ……する間もなくタカちゃんと終わっちゃったし……」

「まだ終わってなーい! これからこれから、まだまだこれからなんだから」

 まだまだこれから。

 そうかな、これからかな。

 そうだね、これからだといいな。

「川本にも謝った方がいいかな」

「何を? あなたと寝たとき処女でしたが、他に好きな人はいるのであれは特別でもなんでもなくってたまたまでした、気にしないで下さいっていうか忘れてください、って?」

「そんなこと言わないよ!」

「えー、でもそんなようなことでしょ? 誘ってくれるのは嬉しいけど、好きな人は他にちゃんといるんで、あなたとはお付き合いできません、って」

「うーん、たださ、好きって直接言われたりしてるわけじゃないしさ、向こうもなんか、友達感覚で誘ってるだけなのにいきなりあたしが先回りして断ったら、嫌な気分にならん?」

「友達感覚って何よ、友達感覚はないでしょー」

 バス停に着いて、座っちゃうと立つのが大変だからっていう千里に付き合ってあたしも自転車を支えたまま立ってた。休日でも平日でも車通りの激しい道で、けれど大きな通りだからバスも本数が少ないわけじゃない。十分も待たずにバスはやってきた。千里がゆっくり乗り込んで、あたしは持ったままだったクレープやワッフルのビニール袋をうっかり持って帰りそうになっちゃって、慌てて手渡す。

「ありがと、またメールするから」

「うん、こっちこそありがと、……早く治してね、遊びに行くから」

 バイバイ、と手を振るあたしと千里の間で、音を立ててバスのドアが閉まる。

 バスが発進してしまうのを見送って、あたしは自転車にまたがった。いまだに自転車に乗ると、身体がタカちゃんの家に行きたがって困る。

「……さて、と」

 びゅんびゅん走って帰ろう。風切って。ちょっと悪い子になった気分で、すっごいスピード出して。泣いて、しまわないように。

 タカちゃん。

 あたし、今は失恋したけど、それでも大好きだから。

「さて、と!」

 ペダルを強く踏みしめてあたしは進む。ぶつかったらごめん通行人、でもあたし失恋したての身だから大目に見てやってね。

「絶対美人になってやる、見てろよ高木泰徳!」

 あの日、初めて聞いたタカちゃんのフルネーム。タカちゃんのタカは、名前じゃなくて苗字だった。だから、もしもあたしがタカちゃんと結婚できたなら、あたしもタカちゃんになれるってことだ。

「……タカちゃん、」

 急いだら千里の乗るバスに追いつくかな、って、ちょっと思ったからあたしはスピードを上げた。風が強く頬に当たる。楽しいって、思えたからあたしは大丈夫、いつかまた、自転車飛ばして会いに行くね、タカちゃん。

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