路地裏のクマ・8
続きます。
8
タカちゃんに告るって、さてどんなことをしたいいものやら。電話、は番号知らないし、メールも同じく。それにやっぱ告るのが間接的じゃダメよね、直接って方が好きって気持ちを伝えたいって気持ちがより伝わる気がするんだけど、あ、でも手紙とかはちょっと古風でいいかも、でもタカちゃんって手紙読むかな、字が読めなかったら笑えるなぁ。
筑前煮とカットされたオレンジの、タッパをふたつ目の前にしてあたしは頬杖をついてる。日曜日の台所、お母さんだけがパタパタ動いてた。早く起きたのねぇ、なんて言われて時計を見たら九時少し前で、休みの日はいつも昼頃まで寝てたっけ、って思ったりする。だけどお子様向けの日曜早朝番組はもうすべてが終わっちゃってて、日曜くらいゆっくり寝かせろっていうお子様はいないもんなのかね、ってお母さんに言って変な顔をされた。
「咲だってちっちゃい頃は五時だの六時だのに起きてテレビ見てたじゃないの」
「嘘ー、そうだっけ?」
「そうよ、お母さんのことまで叩き起こして、テレビ見ていいかって聞くんだもん、勝手に見ていいから起こさないでよって思ったわよ、和美もそうだったわねぇ」
子供は回復が早いから睡眠時間が短くていいってことか? 老人は体力なくなってくるから長く寝てることが出来なくなるんだよね? 家庭科のおばあちゃん先生が言ってたもんな、いっぱい寝られるのは今のうちだけですよーって。
ちょっと出かけるからさ、って言ったら、お母さんは何かを勝手に納得したみたいで、じゃあこれ持って行きなさいよ、ってふたつのタッパを用意してくれた。
「どうする、大根サラダも持ってく?」
大根サラダは昨日の晩御飯に出てこなかったなぁ。うちの大根サラダは、大根が超細く切ってあって白ゴマとシソの千切りが混ざってて、ホタテの貝柱が上に散らしてある。缶詰のやつ。美味しいけどお母さん、あたしがどこに行くんだと思ってるんだろ。
「病院食って飽きちゃうって言うじゃない、あんまり美味しくないみたいだし」
む、千里のところに行くと思ってるな、やっぱり。
「そうそう、頂きもののどら焼きもあるけど、持って行く?」
「それはあたしが食べたい」
「あ、咲も一緒に千里ちゃんとご飯食べる? じゃあおにぎり作ってあげようか?」
お母さん、微妙に会話が変だけど。
「朝ご飯代わりにどら焼き食べるよ、それに千里、和菓子とか食べないと思う」
「なんでよ、女の子はみんな甘いもの好きよ?」
「……嫌いな人もいるでしょ、あ、でも千里おばあちゃんと暮らしてるから、和菓子とかおやつに食べてるのかな?」
病院に行くわけじゃないのに、あたしまで千里のことを考えちゃった。
「じゃあ大根サラダも詰めとくわね、おにぎりも作っといてあげるわ、中身何がいい?」
「鮭とたくわんの細かく切ったやつ」
「残念、たくわんないわ」
「むーう、じゃあ昆布以外」
「残念、昆布もないわ」
「それは残念じゃないよ、お母さん」
おにぎりまで作ってもらうことになっちゃった。だけどあたしは今日、病院に行くために早起きしたんじゃなくて。出かけるのは他のところで。それは、タカちゃんと一緒なんだけど、誘ってきたのは川本だった。昨日の夜、お風呂上りのあたしが部屋に戻ると、タイミングを見計らってたかのように携帯が鳴って。
川本もちょっとだけ学習したらしい、もしもしーってあたしが出たらすぐに用件を切り出してきた。
『明日暇?』
お風呂上りの髪は濡れてて、携帯を押し当ててない方の耳のところの毛を人差し指でくるくるしてみる。髪伸ばすのやっぱり似合わないかな、それにしてもちゃんと拭けてなくて水っぽい。
「うーむ」
『ん?』
「あっ、なんでもないですよ、明日? 明日は、」
『そう明日、タカとバレーの試合見に行くんだけど』
う。タカちゃんの名前が出たら、あたしは断りの言葉をなくしてしまうじゃないの。ふたりきりじゃなければいいかもって、学習したんだな? あ、それとも友達との約束に彼氏連れてきちゃう子みたいな感じかな、タカちゃんに見せたいとか、あたしのことを。あはははは……って、それは困る、あたし、川本の彼女じゃないし。
『良かったら一緒にくる?』
「う、」
でもそうじゃなくてただのお誘いの可能性のほうが高いし、タカちゃんに会える? タカちゃんとバレー見に行くの? じゃあ、バレー大好きなタカちゃんはまた顔崩して嬉しそうな表情をしたりするのかな、それは見たい、バレーより、あたしはタカちゃんを見たい。
「……あ!」
でもちょっと待てよ、バレー? バレーっていうとちょっと嫌なのも思い出すんですけど、それもオプションでついてきたりしちゃうのかしら。
『この前いた由美さんって覚えてる?』
ぎゃー、なんてこと! もしかしてダブルデートとか言う? それは嫌、絶対嫌、死んでも嫌、なんであたしが別の人とデートするタカちゃんを横目に川本と一緒にいなきゃなんないの、絶対絶対嫌、でも由美さんとタカちゃんがふたりっきりになるのも嫌、それくらいなら邪魔してやった方がいいのかな、邪魔なんてしたらタカちゃん、あたしのこと嫌いになっちゃうかな、なるだろうな、それは困る、どうしよう。四人並んでバレー見るの? それって、タカちゃんの隣は由美さんでしょ? 由美さん、川本、あたし、タカちゃんとかって並びじゃないでしょ? 最悪の場合、あたし、川本、由美さん、タカちゃんってなるでしょ? 端っこ同士になっちゃうじゃん。
「よ、四人で行くの?」
『は? ああ、違う違う、由美さん達は別でママさんバレーのチームも作ってるんだけど、明日はそっちの地区リーグでさ、応援に行くの、タカとオレと。で、良かったら咲ちゃんもどうかな、って』
なんだ、ダブルデートじゃないのね、でも結局由美さんは存在するのね。応援。応援か、こっちより断然有利な立場に立ってる女を応援するのって嫌だな、バレーの応援とはちっとも関係なくても。どうせ勝ったらタカちゃんは嬉しそうにハイタッチとかしてよくやったって言ってあげるんだろうな、負けたってあたしには聞かしてくれないような甘い声で慰めたりするんだろうな、あたしもバレーしようかなぁ。
『……あれ、また都合悪かったりする?』
「えっ、あ! あああ? あー、えっと、うーんと、――行きます、うん、行く、行く行く、明日、行きます、タカちゃんと。……と、遼さんと」
『あ、本当? やった、じゃあ家まで迎えに行くよ!』
バレーの試合は一時かららしい。午前中からやっているけれど、結構大きな大会になるから、リーグが上のチームは試合が午後から予定されている、と川本は言った。
「いいですよ、わざわざ。遠回りになるでしょ?」
川本がどこに住んでるか知らないけど、そう言ってみる。
『いや、どうせタカを迎えに行くし』
「あ、じゃあそこで待ち合わせしましょうよ、みんな。あたし、自転車でそんなに遠くないですから、タカちゃん家」
『でも、』
バレー見に行く前にタカちゃんと会えるじゃん、あたしは遠慮して言ってるんじゃなくてそうしたいんだってば、分かれ川本。
「じゃあ決まり、明日楽しみにしてますね」
押し切ってそのまま通話終了ボタンを押してしまった。待ち合わせの時間を聞いていないことに気付いたけど、どうせ早くからタカちゃんの家に行けばいいだけの話だ。その時は告白とかしないだろうけど、だってその後で川本も来るし、バレーも見に行かなきゃなんないし、万が一気まずくなってたら困るし。
何を着ていこうか考えちゃってて、結局昨日の夜は寝るのが遅くなったというのに、朝は楽しみで早く起きちゃってる。頭の中が子供みたい、遠足前の小学生そのまんま。
「咲、卵焼きも焼いてあげようか」
「お弁当になっちゃうじゃん」
「いいじゃない、じゃあ冷凍のから揚げとポテトも揚げちゃおうかな、あと何かあったかしらー」
お母さんが楽しそうに冷蔵庫を覗いてる。千里のところに行くんじゃないんだけどな。でもまあ、お弁当作ってもらったらタカちゃんと食べればいいか。タカちゃんいっぱい食べるかな、足りなかったら非常用カップラーメンでも食べてもらおう。
見に行くバレーの試合は由美さんが出てるやつなのに、あたし、すっごいはしゃいじゃってる。タカちゃんに会えるから。
好きな人って、会わないときの方が強く好きって思うものなのね、会うとちょっとしたことで傷付いたりショック受けたりしちゃって、もういい嫌い! って思ったりするのに。嫌いになれないんだけど。会わないときの方がいいところばっかり思い出す。会いたい会いたいって、胸がきゅーんとする。あたしのオーラ、きっとピンク色してるな、今。吐く息とか。ピンクって、恋する女の子のためだけに存在する色だと思う、あたしはピンクの服とかシャツとかを平気で着てる男の人が嫌い。似合っててもさ。それは女の子のだから、取っちゃダメだよって言いたくなっちゃう。恋する女の子だけが、ピンク。恋する男は、何色だろう、薄いオレンジかな、真珠色に近い黄色とか。
「桃の缶詰があったけど持ってく?」
「それは……いらない」
タカちゃんの部屋、缶切りないもん。
「じゃあ桃缶はゼリーにしようかしらね」
お母さんはおやつによくゼリーを作ってくれた。ゼラチンのじゃなくて、寒天のやつ。食紅や黄粉や緑粉で色をつけたり、缶詰のシロップを使って中身を細かく刻んで一緒に固めたり、コーヒーや紅茶でも作っていた。あたしの思うゼリーは、だからぶるんぶるん震えるようなやわらかいやつじゃない。どこまでも透き通る、セロファンを何枚も重ねたような、食べられるガラスのような、脆いんだけど硬いゼリー。寒天のゼリーはゼラチンのゼリーより冷たく感じる。静かで、ちょっと大人の顔をしてる。
ゼリーあたしの分もちゃんと取っておいてね、と念を押したらお母さんが笑った。子供みたいになあに、って。
お弁当作ってもらって、タカちゃんの家に。
素敵だな、とつい口に出しちゃって、笑ってたお母さんを不思議そうな表情に変えてしまったので、代わりにあたしが笑っておいた。
タカちゃんの部屋の匂いは、タカちゃんそのものの匂い。
男臭いのにあたしは慣れていない。お父さんはおっさんだし、弟はまだ小学生だし。フェロモンいっぱい出して、メスを仕留めてきて孕ませて自分の子孫を繁栄させるための、強い意思のような匂い。川本はそんなに男臭くなかったな、ひょろ男で男性ホルモン少なそうだからだ、きっと。
お母さんが作ってくれたお弁当を持って、自転車をかっ飛ばしてタカちゃんの家に行った。元々スピードを出すのは大好きだけど、目的地に着けば好きな男がいる、っていうのが余計にあたしを急がせてた。風になる感じよりもっと早い、ワープする感じ。自転車に乗ってて叫びだしたくなる。声にならない声で、奇声、っていうやつ。楽しいって気持ちと幸せって気持ちを足して、それをスピード上げて叫んだら既成の単語にはならないと思うから。
「――コグマは元気だな、」
十時過ぎにタカちゃんの部屋に着いたとき、まだ彼は寝てた。紺色ジャージの下に、白いTシャツ。バボちゃんの柄で、さすがバレーっ子、って思う。寝ぼけ顔のタカちゃんはまんま冬眠のクマ。しかし、玄関の鍵はかけておいたほうがいいと思うんだけど、タカちゃんは無用心すぎるんじゃないかしらん。
「お母さんがお弁当作ってくれたの、だから持ってきた」
「お前が作ったんじゃなくて、お前の母ちゃんか」
「なんで? あたしが作ったのが食べたかった?」
「コグマは食いモン作れるのかよ」
「作れるよ、失礼な! あたしの行ってるのお嫁さん学校だよ、調理実習とかばっかなんだから、カレイの煮付けだって肉じゃがだって、アジの三枚おろしだってできるんだから、ピーマンの肉詰めとか春菊の胡麻和えとか蓮根のきんぴらとかも!」
お嬢様学校なら聞いたことあるけど、嫁さん学校ってのははじめて聞いたな、とタカちゃんが笑う。Tシャツの下から手を突っ込んで、お腹をぼりぼり掻いてる。寝起きは無口になる人なら知ってるけど、タカちゃんは寝起きだとよくしゃべってる、変な人だ。
「嫁さん製作学校か、それにしちゃ嫁さん不足の男共が多いぞ」
「お嫁さん学校の卒業生だって、誰のとこでもお嫁に行くって訳じゃないんだからさ」
「じゃあコグマは嫁不足のところに嫁に行ってやれ、喜ばれるぞ」
少子化問題にも役立つかもしれん、なんていい加減なことを言いながらも、タカちゃんは冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出してきてあたしに渡してくれた。でも、二リットルのをそのまま渡されても、困るんですけど。
「ええっと、タカちゃんも飲む?」
「お前が飲んでからでいいぞ」
「って、直接かい! ……コップなら後であたしが洗うからさ、なんか出そうよ」
「コップなんてもんはこの家にないなぁ」
湯飲みとかがどっかにあったっけ、とタカちゃんは冷蔵庫脇の食器棚をごそごそやっているけど、食器棚とは名ばかりでカップラーメンだのインスタントの袋ラーメンだの、レトルトのカレーだのチンするだけで食べられるご飯だのが放り込まれている。炊飯器はなくても暮らしていけるけど、電子レンジはないと辛いんだろうな、でも普段はコンビニ弁当とかばっかりなのかもしれない、だってあのレンジでチンするタイプのご飯、賞味期限切れてたもん。ああいうのって結構長持ちするんじゃないの?
「ないから茶碗でもいいかー?」
「茶碗?」
タカちゃんが持ってきたのは、男の人用のでっかいご飯茶碗だった。うちのお父さんのより大きい。薄い灰色と濃い灰色の大きな四角が交互に描かれてて、あたしが家で使ってるウサギ柄のクリーム色の茶碗と比べたら、三倍以上は平気でご飯が入りそうだった。
「ほれ、これ使え」
「……これ、キレイ?」
「気になるなら洗って使えばいいだろ」
珍しくむすっともせずに、洗え洗えと笑ってるし。寝起きが悪い人とか寝起きが良い人ってのはいるけど、寝起きが普段より機嫌いい人なんて聞いたことがない。
「タカちゃんのは?」
「俺はそのまま飲む」
「えー、やだ、それはワイルド系となんか違うー、ただのずぼら系だよー」
「俺はいつもそうなの、牛乳でもなんでも!」
タカちゃんがよくしゃべるからあたしは嬉しくなっちゃって、やだやだ言いながらタカちゃんのご飯茶碗にお茶を入れる。三々九度の杯ってこういうのじゃない? って思うと照れる、なんだか素敵過ぎる。
硬そうな黒髪に寝癖。目やにがついてて、笑える。無精ひげがまだらにはえてる、まだ顔も洗ってないんだな、じゃあ歯も磨いてないだろうな、仕事は疲れるから休日は寝てたい派なのかも。
「何にやついてんだよコグマ」
「別に、だってタカちゃん変なんだもん、なんか今日口数多いし」
「そうかー? あー、腹減った、お前弁当持ってきてんだろ、それ食っていいんだろ」
もちろん、って背負ってきたリュックバックからバンダナで包んであるお弁当を取り出す。筑前煮のタッパと、卵焼きとから揚げが入ってるタッパと、大根サラダのと、オレンジの櫛切りのやつ、フライドポテトのタッパには隅にケチャップとマヨネーズも入れてあった。おにぎりはひとつずつアルミホイルに包んでくれてあって、四つ。バンダナの包みはみっつの塊になってて、それぞれ赤と緑と黄色のだった。信号みたい。
「おっ、これひとり分?」
「ちっがーう、あたしも食べるよ!」
「マジで? 俺、これだけ全部食っても足りん」
「タカちゃんってそんなに食べるの?」
「コンビニ弁当ふたつとカップ麺いっこ食べて、腹八分目くらいになる」
エンゲル係数高そうだ、給料のほとんどはご飯? それとも、男の人ってそれくらいは平気で食べるもの?
「エンゼルけい、何?」
「エンゲル係数だよ、家計での食費が占める割合!」
「おー、難しい言葉知ってんだな、コグマは」
「それくらいは勉強するんだよ、学校で。家庭科が主だもん」
「嫁さん学校だからか?」
「そう、お嫁さん学校だから」
タカちゃん、あたしのことお嫁さんにしてくれてもいいよーって、今冗談で言ってみちゃおうかな、あ、考えると照れちゃうな、こういうのって自然に口から出さないとダメなのかも。
「たっ、タカちゃん、あたしさ、」
「おー、コグマも嫁さん学校行ってんなら嫁さん候補かー。あ、川とどう、上手くいってるか?」
「……は?」
川と、って、何、うちら付き合ってたりするわけじゃないんですけど。
変な顔したあたしに気付きもしないで、タカちゃんは筑前煮のタッパを開けて指でつまんでる。旨いじゃん、って、たけのことか蓮根とかゴボウとかコンニャクとか、もぐもぐ咀嚼してる。
「川はいい奴だぞー、あんまし食わないけどな、女っくらい食が細いんだよなー、由美の方がまだ食うし」
川の好物知りたいか、ってタカちゃんが言うけど、引っかかったのはそっちじゃなくて。今、なんかさり気なく呼び捨てにしなかった? その、ほら、あの。
由美さんの、こと。
あれ、タカちゃんってもともと彼女のこと呼び捨てだったっけ、記憶がないんだけど。呼び捨てってずるい、親密な感じがし過ぎて。男と女だったら尚更、学生同士でもないんならもっと。
嫌な感じに鼓動が早くなる。
「そういやなんでお前、俺ん家にいるんだよ、川が迎えに行くんじゃねぇの?」
「……タカちゃんの家で待ち合わせだからだよ、そう約束したんだもん、それに何時に待ち合わせだったか知らないの、一時にバレーの試合が始まるらしいのは聞いたんだけど、」
「なんだよ、俺ん家を待ち合わせ場所にすんなよな。なんならコグマとふたりで行きゃ良かったのに」
行きゃ良かったのに、って。
「タカちゃん、あたし別に川本とは――、」
付き合ってないよ、って言いかけたけど途中で言葉に詰まる。川本って、タカちゃんに何か話してる? あたしとエッチしたこととか。それをタカちゃんが知ってたら、あたしは川本と付き合ってるって思われちゃうよね、違うって否定したら、タカちゃんはあたしを軽蔑した目で見るよね。きっと。
卵焼きを口に放り込んで、甘いやつだ、ってタカちゃんが驚いた顔をしてる。おにぎりも三口っくらいでお腹の中へ消してしまってる。タカちゃん、違うよ、あたし、川本と寝ちゃったけど、でもそれは違うの、違わないけど、あたしが好きなのは。
頭がぐらぐらして、でもここで倒れても困るからお茶碗からお茶を飲む。薄い陶器が唇に当たって冷たい。
お茶は、味がしなかった。
「しっかし川も犯罪だよな、コグマ幾つよ、女子高生だろ」
そういや制服じゃないな今日、って言われた。ジーンズにふりっふりの白のスカート重ね着してる、一応女の子らしいのも見せときたいかな、とかって思ったんだけど。でもタカちゃん、あたしの服のこととか言うの初めてで。
「タカちゃん、」
「なんだよ、ああ、お前早く食わないと全部食っちまうぞ」
「違くって――、」
今日のタカちゃんなんか変、って言おうとしたけど、ピラリラピラリラって電子音が近くで鳴って、あたしの言葉がそこで途切れる。一瞬なんだか分かんなかったけど、タカちゃんが絨毯の上に何冊も転がってるバレー雑誌の間から携帯を取り上げたから、初期設定のままの音なんだ、って気付いた。タカちゃん、今時いい年したおっさんでも着メロぐらいは使ってるよ?
「もしもし、おー、どした?」
つまめないから大根サラダはそのまま残ってる。青紫蘇ドレッシングをお母さんがお醤油の容器に詰めてくれてたから、あたしは手を伸ばして容器の緑色のキャップを外そうとして。
「分かった分かった、持ってく、それだけでいいんか? 由美はそういうとこ案外抜けてるよな、おう、大丈夫だって、いや、川が乗っけてってくれる」
今。
由美、って言った?
それ、タカちゃんの携帯で。あたし、その番号知らないんですけど。
確かに、同じバレーチームの人だし、連絡先とかし知っとかなきゃなんないだろうし、って自分に言い聞かせるけど。なんか引っかかる、ドキドキする、嬉しい方じゃなくて、嫌な方で。悪い点数って分かってるテストが返ってくるのを待ってる時みたいな。
千里、千里、あたしって今なんかヤバイ? あー、テレパシーとか使えたら、絶対便利なのに、今がまさに。
とろりとやわらかな顔で、タカちゃんが電話を逆の耳に持ち替えた。電話の相手は由美さんで。右の耳からも左の耳からも相手の声を自分に染み込ませようとしてる動作に見えて。
あたしはドレッシングの容器、キャップに指をかけたまま固まってる。動かないと不自然でしょ、って、頭のどっかで声がするのに。動けないの。
「最初から見るって、大丈夫、まかせろ応援。初戦どこよ、え、パープル横田? あー、あそこか、あそこおばちゃんばっかだけど結構強いんだよな、うんうん、知ってる、」
タカちゃんがこっち見て。
由美さん? って、あたしが首を傾げるジェスチャー付きで目を見ながら唇を形作る。
おう、って。
ゆっくり縦に頷いて、目を細めるのって、タカちゃん、ずるいよ。
「川が来たらすぐ行く、おう、飯食ってるよ、コンビニのじゃない、え? あー、いや、おにぎりとか。まだ川きてない、おう、今? 今は――、」
ひとりで家、って。
タカちゃんが言った。
ひとりで家? それって、ひとりで家にいるってことだよね? ひとり? じゃあここにいるあたしは何? 由美さん、あたし知ってるじゃん、別に知り合いになんかなりたくないけど、あたしと会ったことあるじゃん、今タカちゃんひとりって言った、それってあたしがここにいるってことを否定したんだよね、なんで? なんであたしがここにいることを知られちゃマズイの? それって、理由はひとつしかないよね、少なくともあたしが思いつく理由は、たったひとつしかない。
あたしの頭、また真っ白になるけど必死で首を振った。真っ白にしちゃうと楽だけど、楽になってる場合じゃないんだもん、絶対。
「タカちゃ、」
「後で行くから、おう、頑張れよ、飯食い過ぎないようにな、バナナとかにしとけよ、あとドリンクちゃんと取っとけ、じゃあまた後で」
あたしが声を出したら、被せるようにちょっと早口になってタカちゃんが一気にしゃべって電話を切った。
「コグマー、」
電話切ってからタカちゃんが少しだけ非難めいた声を出す。
「由美さんと、付き合いだしたの……?」
「あー?」
携帯をまた絨毯に転がして。指先から力が抜けちゃって、あたしはキャップを開けないままドレッシングをテーブルにそっと置いた。タカちゃんは筑前煮をつまむ。ニンジンばかりが残る、あんまり好きじゃないのかな。
「今の電話、由美さんでしょ?」
「おう」
照れくさそうになんで笑うの? あたしの知ってるタカちゃんは笑わないよ、不機嫌そうだったり無表情だったり、あたしに背中向けてテレビ見てたり、面倒くさそうだったり睨んだり。タカちゃんの鋭い目、好きだけど、そんなやわらかく笑ったりするのなんて、そっちの顔を先に知ってたら笑った顔の方を好きになってたに決まってんじゃん。
「タカちゃん、」
「あー、付き合うっていうか、まあ、……あー、照れくせぇな、っつか、まあな」
「……付き合ってるの?」
「何度も聞くなよ、コグマだって川と仲良くしてんだろ」
いつ? いつそんな関係になっちゃったの、タカちゃん、なんでいきなり、どうして、なんで? 頭の後ろをひっぱたかれたみたいに脳みそがぐらんぐらん揺れてる、嫌だ、なんで、まだ、だってあたし。あたし、タカちゃんに。ぶつかってないよ? いきなり取り上げられちゃうの?
「タカちゃん!」
「なんだよコグマ、タカちゃんタカちゃんって、俺の名前は大安売りかっての」
「あたし、川本と付き合ってなんかないよ」
「……は?」
ゴボウがつままれたまま宙ぶらりんになる。
「だって、あたしの好きなのは――!」
勢いのまま言うのって。
あんまり良くない、千里が隣にいたらきっと止めてる。でもここにはあたしとタカちゃんしかいないから。
「タカちゃんなのに!」
タカちゃんの指からゴボウがこぼれた。テーブルにぶつかって、軽くはねて転がる。唇がぽかんと開いてて、あたしはほっぺに血が集中しちゃったのか首から上が燃えるように熱かった。
「……コグマ?」
「あたしはタカちゃんが好きなの、ずっと好きだったの、なんで由美さんとなんか付き合ってんのよ!」
「おい、だってお前は川と、」
「川本となんか付き合ってない、あたしの好きなのはタカちゃんだってば!」
ぼろって。
視界が曇る間もなく頬に涙がこぼれて、それまでうんと熱かった。ここで泣くのは意味ないし、ちゃんとしゃべんなきゃって思うのに、転がるように涙が。嗚咽が。
「タカちゃんが好きなのに、好きなのに、なんで、なんで由美さんと付き合うのよ!」
「コグマ、」
「なんで? タカちゃんは、大人のが好きなの? あたしだってもう、大人になったよ、本当だよ!」
襟と、ボタンのところがフリルになってるブラウス。あたしは最初のボタンに指をかける、タカちゃんはまだ口を開けてこっちを見てたけど、胸の真ん中までボタンを外したとき、慌てたように手を伸ばしてきた。
「コグマ、何してんだお前っ、」
「もう大人だもん、タカちゃんなんで由美さんなの、あたしじゃダメ? あたしだってお料理作ったりいろいろできるよ、バレーだってこれからやってもいい、タカちゃん、あたしタカちゃん好きだもん、もう大人だもん、」
言ってて自分で訳が分かんなくなる。ブチ、って音を立てて、ボタンが一個千切れて転がった。焦ってて、指先に変な力が入る。
「コグマっ!」
タカちゃんがテーブルのこっち側にきてあたしの腕を取ったけど、嫌だって振り回して放させようとした。ああもっと。脱ぎやすい服にすればよかった、あたしに欲情してよタカちゃん、あたし、本当はタカちゃんの手で大人になりたかったな。
「何してんだ、コグマ!」
「あたしだって大人だもん、じゃあ一回だけ、タカちゃん一回だけでいいから、あたしとエッチしてよ、由美さんと付き合っちゃうんでしょ、じゃあ一回だけ、一回くらいいいじゃん、タカちゃん、タカちゃんー、」
「バカっ!」
怒鳴られて、殴るんなら殴ればいいじゃんって思ったけどタカちゃんはあたしの両腕を掴んで後ろに捻り上げた。痛いって叫んだけど、放してくれなくて。あたしは全身でもがく。涙で顔がびしょびしょだった、格好悪くて笑えるかと思うくらい、泣けて。
「コグマ、やめろって、な、やめろ」
手が離された次の瞬間、後ろから抱き締められた。
タカちゃんの匂いが、すごく濃い。
体温が、薄いTシャツを通して、あたしの背中に伝わる。
「おいー、俺だって男だぞ、目の前で女に服脱がれてみろよ、理性飛ぶって」
「飛ばせばいいじゃん、なんでダメなの、理性飛ばしてよ!」
「飛ばせばいいじゃんって簡単に言うなよ」
あのなぁ、ってタカちゃんが苦笑してる、笑うときの息を、あたしは耳の後ろで感じる。そしたら、急に身体から力が抜けてあたしは崩れそうになる。タカちゃんが抱き締めたままだったから、形はそのままだったけど。体重がいきなりかかったみたいで、タカちゃんが小さな声で、おっ、って言った。
服を脱げば、って。
脱力しながらも思ってた、だって一度寝ただけで川本はあたしに惚れたじゃん、タカちゃんだって、一度あたしと寝ちゃったら。もしかしたら、今は一ミリもない勝ち目だけど、由美さんに勝てる大逆転の可能性が。もしかしたら。
「……って、」
「『て』? なんだコグマ、『て』ってなんだ?」
「うわわわわわわあーん、タカちゃんのバカー!」
「おっ、バカときたか、俺から見ればお前のがバカだぞ」
やさしく言わないで、あたしのものになってくれないくせに。
タカちゃんが寝起きだから機嫌がいいっていう不思議な体質なんじゃなくて、彼の機嫌を良くさせているのが由美さんの存在なのかもしれないって思ったら。あたしじゃダメでしたって再確認させられてるようで哀しかった。
「――コグマ、」
タカちゃんから抱き締められた形でどれぐらい泣いてたんだろう。
ひっきりなしだった嗚咽が間隔を開けてきて、その頃になってやっとあたしはほっぺの涙を手でぬぐったけど、ほとんどが乾いちゃってた。
「俺は手が痺れた、コグマ」
笑ってタカちゃんが手を離す。あたしの胸の下辺りで組まれていた手がなくなると、そこが急に空気に晒されて冷たく感じた。放しちゃ嫌だ、って、小さな声で呟くけど、それはタカちゃんの耳には届かない。
あたしはのろのろと身体ごとタカちゃんに向けて、ピンクのバボちゃんが描かれている胸のところに抱きついた。タカちゃんの匂い。温度。ここに、確かにいるあたしの好きな人。
タカちゃんは抱きつかれるままにしてた。頭とか撫でなさいよ、肩とかに手を置きなさいよ、って思って、そのどれもしないタカちゃんらしさにあたしはまた涙がにじんでくるのを自覚する。いつの間に、こんなに好きになっちゃったんだろう。あたし、すごくみっともない。タカちゃんが好き過ぎて。
「――コグマ、俺のこと好きだったんか」
「……し、知らなかった、の?」
「知らん、全然知らんかった。それにお前、川と付き合ってんじゃんか」
「……だから、それ、違う、」
あのな、って、タカちゃんが静かな声で言う。好きになってくれてありがとうな、って。
驚いて顔を上げたら、ものすごく照れくさそうなタカちゃんが見えた。
「タカちゃんが……ありがとうなんて言った……」
「コグマ、なんかむかつく言い方すんなー。――あのな。好きになってくれたのはありがたいけど、俺とお前はダメなんだよ、年の差がありすぎるし」
「川本だってタカちゃんと同い年じゃん……」
「おっと、ああー、それはまたそれで置いといて、だな。あー、俺さ。実はもう子供いたりすんだよな、離婚してるから一緒には暮らしてないけど、」
知ってる、川本から聞いたから。でもそれは言わない方がいい気がして、あたしは黙っておく。
「コグマはまだ若いんだから、俺みたいなおっさんじゃなくてちゃんとしたのと付き合え」
「……タカちゃんはおっさんじゃないよ、」
「そりゃどうも」
「あたしはタカちゃんがいいもん、タカちゃんが好きなんだもん、年の差とか子供がいるとかどうのこうので遠回しな振り方されたって、納得しないよ?」
「そりゃ困った」
傷付けるのは苦手なんだ、って呟いた、その言葉が充分にあたしを傷付けてるのも気付かずに。タカちゃんらしい、と思ってあたしは苦笑する。触れているあたしの部分が肌に刻むようにタカちゃんの体温を記憶しようとしてる。
「――ごめんな、俺はお前を選べない」
「……由美さんが好きだから?」
「おう」
「あたし、頑張るよ? タカちゃん好みになれるように、今からうんと頑張るよ? いいお嫁さんとかにもなれるよ?」
「――ごめんな」
ぽん、って、頭に手が置かれた。大きな手。
「……嫌だ、」
「嫌だって言うなよ、子供じゃないんだから」
「子供だよ……、」
「そうか、うーむ、でもそんな、嫌だとか言わないでくれよ、俺だってすごい困ってるんだぞ、今」
振られる胸の痛みに比べて困るのなんてなんだい、それくらい我慢しろよ。
コグマ、って、頭に置いた手で、タカちゃんは恐る恐るな感じで髪を撫で始める。
髪伸ばしたかったのって、大人っぽくなるためなんじゃなくて、タカちゃんに撫でててもらえる時間を長引かせたいからだったのかな、なんてちょっと思った。
「ごめんな、コグマ」
「……じゃあキスして」
ぽろ、と出てしまった言葉に自分でも驚いたけど、タカちゃんは目がまん丸になってしまっていた。あんまり慣れてないんだな、こういう状況に、というより、女の人に。これでよく子供作って結婚したり離婚したりしたもんだ、って、可笑しくなってくる。
「おっ、お前そういうのは、」
動揺してるタカちゃんの胸に、猫みたいにあたしは頬を摺り寄せて。
「……キス、一回だけでいいから」
って、消えちゃいそうな声で、でもちゃんと口に出す。
戸惑っていたタカちゃんはしばらくあたしの頭の上で手を止めたままでいたけど、あまりの動きのなさにあたしがそっと顔を上げたとき。
肩に手が置き直されて、そっとあたしはタカちゃんから剥がされた。
ひとつ大きなため息を吐いて。タカちゃんが決心したような顔のまま唇をやわらかく持ち上げる。
次の瞬間にはタカちゃんはあたしの目の前、鼻先が触れ合いそうなくらい近くに顔を持ってきてて。
「――コグマ、目くらいつぶれ」
「あっ、うん……」
言われて慌てて目を閉じたら、すぐに唇は重なってきた。タカちゃんの匂いはますます濃くなって。川本とは全然違う、結構乱暴なキスだった。肉食獣みたいな。唇と一緒に、軽くだけど前歯同士がぶつかった。あたしの口の中、荒らしまくって。キス、っていうより、唇が重なった、っていうより、噛み付かれたみたいなくちづけ。タカちゃんらしかった、へたくそだと正直思わないでもなかったけど、嬉しくて。また泣けそうだった、タカちゃんの唇は体温と同じで温度を高くしてて、このままあたしは溶けちゃいたいのに、って、やっぱりダメだよ好きだもんタカちゃん、って。思った。タカちゃん。あたしのものにならない人、でも、すごく好きなの、今も、この瞬間全身全霊を込めて、あなたのことが。