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路地裏のクマ・6

あと少し。

                6


 非処女になっても空の色は変わらないし教科書の重さも変わらない。一晩寝たらいつもと違って、経験してしまったことが色濃くなったけど、別にレイプだった訳でもないし。

 処女がセックスするとがに股になるってどこかで聞いた気がするけど、あれは一過性のものなのかなずっとなのかな。ずっとだったら困る、でも世の中のある程度まで年取った女の人達がすべてがに股っていうんじゃないし、あたしの歩き方だって多分普通と一緒だし。

 自転車に乗ったら、サドル部分があそこに当たって一瞬変な感じがしたけど、そのうちその変な感覚のほうが当たり前になる。

 千里にご報告だな、非処女になりましたでも相手はタカちゃんじゃないの、って言って、と考えて、相手は……のところで自分が引っかかる。う、って胸に刺さった痛みが。セックスを経験しても大人になった感じはちっともしない、ダイエットと一緒で昨日今日結果が出るもんでもないのね、千里に化粧の仕方とか教わろうかな、雑誌とか見ててもいまいち分かんないんだよね、そんなに化粧道具だっていっぱい持ってるわけじゃないし、お母さんとかお姉ちゃんに教わるのはなんか照れくさいし、大体「若いうちしかすっぴんでなんていられないんだから、化粧するなんて勿体無い!」とか言われるの嫌なんだよね、じゃあ若いうちは汚い顔でいてもいいってことかよ! って思っちゃう。

 登校時の自転車時間はいろいろ頭の中に浮かんで面白い、そういうのが面倒な時期――生理周期と関係があるんだって保健体育でやった、ホルモンバランスが崩れるらしい――はMD聴いて行ったりするけど。本体はおろかイヤホンまでピンク色した可愛いやつ、一昨年のクリスマスにお父さんに買ってもらったやつ。お父さんってお金出してくれるときにしか興味なくて可哀想かもしれない、扶養する家族がいなかったらもっとお父さん、自分に使えるお金も増えるだろうにね。

 びゅんびゅんびゅんっと自転車を漕いで、風を切って学校に向かう。

 きっと、千里と喋れば頭の整理がついて、あたしが処女じゃなくなっちゃったことや川本の前で泣いちゃったこと、タカちゃんに好きな女がいるらしいことや、それどころか離婚暦あり子供までいたこととか、すんなり自分の中に収まるかもしれない。口に出すと考えてることってより明確になって、喋ってるうちに問題の解決方法とかが頭に浮かんできちゃったりすることもあるし。アドバイスをくれるくれないにしても、相手がいないとあたしは自分の考えがまどらないんだよね。みんなそんなものかと思ってたら、意外と自分で悶々と考えないとダメ、って人がいたり、とにかく自分じゃ何にも決められないから誰かが決めてくれないとダメ、って人がいたりする。千差万別ってこういう時に使う言葉なのよね? 千里は悩み事とか相談事を誰に言うんだろう、仲がいいからって何でも喋る間柄ばかりが美しいわけでもないし。そういえば生理がこないって言ってたのは相談事だったのかな打ち明け話だったのかな。

 とりあえずそれも聞いてみよう、そういえば妊娠本当にしてたかってそこから確かめなきゃね、と思っていたのに、ホームルームの時間になっても千里は来なかった。

 あたしの席は窓際の一番端奥なので、廊下側のドア前からでも後ろからでも誰かが入ってくれば見えている。窓の下は一年生の駐輪場で、窓際の教壇前の席あたりに一年校舎の出入り口があるから、そっちを見とけば誰が入ってくるのかも分かる。だけど千里はあたしの視界をちらりとも横切らなかった。休み? 千里が学校休んだことなんてあったっけ? サボりなら数え切れないほどだけど、千里は一旦は学校に顔を出してからつまんない授業を抜け出したり、お財布くん達とデートしに行ったりするのに。あ、もしかして病院行った? 妊娠検査? 

 ホームルームに遅れて担任がやってくる。オールドミスっていう古い言葉が良く似合いそうな、結婚してない四十女。スーツはパンツものしか着ないし、ひっつめ髪はお洒落の為に伸ばしてるんじゃなくて美容院の存在を思い出さないから気が付いてたら伸びてて仕方ないからくくってる、って感じ。メガネの縁がまた分厚くて、なんだかなぁ。化粧っけないし。その顔があの由美さんを思い出させてまたムカムカする。ちっとも似ていないのに。その担任が出席を取っていく。黒い出席簿、もっとシールとか貼って可愛くすればいいのにね。

「――森野さんが休みですが、はい、彼女はしばらく学校を休みます」

 クラス分の名前を呼んで、最後に付け足しみたいに担任が言った。あー、千里休みか、しばらく学校を休むのか、って、えええっ? 妊娠がバレて停学とか、そういうこと? 展開、早過ぎない?

「事故に遭い、足の骨などを折って入院したそうなので、また退院してきたら授業分のノートなどを見せてあげたりしてください」

 事故? 事故に遭った? そんなの聞いてない、とか思ったけど、そういえば川本と寝ちゃってからあたし、わたわたしてて千里にメールとかしてない。電話とかもしてない。元々、そんなにべったりメールしたりするレズっぽい友達関係じゃないけど。土曜、日曜のたった二日会わない間に、千里どうしちゃったの?

「熊井さん、」

「――あっ、はい?」

「後で職員室に来て下さい、ちょっとお話が」

 出席を取って、簡単な朝の話をし終わると、担任は教室を出て行く前にあたしの名前を呼んだ。一時間目が始まるまでに十分ある。でも、後で、って他の休み時間って意味? 分かんなくて変な顔をしていたら、今来なさい、と言われた。職員室に呼ばれるなんて、なんだろう、千里のことなんだろうけど、プリントとか持って行ってあげなさいとかかな、なんか小学生みたいだ、あはは、なんて軽い気持ちで行ったら。全校朝会のときくらいしか見かけない校長がうちの担任とあたしを出迎えた。えーっ、あたしなんにもしてないよ? 

「――やっぱり校長室の方で、」

「そうですね、他の生徒の出入りもありますし」

 って、何しゃべってんの、何の相談なの、校長と担任で話し進めないでよ、ほら、あたし、一時限目の授業があるんですけど! 

「校長室にしましょう」

 これでオロオロするのはあたしが小心者だからなのかな、ビビリなんだよう、痛いのと同じくらい怒られるのも嫌いなんですけど、も、もしかして昨日ラブホから出てくるところを誰かに見られててチクられたとか? え、え、女子高生ってラブホテル禁止されてたっけ、青姦だったらいいの? って問題でもないだろうけど生徒手帳にそんな規則書いてあったっけ、あたし校則ちゃんと読んだことない。

 まだバレてもいない悪事を自分から暴露しちゃいそうになりながら――それこそ学校には関係のない、お姉ちゃんとケンカした日に間違えた振りしてお風呂の栓を抜いちゃったのはあたしです、とか――担任達の背中について行かされて校長室に入る。職員室の上座と言うか、教頭先生が座る机の斜め後ろにドアがあって、校長室は繋がってる。そこから入って。壁にずらりと表彰状、ガラス張りの棚にトロフィーがいっぱい、黒っぽい皮のソファに観葉植物、校長室の空気ってなんでこんなに止まってる感じがするんだろう。

「まあ掛けなさい、」

 って、髪の毛はゴマシオだけどふさふさな、どっちかっていうと人の良さそうなおじいちゃんっぽい校長がコの字型に並べられているソファをあたしに勧めた。

「小岩先生も」

 担任も促されて、あたしの目の前のソファに沈む。その隣に校長。この図式は、どう見ても怒られる生徒と怒る先生。

「熊井さん、」

 きゃー、ラブホ行ったのは本当だし、行こうって言っちゃったのもあたしですけど、冗談にして笑い飛ばすタイミングがなかったからなんです、援交とかじゃないんです、お金もらってないし、自由交際……交際はしてないけど、だって川本は彼氏じゃないし、でもちゃんとゴムもしたから、っていうかつけててくれたはずだから妊娠とかも心配ないはずだし、ごめんなさい親とか呼ばないで下さい、親に迷惑かかるの嫌なんです、だって、だって、お金出してもらって学校とか来てるのにあたし頭悪いまんまでそれだけでも申し訳ないのに、でもそんなのは建前でお父さんはあたしに興味もなさそうだしお母さんは知らない間に昼間お酒飲んだりしてて、もしかしてお母さんのストレスってあたしだったりするのかな、あたしがバカだから、っていろいろいろいろ考えが頭の中でぐるぐるしたけど、担任が口にしたのはあたしの言い訳なんか全然関係のないことだった。

「森野さんと仲良かったわよね?」

「……千里? 千里とは、はい、」

 げー、もしかしてそっちがバレたの? でもでもでもあたしは身体とか売ってないし、女子高生と遊びたいって男にクレープとかカラオケとか奢ってもらって遊んであげただけだし、遊ぶっていっても不健全なやつじゃなくて擬似デートっていうか、本当に! 誓って! 援交してないし、あーでもお財布が男だったら、しかも知らない男で相手からお小遣いとか貰ってたんだったら援交になっちゃうのかな、だけどそんなに大きな額は貰ってないよ、せいぜい一番高くて一万とかで、うー、千里は分かんないけど、あの娘は寝ちゃったりしてたはずだし、あー、そんなこと言っちゃいけない、今あたしと千里との友情がここで試されているんだわ、口にチャック、嘘ついてでも千里は守る、嘘つく罪悪感ぐらいあたしの胸に秘めておくわ、って本当は巻き込まれて自分まで身体使った援交してたんじゃないかって勘ぐられて怒られるのが嫌なだけなのかな、それってあたし、ズルイ……。

「……森野さんがお付き合いしてる男の人は、知ってる?」

「ごめんなさいー、でも本当に知らないんですー、千里はいい子なんですー、って、……はい?」

 校長がきょとんとした顔に一瞬なって、でもすぐに真顔に戻った。

 啓ちゃんさんが、何かしたの?

「あ、ヤク……っと、」

 ヤクザさんだったっけかしら、と思ったら口に出てしまって、慌てて口を噤んだ。え、そっち関係で何かあったのかな、ただでさえ容量の少ないあたしの頭はパニックしててキャパオーバー。答えがあるんなら早く教えてくれないと、煙噴いちゃうよあたし。

「ヤク?」

「いいえ、あの、……千里の彼氏がどうかしたんですか?」

 千里の彼氏が、あたりで反応して、どうかした、で校長と担任が顔を見合わせた。眉を寄せてお互いにぶつぶつと小声で言い合っている。しかし、だの、でもここは、だの、信用問題に、だの、人命が、だの。

 人命?

 あーっ、千里の妊娠がバレたとか! そっち? そっちなの? だから啓ちゃんさんの存在が出てきたのね、でもあたし啓ちゃんさん見たことないし名前しか聞いてないし。千里を守るも何も、何にも知らないからしゃべれないよ、これ本当。

「……熊井さん、」

「小岩先生!」

「でも! もし彼女が何か知っているなら、」

「しかし……!」

「学校の体面もあるでしょうけど、生徒の命に関わることですよ、」

「それはそうですが、……どうしたものか」

「警察に届けるなら詳しいことを先にこちらが知っておかないと」

「けれど保護者の方は事を荒立てたくないと仰ってますし、」

「だけど現に森野さんが!」

 あたしのこと、放ったらかしになってるよ、先生達。

 警察とか命とかってなによ、ヤバイことなの? ヤバイことなのね? 子供が聞いちゃいけない話ならそっと校長室出てくわよ、っていうかコーヒーとか出さないものなのしらね、生徒相手じゃ出さないか、なんてあたしだけプチのほほんと校長室のソファに沈んでた。皮の感触がお尻にひんやり冷たい。つるつるで、張りがあって、手の平で撫でてると気持ちいい。

 なんて、思ってる場合じゃなかったんだけど。 

 


 北部総合病院は北部小学校と北部中学校の間にある細道を入って行って、突如現れる私鉄の細い線路を渡ったところにある。近くにスーパーとか居酒屋さんとか大きな本屋さんとかがあって、確かに小中学校の校門は裏の国道に面した方にあるけど、買い食いとかし放題だろうし本屋さんで万引きとかする子もいるだろうし酔っ払いに絡まれたりしないのかな、どうなんだろう、って環境だけど、どちらも出身校ではないから詳しいことは分かんない。

 病院方向まで軽く上り坂になっているから、自転車のギアを軽くした。自転車乗るのは好きだけど、長距離はちょっとご勘弁だ。ひよわっ子だから体力ないのよ、体育の時間とかだっていかにサボるかを考えてるし。

『三〇二号室、個室だそうだから、』

 北部地区に縁があるここ最近だな、と思いながら、あたしは担任から言われた病室を思い出す。

 千里の入院している病院。の近くについこの前の土曜日にあたしがショックを受けた北部体育館があって、この地区ってあたしにとってあんまりいい場所じゃなかったんだったりして、なんて苦笑が漏れる。ああタカちゃん。

 なんで急にこんなにタカちゃんが好きになっちゃったのかな、タカちゃん、千里が大変だよ、あー、今すぐタカちゃんのアパートに飛んでって友達が大変! って叫びたい、タカちゃん聞いてくれるかな、また、はぁ? って顔するだけだったりして、でも人命に関わることだし! あたし、うっかり友達失くすとこだったし! 

 千里の事故。

 事故ってなってるだけで、実際は二階の高さのところから落ちたらしい。もっと正確に言うと、落とされた。誰に。千里の彼氏に。

 本人の口から聞いた話じゃないから本当かどうか分かんないんだけど、どうも啓ちゃんさんの住むアパートの外階段のところから千里が突き飛ばされて背中から落ちて行って、下の石垣に脚をぶつけて大腿骨骨折、腰を強打、頭も打ったようなので救急車を呼ばれて大騒ぎになったらしいんだけど、意識はしっかりしてて、自分から誤って転落した、って言った、そうで。でも道路でサッカーボール蹴って遊んでた小学生の男の子ふたり――その子達がびっくりして騒いだもんで、近所から人が出てきて倒れてる千里を発見、救急車を呼んでくれたんだって――が、男の人が突き落としたよ、って言って、でも千里は違うって言い張って。

『本人が自分で落ちたって言い張るから、とりあえず警察には届けていないそうだけど、落ちた所がどうも森野さんがお付き合いしている男性が住んでいるアパートだったそうで、』

 先生達も混乱してたんだろう、普通生徒にそんなこと話しちゃっていいのかな、って思ったけど、どうやら担任や校長は、あたしから千里は本当に自分で落ちたのか誰かから落とされたのかを聞いて欲しかったらしい。友達だったら本当のことを話すだろうからって。でもさ、もし本当のことを話してくれたとして、あたしがそれを担任達にしゃべっちゃったら、それって裏切り行為じゃないの? あたし、千里との友情壊されちゃうことになるんですけど。

 それより、そのヘビーな恋愛関係は何よ、あたしの処女喪失、タカちゃん好きな人がいた事件なんてちゃんちゃら甘ちゃんでお子様お悩み相談室レベルの問題じゃないの、恋愛って、恋愛ってそんなに命がけ?

 でも意識がはっきりしてるんだったら大丈夫なのかな、脚折るとどれぐらいで治るんだろう、お見舞いの時って何が欲しいって言うっけ、お母さんー。

 途中で自転車を停めて電話してみる。携帯電話って便利だなあ。

「もしもし? あたし、あたしだけどさ、」

『あら咲、オレオレ詐欺なら聞くけど、あたしあたし詐欺はお母さんはじめて聞いたわ』

 国道脇の歩道にいるから、トラックなんかが通ると排気ガスにやられちゃう。右側にかるく自転車倒して、片足だけちゃんとつけて立ってるんだけど、バランス悪いのか転びそう。

『あ、帰りに牛乳買ってきてくれないかしら』

 お母さん、何故あなたが電話したあたしに用事を言いつける?

「……いいけど、後でお金くれる?」

『あげるわよ、ちゃんと。ローファットのはダメよ、知弘が嫌いだから』

「ローファットー?」

『低脂肪乳、安いんだけどね。あ、あと半値とか割引になってるの買ってきちゃダメよ、なるべく消費期限の長いやつにするのよ』

 スーパーで買うのよ、コンビニはやめてね、日付はちゃんと確認してね、といろいろ注文をつけてくるから、うるさいなーって電話を切ろうとして思い出す。

「違うよお母さん!」

『なにが? あ、今日の晩ご飯なんだと思う? うふふー、咲の好きなものよ』

「え、え、え、オムライス? ……違う、お母さん、あたしが用事あるの! だから電話したの!」

『あらそうだっけ』

 お母さん友達とか少ないのかな、日中家にばっかいて誰ともしゃべったりしないんじゃないのかな、なんかあたしと話すのも嬉しそうで、だけどそれって娘と親しい、とかっていうよりはやっとしゃべれる人が見つかったわ、って感じなんだもん。

「あのさ、友達が入院しちゃったんだけど。お見舞いってなに持ってけばいいの?」

『えーっ、誰が入院しちゃったの!』

「……だからあたしの友達。ね、お見舞いってなに持ってけばいいもん?」

 そういえば横浜のおばちゃんが入院した時はあの人、腎臓悪くしたくせに塩辛とか佃煮食べたいって騒いでね、って、また話が脱線するし。お母さん!

『そうねぇ、内科の入院だったら食べ物はやめといた方がいいと思うけど。お花とかがやっぱり無難じゃないかしら。外科関係だったら本人に聞いて、食べるもの持って行ってあげてもいいと思うわよ。あと、暇だろうから雑誌なんか持って行ってあげればいいんじゃないかしらね』

「外科とか内科とかの区別がつかない」

『まあ……! お友達、何で入院したって?』

 落とされた事件から話さなきゃなんないのかと一瞬悩んで、そこまで言わなくてもいいか、と判断する。

「骨折」

 パパパパパー、とクラクションが鳴らされて、驚いたら青信号なのに停まってる車があったからだった。うるさいな、もう。ちょっとくらいゆとり持とうよ、狭い日本そんな急いでどこへ行く。

『骨折なら外科でしょう、食べ物でもいいんじゃない?』

 千里の好きな食べ物ってなんだろう。プリン? あー、プリン、シュークリームとか。食べ物は次にお見舞いに来るときにしようかな、何が食べたいか聞いて。花? 花って意外と高いんだよね、そこらの雑草摘んでく訳にいかないし。よし、雑誌にしよう、雑誌雑誌、コンビニ寄って行こうコンビニ。あ、でもあたし化粧の方法千里に教えてもらおうと思ってたから、適当なやつ一冊、お姉ちゃんの部屋から失敬して持ってるな、今日。それ置いてこようかな、暇つぶしにどうぞ、って。お金使わなくて済むし、そうしようかな、そうしようっと。

「ありがとお母さん、千里のお見舞い行ってくるね」

『あら千里ちゃんって、あの咲が――』

 何か話しかけてたけど切っちゃった、携帯。

 あ、今日の晩御飯聞きそびれた、オムライスだったのかな、本当に。でもうちはお父さんが子供味のものが好きじゃなくて、だからお母さんは焼いた魚とか煮物とか、とろろ汁とかそんなのばっかりを食卓に上げる。もしも子供味のもの――オムライスとかハンバーグとか、シチューとかスパゲッティとか――だとしたら、お父さんがご飯要らない日なのかもしれない。お父さん、大抵家でご飯食べるけど。あー、お父さんはあの写メの人ともご飯食べたりするのかな、一回だけの浮気なのか続いてる浮気なのか、それにもよるだろうけど。だけどバカじゃん、浮気相手のあそこを記録で残しとくなんて、変にはしゃいでる大人って感じで見苦しい。非処女になったあたしも、ああいう大人の一員なのかな、お父さんの子供だし、血は流れてて傾向はあるかも、嫌だけど。

 一文字の自転車ハンドルを握りなおして、さて病院に、と思ったら携帯が鳴った。着メロ。着うたは苦手なんだよね、っていうか携帯の呼び出しって気付かなくて、しばらくぼややーんって聴いちゃってたりするし。

 携帯のいわゆる外窓って呼ばれるディスプレイに表示された名前を何気なく見て、う、って止まる。動作が。かわもと、の文字。あー、あたし登録で漢字変換しなかったんだっけ。

「……えー、なんで電話とかくるのよー」

 そういうのって夜とかじゃないの? あたしはきょろきょろ周りを見回して、別に誰がいようと関係ないんだけどそのまま鳴り続けている携帯を制服のポケットに突っ込んだ。バイブ機能もつけてあるから、ぶるぶるぶるって布が震える、その感触が肌に遠くの方から伝わってくる。

 あたし忙しいの、と言い訳はもちろん本人に届かないまま、自転車をえいやっと漕ぎ出した。携帯はしばらく鳴っていたけど、一旦切れたらそれきりかかってはこなくなった。



 昔、炭酸飲料が飲めなかった。

 身体に悪いからって、お母さんが子供達に飲ませなかったってのもあるけど、あのしゅわしゅわした感じとごくごく飲めないところが嫌いで。一息ついた頃に、鼻へと大きく抜けるゲップが出るし。あれで、むせるし。

 だけど今は飲める、コーラもサイダーも平気で、どっちかっていうと大好きで。いつから飲めるようになったのかは覚えてない、気が付いたら飲めてて、好きになってて。大人になるのも通過点があるわけじゃなくて、いつか振り返ったときに、あの頃だったのかな、って思う程度のものなのかもしれない。もっと境界線がはっきりしてればいいのに。二十歳、なんていう、全員平等の意味がない境目なんかじゃなくて、人それぞれの。

 タカちゃんに会いたくて、雨が降るのを望んでたけど降らなかった。病院帰りにアパートの方を周って、その時はもう七時になりそうだったけど部屋の電気は点いてなかった。

『……笑いに来たんでしょう』

 千里の冷たい声、あんなトーンでしゃべるのをあたしは今まで聞いたことがない。

 病院の個室はクリームホワイトの壁で、大きな窓からは光がたくさん入ってくるようになっていて結構暑く、ベッドを覆うためのカーテンは薄い緑色でベッドには薄いピンク色の毛布がかかってた。脚を上げて固定された状態の千里は髪をみつあみにして左右に流してあって、マスカラもしてないし眉も描かれてないしでいつもよりずっと幼く見えた。

 千里、って声掛けて。

 笑っていいのか真面目な顔していいのか分かんなかったけど、暗い顔してたら心配掛けるわな、って微笑んで見せて。大丈夫? って、自転車の鍵を右手に握ったまま聞いてみたら。

 笑いに来たんでしょう、って。

 冷たい、自嘲した声が。

 あたしの耳に入ってきて、笑うわけないじゃん、って慌てて言ったんだけど、そしたら千里はすごく厳しい目付きであたしを睨んだ。

『笑えばいいでしょ、そうよ妊娠したって啓ちゃんに言ったらこんなこんな様よ、笑いなさいよ、突き落とされたのよ、そうよ、誰から聞いたの、なんでここに来たのよ!』

 背中が凍りそうなくらいの睨みが、あたしを動けなくさせる。

『私を笑いに来たんでしょう、笑えばいいじゃない、バカだって、そうよ私はバカよ、啓ちゃんは私のこと本当に好きじゃなかったんだ、だからあんなに簡単に私を、ゴミでも落とすように、ポイって、私のこと階段から押して……』

 頭に巻かれた包帯の白さ。よく見れば腕にも包帯は巻いてあって、右頬には大きな擦り傷が赤く見える。真っ白い顔、興奮するとどこかが痛むのか、千里は時折顔を顰めた。

『笑いなさいよ、バカだって、啓ちゃんは私のこと好きじゃなかった、だから他の男との援交なんかを斡旋してくれてたんだって、私だけが分かってなかったんだって、笑えばいいでしょ! ……誰の子なんだって、啓ちゃん言った……』

 個室の入り口で固まってるあたしを無視して千里は怒鳴っていたけど、ピークまで達したら徐々に弱くなっていって。

『……誰の子なんだ、って、何よ……啓ちゃんの子だよ、って、私言ったのに、冗談だと思ったから明るく言って、そういう冗談は傷付くよって続けようとしたのに、その前に啓ちゃん……』

 すっごくうざそうな顔して、って。

 切なそうな声が震えてた。感情剥き出しの千里を、あたしは知らない。見たことのない女の子がそこにいるみたいだった。怖い、と思った。失礼なことだろうけど。

『子供もお前もいらんわ、って、私を階段から突き落としたのよ、そうよ、私、啓ちゃんに少しも大事にしてもらってなかった……』

 帰って、と呟かれる。最初よく聞こえなくて、聞き返したら怒ったような涙声で、帰って、とはっきり告げられる。

 千里、って声掛けたけど。

『ごめん、悪いけど帰って』

 うん、って。頷く以外に何ができたっていうんだろう。

 あたし、もっと軽く考えてて、顔見て、やだーやっちゃったよあはははは、なんて話せるんだって思ってた。ケーキ貰ったけど食べるー? なんて。啓ちゃん冗談が過ぎるんだよねー、ふざけてたら二階から落ちちゃったよ、死ななくて良かった、マジで! とかって、そんな話をして、ふたりで笑うんだと思ってたのに。

 千里、本当に妊娠してたんだ。

 啓ちゃんさんに言ったんだ。

 でも啓ちゃんさんは千里のこと要らなかったんだ。それって。

 それって。

 タカちゃん、って強く思った、ねぇ、その車に轢かれても大丈夫だった無敵さを千里とあたしに分けてよ。あたしにはくれなくてもいいから、千里に分けてあげてよ。

 ごめんね、って言って病室を出た、千里の怒鳴り声で見回りにきたらしい看護師さんがどうしましたかって聞いてきたけど、なんでもないんですって首振るしかできなかった。ピンクの白衣に白いカーディガン。病院の消毒の匂い。つるつるの床にはカラーテープで道案内が施してあって。それを眺めながら正面玄関、っていう緑のテープに沿って歩く。

 タカちゃん。

 あたしの相談事は確かにちっちゃいことで、そんなことで精一杯になってるのって千里から見れば怒りたくなるくらいだろうけど、恋愛とかちっとも命かかってないしお子様な悩みだったりするだろうけど、あたしもいっぱいいっぱいで。知らなかった部分の千里を見てオロオロして、助けてって誰に言っていいのか分かんなくて。

 助けて。

 悩みを口に出すと考えがなんとなくまとまってくるタイプの人間に、話を聞いてくれる人を与えないでおくと悩みはますます深くなって混乱してくるんですけど。よく考えたらあたし、千里以外に仲良い友達っていないっぽいな、クラスメイトとは仲悪くないしいじめられてだっていないけど、表面上でしか付き合ってない感じで。

 あたし、結構友達いない人?

 友達と知り合いと、ただのクラスメイトの違いを誰か教えてください。

 千里。

 千里はあたしの友達? クラスメイト? 知り合い? 仲間? 仲間ってなんだろう、仲間って言葉は一緒に汗流したりする間柄じゃないと使っちゃいけない気がする、実際に流すんでも精神的に流すんでも。仲間って、この前の見せてもらったバレーの人達みたいな。タカちゃん。タカちゃん、由美さんが好きなんだな、由美さんの返事待ちなのかな、晩生って言ってたからまだなにも告げてないかもしれない、告白順に恋人の席が決まってしまうものなら良かったのに、どうしてあれだけは後出しも横入りも順番抜かしも許されてしまうの? って、あたしの方が後から出てきたのか、後出しも許されるのに勝てないのは痛い。

「タカちゃん……」

 あたしの頭、許容量少ないから、もういっぱいいっぱいで。

 千里に怒鳴られたのが、病院の玄関に向かう一歩ごとにリアルさを帯びてくる。

 笑ってないよ。

 って。

 どうしてあの場で言えなかったんだろう。

 笑ってなかったけど、笑うつもりもなかったけど、千里の状態を軽く考えてたから。タカちゃんと話す口実に使おうとしてたから。

「後ろめたさだ……」

 ここで逃げちゃ、ダメなんじゃないかしら。あたしはビビリの弱虫だけど。

 ここで逃げちゃうのは、卑怯、っていうより、ここで逃げたらあたし、千里ともう二度と口利けなくなっちゃう。よね?

 くるりと回れ左をして、あたしは顔を上げる。心が暗くなってくると、ついつい下を向いちゃうから。あたしはお見舞いに来たの。千里の。あたしは友達なの。担任に言われたからとか、誰かにその状態を話したいとか、そんなんじゃなくて心配をまず先にするべきだったの、話を聞いてあげなきゃ、よし、よしよし、よしよしよし、咲、行くよ!

 なんて思っても、一度怒鳴られた記憶が残っちゃうと、でもやっぱり明日とかにしよっかな、なんて思っちゃうのでいけない。行くよ、咲!

「……よっしゃ!」

 傍から見ればあたし、今大バカひとり芝居女子高生だろうな。でも、そんなの気にしてると戻れなくなっちゃう。千里の病室に。

 まだどこか明日に回しちゃいたい気分の残りを振り切るように、あたしは元来た道を走り出す。歩いてたら気持ち萎えちゃうから。緑のビニールテープを沿って走る。

「病院内を走らないで下さい!」

 あー、看護師さんごめんね。

 灰色の床を蹴って、鞄の中身をガチャガチャいわせて、エレベーターに乗るんだったけどいいやって思って階段を選択する。走る走る、熊井咲。コグマちゃんのお通りだよ、二段抜かしなんてまどろっこしいけど、三段抜かしは足の長さがちょっと足りなかった。

 三階について一息入れたかったけど調子が出てきちゃってたからばくばくいってる心臓は無視することにする。すっぱいものがこみ上げてくるけど、それも無視。ナースステーションの中からまた、病院内を走っちゃダメよ! って言われたけど、ごめんなさい! って言い返して、車椅子の人の脇とか、松葉杖の人の前とかを走り抜けたり横切ったりしてそのままの勢いで三〇二号室のスライド式になっているドアを開けた。

「ち、ちさっ、千里っ、ご、ごめ!」

 ドア、勢い良すぎてバーンってぶつかるし。

 千里がものっすごく驚いた顔であたしを見た。

「ちょ、ちょっと、待って――」

 息切れてる、あたし。ぜいぜい荒い息してると、胸のところが差し込むように痛い。胃液が毛穴から漏れそうにすっぱい感じもする。待ってね、のジェスチャーで、右手の平を千里に向けて。突然のことで千里の目がまん丸になってて、結構可愛い。それにしてもあたし、体力ないな。基礎体力がないんだな、もうちょっと体育とか真面目に受けた方がいいかもしんない。

「ふはあっ、苦しいー、ダッシュ辛いー!」

「……どっから走ってきたのよ、咲が走るとこなんて初めて見たかも」

「えー、そんなことないじゃん、信号変わっちゃいそうなときとかちゃんと走ってるじゃん」

「嘘だよー、咲、走んないよ、どうせ歩行者が優先だもんねー、って言ってたらたら歩いてるじゃん」

「え、え、え、嘘だ、嘘だよー、あたしだって走るときは走ってるよ、そりゃ数えるほどしかなかったとしても」

 顔が火照ってて頭から湯気が出そう。きっと茹でダコみたいな真っ赤さだ、あたし。まだ肩が上下する。吐いた後に似た胸の痛みが気持ち悪い。鼻まで痒くなってきちゃって、人差し指を横にしてごしごしごしごしってこすったら、赤っ鼻! と千里が思わずって風に吹き出した。人のこと指差すし。むむむ、千里さん、失礼じゃないかしら?

「もーう、全力で走っちゃったんだからー! ――ゴメンね、千里。ゴメンね、でも本当にあたし、笑ってないよ」

 下半身が固定されてるから、千里は上半身だけをねじって笑っていたけれど、あたしの言葉に笑うのをぴたりと止める。

「千里――、」

 ぎゅっ、と唇結んで、怖い顔してこっちを見て。千里の視線が、あたしに突き刺さる。あ、言葉を間違えたのかな、タイミングを間違えたのかな、って焦ったけど、結ばれた唇が細かく震えてるのに気付いたら、待っていたかのように千里の表情が崩れた。ぐしゃあ、って。

「千里、」

「咲ぃ、」

 こぼれたのは、大きな粒の涙。

 白い頬に、ころがるようにぽろぽろと。

「わ、私こそ、や、やつ、八つ当たり、だっ、だったの、ごっ、ごめんね、さ、咲ー、」

「ううん、ううん、でもあたしも考えなしだったの、本当に、もっと早くに一緒に悩んであげなくてごめんね、ごめんね、千里のこと、ちゃんと真剣に考えてなかったの、親身になってあげられなかったの、ごめんね、ごめんねー」

 今度は千里が鼻を赤くして泣き出したけど、あたしは指を差して笑ったりはしなかった。つられて胸にじーんとした痛みが広がって、一緒に泣きそうになった。目頭、熱くなっちゃったもん。

 ベッドに近付いて、千里の手を取る。冷たい手。ぎゅっと握って、泣きやむまでそのままでいた。あたしだったら、こういう時は泣くだけ泣きたいから。声掛けられたら、返事を考えればいい。

 あったかい病室の中はさっきと同じようにオレンジ色っぽく幸せそうに見えて、こんな状態だからこそ環境が暖かで清潔で静かに整ってないとみんな死にたくなっちゃうんだろうな、なんて思った。

「――バチが当たったんだよ」

 鼻をすすりながら、ぽつりと千里が呟く。

「何言って――、」

「ううん、だって本当だもん、私、バチが当たったんだと思う。男の人のこと、お財布なんて呼んで、平気で寝たりしてお金貰って。……っていうのが建前で、本当はショックで頭おかしくなりそう、啓ちゃんが、啓ちゃんが私のこと突き落としたこと。でもどっかで最初から分かってた気もする、信じたくなかったの、啓ちゃんが私のことただの便利な女、くらいに思ってて、彼女としてなんか認めてくれてなかったんだろうなーって」

 だって本気で惚れてる女が別の男と寝てたりしたら許せないでしょ? それを、男斡旋するくらいなんだもん、いい金蔓は私の方だよね、って。

「……金蔓?」

「私、啓ちゃんにお金渡してた。少なくて半分、多いときは全部」

「それって、啓ちゃんさんが斡旋してくれた相手と、その、遊びに行ったときの?」

 うん、と千里が頷く。鼻の頭と、目の縁が赤く染まっている。

「お金渡すときと、エッチするときだけ、啓ちゃん優しくなるんだもん……」

「千里ー、」

 それはあたし達がするような恋愛じゃないじゃん、ダメじゃん、楽しくないじゃん、幸せじゃないじゃん。片想いよりひどい、すぐに別れちゃったりするのよりひどい、哀しい恋愛なんかすると魂が磨り減っちゃう感じがするのに、あたしの状態でさえそうなのに、千里、そんな恋愛してたら魂削れてなくなっちゃうよ。

「……千里、どうするの、」

「もともと啓ちゃんは私のこと彼女だと思ってないって」

「でもまだ、」

「うーん、どうなんだろう、打ち所悪かったら死んじゃってたんだろうなー、とは思うけど、ショックは確かに大きくて、でもなんか上手く信じれてないっていうか、まだね。うん。なんか理由があったんじゃないのかな、って、思いたいっていうのが、……あーあ、私もバカだー」

 学校、大騒ぎ? と聞かれたから、ううん、と首を振って見せる。担任は事故、としか告げてないから、みんな交通事故だと思ってるだろうし。お見舞いどうしましょうか、なんて、級長がホームルームのときに発言してたけど、まだ落ち着いてからの方がいいでしょう、なんて担任に言われてたし。ものすごく心配してどうしようどうしようってなってるクラスメイトはいなかった、あたし達、あんまり連帯感とかないし、仲間意識も薄いみたいだし、べたべた暑苦しくないけどさらっとしすぎてて薄情に思えるときもある、でもあたしだって千里じゃない娘が入院してても、ふうん、くらいにしか思わなかっただろう。

「……ひとりでいると、ずっと頭ぐるぐるしてたの。啓ちゃんに突き落とされる夢とか、何度も見るし」

「……ごめんね」

「なんで咲が謝るのよー。あはは、呑気そうな顔してるくせに」

「のっ!」

 呑気そうとは失礼な。

「昼間はいいんだよ、でも夜がダメ。すごく怖い、病室に啓ちゃんがくるんじゃないかな、とか、それがお見舞いとかって意味じゃなくて、包丁とか持ってくるんじゃないかって怖くて。寝るのも怖いし。でも暗い中でじっとしてるのも怖いし」

「……雑誌、置いてく」

「夜は読めないよー」

「いつでもいいじゃん、ごめんね、なんかお見舞いに持ってきて欲しいものある?」

 あたしが聞くと、千里はおさげを指先でいじりながらしばらく黙ってて、やっと口を開いたと思ったら小さな小さな声で、啓ちゃん、と言った。

 啓ちゃん、って。

 自分を要らないからって、アパートの階段からぽいって捨てちゃえる男なのに。そんなのが、お見舞いで欲しいものなんて。でもきっと、あたしがもし千里の立場だったら、同じことを言ってるかもしれない。突き落としたとか殺そうとしたとかが本当でも、きっといろんな言い訳を並べ立てて、好きな人を弁護しようとすると思う。バカだって言われても。なんか理由があったんだよ、とか、きっとパニックになっちゃったんだよ、とか。自分で嘘だって思っていても。

「千里……」

「エッチしてるときとか、お金あげたときの、優しい啓ちゃんが欲しい」

 そんなときだけ優しいのなんて、本当は悪い奴だよ。絶対。

 お腹の子は、って恐る恐る聞いたら、千里はちらりとあたしを上目遣いで見て、ブイサインを出した。えっと、それは。

「誰に似たんだか、無茶苦茶丈夫みたい」

「……無事、だったの?」

「うん」

 わあ。それは、不幸中の幸いだったのか、一難去ってまた一難なのか。

 だけど生きてる命だし。それが不幸か幸福かは、千里とその子が決めればいいことで、外野は口出しできないし。

「……良かった、ね?」

 疑問形になってしまったあたしの言葉に、千里が微笑んで頷いた。繋いでいた手が汗ばんで、熱がお互いに均等になっていく気がする。じゃあ今、手を繋いでるのはあたしと千里だけど、本当はもうひとり分の体温がここにあるのかな。

「おばあちゃん達に怒られるかなー」

「まだ言ってないの? あ、学校どうするの?」

「うーん、またおいおい考える」

「……産む?」

「……多分」

 多分、ってその言葉が、千里の本当の気持ちなんだろうな。あたし達はまだ庇護される年齢で、ひとりでは歩いていけなくて、甘える気がないわけじゃなくて、周りの大人の意見を聞くのが結局は一番楽なんだって知ってるから。

 あたしは結局タカちゃんのことも非処女になった話もできないまま、だけど千里となんかいろいろしゃべってた。面会時間が過ぎてても看護師さん達は放っといてくれたけど、さすがに晩ご飯の時間になったら追い出されてしまって。だけど病院の晩ご飯って早過ぎる、夜中お腹空いてたまんないんじゃないの?

 また来るね、って言ったら、千里が嬉しそうにしてくれたから、さっきケンカしたままにしておかなくて良かった、って、帰り際になってから思って、あたしは今更泣きそうになってた。

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