路地裏のクマ・5
続きます。
5
ギギギギギキーキーギギギ、とブレーキ音が嫌な感じに響いた、自転車が停止する前に左足を地面につけて無理矢理止めたから、うんと焦ってる感じが出ていたと思う。
「タカちゃん!」
完全週休二日、というのは、公立学校のものだけなのね。うちの学校は隔週で土曜日も半日授業がある。いい天気だし、タカちゃんはきっと仕事だろう、と思っていつつも学校帰りに自分の家を通り越してアパートに向かっていたら。タカちゃん家を出たすぐのところの信号機で停まっていた大きな車の助手席に、彼の顔が見えた。運転席を素早く見たけど、そこにいたのはひょろりとした男の人だったから安心する。
「どっか行くの?」
「わっ、タカ、お前なに女子高生と知り合ってんの?」
喋ったのは運転席の男のほうで、タカちゃんは開いてる窓からあたしをちらりと見ただけだった。
「応援にきてもらえば?」
「はー?」
「いいじゃんいいじゃん、可愛いなー、セーラー服だよ、ちょっと本物の女子高生だ」
「信号青だぞ」
「いいっていいって、おーい、彼女、」
タカちゃんと運転席の男が喋ってる間に信号機が青に変わってまた赤になった。後ろに並んでた車が派手なクラクションを鳴らして抜かして行って、あたしはその間に息を整えていた。タカちゃんの乗る車の前と後ろ、黄色いランプが点滅している。ハザードランプだ、と名前を思い出していたから、運転席の男からの問いかけに少しの間気がつかなかった。
「あのさ、一緒に来る?」
今日はいい天気なのに、タカちゃん仕事ないのかな。土日もあんまり関係がないって言ってたのに。
「おい、コグマ」
「わっ、なに、」
「コグマちゃんって言うの?」
「あ、違います、タカちゃんが勝手にそう呼んでるだけで、」
北体に行くけど暇ならこない? 乗せてくよ? と言われて、考えるより先に頭がこっくり頷いていた。自転車を道端に置いて、鍵だけちゃんとかける。
「おい、盗まれっぞ」
「うん、いい」
自転車をどこかに置いておいたら、その間にタカちゃんがいなくなっちゃいそうなんだもん。
北体――北部体育館――は市街地にある市立体育館で、自転車で行けないこともないけどここからならたっぷり一時間くらいかかっちゃう。
「自転車も後ろ積んであげるよ、大丈夫大丈夫」
運転席からひょろりとした男の人が降りてくる。タカちゃんに比べると風が吹いたら飛ぶんじゃないかと思わせるくらい細くて、だけどその人は車の後ろを開けると自転車を軽々と掴み上げて入れた。すみません、とか、ありがとうございます、とか口の中で転がしながら、あたしは助手席で前を向いたまま頬杖をついているタカちゃんばっかりが気になってた。
怒ってるのかな。
なんであたしの顔見ないんだろう。
北体にあたしがついて行くの、嫌なのかな。
だったら口で言えば良いのに。腹が立つ。嫌なら嫌、良いなら良い、口に出さないで態度で示すのってすごく嫌に気分になる。口に出せないなら態度にだって出さなきゃいい。
あたしのこと、嫌いなのかな。
そんなそっぽ向いた態度されると。
心臓の近くがぎゅっと痛くなったけど、やっぱいいですって言って帰っちゃおうかなって思ったけど、その前にひょろ男が後部座席のドアを開けてあたしを促した。タカちゃんの後ろ。スポーツワゴンってタイプの車だ、中古車屋に似たようなのが置いてあって、そう書いてあった気がする。自転車が横になって、トランク部分にしっかり納まっていた。居心地悪そうに。
「乗って、ええっと、」
名前は? と聞かれる。タカちゃんが、とちょっとだけありもしない期待をしたけど、もちろん答えてくれなかった。
「……熊井、咲、です」
「咲ちゃん。可愛いなー、ま、ま、乗りなよ」
あ、オレ川本って言うの、と言う男の声を遮って、タカちゃんが低く唸るように「遅れるぞ」と言った。不機嫌なクマみたい。タカちゃんはあたしの心をざわざわさせる。いつからだろう、どうしてだろう、前はそんなことなかったのに。もっと、大人をからかう女子高生っていうキャラクターで通せてたはずなのに。
川本、と名乗ったひょろ男は、ミラーで何度もあたしと目を合わせて「可愛い」を連発した。安っぽい言葉だと思ったけど、ありがとうございます、を返す。車の中はゲーセンで手に入れてきたのだろうぬいぐるみが五つほど乗っていた。すべて手触りがいいやつで、大きさもそれなりで。茶色いウサギのを膝に抱いて、あたし何してるんだろう、と視線をタカちゃんの頭に向ける。
短い黒髪。汗っぽい、男っぽい、タカちゃんの匂い。振り向け、と念じてもピクリとも動かない。窓の外の景色はびゅんびゅん変わるのに、タカちゃんは動かない。動かない、動かない、動け、動かない、くそう、一回くらい振り返ったっていいじゃない、動け動け振り向け振り向け、せめてなんか一言くらい。言ったっていいじゃない、学校帰りかとかまた俺の家に来るつもりだったのかとか。迷惑そうな声でもいいからさ。
「無視、が、一番辛いのに、」
呟いたけど聞こえないような声に自分でしたから、やっぱりそれは車の音とかに溶けて空気に紛れてしまう。
結局北体につくまでタカちゃんは何も言わなかった。
北部体育館は隣に市民プールまである大きなもので、だけど今の時期は屋外用なので使用不可になっている。夏場はすごく賑やかだけど。二百円で一日中使えるし。水の入っていないプールは乾いているのに淋しい。淋しさは濡れていたり湿っていたりするものにばっかり感じるもののような気がするのに。雨とか涙とか、飲み残しで忘れられたままのジュースとか。
「バレーの練習してんの」
週一でさ、と川本が教えてくれる。上履きに履き替えてください、の張り紙があって、そんなの持ってないよ、と文句を言いかけたあたしに、スリッパを出してくれた。タカちゃんはさっさと奥へ入って行ってしまう。あたしがついてきて、それで怒ってるなら口に出せばいいのに。なんだよもう、と、あんまり腹が立つと泣きそうになる。
「咲ちゃんバレーとか好き?」
「……学校の、体育の授業でやりましたけど、」
川本はあたしの泣きそうな気持ちにも気付かないで普通に話し掛けてくる。タカちゃんと似たような、紺色のジャージを着てた。白の三本ライン。
「タカも中高とバレーしてたっていうけど、オレもずっとやってて。咲ちゃんも興味あったら入りなよ、社会人サークルだけど、オレが言えば現役高校生でもいいからさ」
この人あたしの言うことちゃんと聞いてないな。どうして学校の授業でやったことがあるだけのレベルで、バレーに興味があるとかって勘違いできるんだろう、しかも今、ちらりとオレ様発言した?
自転車を車に乗せてもらってるままだし、なにこいつ、って思ってもさすがに顔に出したら今はまずいだろ、と、あたしはにっこり笑ってみせる。でもあたし運動神経悪いし、って言ってみる。
「大丈夫だって、オレがちゃんと教えるし」
だから、バレーなんか興味ないって暗に言ってるだけなんですけど。
「タカちゃんに怒られそうだからいいです」
「そういえば咲ちゃんって、タカとなんの知り合い?」
茶色いビニールの安物っぽいスリッパの中で靴下の足がつるつるするから、歩いてるんだか滑ってるんだか分からない感覚になる。パタン、ペタン、と体育館に続く通路を歩く、川本の後ろをついて行って。千里と遊んでるとき、よくこういう人いた。興味のない男の人とかと遊ぶのって、昨日のことでも一時間前のことでも一分前のことでも、全部ものすごい遠い過去のように思える。
「順ちゃんはまだ小学生っくらいのはずだし」
「……じゅんちゃん?」
「関係者?」
「……は?」
じゅんちゃんとか関係者とかって何、と口にする前に、大きな鉄の扉を川本が開けた。廊下壁の途中にいきなり出現したやつで、ブルーの大きなBの字が書かれている。ギイイイイ、と結構大きな音がして、それが耳に収まったらすぐに室内のざわめきが流れてきた。天井が高いからだろう、バシーン、バシーン、とボールが身体に接触する音が響いている。掛け声と笑い声と。明るい室内。青春映画のワンシーンのような、オレンジ色の空間。
「川ちゃん、それ彼女ー?」
声が飛び込んできた。え、あたしのこと? 違うよ、なんでひょろ男なんかの彼女じゃなきなんないのよ。
「違う、タカの知り合い」
「えー、女子高生じゃん、制服着てるー! タカの知り合いー? ちょっと、出会い系とかで知り合ったとかじゃないでしょうね」
本人目の前にして出会い系とかって失礼じゃない? む、と思って睨んでやった。化粧っけのない若いんだかおばさんなんだかいまいち分かんないような、髪の短い女の人。真面目にスポーツやってます、って風に、短パンに白い長袖シャツ、膝にサポーター。バレーコートが張ってあって、青と白と黄色の三色からなるボールがぽんぽんと空を舞っている。普通のバレーボールより大きい気かけする、男女混合みたいだし、もしかしてソフトバレー? 女の人四人と、男の人がひとりと、タカちゃんと。
あ、って思った。
タカちゃんが。
笑ってる。
「順ちゃん?」
またその名前が出た。
「まさか」
タカちゃんが答える、すぐに。あたしの喋りかける言葉には、なかなか返事をしないくせに。
「あいつはまだ小三」
「えー、もうそんなんなるの!」
体育館の中は広くて、ネットで仕切った向こう側ではバスケットをしているチームがあった。大学生くらいかもしれない、背が高い人がぞろぞろと。パス練習とかしてる、十五、六人くらい、もしかしたらもっといっぱいいるかもしれない。ネットで仕切ってるだけなのに、音も声も遠い。
「あれ、十歳って小三だよな?」
くるくると目を動かして、考えてる顔をするタカちゃんの。声が、澄んでて面倒くさそうな音を持ってない。
誰。
それ、誰。
「七歳で入学じゃないの、四年生よ」
どこかの子供の話? 胸がざわざわする。妹とか、弟とかの話? 十八歳くらいの年の差? まあそれもありえるよね、ほら、お母さんが違うとかで。
ざわざわ。そんなのより、なんでタカちゃん、笑ってるの。
にっこりして、なんでそんなやさしい顔してボールとか渡してるの。
「咲ちゃん、」
川本があたしを呼ぶ。うるさい、って顔に出さないように、いつもは絶対にしない「努力」ってやつを身体の底の方から持ち上げてくる。こっちで見なよ、とか、参加したかったらメンバーに予備ジャージ借りてあげようか、とか、そんなの今言わなくていいから、ちょっと放っといて。
タカちゃんが、あたしに見せないような笑顔を。その人に見せてて、それが結構ムカつくんですけど。
「……これ、普通のバレー、って聞くのっておかしい?」
「ん? ああ、ソフトバレーだよ、だから男女混合。お遊びだけど。一応リーグとかにも登録してるし、女性軍はみんなママさんバレーもやってる人達だから、結構いい線いってるよ」
「ママさん、ってことは、みんな既婚者?」
あーあーあー、恥ずかしい。なんの確認、なにを聞いてるの、あたし泣きそうな顔してない?
「うーん、離婚者、もいるけどね。あ、オレの奥さんとかってのはいないから」
離婚者、っていうのは、今フリーってことよね?
え、だって、タカちゃんの家には女の影がなかった。大体、彼女とかがいるんだったら、あたしが上がり込めるわけがないでしょ? そうでしょ? タカちゃんは女とかに興味なさそうだよね、女子高生、じゃなくても、女子、に興味がないってことだよね、笑ってるのとかって、バレーが好きで仕方ないから笑ってるんだよね、同じメンバーの前だし、そういうのって同士、とかって言うんだよね、あたしが苺ショートを前にすると顔がにやけちゃって仕方ないのと同じ意味だよね、ね?
「離婚者、って、」
いきなり初対面の人にこんな突っ込んだこと聞くのはマズイかな、不躾かな、って考える余裕もない。川本はもちろん気にする様子もなくて、あの人、と簡単に教えてくれる。
あの人。
タカと喋ってる髪短い女の人いるじゃん、あの人。
って。幼稚園の娘もいてさ、なんて、個人情報も付け足してくれる。
「タカちゃんが、にやけてる……」
「あ、咲ちゃんが見ても分かる? あいつって普段仏頂面だから、ああいう時って露骨に分かるよな。由美さんもまんざらでもなさそうだし。バツイチ同士でくっつけ、ってみんな思ってるんだけど、タカが晩生でさ」
「……バツイチ?」
誰が?
何が?
あたしが混乱してる、耳の奥でぐるぐる思考が洗濯機みたいに。回ってる、酔っちゃいそうな高速回転。
「バツイチ?」
あれ、知らなかった? なんて川本が。知らないよ、あたし、タカちゃんの何も知らない。
「オレ、実は高校の頃からタカと一緒でさ。ここのサークル作ったのもオレとタカなの、あいつもバレー部だったんだけどさ、高三の時に付き合ってた十っくらい年上の女孕ましちゃって、そのまま結婚したんだよねー。責任感強いけど、考えなしじゃん、結局一年くらいで離婚して」
こういう話を本人以外の口から聞くのって、ズルしてるみたいで吐き気がする。そんな、潔癖なことを言える人間じゃないけど。なにそれ。え、じゃあ、さっきの順ちゃんとかっていうのは、タカちゃんの子供?
それはまだいいとして、え、タカちゃんがそこの女に笑いかけてるのって、好き、とかって、気持ちがあって、ってこと?
あ、だからあたしの誘いに乗らないんだ、あたしの存在が気にならないんだ、あはははは、って。
それは。
えーっと。
……あー、ちょっと吐きそう、今。
あたし、失恋したとか? そういうこと? いくら相手にされてないって分かってても、それって時間が経ったりあたしが成長したりすればなんとかなったり、タカちゃんがいつか心動かされたりとかって、勝手に思ってたんだけど。
バシーン、バシーン、とボールの響く音がする。
「川、川、いつまでもくっちゃべってないでアップしろよ、時間勿体ねーよ」
タカちゃんが川本を呼んで、あたしはよろよろした足取りで壁際に後ずさる。何歩も下がって、背中が硬い壁にぶつかって。ヤバイ、うっかり泣きそう。背中を壁にすりながらへたり込んで、あとはぼんやり見てた。タカちゃん、あたしと口きかない。あの女の人の存在があったから、川本があたしに「タカの彼女?」って言わなかったんだ、ってこんなことばっかりひらめきのように分かっちゃって、最低だった。タカちゃん、あたしを見ない。そっか、あたしの存在は邪魔なのよね? 下手に由美さんに誤解されても困るから?
それとも、あたしの存在なんかなんの障害にもならなくてゴミにしか思われないくらい、タカちゃんとその女の人の関係は結構強いのかな。
目の前真っ白、ってこういうのか、なんて、余裕なかった、本当に真っ白だった、体育館の、運動してるって感じの匂いがあたしを取り囲んで、動けないようにさせてる気がする。その匂いだけが、運動をろくにしたことのないあたしを拒んでるんだったらいいのに。だけど、本当の居心地の悪さは、タカちゃんのせい。由美さんって人のせい。タカちゃんを好きで、彼の過去を人伝えに勝手に聞いちゃったりした、自分のせい。
わたしもこういう制服着てたわ、って。
由美さんが。
鼻低いしそばかすだらけだし、目は大きいけどそれだけだし、美人じゃないじゃん、おばさんじゃん。
女子高だったの、って川本が言ったら、タカちゃんが何十年前の女子高生だよ、って笑った。あたしを見ないで、由美さんの方向いて。笑った。由美さんが怒った風に、何十年ってなによ、ってタカちゃんをぶって。その振り下ろされた右手がすごくやわらかそうにタカちゃんに触れたのを見て、あたしは身体の奥がぎゅううっと熱くなった。嫉妬、だった。
天井には飛行機が突き刺さってる。壁にはアメコミ調の女の人が描かれていて、お尻がぼーんっと、胸がばばーんっと、腰がきゅううってなってて、実際にいたら怖すぎるけどでもいわゆる峰不二子体型で羨ましかったりもする。胸はそこそこあっても、寸胴のお子様体型なんだよな、あたし。
「はじめてだったんだ、」
って、怯えたような嬉しそうな声は川本のもので、ラブホテルにしては珍しいんだっていうクイーンサイズのベッドにあたしは薄っぺらい布団に包まって横になってる。素肌にシーツ、ああ、こんな感触だったんだ。
トレーニングルーム、と名づけられている部屋は広くて、サンドバックと腹筋マシーンが隅の方で居心地悪そうに置かれていた。三時間休憩五千八百円が、高いのか安いのかあたしには分からない。川本が上手だったのか下手くそだったのか、それも分からない。ただ、千里が言ってた、トイレットペーパーの芯の人よりは大きくなかったし、親指よりちょっと大きい人のよりは大きかったと思う、あんまりよく覚えてないけど。
セックス。
って、結構拍子抜けだった。
バレーの見学をさせられて、タカちゃんがずっと由美さんを見てたりその目がすごく優しかったり、うんとやわらかい声で笑ったりするのが視界に入っているのは、壁でもゴミ箱でも蹴っ飛ばしてやらないと気が済まないくらいにイライラすることだった。イライラして、でも同時に切なくなって。あたし、タカちゃんのこともしかしてすごく好き? とかって思って泣きたくなって。ねぇ、それ取らないで、それ触らないで、あたしが好きだから、好きでいるから。タカちゃん、あたしを見てよ、あたしにもそうやって笑って見せてよ、って。叫びたくなって、それを我慢すると喉の奥に熱い固まりがぐぐぐっとせり上がってきて、鼻の奥で鉄っぽい匂いがした。泣くのを我慢してる子供の気分になったから、多分あたしの唇は捻じ曲がってたと思う。帰りたい、と何十回も何百回も心の中で呟いて、トイレに逃げちゃおうかな、お腹痛くなったから帰りますって言おうかな、って頭の中でシュミレーションしてよし帰ろう、よし帰ろうって何回も自分に言い聞かせたのに、あたしの足は歩き方を忘れてしまっていて動かなかった。
他の女の人に笑いかけていても、そこには動くタカちゃんがいたからかもしれない。
あたしの知らないタカちゃん。背を向けてテレビを見ているタカちゃんじゃなくて、無表情でお寿司とかピザとかデリバリーのものを食べてるタカちゃんじゃなくて。ナイスアタック、とか、ナイスレシーブ、とか、ナイスサーブ、とか、そんな掛け声が飛び交う空間で生き生きと動いているタカちゃん。彼はバレーが上手なんだろう、ボールをちっとも落とさないし、仲間がいるところへ上手に拾い上げるし、相手のコートにさらりと叩き込んだりする。格好良い、って、あたしがぽややーんと思ってしまうほどに。
結局二時間ずっとバレーの練習風景をあたしは見ていた。壁に背中をつけて。タカちゃんをずっと見てた。そしてどうしても視界に入ってくる由美さんが邪魔で仕方なかった。二時間もタカちゃんを見てたのに、ちっとも飽きなくて、ああ好きなんだな、って確認する。再確認。噛み締めるように。
それなのに帰り、タカちゃんは由美さんと帰ってしまった。彼女の車に乗って。川本はあたしの自転車を車に積んだまま、助手席に座らせたあたしに「どこか行きたいとこある?」って聞いた。行きたいところ? タカちゃんのところ。あー、でもそれは無理で、このまま家に帰ったら泣くだろうなあたし。って、そう思ったら帰りたくなかった。行きたいところ、タカちゃんのアパート。そう言ったら川本は、あはは、と発音はっきりと笑っただけだった。で、腹が立って、じゃあホテル、って。言っちゃって。どうしてああいう時って変に意地張ったようになって、そんなことなんでもないもーん、って、ちょっと悪ぶった感じでホテル行こうよとか言っちゃうんだろうね。あたしがひねくれ者なのかな。
川本、あはははは、ってまた笑うかな、って思ったのに、笑わなかった。
短い沈黙の後で、それって本気にしちゃうよオレ、って言った。
本気とか。
なられても困るんですけど。
冗談ですよあはははは、って、笑っちゃえばよかったのにタイミングを逃してた。タカちゃんに対する当て付けもあった。彼には痛くも痒くもないあたしの攻撃。そっちが興味見せないんだったらあたしだって他の男のところに行っちゃうもんねー、って。無駄だと、どこかちゃんと納得しながら。
車の助手席で、川本が話し掛けてくるのに適当に返事をしながら、楽しそうな顔ができなくて窓の外をずっと見てた。ガソリンスタンド、スーパー、民家、本屋、古本屋、民家、民家、民家、コンビニ、そんなものが街路樹や歩行者や自転車の人を混ぜ込みながら通り過ぎていく。あたしの自転車が後ろでカタカタ音をさせていて、こんなとこまでつき合わせてゴメン、って、そう思った。頭悪い持ち主でゴメンね。
しばらく走ってからついたホテルは、大きくてピンクとブルーの変な色で彩られていて、う、って一瞬思ったけど車で入っちゃったら意外と中は普通だった。トレーニングルーム。そんな名前の、変な部屋。セックスするためだけにあるはずなのに、トレーニングマシーンが置いてあってプレステが置いてあって、カラオケもできてお風呂はジャグジーで無茶苦茶広くて、冷蔵庫にはご自由にどうぞ、ってカップラーメンがふたつとコーラとジンジャーエールとウーロン茶とオレンジジュース、ミニサイズのチョコとキャンディーがふたつずつ入ってて、電気ポットとインスタントコーヒー、紅茶のティーパックまで置いてあって、すごいと思った。トイレには、ナプキンと紙のショーツまで置いてあった。いきなり生理になっても大丈夫なんだね。
セックスに対する好奇心がなかったわけじゃないけど、自分が実際にするのはもっと年取ってからだと思ってた。高校生で処女なんて恥ずかしいとか、そういう風潮は確かにあるけど。でもあたしは痛いことが嫌いだし、セックスって大人がするもののような気がしてたから。あたしは大人じゃない。
部屋の探索が一通り終わって、ベッドに跳ね込んで腰を下ろす。先にそこにいた川本が、ゆるゆると手を伸ばしてくる。肩に触れて。手が、制服越しなのにすごく熱を伝えてきて、あたしは緊張する。固まる。川本がちょっと不思議そうな顔をして、あたしの前に回りこんでくる。あ、肩に手を置かれたら相手の方を向かなきゃなんないのね。上半身だけ、にゅ、と曲げてあたしの前に顔を出してきた川本の格好は、お尻が突き出てて笑えたけど、ここも笑っちゃいけないとこなんだろう。こういう手ほどきみたいなのこそ、学校で勉強させてくれればいいのに、いきなり本番ぶっつけなんて嫌だ。まあ、三十二人の一クラスで、みんなが板書されたセックスのやり方なんかに目をやりながら、『相手が近付いてきたときにはそっと目を閉じます』なんてやってたら爆笑しちゃうけど。『はい、では隣同士ちょっとやってみてください、右側の人が肩に手をかけて、左側の人が目を閉じて』とかって。
「咲ちゃん、」
あっ、本番中だった。
川本が目を半分瞑ったような状態であたしに顔を寄せてくる。キスか? キスだな? ……あたし、なんでこの人とキスしてるんだろう。
するんならタカちゃんとがいい、とか微かに思いながら、なんであたしはここにいるんだろう。ここで、川本を両手でどついたら、キスとかしなくてよくなるのかな。でも好奇心が欠片もないわけではなくて。迷ってたら自分が目を閉じるタイミングを逃しちゃって、唇が重なってくるまでばっちり瞼は上がりっぱなしになってた。
重なる、唇。
ぶに、っとした感触で、意外と弾力があるというか硬いというか。
でもくっついたのは唇だけじゃ足りなくて、川本の舌が、急にぬるりとあたしの口の中に入り込んできた。ノックもなしで、え、え、え、とあたしは焦る。どアップで見えてる川本の顔、肌の色、今から目を閉じたら全部嘘になったりするの? 歯とかくすぐって、あたしの舌を探し出してきて撫でて。あたしがキスで頭をいっぱいにして、どどどどどどうするの、とかって思いつつもそれを悟られたくなくて平気そうな振りをしている間に、川本はこっちの腰に手を回して自分の体重で押さえ込むようにあたしをベッドへゆっくり倒した。ばふ、と。ベッドが弾む。
「まっ、」
待って待って、の声が出そうになりながら、とりあえず川本の頬を両手で包み込んで押さえた。
「……なあに?」
うわあ、語尾が甘く溶けてる!
好きヨうふふ、の意味じゃないから、この両手は!
「咲……可愛い、」
呼び捨てにされてるし。
えー、一回寝たくらいで彼氏面しないでよー、っていうのはたまに聞くけど、本当はキスしたくらいで彼氏面ってできちゃうもんなんですか?
おでこから毛先へあたしの髪を梳きながら、川本が目を細める。頬を寄せてきて、すりり、と頬と頬をすり合わせる。猫、とかだと思えばいいのかもしれない。でも思えない、こんなでっかいの。喋るし。猫耳、ないし。ついてても怖いけど。
と、頬に気を取られていたら太ももが撫でられた。え! と驚いて思わず腹筋使って半身を起こそうとしたけど川本が乗っかってたので無理でした。スカート! スカートって無防備、男の手の進入を阻んでくれない。撫でられる肌がぞわぞわする。でも、変な感じもある、お腹の底の方がぐぐっと持ち上がるような。熱い塊がゆっくりと移動するような。なに、これ。
可愛い、と口にしながら川本は顔を寄せてくる。露出している首部分だとか、頬だとかに唇を押し付けてくる。乾いた感触。舌が口の中に入ってきたときみたいな、ぬるっとした感じはない。唇が薄いからかな、と思う。
あたし、このまま川本にやられちゃうのかな。
状態はこんななのに、まだ現実感がなくて曖昧で。
目を閉じて、タカちゃんだと思おうとしたけど、手の厚みとかが違って無理だった。結構想像力ってないなあたし、でも無理なものは仕方がないし。逃げる気もしない、そこまで危機感もない、この時間が終わったらあたしは処女から非処女になるだけで、ただそれだけで。でも、大人の女が好きだというのなら、タカちゃんは非処女になったあたしにだったらちょっとは興味を持ってくれるのかな、由美さんがいるから結局ダメなのかな、なんて、そんなことを考えてた。
肌がむずむずする。
撫でる手が熱い。
川本はきちんとゴムをつけたみたいで――硬くなったものを触らせてくれた、熱くてびっくりしたけどこれがあたしの中に入るのって意味が分からなかった――、千里の言ってた「生だと違う」の生もしてみたいな、と思ったけど、川本とするセックスは子供を作るためではないから、ただのエッチだから、口には出さなかった。痛かったのとか、あんまりよく覚えてない。夢中だった、早く終われ早く終われ早く終われ、って。入ってきたとき熱かった、こじ開けてる! って痛みがあったのは確かだったけど、あたしは入っちゃってから川本が腰を動かし始めた時のが嫌だった。
「……はじめてだったんだ、」
「うん」
シーツに血はつかなくて、処女は初めてのときに血が出る、って聞いていたから生理くらいの量かな、って想像してたから拍子抜けで、でもあたしのあそこを拭いてくれた川本はそこに血がついていたからびっくりしたみたいだった。
「……ええっと、さ、あの、」
裸のままあたしは天井を見上げる。オレンジ色で塗りつぶされていて、うちのよりちょっと高い。素肌にお布団の当たる感触。ブラジャーはショーツとお揃いの薄緑と白のチェック柄で、お気に入りのやつだった。どうせなら。タカちゃんに見せてみたかった。川本の次じゃ失礼な気がする、タカちゃんの時はじゃあもっと可愛いのを選んでおかないと。
タカちゃんの時って。
いつか、そんな日が。
「そっか、はじめて……」
「……別に気にしないで下さい、はじめてはじめて、って、バカにされてるみたいですから、」
「あっ、そんな訳じゃ、いや、ただ、そのっ、……大事にするからね」
「……はい?」
今時の高校生って経験早いんでしょ、とか言われると思っていたところに、予想もしてなかった言葉がきてしまった。
大事に、って、処女としちゃったことの思い出とか、血のついたティッシュ……いやまさか、なに、大事にするって、もしかして、え、それってもしかして。
「……今日会ったばっかの男と、ってちょっと引いてたとこもあったんだけど、咲ちゃん本気だったんだ、オレ、君のこと大事に……」
「あの! ちょっと! ええっと!」
大事にするとかって、話飛躍させられても。
この男はあたしと付き合いたいとかそういうことを言ってるのかしら、それとも既にそんな段階は通り越して大事にされてしまう方向で話が進んでるのかしら。あたし抜きで。そんなのは困る、断じて困る。遊びだったんです、とは言わない、だって遊べるほどのレベルにないし、こっちが。あ、でも火遊びってんなら当てはまる言葉かな、いやむしろ当て付け? タカちゃんがあたしに興味持ってくれれば、川本なんかと寝ることになんかならなかったのに、そうだよあたし、今もう処女じゃないんだよ!
処女じゃない。
千里と話したのに。
タカちゃんにもらってもらいたいかなー、って。
処女って、もらうとかあげるとかの問題じゃないんだろうけど、でも、最初はやっばり好きな人としたかったかな、って、今頃になって思う。そして、今頃急に自分が汚れちゃった気持ちになって、途端に焦った。じわじわじわじわ胸のところでなんかくすぶってる、嫌な感じ。カンニングしてテストで普段よりめちゃめちゃいい点取っちゃったような、ロールプレイングのゲームでレベルの高い友達のセーブ記録をこっそり写させてもらっちゃったような、ズルした時の嫌な感じ。
セックスしたら大人になっちゃうの?
だったらあたし、ズルして大人にならなかった?
段階とかすっ飛ばしたよ、相手も好きな人じゃなかった。
こんな方法で大人になっても、タカちゃんはあたしにますます興味なくすだけなんじゃないのかな。
急に哀しくなってきて、喉のところで空気が一塊になってぐぐぐっと息を詰める。鼻の奥が、じん、と痛くなって、やばいあたし、泣く。目の縁に我慢できなかった水滴がどんどん溜まる。視界がゆっくりにじむ。
タカちゃん。
今タカちゃんに会いたいよ。
テレビ見ててそっぽ向いてていいから、タカちゃん。
「きゅうううう――」
できるだけ泣かないようにって我慢してたら喉の奥から変な声が漏れた。トランクスだけ穿いて、テレビのリモコンをいじってた川本がびっくりした顔で飛んできて、あたしの前に正座の形で体制を整える。
「今頃痛くなってきた?」
あたしの頭を撫でて、その手があたたかくて、急に、好きでもないのに心配させてごめんね、と思ってしまって。涙がぼろぼろこぼれた。
「あー、今頃実感湧いてショック受けちゃったとかかな、大丈夫?」
薄い胸にあたしを抱き寄せて、赤ちゃんにするみたいによしよしって後頭部を撫でてくれて。心臓の音。あたしより高い体温。川本の鼓動も早い、それなのにあたしはタカちゃんを思ってしまう。
泣いてるあたしにおろおろしながら、川本はそれでもやさしく頭を撫でててくれた。これがタカちゃんだったら、って思っちゃうあたしなのに。ごめんね。ごめんなさい。




