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路地裏のクマ・4

まだ続きます。

                  4


 あたしだって今まで好きな人が一度もいなかったわけじゃない。初恋は保育園の年中さんの時、隣のべにばら組だったコウモト君って子が好きだった。小学生の時だって、先生を好きだったり姉妹学級――年上の学年が年下の学年の面倒を見ましょう、みたいなのがあったの、六年生は一年生を、五年は三年を、四年は二年を、をそれぞれ面倒見る、ってのが――のお兄ちゃんを好きだったり、同じクラスの子を好きになったり、生徒会長を好きだったり。あたしはどっちかっていうと惚れっぽい。でもお付き合いしたことは、中学生の時に一度だけ。学校から一緒に帰ったり、日曜日に会ったり、会っても駅前をぶらぶらするだけで何が楽しいのかよく分かんない付き合いだった。あの子、元気かな。ヨシモト君。垂れ目で猫みたいな顔だった、猫ってつり目のイメージがあるのに。キス、も、まだ本当はしたことがない、そっちには興味があるけど、でもいつ頃できるんだろう、相手が必要なことってあたしひとりの決心とかじゃどうにもならないから不便。ひとりで頑張ったって、空回りすることもあるし。相手もその気になっててくれないと、タカちゃんみたいに興味ないですオーラをばしばしっと出してるともう、こっちはくるくるひとりで空回りだもん、な。

 夜寝る前にあたしはお布団の中でいろいろ考える癖がある。癖っていうのかな、いろんなことが勝手に頭ん中に浮かんできちゃう。ぐちゃぐちゃと。次の日には忘れてることもあるし忘れてないこともある。忘れちゃうことは大事なことじゃなかったから、って言う人もいるけど、そんなことはないと思う、だってお鍋を火にかけっぱなしで買い物に出ちゃう人とかは? 大事なことじゃなかったの? せっかく勉強した英語の単語とか文法とかを忘れちゃうのは? 必要なことじゃなかったの? 

 そうは思っていても大抵の考え事をあたしは忘れるけど。

 一回寝ちゃうと過去のことだか現在のことだか、夢だったか現実だったかがぐっちゃになって分からなくなる。助けて、あたし頭悪すぎるよ。それともみんなそうなのかな、安心しててもいいのかな。

 そういえばヨシモト君と別れたときも、あたしから別れ話は言い出したのに哀しくて哀しくて家でわんわん泣いてて、そのまま泣き疲れて寝ちゃったら次の日起きてから別れてたことを忘れちゃって、忘れたっていうか夢の中の出来事みたいにほわわわーんって朧になっちゃってて、あたし別れたんだっけ、別れたいって言おうと思ってたんだっけ、あー別れたんだった、哀しくて泣いたんだった、あの人はもうあたしの彼氏じゃないんだー、って思い出すのに半日くらいかかってまた哀しくて泣いた。

 タカちゃんの家に遊びに行ってるのも、夢の中の出来事だったりして。

 月曜日。あたしは十二時近くまで布団でだらだらしてて、昨日の夜の考え事と今日のだらだら最中にぼんやりとしていたこととが合わさって夢うつつ状態で、そういえば千里になんか驚かされたんだよなー、と半分寝たような状態で思い出してて。ああいう時、ちゃんと思い出せると頭の中でパチンって音がする、もしくはカチャンって。ドアがちゃんと閉まったような、パズルのピースがちゃんとはまったような、そんな音。

「ぎゃー!」

 思い出した。そうそう、生理がこないって、きゃー、それって!

「えーえーえーえーえー、ど、ど、ど、どうしよう、どうするんだ、どうよそれ!」

 自分のことじゃないのに胸が痛くなった、あのきゅんとするやつじゃなくて、ぎゅうぎゅう押しつぶしてる感じで。痛い痛い、息ができないっぽい。

 生理がこないって、それって、え、妊娠?

 うちの学校は馬鹿学校だけど、妊娠騒ぎを起こしちゃう娘も年にひとりとかふたりとかはいるらしいけど、全部あたしの知らない先輩の話だし、噂でしか聞いたことないし、まさか実際自分の友達が。っていうか、それって現実にある話? ある話なんだ、でもなんで千里あたしに話したんだろう、ノリ? 軽く? そんなのちっとも問題だと思ってないから? でもどうしよう、あれって相談だったのかな、打ち明け話だったのかな、堕ろすのってどれぐらいお金かかるんだろう、千里お金はあるから大丈夫だろうけど、でもそれって、啓ちゃんさんの子供だよね、産むとかってなるのかな、でもまだ高校一年生だよ!

 がばっ、と起き上がる。布団から。

 マンガ本とか化粧品とかが散乱した汚い部屋で、あー片付けなきゃ、とちょっとだけ思う。

「って、違う!」

 片付けはあと、千里の赤ちゃんどうしよう。

 あたしが焦ったりしても仕方ないんだけど。とりあえず学校行って帰りにタカちゃんの家にでも寄ろうかな、と、制服に着替えて、なんか食べようかなー、と台所に行ったらお母さんがいた。

「あら、咲!」

 学校どうしたの、と聞かれて、今起きたとこだもんと答える。

「具合悪いの?」

「悪くないよ、どこも」

「咲も食べる?」

「え、何、ご飯?」

 カップラーメンを食べていたお母さんが頷いた。昨日の晩ご飯の残りも出ている。白きくらげとタコの和え物と、コロッケと、ほうれん草のベーコン卵炒め。タコだけ指でつまんだら、箸で食べなさいと怒られる。

「女の子が手づかみで物食べちゃダメよ」

「手づかみじゃないじゃん、それに女の子がってなに、男ならいいわけ?」

「男の子も手づかみではあんまり物食べて欲しくないわねぇ、そういえば」

 お母さんが小柄だから、あたしはそれに似たんだろう。花柄のエプロンはあたしとお姉ちゃんが小学生のときに母の日か誕生日かのプレゼントであげたもののはずだ。物持ちがいいなぁ。

 平日の昼間に見る家族って、なんだかいつもと違う感じで目に映る。生々しくて、そこに役柄なしで存在している風に。お母さんとか娘とか、姉とか妹とか弟とか、妻とか子供とかっていう家族の役割を全部脱いで、とりあえず身ひとつでそこにいる、みたいな。見ていて眩しい。ただただ、生きてる、って感じがして。違和感。でも嫌じゃない違和感。目を細めて見てしまう、この人ってここでちゃんと生きてるのね、って思う。

「ん?」

 でもなんかそれとは違う違和感をテーブルの上に察知して、あたしは眉を寄せる。なんだろう、間違い探しをしている気分で。

「なに?」

「え、ううん、なんか、なんか、あれ?」

 お母さんが食べているカップ麺と昨日の残り物三品と牛乳パックと、……違う、牛乳パックよりもっと背が低くて横に太い紙パックがある。デイリーワイン、とか書かれていて。

「って、えっ、お母さんお酒飲んでるの!」

「あらららら、見つかっちゃった」

「えーっ、お母さんってお酒飲めたの!」

「大好きってほどじゃないけど飲むわよ、まあよく言うあれね、ストレス発散ってものかしら」

「お母さんにもストレスが!」

「そりゃ咲が知らないところでお母さんにだってストレスはありますよ」

 でもカップ麺とワインってどうなんだろう。何杯飲んだのか分からないけど、別に顔色も変わってないし。もしかしてしょっちゅう飲んでたんだったりして。しかも「ストレスはありますよ」って、ちょっと威張ったような言い方だったから笑える。

「もしかしてお母さんってタバコも吸う?」

「吸わない吸わない、タバコは吸わない、むせるから」

「吸ったことあるんだ!」

 昔ね、と母がコップの中身をあおった。透明ってことは、白ワインか。

「あたしにもちょうだい」

「ワイン? やめときなさい、これから学校でしょ」

「……そういう理由なの? 未成年だからダメ、じゃなくて?」

「あ、そうだった、未成年だからダメよ」

「遅いよ、今言ったって」

 お母さんのストレスってなんだろう。お父さんかな、あたしとかお姉ちゃんとか弟かな、それとももっと他のことかな。

「ね、お父さんが浮気とかしてたらどうする?」

「えっ、お父さんが浮気?」

 前に見てしまった写メを思い出して聞いてみたら、お母さんは驚いた顔になってしまった。そして考え込んだ顔になる。お母さん知ってるのかな、知らないのかな。考えながらも、ワインのパックから中身を上手にコップへ注いでいる。あたしはコロッケを親指と人差し指でつまんで口に運んだ。お母さんはもう文句を言わない。

「どうしようかしらね、今更離婚とかってできないし、和美も咲も知弘もまだ学生だし、見てみない振りするかしらね、でもお父さんは浮気なんかできる人かしら、そうじゃないと思うけど」

「じゃあお母さんは浮気したいと思ったことある?」

 話が飛ぶわね、あんたが酔ってるみたいじゃない、と、お母さんは一旦席を立ってあたしの湯飲み茶碗をもってきた。お茶をいれてくれる。こういうところってお母さんだよな、家族が何も言わなくてもお茶入れたり歯ブラシ買ってきたりするところ。

「別に浮気はしたいとは思わなかったわねぇ、男の人の面倒見るのはお父さんだけでいいわ」

「面倒見てくれる人と浮気すればいいじゃん」

「あんた、母親に浮気勧めてどうするのよ」

 そりゃそうだ。

「じゃあさ、あたしが妊娠してたらどうする?」

 ガタン! と椅子がひっくり返して、勢い良くお母さんが立ち上がった。

「咲!」

「わあ、違う違う、妊娠してないよ、あたしじゃないってば!」

「じゃあ和美?」

「お姉ちゃんでもない、っていうかお姉ちゃんに彼氏とかがいるのかとか知らないし、違うよ、例えばの話だってば、例えば!」

「……本当に?」

 本当に。あたしはぶんぶん首がもげちゃいそうなほど頷いて、お母さんはびっくりした拍子に固まったんだろう怖い顔をほぐしながら椅子を直した。

「……びっくりしちゃったわ」

「いやー、あたしもだよ!」

「例え話でもやめてちょうだい、いきなり」

 はい、すみません。

「結婚とかはいくつでしてもいいけど、順番間違えるのだけはお母さん嫌だわ」

「順番間違わなきゃいいの?」

 世間体かなー、あたしそういう考え方は嫌だなー。

「順番が違っちゃうと、純粋じゃなくなっちゃう気がするからよ」

 飲んでいるせいか、それとも昼間のせいなのか。お母さんはいつもより人間っぽい。ちゃんと考えを持っている、一個人として接しているような。

「子供ができちゃったから結婚しようとか、そういうのは純粋な結婚じゃない気がしちゃうのよ。結婚の方がおまけみたいになっちゃうでしょう? 子供がおまけって言うんじゃないけど。もっと結婚は、せめて後に続く日々が平凡なだけ、最初くらいはうんとロマンチックじゃないといけないのよ」

 ダイニングテーブルにかかっている、ピンクの花柄ビニールカバー、そこに散っている小花を人差し指で撫でながらお母さんは言う。ロマンチック。結婚の後に続いたのは、平凡な日々でしたか。

「って、娘相手に話してもねぇ。咲、あんた学校は?」

「だから、後で行くよ」

「後でとか言ってたら学校終わっちゃうわよ?」

「行く行く、うんうん、あっ、――あー、行く行く」

「あんた好きな人とかいるの?」

「は! 急に飛ぶね、話が」

「あんたくらいの時期が、お母さんにもあったのよねぇ」

「そりゃ、生まれたときからお母さんって訳じゃないだろうし」

 いろいろ楽しんでおくのよ、と言われたけど、親にそういうこと言われるのってどうなんだろう。こそばゆい。恥ずかしい。照れる。なに言ってるの、って、突っぱねたくなって、なんか、そんな自分が子供じみてて嫌。

「あ、ワイン飲んでたのは内緒ね」

「誰に?」

「お父さんと、和美と、知弘と」

「みんなにね」

「そう、みんなに」

 キッチンドリンカーとかお酒がないとやってられないわけじゃないんだからね、とお母さんは念を押す。たまに飲みたくなるだけよ、と言う。信じるも信じないも、だけどあたしはお母さんがお酒を飲んでたりするのに興味がないから、別に言わない。そんなことを話するほど、他の家族とべったり仲が良いわけでもないし。つかず離れず、みたいな、でも断ち切ったりはできない、みたいな。家族ってそういうもの。

 家族が朝ご飯に食べたという黒糖ロールの残りがあったので、レンジでチンしてバターを塗った。ほうれん草の炒めたのも食べる。ベーコンと卵ばかり拾ったけど、お母さんは文句を言わなかった。

 千里はもし妊娠してたら、誰に最初に言うんだろう。

 あたしだったら、相手の男かな。お母さんかな。お父さんは絶対にない。お姉ちゃんにも言わないと思う。あたしはセックスもしたことがないから良く分かってないんだろうけど、でも、もしも妊娠しちゃうなら望まれてがいい。お腹にできたあかちゃんだって、喜ばれた方が嬉しいに決まってるし。千里の妊娠は誰か喜んでくれる人がいるのかな。啓ちゃんさんが喜んでくれれば幸せなんだろうけど。

 学校に行く前に、まだ台所にいたお母さんに行ってきますと声をかけた。うがいの数がいつもより少なかったのか、やたらと歯磨き粉のミントが口を動かすたびに香る。鍵を解除してるときにタカちゃんに会いたくなってしまい、あたしは学校とは逆方向に自転車を走らせた。



 タカちゃんのアパートは路地裏にあって、道の向こうに小さな小さな中古車屋がある。五台ほど並べて停められた車には内側から百二十四だの七十八だのと数字が書いてあって、手書きのそれは捨て猫のダンボールに書いてある「拾ってください」によく似て見えた。タカちゃんの部屋は二階なので、窓から覗くとその中古車屋が見える。万国旗が何故だか電柱から電柱へとつなげられていて、お客も見たことがないし、掘っ立て小屋みたいな事務所なんだか店舗なんだか、そこに誰かがいたのも見たことがない。

 セーラー服のスカートを翻して、額に汗までかいて自転車をこいだけど、タカちゃんはやっぱりいなかった。今日は雨じゃない、仕事に出かけてるはずだから。分かっていても腹が立って、腹を立てるのは筋違いだと知っていても足が出て、あたしはタカちゃんの部屋のドアをガンっと蹴った。鉄の重たい扉。いい音がして、足が微かに痺れる。

 なんでいないの。

 分かってるけど。

 なんでいないの。

 今、会いたかったのに。

 タカちゃんはあたしの彼氏じゃないし、あたしがどんなに好きだと言っても相手にしてくれないだろう、だけど今会いたかったのに。

 友達が妊娠しちゃったかもしれないけどどうしよう、って。

 タカちゃんはどんな顔するんだろうって。

 驚かせるようなことを言ったら、彼はいつもテレビにだけ向けている視線をあたしへと少しは注ぐだろうか。

 タカちゃんはヒーローだった。車に轢かれても死ななかった、という無敵のヒーロー。あたしは女子高生らしい無神経さと好奇心でタカちゃんの周りをうろうろしたけど、好きとか思ってみたりしたけど、どうも本気になりかけている気がする。今までの思ってた「好き」が嘘だったわけじゃないけど、あれはもっと。もっと幼稚な「好き」だった、今は違って。あたしをちゃんと見ろよ、って思う。腹が立ったりもする。あたしはタカちゃんを何も知らない。知らなくても「好き」は成り立つのか、そこも分からない。

 中古車屋の前で、おばちゃん達が立ち話をしていた。あたしはその横をわざとすごい勢いを出して自転車で通り抜けて、おばちゃん達の文句を耳の後ろ、遠くで聞いた。うるさい。文句とか聞きたくない、あたしはびゅんびゅん自転車でスピードを出すのが大好きで、その邪魔をして欲しくないだけだから。

 なんでいないんだよ、と風に紛れないような大声で怒鳴ってみた、届かないその声はすっきりさせるどころがあたし自身がどこか欠けてしまったかのような錯覚に陥らせて、意味もなく胸が痛んだ。

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