路地裏のクマ・1
ちょっと長いですけどお付き合いいただけると嬉しいです。
1
すごい音がして目の前で自転車がぐしゃりと潰されて、脇のスーパーからもたくさん人が出てきて騒ぎ出して、向かいの本屋も通りに面した壁がガラス張りになっているからそこに店内の人が駆け寄ってきてて、ざわざわっと人の声が混じり合ってすごいことになっていたのに、タカちゃんはひょっこりと起き上がると、あーあ、とだけ言った。
あーあ自転車おじゃんだな、と、多分続けたかったんだと思う、もちろんあたしはその時タカちゃんの名前なんて知らなくて、ただやたらと大きくて――それは縦も横も――紺色のダサっぽいジャージを着ているけれどそんなに悪い感じじゃなくて、短い黒髪は触ったら刺さりそうなほど硬そうな男の人だ、という、外見のことしか分かっていなかった。大きなオフロード車というのか、ごつい車から若いお兄ちゃんがふたり降りてきて、真っ青を通り越して真っ白もいいところな顔をしてタカちゃんに声をかけてたけど、彼は大丈夫のジェスチャーとしてらしく手をひらひらと振って、腹筋を使ってほいっと立ち上がると、自転車だけ弁償してくれ、とか言ったらしかった。
あたしはその時学校をサボって帰る途中で、とろとろっと自転車に乗っていたらいきなり目の前で事故が起きちゃって、もしかしてあたしが学校サボったせいなんじゃ、なんて訳の分かんないことを考えちゃって、ごめんなさいごめんなさいってずっと口に出して言ってたけど、ちっちゃい声だったからきっと近くにいた人は念仏でも唱えてるんじゃないかと思ったんじゃないかな。ドカン、とぶつかって、でもタカちゃんはむっくりと起き上がって。観客――言い方は間違ってるのかもしれない――はもっとどよどよっとして、あたしには彼が不死身で無敵のすごい人に見えた。要するに、恋に落ちちゃったってこと。
だって格好いいじゃない、車に轢かれて平気な男なんて、後で聞いたら自転車が車の下に滑り込んじゃって、それを噛んで車が停まっただけなんだってタカちゃんは言ったけど、でもそれだって運が強いってことだし、それはそれですごいことだと思う。
タカちゃん。あたしと干支が同じで、でも年が違うの、肉体労働、をしている人だからなのか、日に焼けている肌が粗くって、実年齢よりちょっと老けて見える。でも大人に見えることはいいことだ、時々小学生に間違われてものすごく哀しい想いをするあたしから見れば、老けて見られるのなんて羨ましいくらいだ。
「おおい、もう帰れ」
今時セーラー服ってなんだろう、うちの学校は趣味が悪い。制服が高く売れたのなんて昔の話で、今は大型安売り店なんかに行くとおかまサイズでもいろんな色の制服なんかが結構安く手に入る。インターネットもあるし。ネットオークションとか。
タカちゃんは紺色プリーツのスカートから白いソックスの脚を投げ出しているあたしを見ても、なんとも思わないらしい。欲情、してくれない。ガキなんか趣味じゃねぇよ、とひどいことを言う、でもあたしはガキだから生意気そうに笑って、あたしに溺れるのが怖いんでしょう、なんてテレビだかなんだかで聞いたセリフを言ってみる。
「馬鹿言え、帰れ!」
タカちゃんは大人げないので、あたしがそういう口を利くと怒る。
彼が轢かれた日、潰れちゃった自転車を歩道にうっちゃって、すてすてと歩き出したその背中をあたしは慌てて追いかけた。欲しいものはすぐに欲しいと言わないと売切れてしまう、言いたいことはその場で言っておかないと相手が次の日には死んじゃってたりする。追いかけて声をかけた、あんなに見物人がいたのに、誰一人としてタカちゃんに声をかけなかったのがあたしには不思議だった。
名前教えてください、だったか、お家に遊びに行ってもいいですか、だったか、最初に何を言ったのかは忘れてしまった。でも順番を忘れただけで、ちゃんと両方口には出してて、そんなあたしに驚いたタカちゃんはだけど無視して歩き出しちゃったから、勝手にその後をくっついてった。逆ナン、大失敗だけどストーカー行為は成功? 相手はあたしに欲情しないけど。
「うそ、ごめんねタカちゃん、うそよ」
でもちょっとくらいあたしにクラっときてもいいじゃん、現役女子高生なのにさ、それともやっぱりもう女子高生って古いのかな、時代は中学生? 小学生? だけどタカちゃんはガキなんて嫌いだって言うから、きっと年上が好きなんだね。
「タカちゃん、お腹空いた」
「帰って飯食え」
「いいじゃん、お兄ちゃんの非常食食べちゃおう、食べていい?」
タカちゃんはそう広くもないアパートでお兄ちゃんとふたり暮らしをしている。でもお兄ちゃんは女の所に転がり込んでいるらしいので、今は一人暮らしもほぼ同然で、だからあたしなんかがちょろちょろしていても平気なのだという。タカちゃんのお兄ちゃんはケダモノで処女が大好きで残虐で最低らしい、吸血鬼と狼男を足したようなものなのかしら。
「女がカップ麺ばっか食うな」
「なんで、それって男女差別だよ」
「成長期は栄養取らなきゃなんないだろ」
「カップ麺だってちゃんとカロリーあるもん」
「馬鹿だな、カロリーと栄養は違うだろう」
どこが違うの、と聞いてもタカちゃんは答えなかったので、調子に乗ってもう一回同じことを聞いたらすごい目で睨まれた。タカちゃんの目はあたしをぞくぞくさせる、獣みたい。夜中に角を曲がったらそこに居てしまった、猫科の動物みたい。あ、クマの方が似合うかな。
「じゃあご飯食べに連れてって」
「お前何様だよ」
「ファミレスでいいよ」
「やだよ、お前みたいなガキ連れて歩くの」
みっともない、とタカちゃんは言う。でも粘ればタカちゃんは渋々でも相手をしてくれることを、あたしは知っている。出会いのあの日だって、路地裏のアパートの前でさすがに図々しく部屋までは押しかけられなかったあたしがぽけっと突っ立っていたら、一時間くらいして顔を出したタカちゃんがびっくりした顔をして、だけど変な奴だ、と苦笑いみたいなのをして入れてくれた。粘れば勝てる、多分。
「じゃあピザでもいい」
「家帰って飯食え」
「お金出すからさー」
「金の問題じゃないって」
「そうだよ、あたしはタカちゃんとご飯食べたいだけだもん」
「……何の話してんのか分かんなくなるな、お前としゃべってると。ピザより寿司食いてぇ」
ほら、粘り勝ち。でも今回はタカちゃんがお腹空いてただけみたい。ぐちゃぐちゃに物が突っ込んである本棚から、ピザと寿司とお弁当屋さんの宅配チラシを取り出して、あたしに手渡す。選べってことだな、そして電話して自分で注文しろってことだな。
「タカちゃんどれにするのー?」
「寿司。寿司寿司」
「どのお寿司?」
「お前どうせピザも頼むんだろ、そんなにでかい寿司じゃなくていいぞ」
「助六?」
そんなガキの食い物みたいなの誰が食べるか、マグロとかいくらとか入ってるのにしろよ、とタカちゃんが呆れたように言った。
「あたし生魚食べられないよ」
「お前が食えないもんは俺が全部食ってやる」
ああ、タカちゃんは優しい。
どうせピザもお寿司もあたしがお金を出すんだけど、そういうんじゃなくて自分の食べたい物だけを押し付けないところとか、ピザもお寿司も両方取っていいとかいうところが、あたしは優しいと思う。
「女子高生に奢られて、タカちゃんいい身分だよねー」
またジロリと睨まれた。別にそんなにサービスしてくれなくてもいいのに、あたしは彼のきつい目付きが大好きだ。
外では雨が降っている。窓を叩く激しい奴で、家の壁を貼ったり防音材を入れたり、よく知らないけどそういう仕事をしているタカちゃんは晴れていないと仕事が休みになるらしい。女子高生に奢られて仕事は休みでいい身分だよねー、と言ってやれば良かった。
ピザはトリプルスターという四種類のピザが一枚になっている、どこがトリプル? なやつを選んで、マヨコーンとシーフードと和風チキンアスパラとポテト&炒り卵のにしたよ、とわざわざ教えてあげたのに、タカちゃんは鼻で返事をしただけだった。
蓮根のキンピラ、春菊のおひたし、キャベツのお味噌汁に鶏そぼろご飯。
あたしの行く私立の女子高はいわゆるお嬢様学校という建前の馬鹿学校で、被服科と普通科とがある。被服科は時々頭が良くても洋服を作る勉強がしたいからって入ってくる娘もいるけど、普通科は頭の悪いのばっかり。でも馬鹿ばっかってのは結構楽しい。女ばっかだからいじめもあるけど、そしてあたしもいじめられたことがあるけど、ターゲットなんてごろごろいるもんだからずっといじめられ続けたりはしない、気がする。
馬鹿学校だから、卒業したらお嫁にでも行け、っていうのが教育方針みたいで、だからあたし達は調理実習とか繕い物の勉強とか、一日中お嫁さん予備軍のお勉強ばかりをしている。で、今日は調理実習。午前の三時間を使って全部、調理実習。
「なんか老人っぽい献立だよね」
「あー、私も思ってた、そうだそうだ、メインがないんだこのメニュー」
ピンクのエプロンはみんなお揃い、学校指定。白い三角巾も。でも今時三角巾なんかして飯作ってる女の人っているの?
「肉とか食べたい」
「えー、ダイエット中だからあたし春菊だけでいいー」
「春菊って不味くない?」
「来週煮魚やるんでしょ」
「げー、魚嫌いー」
ジャンクフードは太る、でも好き。そんな世代のあたし達に、煮魚はあんまり必要ない。パスタとか、ピザとか、そういうのの作り方のが知りたい、別に家で作ったりはしないけど。
「咲、咲、咲ちゃーん」
蓮根の皮を剥いていたら、隣の隣のテーブル班にいる千里が声をかけてきた。こんなにばっちり完璧な眉毛を描いてくる奴を、あたしは他に知らない。可愛いんだ、またこいつが。あたしが男だったら、きっとぷるぷる震えてる子羊ちゃんに見えて襲い掛かってると思う。
「気持ち悪っ、ちゃん、とか言った!」
「あんたがちっとも向かないからでしょ、今日空いてる?」
「空いて……る、あ、ない、あー、天気次第」
なにそれ、と千里が不思議そうな顔をした。
学校の調理室は油臭いような洗剤臭いような、古い鍋のような埃のような変な匂いがする。変だけど、ものすごく嫌ではないというか。非常勤のおばあちゃん先生は、真面目に調理をしたい娘だけを相手に、蓮根の灰汁抜き方法とかを教えている。でもそれは先生が贔屓してるとかじゃなくて、真面目な娘達――でもそういうのに限って要領が悪かったり不器用だったりするんだよね――が教室の前にある見本調理台の周りでわいわいと質問をぶつけたりしているからだ。
「天気次第ってなによ」
キャベツは手で千切った方が包丁の匂いが移らなくていい、なんて坊さんみたいなことを言って、うちの班の娘がめしりめしりとキャベツをむしっている。一班四人で、残りのふたりは春菊嫌いだのネギ大きくしないでだの、女同士なのに恋人同士みたいにいちゃいちゃくっついていた。本物のレズは見たことないけど、こんな風にべたべたしてるのの延長なのかな、そういうのって。あたしはどうせなら男とくっついてたいけど、タカちゃんはくっつかせてくれないからな、ちょっと切ない。
「雨が降ったら帰るけど、晴れてたら予定なしってことよ」
「変なの、普通逆じゃない?」
ピンクのエプロン、あたしのは黄色いひよこちゃんが、千里のはにゃんこちゃんがアップリケでついてる。アップリケ。って懐かしい、あんなの幼稚園の子供だけが使うものだと思ってた、アイロンでぺたんってくっついちゃって洗っても落ちなくて素敵。本当はエプロンにそんなものつけちゃいけないんだけど、先生達はなんにも言わない。
タカちゃんにお味噌汁とか作ってあげようかな、とか思うけど、あそこのアパートにはコンロが一個しかなくって、流しは狭いし包丁はないし、鍋もインスタントラーメン作る用のちっちゃいのがあるだけで後はなんにも。フライパンすらないから、料理なんて「作ってあげるのが夢!」で終わっちゃいそうだ。うちから包丁とか持ち込もうかな、でもそうするとまな板もいる、鍋もフライパンも欲しいしもちろん材料も持っていかなきゃなんないし、大体炊飯器ないんだった。タカちゃん家でご飯作ってあげるとしたら、あたしはプチ引越しみたいな荷物を風呂敷に包んで背負って行かなきゃなんない。
ああでも、どうせだったらお風呂道具の方を持ち込みたいかも、だって洗面器がないんだもんあの家! リンスどころかシャンプーもない、ボディソープで一緒に洗うからいいんだって言うけど、そりゃタカちゃんは良くてもあたしがね。まだ、タカちゃん家で頭洗ったことはないけど。
「咲ー、あーんして」
「え、蓮根白くない? あーん、」
菜箸でつまんだ蓮根の薄切り……というか輪切りを口に入れられて、何も考えずに噛み砕く、じゃりじゃり水っぽくてなんだこれ。
「不味っ!」
「えー、灰汁抜きしたやつだよー」
「炒めてないじゃん、生じゃん、不っ味、げー、」
ぺっぺっぺっ、と三角コーナーに吐き出して、そう、うちの班の娘はちっとも料理が出来ない、多分やる気がない。いちゃいちゃ組が灰汁抜きしただけの生蓮根を吐き出しているあたしに向かって、ごめんね? と言う。疑問系じゃ謝ってる誠意は見えないけど、みんなこんなもん。
なんでだろうね、料理って楽しいじゃん、理科の実験みたいで。でも確かに、好きな男にでも作ってやるんじゃなかったら、バカバカしいのかも、みんなで同じもの作って食べるのって。ハンバーグとかオムライスとか食べたいものならまだしも、春菊とか蓮根とかなんて。
あたしの身体がどっか敏感とか、頭痛持ちだったら良かったのにって思う、よくおじいちゃんおばあちゃんが雨降る前に膝だの腰だのが痛いって言うみたいに。そしたらあたしにも雨の気配が誰より早く察知できるのに。天気予報信じてるしかできないって切ない、他人任せみたいな、歯がゆい感じ。雨が降ったらタカちゃんの家に行くんだ、路地裏のアパート、きっとつまんなそうにテレビ見てたりする。どうせ千里の「空いてる?」は、処女売りに行かない? とかそういう類のもので、あたしは毎回断ってるけどちょっとしたのなら時々引き受けてる。千里と一緒ならって。カラオケ行ったり、お茶したり。知らない人の彼女の振りしたり。お金持ってる人の考えることってよく分かんない、あたしは千里の言う「バイト」を手伝うたびに、結局お金の力だけを信じてる人って所詮それまでだよな、とか思うだけなのに。まあ、そんなんで貰ったお金で、あたしはタカちゃんにお寿司をご馳走してあげられたりするんだけど。
雨が降らないかな、天気がものすっごく悪くならないかな、タカちゃんがアパートにいるように。いられるように。
「春菊を茹でる時は、茎の方からお湯に入れるんですよ。お水のうちに入れたら駄目よ、お水が沸騰してから、茎からですよ」
おばあちゃん先生がやっと質問攻めから解き放たれて声を張り上げた。んなの教科書見れば載ってんじゃん、と、教科書なんか持ってきてない千里が言うから笑ってしまう。
タカちゃんが春菊の和え物とか蓮根のキンピラとか好きなんだったら作ってあげてもいいけどな。
「咲最近付き合い悪いー、私とも遊べよー」
千里が文句を言う。私とも、って、いつもあんたと遊ぶときは別の誰かがいるじゃん、お金がらみで男ばっかの連れが。それに時代は中学生だよ、小学生だよ、そう言ったら彼女はにこーっと笑って、だからこれからおっきくなったらますます私達売れなくなるんだよー、だって。なるほど。納得してていいのかあたし?
「あー、クレープ食べたいって感じ?」
「んじゃ食いに行こうよー」
「でもあたし、あんましお金ないよ」
この前タカちゃんに寿司奢ってピザも食べたし。それにここのところいろいろ散財したし。マンガ買ったでしょー、アイプチ買ったでしょー、グロス買ったでしょー、ピアス買ったでしょー、服買ったでしょー。
「いい、いい、お財布連れてくから!」
「うっわ、気前いーい! っていうの、それ?」
膳は急げでもう行こうよ、と千里があたしのエプロンの紐を引っ張った。サボりだサボり、遊びに行きたい時が吉日、善は急げ。分かりやすい千里の思考回路、あたしは嫌いじゃない。
「せんせーい、お腹痛いから保健室行ってきますー」
「あたし、えっと、森泉さんの付き添いですー」
一瞬千里の苗字を忘れててやばかった。
手を引っ張られてどっちが病人役なんだろうって分かんなくなりながら調理室を出る。ちっちゃな悪いことをするとすごく笑いたくなる。きゃあきゃあと。誰かと一緒に。千里は制服のポケットから綺麗なスモーキーピンクの携帯を取り出すと、さっそく電話をかけた。もしもしチリだけどねぇ、と語尾を甘ったるく伸ばして電話をする。友達も一緒だけど遊んで欲しいな、なんて、ハートマークが見えそうな甘えっぷりだ。
「なんでそんなに金蔓知ってるの?」
「え、彼氏が紹介してくれるから」
「援交斡旋? 彼氏?」
こういう可愛い彼女に売春させてる男ってのもどうなんだろう、不甲斐ないの? 大物なの?
「格好良いよー、今度紹介してあげたいけど、でも駄目、もったいなくて誰にも見せてあげたくないー」
「超ラブラブ?」
「うーうん、クールだよ、私がべた惚れ」
「いい男なんだ」
あったりまえじゃん、と胸を張る千里は可愛い。さらさらの茶色い髪が肩のところで揺れて、いかにも青春、って感じがする。