プロローグ 「勇者」
――勇者とは、人々に希望を与える役職の名前だ。
暗い夜を怖がる子どもに、大人たちは勇者の物語を聞かせる。
勇者様は強く、決して負けない。悪い魔物や魔王を倒し、泣いている人を助けてくれる。
それは絵本の中の英雄であり、教会の壁画に描かれる奇跡であり、旅の吟遊詩人が竪琴に乗せて歌う英雄譚だった。
けれど同時に、人々が平和な明日を信じるための寄る辺でもあった。
魔物に畑を荒らされた農夫は、勇者様が来てくださればと呟く。
村を追われた女は、勇者様ならきっと、と幼い子の手を握る。
仲間を失った兵士は、勇者様が戦っているのだから俺たちも逃げられないと、血の滲む手で剣を握り直す。
誰もが信じている。
誰もが待っている。
誰もがその心が折れないと知っている。
――勇者とは、光だった。
たとえ怖くても前へ進み、痛くても剣を握り、苦しくても守るべき人々にそれを見せない。
倒れても立ち上がり、傷ついても諦めず、絶望の中で誰よりも強く希望を叫ぶ。
そして人々は、勇者を呼ぶ。
ありがとう、勇者様。
あなたのおかげで助かりました。
あなたがいてくれてよかった。
あなたなら、きっと世界を救ってくださる。
その言葉に、嘘はない。
救われた者たちは、本当に救われている。
家を焼かれずに済んだ者がいる。
子を失わずに済んだ親がいる。
明日も畑を耕せる老人がいる。
もう一度笑うことを許された子どもがいる。
その存在が、誰かの人生を繋ぐ。
その剣が、誰かの未来を守る。
その旅が、世界を明るく照らす希望となる。
――勇者とは素晴らしいもの。
――勇者とは尊いもの。
――勇者とは、選ばれた者に与えられる祝福だ。
誰にとっても、勇者は勇者だった。
どんな名前で、どんな人で、どんなことを大事にしているのか。
そんなことを知らなくても、ただ、勇者様と呼べばいい。
――少年の名は、ユアン。
取り立てて貧しいわけでも、裕福なわけでもない村に生まれた、どこにでもいる平凡な少年だった。
強い正義感があったわけではない。
世界を救いたいという大それた夢があったわけでもない。
絵本の勇者に憧れたことくらいはあったけれど、それは多くの子どもが一度は抱く、ありふれた憧れに過ぎなかった。
本当なら、村で生きて、村で老いて、村で死ぬはずだった。
畑を手伝い、収穫祭で少し浮かれて、いつか誰かと家族になって、なんでもない毎日を積み重ねていくはずだった。
けれど、そうはならなかった。
ある日、ユアンはひとつのクエストを受けた。
それは少し危険で、少し面倒で、けれど終われば日常に帰れるはずの、ただの依頼だった。
少なくとも、ユアンはそう思っていた。
――《勇者クエスト》を受注しました。
その言葉が、ユアンの人生を変えた。
村人だった少年は、勇者になった。
名前で呼ばれていた少年は、勇者と呼ばれるようになった。
助けられる側だった少年は、勇者として助ける側に立たされた。
勇者という役割が、人に希望を与えるためのものならば。
人々が勇者に、決して折れないことを願うのならば。
勇者が死ぬことを、世界は簡単には許してくれない。
――ユアンにとって勇者とは、逃げることの許されない呪いだった。




