1DK+Cの部屋
引っ越して二日目にそれに気づいた。
天井に靴跡みたいなのがついている。ひとつだけだけど、たぶん靴跡だと思う。泥道を歩いたあと玄関ポーチを踏んだ翌日みたいに、黄土色に乾いた泥が靴底模様にこびりついている。ついている天井の真下はまさに玄関の三和土。
なんであんなとこについてるんだろ。てのが第一印象で、第二印象は、ルームクリーニング入ってないの!?だった。
入っていたと思うんだけどな。見上げながら腕を組む。初日は気づかなかったから。天井に泥の靴跡なんて嫌な気持ちだったけど、放っておくしかなかった。女子ひとり、あんなところに手は届かない。学校卒業して初めての就職で、とにかく精神的にもくたくたの毎日だったから、そのうち忘れてしまった。
次に思い出したのは、入居後三ヶ月くらいしたころだった。実は昼間、私用スマホにアパートの管理会社から電話が入ったんだ。
「ご近隣から深夜の物音についてご意見がございまして、夜間の作業音はご配慮いただきますようお願いいたします」
深夜? 冗談じゃない。いつも帰ったら化粧も落とさずバタンキューだ。物音なんて立てるわけがない。
努めて抑えた口調でそんな説明をしながら脳が沸騰しかけたけど、不意に思い出したことがあった。
「待って、それ、うちじゃないですよ。私も夜中の騒音は覚えがあります。寝てたとき、ドタバタ音で起きちゃったことが何度か」
オペレーターはまだなんとかかんとか言ってたけど、一応私の主張も聞き取ってくれて、逆クレームみたいになっちゃったけど、事実を伝えることができた。
通話を切ってから気づいた。あの音って、そう言えばバタバタ走り回る音みたいだなって。天井の靴跡のことを思い出して、瞬間、首筋から背中にかけて鳥肌が立った。
なんとなく。なんとなくだけど、金曜日の夜、ベッドに入る前にスマホの録画アプリを起動させた。その日騒音が鳴るとは限らないけど。でも、うちから騒音がするってクレーム入れた人がいるのだ。なにか夜中にアパートの構造上の不具合が起こって音が鳴っているのかもしれないし。それなら管理会社に言って直してもらえばいいし。
スマホの画面を天井に向けた状態にして枕元に置く。いつもより寝つけなくて布団の中でごろごろしていたけど、それでも日頃の疲れのせいか、いつの間にか意識は遠のいていった。
翌朝、目があいてすぐにしたのはスマホの起動。録画はばっちりされていた。仰向けに寝転びながら、乾いた目でじっと黒い画面を見る。
暗闇の中、リビング兼寝室の天井が映っている。しばらくは布団のこすれる音がしていたけれどやがてそれもなくなって、寝息が聞こえてきた。なんか間抜けで恥ずかしい。ただそれだけの動画が延々と続く。
「やっぱりねー」
アプリをオフにしようとしたそのときだった。
……タバタバタバタバタ
音が聞こえる? 心臓がどくっと跳ねた。
寝息じゃない。布団でもない。最初は小さかった。気のせいかと思うくらい。でも時間が経つに連れて、それは大きくなっていった。
バタバタバタ
確かに聞こえる。画面の外で横たわっているであろう私は気がつきもせずに寝入っている。
バタバタバタ!
思わず取り落としたスマホがしたたか顔面にぶつかり、二重の意味で悲鳴を上げてしまう。
スピーカーからはまだ音が続いている。身を起こし拾い上げようとして、手が震えていることに気づく。
画面。画面はなんの変化もない。黒い天井。いや、待って、なんだか揺れてない?
バタバタバタ!
音に合わせて天井が微かに振動している。
バタバタバタ
心なしか音が小さくなった。
……バタバタバ……
音が消えていく。天井の動きも消えた。
「これってあれじゃない?」
私は乱れた前髪をかき上げ、努めて明るい声を出した。上の部屋の人の足音じゃない? なにかがドタバタ走り回るような音だもん。
「それか、ねずみとか?」
猫とか狸とか、動物のたぐいが天井裏に入っちゃったってやつかもね。最近のアパートにそんなのが入り込む構造上の余地があるのかは知らないけれど。きっとどちらかが答え。
そっと天井を見上げた。朝の白い光の中で見る天井はしんと静まり返って、一ミリの揺らぎさえなかった。
上の階の人じゃないって。昼間すぐさま入れた管理会社への苦情電話に関して、存外早く調査後の折り返しが来た。それによると、むしろこちらが床をドンドン突き上げるから眠れないっていうクレームが入っているって。以前来たクレームの主は「ご近隣」じゃなくて上階の住人だったみたい。上の人の言う床っていうのはつまり、うちにとっての天井だけど。
それでも食い下がって動物説をぶち上げてみたら、翌日の日曜日に作業員の人たちがやってきた。私は立ち会いながら身がすくむような感じがしていた。だって、だってさ、正直言うと昨日から怖いんだ。自分の部屋にいるのに怖い。寝るのが怖い。でも寝れないのはもっと怖い。上の人の物音じゃなかったら? 動物じゃなかったら? 私の部屋の天井裏を歩き回っているのは、なんなの?
二人組の作業員は、私の見る限りでは誠実に点検してくれたようだ。点検口を覗き、玄関からバスルームまで至るところの天井に長い柄の機械を当ててなにかを確認していた。
二時間後出た結論。
「これといった異状はないですね」
あくまで平静な口ぶりに、思わず私は目を閉じた。
「動物もいないようだし、破損箇所もないです」
そうですか、って答えるしかなかった。
彼らは心なしか気の毒そうな表情をしているような気がしたけれど、それ以上のことはなにも教えてくれなかった。三和土の上の足跡を拭いてもらえばよかったことに気づいたのは、彼らが玄関を出ていったあとだった。
点検は無料だった。
ひとり残されたアパートの部屋で、体に両腕を回している。住み始めて何ヵ月も経つのに、見渡せばなんだか妙に空々しく感じる。白い天井と壁、薄オレンジ色の巾木、玄関とのしきりの曇りガラスのドア、ミニキッチン、ソファ、本棚、ベッド、パソコンデスク。お気に入りでそろえたはずの家具でさえ、いまは気味が悪い。常時閉め切っているレースのカーテンの向こうには見知らぬ町が広がっている。仕事にかまけて散策もしていない。
音を立てないようにしながらソファに腰を下ろし、スマホを起動する。アパート名や町名で事件や事故の記事が出ていないか探したけれど見つからなかった。私の前に住んでいた人はどんな人なんだろう。その人は天井裏の異音に気づいていたのだろうか? 契約のとき、担当の人に一応過去のクレーム歴を調べてもらった。
「お伝えしないことにはなっているんですが、あの部屋については特にないですね」
にっこり笑って言った、感じのいい若い営業マンの顔を思い出す。もしあれが嘘なら人間不信だわ。
「前の人の引っ越した理由ってわかります?」
「それもお伝えできないですねー。なんだか急いで引っ越したようでしたけど、変なことではないですよ」
言葉通り、実際に部屋にはなにも怪しいことはないんだとしたら? 問題はアパートの建物そのものだったりして。天井裏を四つん這いで這い回る誰かを想像して、身震いがした。
その夜は眠れなかった。明日は平日だっていうのに。知らない町で、まだ誰も親しい人はいない。ひとりでいるしかなかった。部屋の全部の電気をつけて、パソコンで動画を流して、ベッドの上で両ひざを抱えてスマホでネットしていた。でも部屋のちょっとした隅が気になる。あの音がし始めるんじゃないかってびくびくする。ドアの曇りガラスの向こうに人影が見えるんじゃないかって、気が気じゃなかった。
芸能記事を見てるときだった。
ふぁさっ
首筋になにかが触れた。
生暖かくて、軽い感触で、幾筋にも分かれているもの。視界の隅に黒が入る。いやだ振り返りたくない振り返りたくない振り返りたくない。なのに頭はロボットみたいに勝手に動く。
長い黒髪が首筋にかかっていた。
そろりそろりと眼球を上向けていくと、そこにあるべき顔も体も見えない。ただ髪だけが天井から垂れ下がっていた。
どこから出たのかわからないくらいの大声がほとばしって、私は部屋から転げ出た。
真夜中の路地をアパートから逃げるように走った。やがて息が切れて走れなくなって、民家の塀にもたれかかる。アスファルトの粒が裸足の裏を刺している。
「マジで……無理!」
明日お父さんかお母さんに電話してもらって部屋出よう。そうしよう。
決心して少しだけ安心して、スマホを置き去りにしてきたことに気づいた。靴もないしお財布もない。こんなんじゃコンビニすら行けない。誰かに助けてほしいけれど、起こったことを説明して信じてもらえるわけがない。
戻らなきゃ。いやだけど。すごくいやだけど、せめてスマホさえあれば……。
目を閉じて、手を握りしめて息をつく。そして、もと来た道を戻った。
アパートが見えてくる。なんの変哲もない、四角い四階建ての建物。特におしゃれでもないし、かといってみすぼらしくもなく、社会人一年目の女が住むには手頃な見た目。でも、あの天井裏には四つん這いの誰かが這いずり回っていて、時折顔を覗かせては髪を垂らして住人の様子を覗き込んでいる。
いやいやいやそんなわけないじゃん。
私は自分の部屋の窓を確認する。電気はつけっぱなしだったから、薄いカーテンの向こうは白く透けて見える。うわあ、あんな感じになってたんだ。お金を惜しんで遮光カーテンにしなかったけれど、これは失敗だ。なんていうふうに見ているうちに、変なことに気がついた。
窓辺の明かりって一様じゃないでしょ。蛍光灯は部屋の天井についているから、窓の上側が一番明るくて下側に行くにつれて暗くなっていく。普通はそうだよね。アパートのほかの部屋でまだ灯りがついている窓はそんな感じだった。でも、うちは違った。窓の下が一番明るいの。デスクライトはないし、床近くには光源なんてない。にも関わらず下が一番明るい。ちょうどほかの部屋と逆さまに。
逆さま。
「あっ」
脳内で、唐突にすべてのピースがはまっていく。
玄関の上の靴跡。
垂れ下がる髪の毛。
天井でばたばた鳴る足音。四つん這いでそんな激しい音が出る? 上階の人は床が鳴っていると思っている。つまり、あれは二足歩行している音だ。
二足歩行? どこを? 天井を。天地逆転して。
「いる」のはアパート全体じゃない。やっぱり私の部屋だったんだ。
それは、私の部屋に逆さまに棲みついている。
朝になるまで部屋には入れなかった。朝日がじゅうぶん上がったころにダッシュで突入してスマホをつかみ上げて、実家に電話して迎えに来てもらった。裸足で髪振り乱してアパートをうかがう女なんて、通行人からすれば私のほうが心霊に見えたかもしれない。
いわくがどうとかなんだっていい。ただもう関わりたくない。
「逆さに歩くのは亡者だけだよ」
実家に帰って、家族に体験したことをまくし立ててたら、祖母がぽつりとそんなことを言った。昔からよく迷信を話してくれたけれど、なんだか今日はぞっとしてしまった。
それは逆さに暮らしている。だから昼間寝て夜起きる。夜寝ている私の上をそれは走り回って、私の様子を「見上げて」いたの?
翌週には一ヶ月分のお給料をはたいて引っ越し業者を呼んで、逃げるように部屋を引き払った。最後の段ボールが運び出されたあと、私は床に天地無用のシールを貼って玄関を出た。




