第六話 ベーカリーへの短い旅路
永山さんに誘われたベーカリーは、駅から徒歩十分と書いてあった。
スマホの地図を頼りに歩いていたはずなのに、気がつけば住宅街の中で立ち止まっていた。
「……完全に迷いましたね」
私がそう言うと、永山さんは申し訳なさそうに眉を下げた。
「すみません。俺、方向音痴で……地図アプリ見てると逆に混乱するタイプなんです」
「それ、見ない方がいい人ですね」
「そうなんですよ。だから基本、人について行くんです」
にこっと笑われて、私の方を見る。
「今日は田奈さんがナビ役ですね」
責任重大だな、と思いながら、私はもう一度スマホを確認した。
正解の道を選んだはずなのに、三分後にはまた同じ電柱の前に戻ってきた。
「……さっきもここ通りましたよね」
「通りましたね」
「ループしてます」
「ですね」
二人して顔を見合わせて、なぜか同時に笑ってしまった。
急ぐ用事でもない。
予約もしていない。
迷ったところで困るのは、空腹くらいだ。
「一回、勘で行ってみません?」
永山さんがそう言って、細い路地を指差した。
「勘って信用できます?」
「俺のは信用できないですけど、田奈さんのなら大丈夫そうな気がします」
根拠のない信頼だ。
でも否定するほどの理由もなくて、私はその路地に足を踏み入れた。
結果的に、その道は正解だった。
角を曲がった先に、木の看板と小さなショーウィンドウが見えた。
焼きたてのパンの匂いが、風に乗って流れてくる。
「着きました……」
「すごい。勘、当たりましたね」
「地図が仕事しただけです」
店内は思ったよりも狭くて、でも落ち着いた雰囲気だった。
棚に並んだパンはどれも小ぶりで、値札の横に手書きの説明が添えられている。
「全部おいしそうで迷いますね」
「永山さん、甘いのとしょっぱいの、どっち派ですか?」
「どっちもです。だから毎回、買いすぎて後悔します」
結局、私たちはトレーに乗りきらないほどのパンを選んでしまった。
店員さんに笑われながら紙袋を二つ受け取って、近くの小さな公園に移動した。
ベンチに座って紙袋を開けると、まだほんのり温かい。
「外で食べると、三割増しくらいでおいしく感じません?」
「わかります。家だと普通なのに、なぜか特別感ありますよね」
無言でパンをかじる時間が続いた。
気まずさはない。
でも、親密とも言い切れない。
ちょうどいい距離。
「田奈さん」
永山さんが、食べかけのパンを手にしたまま言った。
「今日、誘ってよかったです」
「それ、今言うんですか」
「はい。先に言っておこうと思って」
意味を聞き返す前に、永山さんは話題を変えた。
「この後、どうします? まだ時間ありますよね」
あります、と答えながら、私は時計を見た。
でも今日は、帰らなきゃいけない理由が特にない。
「少し、散歩しますか」
「いいですね」
パンの袋を抱えて立ち上がる。
特別なことは起きていない。
告白も、約束も、踏み込む言葉もない。
それでも、この一日はちゃんと形を持って残りそうだった。
家に帰ったら、今日買ったパンの匂いが、しばらく部屋に残るだろう。
それくらいでいい。
私は、そういう関係を壊したくないと思っていた。




