最終話 置いていかれなかったガラスの靴
噂が消えたのは、いつからだったかわからない。
気づけば名前を出されることもなくなって、矢向さんや栢山ちゃん達の何気ない会話の中から、私と永山さんの話題だけが抜け落ちていた。
仕事は、いつも通りだった。
忙しくて、淡々としていて、少しだけ息が詰まる。
閉店間際、棚卸しを終えた永山さんが顔を上げた。
「田奈さん」
呼ばれた声に、私は迷いなく振り返った。
特別な響きはない。
「今日──このあと時間あります?」
一瞬だけ、間があった。
誘いだとわかっても、もう胸はざわつかない。
そんな自分に少しだけ驚いたけど。それだけ。
「少しなら」
いつものように答えると、永山さんはホッとしたように笑った。
「じゃあ、駅前まで。新しくできた店があって──」
理由は、それだけだった。
歩く距離も、並び方も変わらない。
近づこうともしないし、離れようともしない。
話す内容は仕事のことが多かった。
新しいシフトや商品の売り上げ状況とか。
たとえ沈黙があっても、気まずくならない。
永山さんが途中で、ふと足を緩めた。そして隣を私をちらりと見る。
以前なら、ここで何か言っていたかもしれない。
距離を取る言葉を、無意識に探していたかもしれない。
でも今は、探していない。
「この感じ、変わらないですね」
まるで噛みしめるように言う永山さんに、私は思わず笑った。
「……はい。それで、いいです」
思わず素直に出た言葉に、永山さんは少しだけ目を細めた。
──ああ、良かった。
安心しているのは、私だけじゃない。そのことが、ちゃんと伝わってくる。
目当ての店に着いて、話題のドーナツを買って、それぞれ別の袋を手に持つ。
帰り道は、途中で分かれる。
「じゃあ、また次のシフトで」
「はい──また」
それだけで、十分だった。
背中を見送って、永山は思う。
──踏み込まなくても、壊れない関係がある。
田奈もまた、歩きながら思っていた。
──距離を測らなくても、保てる距離がある。
魔法は起きなかった。
でも、時間切れにもならなかった。
それが、この関係の答えだった。




