第十一話 止められる延焼
午後のピークが過ぎて、店内が少しだけ落ち着いた頃だった。
俺は伝票を手に売り場に出ていた。発注権限を持ったバイト達に通達することがあるから。
レジに入る時間が終わった田奈さんが、次のバイトに引き継ぎをしてから出てくるのを見て、俺は足を止めた。
声をかけるには、ちょうどいい距離だ。
いつもなら、何も考えずに踏み出している距離。
「田奈さ──」
呼びかけかけて、言葉が喉で詰まった。
少し前から続いている、あの半歩分の線が、はっきりと見えた気がしたから。
急ぎの業務連絡でもない。
雑談でもない。
理由のない一言を投げるには、今は近すぎるのではないか。
俺が迷っている間に、背後から低い声がした。
「永山」
振り返ると、店長が同じ伝票を片手に立っていた。
「それは俺が行く」
言い切るでもなく、命令でもない。
ただ、自然に仕事を分ける声色だった。
俺は静かに頷いて、一歩引いた。
踏み出しかけた足が、自然と元の位置に戻る。
店長はそのまま田奈さんを引き留め、必要な指示だけを伝え、何事もなかったように去っていった。
その様子を、見ていないスタッフはいなかった。
「……最近さぁ」
休憩室で、矢向さんが小さく声を落とす。
「永山くんと田奈ちゃん、なんか距離あるわよね?」
バイトの栢山さんが小さく何度も頷いた。
「前はもっと話してましたよね?」
「喧嘩かしら?」
言葉は軽い。
しかし、好奇心はよく燃えやすい。
そこへ店長がコーヒーを片手に入ってきた。
「はいはい、仕事の話以外はほどほどにしてねー」
いつも通りの調子で言いながら、その場の空気を見渡す。
「二人とも忙しい時間帯ズラしてるだけだろ。フルタイム同士だし、噛み合わない日もあるよ」
「えー? そうなんですか?」
「そういうもんよ。俺も昔は奥さんと同じ職場だったけど話す暇なかったし」
さらっとした嘘を混ぜて、話題を軽くする。
誰も深く突っ込めない空気を作り出すのは、店長の得意技だ。
「はい、休憩終わり。仕事に戻った戻ったー」
その一言で、噂はそこまで。
好奇心の火も立ち消えた。
バックヤードから売り場までの通路の途中で、俺は小さく息を吐いた。
「……助かりました」
「別に」
店長は肩をすくめた。
「面倒な火がつく前に消しただけだ」
「俺、さっき──」
言いかけて、俺は開いた口を閉じた。
踏み出しかけたことを説明する言葉が、見つからない。
「わかってるならいいよ。お前も休憩入ってこい」
店長はそれだけ言って、先に歩き出す。
俺は、その背中を見送りながら思った。
一歩出ていたら、何かが変わっていたかもしれない。良くも、悪くも。
でも今は、この変わらないままでいるべきだと言われているようだ。
それが優しさなのか、臆病なのか、まだ判断する時間は、残っているはずだ。
すくなくとも、俺はそう思いたい。




