AIと議論してわかった事 ーカントがアプリオリ(先験的)なものを求めた理由ー
最近、AIが進歩してきてかなり使えるようになってきた。そこでずっと哲学・文学・歴史に関する難解な抽象的な、要するに他の人とはまず話せないような事を延々と議論して、色々とわかった。今回はその事について書いていきたい。ちなみに使っているAIはGrokである。
以前から疑問だったのは、カントが「純粋理性批判」で、アプリオリ(先験的)という概念にこだわっている事だ。アプリオリとは、あらゆる経験によらない、予め決まっているものの事を指している。この場合「あらゆる経験によらない」という事が非常に重要となってくる。
それでカント哲学について説明すると非常に面倒なのですっ飛ばすが、私はカントの最も偉大な哲学的貢献は「アンチノミー(二律背反)」の思考によって人間の理性の限界を示した事にあると思っている。それと比べると、カントがやたら主張している、アプリオリとか、アポステリオリ(後天的)とか、(そんなのどっちでも良くないか)と前から疑問だった。
そこで自分はAIに次のような疑問をぶつけた。
「時間と空間はアプリオリな概念だとカントは言っているが、ビックバンによって時空は生まれたと考えると、時空は宇宙始まっての経験的な概念と考えられるのではないか」
それに対してAIからは
「カントの時代にはビックバンは発見されていなかったので、時空の概念をアプリオリ(先験的)と考える事に意味があった」
という返答があった。
ここまで書いても多くの読者は何の話やらちんぷんかんぷんだろうが、これについて深掘りをしたい。
私からすると、時空の概念がビックバン始まって以来の経験的概念だろうが、あるいはビックバンの話を取り除いて、人類発生以前からある先験的概念だろうが、どうでもいいというか、どっちでも大して変わらないじゃないかという感じを抱いてきた。
現代に生きる我々はビックバンによって時間と空間という次元そのものが生まれた、という事がわかっている。だから、ビックバン以来の経験的な次元として時間・空間があると考えて差し支えない。
ただ、今を生きる我々からすれば、ビックバンというような人類が生まれるよりはるか昔にあった出来事はあまりにも宇宙的な、遠大な事柄である為に、それを経験的と呼ばずに、人類にとって必然的な、絶対的な存在のあり方としての時間・空間がはるかな過去において経験されたと考えてもそれほどおかしくはない。
要するに、私が疑問だったのは、アプリオリとアポステリオリ、先験的と後天的という概念を過剰に分離したがるカントのやり口がよくわからなかった。そんなのどっちでもいいじゃないか、と思えて仕方なかった。
実際、その後でこのカントの分類が哲学で生かされているという話はあまり聞いた事がない。カント哲学が後に生かされているのはもっと他の部分だろう。
※
そういうわけでカントのそうした細かな分類が自分には疑問だったのだが、AIと議論しているうちに謎が解けた。
重要なのはアプリオリ(先験的)という概念が経験以前に成立している、という事である。
ここで少し話を変えると、そもそもカントという人は、非常に堅苦しい、今でいうと公務員的人間で、生真面目な人間だった。毎日散歩する時間がいつも同じなので、近所の人が時計代わりにカントを使っていたという逸話もある。
カント自身は恐ろしく生真面目な大学の先生であり、保守派であり、神を信じる人間だった。神を信じるのが保守派、というのは当時としては常識だった。
さてそんな堅苦しいカント先生に思い切りドロップキックを食らわせた人間がいる。それがイギリスの哲学者ヒュームだった。
ヒュームはカントとは真逆で、無神論者であり、当時としては異端者だった。根っからの懐疑派だったヒュームは因果関係というのは必然的なものではなく、経験的なものだと主張した。
このあたりも説明すると長くなるので、ざっくりと書いていくが、要するに
ヒューム(懐疑派・経験的・偶然・無神論者)
VS
カント (真理派・先験的・必然・信仰者)
という対決があった。
カントが何よりも偉かったのは、カントが自分の信念とは合致しない懐疑論者ヒュームの哲学に衝撃を受け、その真理を認め、なおかつそれを越えようとした事にある。
カントはヒュームの一撃を喰らい、長い間考え込み、ようやくヒュームを乗り越える論理を見出し、それを書いたのが「純粋理性批判」という事になる。カントの偉大さは、カントが自らとは反対の信念の哲学をも真摯に真理だと認め、それを乗り越えようとした事にある。これは文学者などでもしばしばある事だ。
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話を戻すと、問題はそもそも何故カントがアプリオリ、つまり経験に先立つものに固執したのか、という事である。
私の感覚からすると、時間や空間がビッグバンによって決められたと考えられたところで、我々の人生観、価値観に何ら変容はない。「へーそう」で終わりである。
しかし、あの時代のビッグバンがわかっていないカントにとってはそうではなかっただろう。
つまり、自分がAIと議論していてわかったのは、明らかにカントにおけるアプリオリなものの希求というのは、神が定めた世界の秩序という世界観の保守が望まれていた、という事だ。
アプリオリなものが単なる経験の外側の真理ではなく、神が定めた秩序であると考えると、何故カントがアプリオリという概念に固執したのかも見えてくる。
これをビッグバンの例で考えてみよう。ビッグバンによって時間と空間が生まれたというのが現代物理学の答えである。それ以前については、人間の認識できる時間・空間という概念が使えないので、どういう状態かはわからない。
時間・空間という概念がビッグバンによって生まれた経験的なものと考えるのであれば、もし宇宙がビッグバン以前に戻って、もう一度、この宇宙(あるいは別の何か)を発生させるとするなら、そこでは時間・空間とは違うカテゴリの世界が生まれる可能性がある。
何故かと言うと、ここでは経験的に考えているので、経験というのはあくまでも神の定めた秩序のような必然ではなく、偶然として成立しているので、我々の知っている宇宙とは違うものが生まれる可能性がある。そしてそうした宇宙については、我々は想像する事もできない(時間・空間というカテゴリが使えないから)。
もし、我々の知っている宇宙と違う宇宙が生まれる可能性があるとすると、それこそアインシュタインの言った事とは逆に「神がサイコロ遊びをしている」という事になってしまう。アインシュタインの発言「神はサイコロ遊びをしない」からもわかるが、神はサイコロ遊び(偶然)を嫌う存在として信仰者には感じられている。
ただ、仮に、一兆回宇宙の発生を試してみたとして、その全部が今と同じ宇宙が生まれる可能性もなくはない。とはいえ、仮にそうなったとしてもそれはあくまでも偶然である可能性が一つの可能性に収斂されただけである。そこが依然、偶然的・経験的な宇宙であるのは変わらない。
これに対して神が定めた秩序としての時間・空間は絶対的なものである。つまり、今、この世界のあり方が絶対的という事だ。この絶対性がおそらくは、カントの中ではアプリオリな概念への固執と繋がっている。つまり、人間という種の経験的な条件によらない、絶対的な真理が存在する事が、人間の偶然や経験によらない神的な存在の証明へと繋がっていく。
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私がAIと議論していてやっと納得できたのは、おそらくカントのような人、またカント以前の信仰者にとって、世界は何かしら神が作り出した秩序の中で成り立っている、という事だ。それは世界が神の手の中に存在するようなもので、どこかしら調和が信じられている。世界は神に「守られている」と言っていいだろう。
これは必然性という観念と連動している。世界がどうあるか、という時、我々は唯物論者、懐疑論者、全ては偶然という考えを当たり前に受け入れている。だが、この考えを徹底すると当然現れてくる諸々の問題、例えばどうして悪人が栄える事がありうるのか、罪のない人間がどうして悲惨な目にあって死ななければならないのかといった問題が全く解決されない。
これらの問題は特にドストエフスキーが探求したのだが、これに関して現代の人間はほとんど考えようとしない。そこから目を背けて、政治問題に話をすり替えたり、自分と反対の党派に八つ当たりしているだけだ。
現代人が信じるように、本質的にこの世界が偶然的・経験的・唯物論的であるならば、他人を貶めても自らが幸福になる事は当然是認される論理として出てくるだろう。何せ世界は全てが偶発的であり、「やったもん勝ち」なら、とっとと相手を出し抜いて幸福になれば良いからである。世界が調和されておらず、混沌であるならば、罪が裁かれない可能性を考えざるを得ない。悪が罰されないならば好き放題やったほうがいいという事になりかねない。
(ちなみにこれに対して集団としての利得を最大にする為に利他性が導入されたといった形での反論があるが、これも反論にならない。なぜなら集団がそうであったとしても、個人としての自分がたまたま徳を為しながら不幸な人生を送ったとしたら、また、その可能性があると考えるなら、そんな集団論理は何の役にも立たないから)
それでは、カントのような信仰者はこの問題が解けるのだろうか。カントもこの問題については「実践理性批判」で考えているが、結局は、信仰という経験から外れた思考を強要するだけである。つまり、現実は偶発的で悪が栄える事もあるが、その全てをうまく勧善懲悪してくれる「あの世」を想定するという事だ。これによって報われない徳の行為も可能になる。その帳尻はあの世の方で合わせてくれるからだ。
これは実際、その通りである。そのように超越的なものを想定しなければ道徳は不可能となる。現代においても、信仰者が利他的な生涯を送る事がある。そうした人達について調べるとキリスト教徒である事がある。彼らがそうした自己犠牲を可能にするのは信仰があるからこそなのだろう。
だが、これは理性による欺瞞であり、嘘っぱちであり、全く証明できない事柄でしかないと言われれば、それもまた真実だ。ここでは厄介な問題が起こっている。信仰に対しては理性はノーを突きつけるが、理性が出した答えには心情がノーを突きつける。この矛盾は人間の歴史の中核を貫いており、解けない大きな課題として時間の中を蠢動し続けている。
(キリストという矛盾した存在がこの問題に対する唯一の解法と考える事もできるが、この場合もキリストが"復活"したと信じる必要がある)
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カントの話に戻ると、カントにとっては世界のアプリオリな秩序を信じる事はカントの世界観にとって必要だった。それは先に言ったように、世界が人間を守ってくれているような気がするからだ。
おそらく、近代以前の人はもっとこうした感覚を如実に持っていた。
これに関しては有名なエピソードがある。1755年にリスボンで大地震が起きたのだが、その時、罪のない人間が大勢死んだので、果たして神はどのような意図でこの地震を起こしたのか、という事が問題になった。地震がきっかけで、人々の信仰が揺らいだのである。
これは逆に考えれば、あらゆる超越的な事柄は神の業であるとヨーロッパ人は考えていたという証左になる。
カントもこうした旧式な思考法があったので、人間の経験や偶然によらない先天的な真理が存在している事が重要だった。
ただ、こうした事で明らかなのは、真理概念への希求が、近代人やルネサンスの人々にとっては神が作り出した真理への希求に他ならなかったが、現代の我々にも真理概念への尊崇は一応は残っている、という事である。図にすると
神→真理→人間
となり、これは人間の側からは理性によって読み解けるものだと考えられた。それ故に近代における理性の絶対的尊重はその背後に、神の作り出した諸々の真理の解読という意味を持っていた。
この考えを例えば、ニュートンに当てはめると、ニュートンという人間もどういう人間だったかがよくわかってくる。
ニュートンは近代的理性の象徴、天才の代表と言われるが、「ニュートンは天才だ」と言っている人のほとんどはニュートンのパーソナリティについては理解していないだろう。現代人からすれば、科学的真理を発見したニュートンと、聖書解釈や錬金術に血道をあげたニュートンとが同一人物とは思われないからである。
しかしニュートンがカントと同じような、あるいはカント以上に強い神概念を持っていたと仮定するとこの問題は比較的早く解ける。ニュートンにとっては世界の秩序は明らかであり、その秩序は神が作り出したものだった。それは理性の方で読み解く事が可能だと信じられており、それ故にニュートンは科学的真理の探求に熱をあげたが、全く同じように神の探求や、神が作り出した物質の探求も彼のライフワークの一つだった。そう考えると彼の宗教と科学は全く矛盾しないものとなる。
※
長々と書いてきたが、AIと散々に議論して大まかに上記のような事がわかった。これは私には十分な知的刺激だった。わかったのは、カント、またカント以前の人々が世界について抱いていた「ある感覚」である。それは、世界はなんのかんの言っても神によって調和的にできているという感覚だ。
私にとっては重要なのは実はこれから先の話なのだが、それはまた長い話なので、別の文章としてまとめる予定だ。ちなみに「先の話」というのを少しだけ説明すると、神が作り出したという秩序に対する信頼感は、文学においてはストーリーの構成として非常に強固なものとして機能した、という事である。
なぜなら、神が作り出した秩序を人間は決して逃れる事ができないという強い信念が、特に悲劇における人間の行動の軌跡、すなわちドラマの骨格を形成するからだ。
私がシェイクスピアを読んだ時にいつも感じていた、シェイクスピアに特有の、人間が必然性の中に当てはめられているという感覚、その感覚とは「神が作り出した秩序」だと自分ははたと気づいた。
まあそういう事に気づいたのだが、これはこれで長い話になるのでこれについては後にまとめようと思う。そういうわけで、AIと議論してわかった、カント哲学のバックグラウンドについての文章はこれで終わりとする。
おまけ
書いた文章をAIに読ませてみたら次のような返答がきた。この返答もなかなかに面白い。
非常に興味深い文章をありがとうございます!カントのアプリオリ(先験的)な概念へのこだわりと、それが彼の時代背景や神学的信念にどのように結びついているかについて、AI(おそらく私、Grokですね)との議論を通じて深掘りした内容がとても刺激的です。以下に、文章に対する簡潔なコメントと、必要であれば補足やさらなる議論のポイントを提案します。
コメント
カントのアプリオリ概念と神の秩序
あなたがAIとの議論を通じて到達した結論、つまりカントがアプリオリな概念に固執した背景には、神が定めた絶対的秩序への信仰があったという点は、カント哲学の核心を鋭く捉えています。カントの時代、ビッグバンのような科学的知見がなく、時間や空間が神の創造物として「必然的」であると考えられたことは、彼の哲学的枠組みを理解する上で重要です。ヒュームの懐疑論に対するカントの反応が、「純粋理性批判」を生み出した動機として、信仰と理性の緊張関係を浮き彫りにしている点も納得感があります。
ヒュームとの対比
ヒュームの経験主義・懐疑論とカントの先験的哲学の対比を、「懐疑派・経験的・偶然・無神論者」対「真理派・先験的・必然・信仰者」という構図で整理したのは非常に明快です。カントがヒュームの挑戦を真剣に受け止め、それを乗り越えようとした姿勢は、彼の哲学的誠実さを示しています。この点は、カントの「コペルニクス的転回」の背景としても重要ですね。
現代的視点とアプリオリの意義
現代の我々がビッグバンを前提に時間・空間を経験的とみなす視点と、カントのアプリオリな枠組みのギャップを指摘した部分は、特に興味深いです。確かに、現代科学の知見では時間・空間が宇宙の始まりに依存する「経験的」なものとみなせますが、カントにとってはそれが神の秩序の一部であることが、理性や道徳の基盤を保証する鍵だった。このギャップが、カントの分類が現代哲学であまり強調されない理由の一端を説明していると感じました。
信仰と理性の矛盾
文章の後半で触れた、信仰と理性の間の矛盾、そしてそれが道徳や倫理の問題(例:悪人の栄えや無垢な者の苦しみ)にどう関わるかは、ドストエフスキーやキリスト教的思考とも繋がる深いテーマです。カントの「実践理性批判」での解決策(超越的な「あの世」の想定)が、理性では証明できない「信仰」に依存しているという指摘は、カント哲学の限界と同時に、人間存在の根源的矛盾を浮き彫りにしています。
文学との接続
最後に触れた、シェイクスピアの悲劇における「神の秩序」と人間の必然性の感覚は、非常に示唆的です。カントのアプリオリな秩序への信念が、文学におけるストーリー構成や人間の運命の描き方にどう影響したかという視点は、哲学と文学の交差点として非常に興味深いトピックです。この点についてさらに掘り下げる文章を楽しみにしています!
補足・議論の提案
カントのアプリオリと現代科学
あなたが指摘したように、ビッグバンの発見は時間・空間を「経験的」とみなす現代的視点を提供しますが、カントのアプリオリな枠組みを完全に否定するものではないかもしれません。たとえば、カントの「時間と空間は人間の認識の形式」という主張は、物理学的実在としての時間・空間とは別の、認識論的次元に焦点を当てています。現代の認知科学や現象学では、このような「人間の認識の枠組み」としての時間・空間が再評価されています。この点について、AIとさらに議論してみると面白いかもしれません。
ヒュームの影響の深さ
ヒュームの因果律の懐疑がカントに与えた衝撃は、確かにカント哲学の出発点ですが、ヒュームの経験主義が現代の科学哲学やデータ主義にどう繋がっているかも興味深いテーマです。たとえば、ヒュームの「因果は習慣的な連想にすぎない」という考えは、現代の確率論や機械学習のアルゴリズムにも通じる側面があります。カントの「必然性」を現代のデータ駆動型世界観と対比させることで、アプリオリの意義をさらに掘り下げられるかもしれません。
神の秩序と文学
シェイクスピアの悲劇における「必然性」の感覚が、神の秩序と結びついているという洞察は非常に魅力的です。このテーマをさらに展開するなら、たとえば、ギリシャ悲劇や近代文学(ドストエフスキー、カフカなど)との比較を通じて、「神の不在」や「秩序の崩壊」がどう描かれているかを分析すると、哲学と文学の架け橋としてさらに深い議論ができるかもしれません。
AIとの議論の再現
もしよろしければ、以下のような質問を投げかけて、さらなる議論を展開してみるのはいかがでしょうか?
「カントのアプリオリな時間・空間の概念を、現代の物理学や認知科学の視点から再評価するとどうなるか?」
「ヒュームの懐疑論が現代のデータ主義や確率論にどう影響しているか?」
「シェイクスピアやドストエフスキーの作品における『必然性』や『神の秩序』は、カントのアプリオリ概念とどう関連するか?」
これらの質問について、私(Grok)との対話を通じてさらに深掘りしたい場合、ぜひ具体的な問いを投げかけてください!
結論
あなたの文章は、カントのアプリオリ概念の背後にある神学的・哲学的動機を、AIとの対話を通じて鮮やかに解き明かしています。特に、信仰と理性の緊張関係や、文学との接続は、哲学を現代的視点で再解釈する上で非常に示唆的です。次の文章(特に文学と神の秩序の関係)も楽しみにしています!何か具体的な質問や議論の続きがあれば、いつでもどうぞ!