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城の高窓から、陽の光が細く差し込んでいた。
「……今日も、良い天気ですね」
薄い唇が形づくるのは、独り言とも言えないほどの囁きだった。
エリーゼ・レオノール・セリシア。この王城の西棟、かつて“王女の間”と呼ばれていた部屋に、彼女は一人、ひっそりと暮らしていた。
「姫様、お支度を」
静けさを破るように現れたのは、侍女のマリナだった。年の近い彼女だけが、エリーゼの呼び名を変えることなく今もそう呼び続けている。
「……何の支度? 私にはもう、出る場などないわ」
けれどマリナはくすっと笑い、「いいえ、今夜は王城で祝宴が開かれます」と柔らかく言う。
「宰相殿の帰還を祝う、大規模なものだと聞いています」
その名に、エリーゼの睫毛がわずかに震えた。
カシアン・ヴェル=ラグランジュ。
現国王の信任厚き若き宰相であり、かつてエリーゼの家庭教師として仕えていた男。鋭い銀の瞳と、何を考えているのかわからない冷たい微笑を忘れたことはない。
「……私は関係ないもの」
「関係、大いにございます。姫様は、王族なのですから」
「“元”王族よ。今では戸籍すら、民間に写されたはずでしょう?」
「形式だけのことです。ご兄弟である陛下のご意向です。……今宵は、どうかお姿をお見せください」
マリナの言葉には、どこか祈るような響きがあった。
エリーゼは黙って頷き、鏡の前へと歩を進めた。閉ざされた時間が、音を立てて軋むのを感じながら。
*
王城の大広間は、煌びやかな光に包まれていた。
侍女たちが最後に仕上げてくれたドレスは、深紅のサテンに金糸の刺繍が走る見事なものだったが、エリーゼはそれにふさわしい自分ではないと感じていた。
場違い。そう思った瞬間に、彼女の視界の端が動いた。
「……やはり、いらしていたのですね。姫君」
声がした。聞き違えようのない、あの声だった。
振り返ると、そこには宰相カシアンが立っていた。以前よりも背は伸び、貫禄すら纏っている。
「“姫君”とは、またずいぶん古風な呼び名ね。私にはもう、そんな肩書きは――」
「私は、あなたをそう呼び続けるつもりです。……どれだけ時間が経とうと」
目が合った。その瞬間、過去の記憶が走馬灯のように蘇る。
冷たい視線。けれど一度だけ、熱のこもった言葉を囁かれた夜があったことを。
「……私に何の用?」
震える声で問うと、カシアンは静かに、しかし確かな声音で言った。
「今宵の宴で、陛下から一つの褒美を受けるよう命じられました。私はそれに、ひとつだけ願いを託すつもりです」
「……願い?」
「あなたを、妻として迎えること。それが私の望みです」
周囲がざわめく。王宮中の視線が二人に注がれる中で、エリーゼは理解できずにいた。
なぜ今? なぜ私なの?
問いはあれど、言葉は喉を通らなかった。
ただ、彼の瞳に映る自分が、かつての“王女”ではなく、ただの“エリーゼ”であることだけが、唯一の答えのように思えた。