クレマチスの庭園にて
(あれほど忠告されていたのに。なぜ私は離れに寄っていた? たとえ恩人の娘であったとしても……)
アウラとレオナールの後ろ姿を思い出し、(嫌だ)という思いが突き上がってくる。アウラだけは誰にも渡せない。
気づけば人混みをかき分けて庭園へ向かっていた。
舞踏会が始まったばかりのせいか、庭園には人がいない。
ジョシュアは周りを見渡して遊歩道をぽつぽつと照らす篝火の灯りを頼りに、周囲を見まわしながら進んだ。
どこからか話し声が聞こえる。
(アウラ……!?)
*
早春の夜、ひんやりとした空気の中、クレマチスの花が満開のバーゴラの下で二人は向かい合っていた。
「その件はお断りしたはずですわ」
「ははっ、つれないね。この国が信仰している宗教では確かに離婚は認められていないけれど、その代わり恋愛を楽しんでいる者は多数いる」
「だから愛妾になれと?」
「恋人だ。俺は独身主義だからね」
「駄目だ!」
アウラとレオナールが目を見開いてこちらを向いた。
「旦那さま……?」
「……駄目です。妻を、連れて行かないでください」
レオナールはふっと笑ってアウラを後ろからふわりと抱いた。
「!」
「殿下……」
アウラは咎めるように静かに腕を解こうとするが、レオナールはびくともしない。
「ほら、俺の方がお似合いだと思わないか?」
眩いほどの豪華な金髪と緑の瞳のレオナールと、銀色の髪に水色の瞳のアウラ。アウラの纏うシャンパンゴールドのドレスの色はレオナールの髪の色のようで、ため息が出るように美しい二人。
アウラに自分ではない男が触れているのを見て、じりじりと胸が焦がされるように痛む。
ジョシュアは願い出た。
「アウラは私の愛する妻です。返してください……!」
アウラが目を見開いて深く頭を下げるジョシュアを見た。
「はあ、みっともないね。最初からお前がアウラを大切にしていればそんな風に頭を下げることもなかったのに」
「面目ございません。私の弱さゆえアウラを悲しませたのは事実です。どれだけ謝っても足りません。けれど……アウラは私の全てなのです……!」
沈黙が流れる。ジョシュアを見据えたままレオナールの腕の中にいるアウラを見てジョシュアは立っていられなくなった。
アウラが扇で軽くレオナールの腕を叩く。
「お戯れはここまでにいたしましょう、殿下」
「ふふっ、ひどいな」
レオナールはそう言いつつ、さらにふわりとアウラを包み込んだ。
「殿下……! どうかアウラを」
切羽詰まったジョシュアを一瞥してレオナールは笑った。
「確かにこの男は優しいのだろう。それはもう哀れなほどに。だが、かの娘に向ける優しさはアウラを蔑ろにしてまで必要なものだったのか?」
ジョシュアは目を見開き、項垂れた。
罪悪感。ジーナとその父親に対する罪悪感。そして日を追うごとに膨らむアウラに対する罪悪感。それから目を逸らして逃げる弱い自分。
いや、違う。自己満足だったのだ。
いずれにせよ犯罪者の娘の行く末など悲惨なものに決まっている。だが『命の恩人の娘として気にかけている』と示したかったのだ。結果、ジーナはジョシュアの心情を利用しようとし、アウラを悲しませた。
「殿下、それでも私の帰る場所はラスベリン伯爵家なのですよ」
アウラがそう言うと、レオナールはようやくアウラを解放した。
アウラはジョシュアに向き直り、静かに声をかけた。
「私は待っていたのですよ。あなたが話してくれるのを。……私は、それほど信頼できませんか?」
***
王宮で会ったジョシュアの部下の文官は、ジョシュアとともにベラード子爵領に監査に行った者だった。
文官は「伯爵は伯爵夫人に心配をおかけしたくなかったのだと思います」と前置きをして、言葉を選びながらあの夜の惨劇を語った。
「その後三日かかるところを五日かけて王都に戻ってきたのですが、それというのも執事の娘が錯乱するのですよ。毎夜、父親が死んだ時間の頃合いになると泣き喚くんです。私たちも同じ場所におりましたから娘の気持ちもわかります。もちろん、娘は別の馬車で移送されておりましたが『命の恩人の娘だ』と盾にするような言動があり、伯爵もそれを重く感じておられて宥める役目を負っていました。……そしてそのほか色々な理由もあり伯爵邸の離れに軟禁する流れとなりました」
***
「最初は彼女に対する同情だったのでしょう。ですが、その同情と哀れみが私に対する気持ちより大きくなったとしたら、その感情はどういう名前になるのでしょう?」
「違う……。大きくなってなどいない。ただ、私が弱かっただけ……」
凄惨な場にいたという共通体験があり、父はジョシュアを守って死んだというジーナの思いがあり、ジョシュアはジーナのたった一人の父親を死なせてしまったという負い目があった。
だが、ただそれだけのこと。レオナールの言う通り、アウラを蔑ろにする理由にはならない。
レオナールが大きく息を吐いた。
「まあ、国もジョシュアに無理をさせたのだから謝ろう。速やかに娘の身柄を第二裁判所内の留置所へ移送する。父親に支給される報酬から横領について薄々勘づいていたようだしな」
「その娘は犯罪に加担していたのですか?」
アウラが問うとレオナールが答えた。
「加担まではしていなくとも羽振は良かったようだ。……興味があるなら移送の日にでも会ってみるか?」
にやっと笑うレオナールにアウラは華やかに微笑んだ。
「なぜ私が会わなければならないのです? 興味ありませんわ」
「ははっ、アウラらしい。もったいないな、君は王家でもやっていけるよ。で、ジョシュアを許すのか?」
「……考えますわ」
ジョシュアがアウラの顔を見た。篝火に照らされた白いクレマチスの中でもさらに美しく輝く妻の顔を。
先ほどの言葉はアウラなりの最大限の譲歩だ。
ジョシュアとジーナの間に不貞はなかった。ジーナのそばには女性兵士がおり、ジョシュアはジーナに指一本も触れず罵倒を浴びていただけ。
全てはジョシュアの優しさと弱さのせい。
たが、そのことをアウラに話してくれなかったジョシュアに対する失望は消えていない。
*
「私が、もっと問い詰めていれば良かったのでしょうか?」
広い公爵家の庭の中に三人の女神たちが掲げた壺から水が流れ落ちる噴水があり、その縁は腰掛けることができるようになっている。そこにアウラは座った。
ジョシュアは少し離れて立ったまま俯いている。
「いや、私が包み隠さず話すべきだった。土産を買うのを忘れていたのも気まずくて……」
「土産?」
「出張に行く前に約束しただろう?」
帰ってきた時に目を逸らしたのは土産を忘れたのも理由の一つか、と呆れてアウラは小さく笑った。
「あっ、今度! 今度新しくできたカフェに行こう。部下に教えてもらったんだ」
「気が向いたら」
「……うん。それでいい。……あの」
「なんですか?」
「今日の衣装、レオナール殿下の色なのか?」
アウラがきょとんとした顔をしてジョシュアを見る。
「アデライドさまと揃えたんですよ? デザインは違いますが」
「え?」
アウラのドレスは白地にふわりとシャンパンゴールドを重ね、裾に小さなマンダリンガーネットが縫い付けられたドレスだが、アデライドは白いドレスの腰の部分に大きなシャンパンゴールドのリボンが結ばれている。そして胸元にはダイヤモンドに縁取られた大きくて濃い色のマンダリンガーネットのネックレス。
ちなみに濃いマンダリンガーネットはアデライドの夫となったエグラール公爵の瞳の色である。
アウラはおもむろに左腕を上げてプラチナのバングルを見せた。銀の糸を編み上げたような繊細な細工ながら幅の広いバングルには小さなサファイアが散りばめられている。
「このバングルをお忘れではございませんか?」
「……覚えている。もちろん、覚えている」
アウラの髪の色であるプラチナにジョシュアの瞳の色であるサファイア。結婚してすぐのアウラの誕生日に贈ったものだ。
ジョシュアは泣きそうになった。
嬉しい。
情けない。
離したくない。
なんてばかだったんだろう。
愛している。