有給申請①
リリィ=フェンリルは、机の上に一枚の書類を広げていた。
それは人類の夢、労働者の聖杯、神が与えた希望。
──そう、有給休暇申請書である。
「記入欄は……所属、氏名、希望日、理由、印鑑……よし、完璧っ!」
リリィは細心の注意を払いながらも、一気に申請書を書き上げていく。『申請理由ぅ?最低三行は欲しいよねぇ』なんていう理不尽な難癖で予定していた温泉旅行が消滅したことは記憶に新しい。
三重の確認をし、最後にサインを入れると、ふう……と息を吐いた。
「今回はいける、絶対いける。魔物の出現も落ち着いてるし、私の出勤日数はもちろんクリア。第一部隊の稼働率は……ええと、97.3%。……うん、セーフ」
基本休みが存在しないため、四十日間分付与されるはずの有給休暇。リリィは今年、まだ四回しか取得できていない。
(っていうか個人の有給申請に部隊全体の稼働率関係ないでしょ!何のために八部隊もあるわけ!?)
「……すぅ~、はぁ~~~、───落ち着けリリィ、もうすぐ休みが手に入るんだから」
ここで集中を欠いて、其処を突かれて申請却下。そんなことにでもなったら、今年はもう休みゼロ、そんなんじゃ年なんて越せない。
◎
脳裏をよぎるのは去年の今頃。あの忌まわしい記憶。
日が昇ったころ、同僚の新人聖騎士ティアが風邪をひいたとの連絡が届いた。実際に会った彼女は一目でわかるほどの体調不良で、リリィは即座に翌日からの有給申請を出した。
『理由:「同僚の看病のため」』
いくら前日の申請だろうと、団員同士の支援を目的とした有給取得は、明らかに美徳。どう考えてもやむを得ない理由。
『これはさすがにいけるでしょ』
リリィはそう考えた。だが返ってきた書類には────
『却下:風邪なら寝かせておけば治る。聖騎士のすることではない』
団長からのメッセージを添えて。
リリィは震える手でティアの額に冷たい布をあてながら、静かに唸った。
(あんの石頭め!だったらいいさ、仕事も看病も両立してやらぁ!)
そして三日後、リリィも倒れた。
同じく風邪。やはり、少ない睡眠時間で弱り切った免疫をウイルスは見逃してはくれなかった。
発熱、頭痛、鼻詰まり、関節痛。
体調不良のオンパレード。
咄嗟に思った。
(ふ、ふふ、これで……ようやく……少し……寝られる……!)
だが、甘かった。
リリィが出した有給申請書には、こう記されていた。
『症状:38.5度の発熱、悪寒、頭痛。対応:静養が必要と思われるため、休暇を希望』
そして返答。
『却下:体温はまだ根性で下げられる範囲。なお、魔物が寒冷地で活発化しているため、出撃優先。病は気からということで、がんばれ』
団長も見逃してはくれなかった。
副隊長のクレイは、私の肩を叩いてこう言った。
『隊長、熱で汗かくのもデトックスって言いますし!出撃で治しちゃいましょ!』
私は幻覚だと思っていた。そう信じたかった。だが現実だった。
私はその日、雪の降る戦場で、ふらふらの身体で剣を握っていた。
こうして、「看病申請却下事件」は、「二重却下感染コンボ事件」と名を変え、今もなお、リリィの中で静かに凍える記憶として残っている。
◎
そして今、リリィ=フェンリルは再びペンを置いた。申請書を両手でそっと包み込む。
──その眼差しは、まるで赤子を抱く母のようだった。
「頼む……どうか、この子だけは……この子だけは無事に団長の元まで届いて……!」
目頭が熱い。だが涙を流してはいけない。インクが滲んで再提出になったら、それはそれで申請却下フラグである。過去に一度、そうなったことがある。
そのとき団長はこう言った。
『涙のシミ? うん、情熱は感じるが、書類は書類だ。やり直し!だが、代わりの書類は与えん。紙1枚だって市民の納めた血税から賄われている。今月はもう申請自体を受理しない。よし、今決まった!』
情はあっても情けはない。それがラボルタ王国聖騎士団団長。まごうことなき、地獄のトップだ。
リリィは意を決して立ち上がり、申請書を封筒に入れた。封蝋には、いつもどおり聖騎士団のマーク。両手で掲げるように持って事務棟の奥───団長室へと向かった。
道中、ティアとすれ違う。
「あー!こんにちは、リリィ先輩。どちらへ?」
「……聖戦へ」
「へ?」
「魂の解放をかけた、最後の戦いです……」
ぽかんとするティアを放置し、リリィは足早に歩いていく。まるで刑場へ向かう英雄のように。
(意味は理解されなくてもいい。いまの私は、ただの一聖騎士ではない。有給を勝ち取らんとする、歴戦の申請者だ)
リリィは、ついにたどり着いた。戦場は扉の中にあり。
──ノックしようと、拳を上げたその瞬間。
中から、漏れてくる声。
『────いや~今月もたくさん来てますねぇ、有給申請』
ピタッ。
リリィの手が宙で止まった。
『ああ、この時期は風邪だの怪我だの旅行に行きたいだの……まったく、聖騎士としての誇りというものがない!』
『あれ?この書類だけ日付がだいぶ前っスね』
『ん?ああ、リリィ隊長が2週前に置いていったやつだな。混ざってしまったんだろ。却下された書類などいらないとな』
リリィの心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
扉の向こうから、さらに声が続く。
『リリィ隊長!すごいっスよねぇ、あの戦いぶり!聖騎士団の顔じゃないっスか』
『その通り!だからこそ、彼女に休暇など与えていてはもったいない!』
──ゴッ。
静寂の中に、硬く握り締めたリリィの拳が、手袋越しに木の扉をかすかに叩いた。
いや、叩いたというより、怒りに支配された指先が無意識に硬直し、思わず当たってしまったのだ。
(し、しまった!!)
思考が追いつくよりも早く、扉の向こうで誰かが言った。
『……今、音……』
──ギィィィ……。
重厚な扉が、ゆっくりと、しかし確実に開かれていく。
その場から逃げるには、あまりにも遅すぎた。
目の前には、筋骨隆々の地獄の番犬──聖騎士団団長、グレン・ドラゴニア。
「やあ、リリィ隊長!そろそろ来る頃だと思っていた!申請理由は、え~と、なになに?『故郷の母の誕生日を祝うためのパーティーに参加しなくてはいけない』?例年では、家族の誕生日で帰郷など聞かなかったぞ?なるほど、親孝行か!良い心がけだな!───よし、却下だ!明日に備えて自室で休みたまえ。それでは!」
リリィは扉がバタンと閉まった瞬間、頭を抱えて床に崩れ落ちた。
「───うわあああああ!!」
王国最強の聖騎士は、泣きながら足をバタバタさせ、目を真っ赤にして叫ぶ。
「ちくしょうぅ!!諦めてたまるかぁぁああああ!!!」
12月、季節は冬。58連勤中────。
今月2度目のリリィの聖戦は見事、敗北に終わった。