【2】
「お母さん、いきなりごめんね」
「気にしなくていいわ。なんならこっちで寝かせるから。……まーちゃん、じーじとばーばと遊ぼうね」
「うん!」
真斗を連れて隣の実家を訪ねた沙織に、母は素知らぬ風に微笑んでくれる。
「そうね、もしかしたらお願いするかも。泊めてもらうなら朝迎えに来るから。どうするかはまた連絡するわ」
「はいはい」
再度感謝を述べて、沙織は自宅に引き返した。
「おかえり。お義父さんとお義母さんには面倒掛けちゃうな」
「大丈夫よ」
素っ気なく返した沙織に、夫は真剣な目を向けて来る。
「沙織。僕からも話すことあるんだ。先に聞いてもらってもいいか?」
「……わかった」
これが二人の、家族の、最後になるかもしれない。声が震えそうになるのが止められなかった。
「沙織が気にしてるのって、土曜の病院だよね? ──誰かに、会った?」
「ええ。男の子連れた、若い女の人」
喉が乾いて張り付くようだ。どうにか絞り出した返事に、彼は微かに頷いて話を続ける。
「そうか、やっぱり。礼したいって言ってたし。あの子は、……美保ちゃんは僕の異母妹だよ。──クズ親父が浮気して生まれた子」
異母妹。
蒼良が真斗の兄ではなく、洋介と美保が兄妹だった?
「そんな大事なこと。──なんで今まで話してくれなかったの!?」
衝撃のあまり問い詰めるような口調になった沙織に、夫は苦しそうに顔を歪める。
「……怖かったんだ。君にもだけど、君のご両親に顔向けできない気がして。僕が母子家庭育ちだって知ってもまったく態度変えなかったよね。今だって本当に良くしてくれてる。『普通のおうち』がすごく羨ましくて、居心地よくて、──失くしたくなかった」
彼の気持ちもわからなくはない。片親で理不尽な思いも飽きるほどして来たといつか話していた。
だから、沙織の両親の自然な対応がとても嬉しい、とも。
義母が健在の間は、洋介も美保と会うことはなかったという。
母を苦しめた女の娘。異母妹に対する感情とは無関係に、母に寄り添いたかったのだと。
幼少時から互いの存在は知っていたらしい。……美保の母親が娘を連れて洋介の家を訪ねて来ていたようだ。
結果として、洋介の両親は離婚し彼は母親に引き取られた。
しかしその後、美保の母と洋介の父は同居した時期もあったようだが何故か結婚はしていない。
洋介の父は亡くなり、美保の母は姿を消して生死さえ不明。これからも、少なくとも洋介の耳に真相が入ることはないだろう。
義母を亡くしてから、洋介は美保が若くして未婚のままシングルマザーになったことを知って会いに行ったそうだ。
沙織と同い年の洋介より五歳年下の美保は二十七、蒼良はやはり保育園児で五歳だとか。
洋介の甥で真斗の従兄に当たる蒼良。
初めて伯父と甥が顔を合わせてから二年も経たない。沙織も知るように、洋介には自由時間はさほどなかった。
縛った覚えなどないが、彼自身が何よりも家庭第一だったからだ。
今も口にしたように、両親と子どもで仲良く過ごすことが一番の望みだったのだと俯き加減で呟く夫。
その通りだ。
洋介は父親としてはもちろん、沙織の夫としても申し分なかった。『証拠』を突き付けられたとはいえ、疑ったことを今更申し訳なく思うくらいに。
「洋介。もしよかったら、あ、向こうがね。……私、美保さんと蒼良くんに会ってみたいわ。親戚だもの」
弾かれたように顔を上げた夫に、敢えて謝罪の言葉ではなく沙織は笑って見せた。
◇ ◇ ◇
「だいたいさぁ、美保ちゃんが蒼良に僕を『伯父さん』て呼ばせないから」
早速約束した次の土曜日。沙織と洋介は、美保の自宅マンションを訪れている。
今日も真斗は実家に預けて来た。まだ三歳の息子には、とりあえず親が顔合わせを済ませた後のほうがいいだろうと判断したのだ。
「だって……。『伯父さん』なんて厚かましいじゃない」
「厚かましいって、むしろその感覚がわからないんだけど。『ようちゃん』の方がよっぽど変じゃないか?」
呆れたような洋介に、美保が弁解し始めた。
「あたしの母親のせいで洋介さんの両親は離婚したのよ。人の幸せ壊して平気でいられる無神経な女との関わりなんて、洋介さんには何もいいことないでしょ」
「……そうだね。正直、君のお母さんにはいい感情はないよ。ついでに親父にも。でも子どもは別だ。美保ちゃんに責任なんてあるわけない」
「洋介さ──」
何か言い掛けた美保に洋介が言葉を被せる。
「だから、そこは『兄さん』だろ? こういう言い方は何だけど、名前で呼ばれる方がよっぽど誤解招きそうで困るんだよね」
「あ! そうよね。ごめんなさい。でも」
それでもまだ言い募ろうとする美保と、おそらくは説得しようと待ち構える洋介。
「蒼良くん、私は伯母さんよ」
母親と「たまに会う、知ってるおじさん」との応酬を不安そうな顔で見守っている少年に、沙織は笑顔を向けた。
「そう! 僕は伯父さん。よそのおじさんじゃなくて、ママのお兄さんなんだ」
沙織の自己紹介に、横から夫も続く。
「伯母さんだけど、沙織ちゃんでも──」
「ママより年上で子持ちなのに『ちゃん』はないって! 沙織伯母ちゃんだよ。僕は『ようちゃん』じゃなくて洋介伯父ちゃんだ」
妻を笑いながら制して、洋介が突っ込んだ。彼の言う通りなので抵抗する気はそもそもない。
「従弟もいるの。真斗って名前で、三歳だから蒼良くんの方がお兄ちゃんね」
「おにいちゃん、……まなとくん、ぼくのおとうと?」
「いや、従弟だって。──蒼良には今まで『従兄弟』っていなかったからわからないか」
蒼良の弾んだ声に、洋介が訂正を入れながらも困惑している。
「今度は真斗も一緒がいいわね。一人っ子で他に年の近い親戚もいないから、蒼良くんに会えたらきっと喜ぶわ」
沙織が話すのにも、蒼良は今一つ理解が追い付かないようできょとんとしている。無理もない。
「うん、そうしよう。美保ちゃん、いつならいい? うちは週末なら──」
「ママ、どうしたの? どっかいたい?」
「ちが……」
洋介の問い掛けに唐突に顔を覆って泣き出した美保に、真っ先に蒼良が反応した。
心配そうな息子にも、彼女はなかなか声が出ない様子だ。
新しい親族。
同じ『秘密』でも最初の絶望とはまったく違う意味を持って、沙織と真斗の人生に加わった二人。
息子に早く知らせたい。「欲しがってた『お兄ちゃん』じゃないけど、違うお兄ちゃんができたのよ」と──。
ああ、そうだ。
「ねえ、写真! 写真撮っていいですか? 真斗に見せなきゃ!」
「ええ、もちろんです。……こんな顔ですけど」
バッグからスマートフォンを取り出して身を乗り出した沙織に、美保は涙を拭いながら遠慮がちに頷いた。
「セルフで撮れる?」
夫に訊かれて悠然と首を左右に振る。
「今は美保さんと蒼良くんだけ。みんなで撮るのは、真斗も揃ってからじゃないと!」
沙織の台詞に、目を潤ませたままの義妹は嬉しそうな笑みを浮かべた。
~END~