【1】
「沙織、悪いけど土曜日ちょっと出掛けてもいいかな?」
「ん? ああ、いいよ〜。先週も三人で遊びに行ったし、最近洋介の自由時間なかったもんね」
夫の問いに、沙織は迷わず承諾を返した。
「ありがとう。沙織も全然自由なんかないだろ。来週は僕が真斗見てるから、どこか行ってきたら?」
「えー、ありがと。一人でお出掛けなんて久しぶり! どこ行こっかな〜」
フルタイムの共働きで息子の真斗はまだ三歳。
仕事と保育園の送り迎え、家に帰っても家事に子どもの世話と息をつく暇もない。
洋介が協力的なのに加え、両親の手が借りられるからこそ回っている状態だった。
だからこそ、夫にもリフレッシュが必要だ。
◇ ◇ ◇
「まま、ぱぱまだ?」
「そうね、夕方には帰るって言ってたのに。……どうしたのかな」
息子と二人家で過ごしていた土曜日。
まだ四時過ぎで時間は遅いということはないが、休みの日に夫が長く家を開けることはほとんどない。
沙織が真斗に応えた瞬間、スマートフォンの着信音が響いた。このメロディは夫からの通話だ。
「まーちゃん、パパよ。──はい、洋介?」
息子に笑みを向けてスマートフォンを手に取り、ボタンを押して応じる。
『沙織! ごめん、ほんとごめん! 今から来てもらえないかな? 保険証持って』
「保険証、って。何かあったの? 怪我!?」
『あ、いや、──大したことないんだけど。うん、ちょっと』
保険証が要る事態など他に思い当たらない。焦って訊いた沙織に、洋介の返答は特に心配はなさそうだが逆に気に掛かった。
煮えきらない夫の声に問い詰めたい気分にはなるものの、今はそれよりも優先すべきことがあると寸前で堪える。
「……わかった、行くわ。どこ?」
『北区の安西病院。知ってる、よね?』
「大丈夫。すぐ向かうから。真斗は隣に預けてく」
今住んでいる家は、隣に住む沙織の親の持ち物だった。一応敷地は別で、間に低い柵もある。
同居ではないが、妻の両親がすぐ傍にいる環境はどうかと危惧するまでもなく、洋介はなんの躊躇いも見せずに快諾してくれた。
「こんないい場所に住めるなんて思わなかった! お義父さんとお義母さんに感謝しないと」
そう手放しで喜びを表していたほどだ。
小学生の頃父親と離婚した母親に、女手一つで育てられた夫。
義母は一人息子の結婚と初孫である真斗の誕生を見届けるようにして、二年少し前に短い闘病の末この世を去っていた。ずっと働き詰めで、息子を大学まで行かせるためにかなり無理を重ねていたようだ。
洋介は父親については普段から一切口にしない。
父が母を裏切って離婚したとだけ、沙織と付き合い始めたときと結婚の話が出て家に挨拶来た際に強張った表情で話してくれた。
沙織も両親も、彼に直接聞かされた以上のことを詮索する気はない。
洋介も彼の母親も、十分過ぎるくらいに善良な人間なのは会って話せばすぐにわかったからだ。
「ごめんね、沙織。お義父さんとお義母さんにも心配掛けちゃうかな」
駆け付けた病院で、処置室のストレッチャーに腰掛けて待っていた夫は思ったよりも元気だった。
「何があったの? 事故とか?」
「う、ん。歩道で後ろから自転車が走って来てさ。あ、別にぶつかってはいないんだ! ギリギリ横すり抜けられて、大丈夫だったんだけど、その。男の子が危なかったから、庇って転んだ時に変な風に手を付いちゃって」
手首の捻挫だという洋介は、固定された左手を視線で指して微妙な表情を浮かべている。
「あ、そう、なの。その男の子は何ともなかった……?」
「うん。びっくりしてたけど、膝擦りむいたくらいだから」
なぜか重い口調で訥々と話す夫。彼の性格からして、自慢はしないだろうが明るく冗談めかして告げそうなものなのに。
「……とりあえず右手じゃなくてよかったわ。じゃあ私、手続きしに行って来るわね」
言い置いて、沙織は部屋を出た。
「西森さんの奥さまですか? この度は申し訳ありませんでした」
会計を済ませて夫の元へ戻ろうとした沙織を、子連れの若い女性が呼び止めて謝罪して来る。
小学校に上がる前くらいの少年の手を引いた彼女は、三十二の沙織より少し年下に見えるからおそらく二十代後半か。
洋介が「庇った」のがこの子で、彼女は母親なのだろう。
「あ、いえ……。お子さんはなんともなかったんですよね? よかったです」
「ええ、おかげさまで。本当にご主人さまにはご迷惑を──」
林葉 美保と名乗った彼女は、再度深々と頭を下げながら息子を促して同様にさせる。
「ママ、よーちゃんは──」
「蒼良!」
なにか言い掛けた少年の口を塞ぐかのような、彼女の強い声。
──ようちゃ、ん? この場で出るからには洋介のことだろう。
「ねぇ、ぼく。『ようちゃん』って……」
「すみません! 失礼します」
どうしても看過できずに口を開いた沙織に、美保は息子を急き立てるようにして慌ただしく去って行った。
◇ ◇ ◇
「ねー、まま。まーちゃんもおにいちゃんほしい」
先週保育園で同じクラスの子に妹が生まれた、というニュースに、真斗は常日頃から飽きずに繰り返していた希望をまた口にしていた。
確かに一人っ子は多いが、兄弟姉妹のいる子もそれなりにいるのが意外だった。出産したばかりの人の他にも、妊娠中の保護者仲間がクラスにはもう一人いる。
「お兄ちゃんは無理なのよ〜」
弟妹なら、というのも簡単には告げられなかった。真斗ひとりでもなんとかという状態なのに、更に子どもが増えたらどうなるのか。
元気な両親がすぐ傍にいて手伝いも期待できる上、保育園も激戦区というほどでもない。周りを見ても、フルタイムならきょうだいはまず同じ園に入れるようだ。
同居なら入園の難易度は格段に上がるのだが、近居ということで特にマイナスにはならないらしいことも知っている。
自分がかなり恵まれた環境だということくらい理解していた。
親どころか我が子に同じ責任を負うはずの夫の手さえ当てにできずに、一人奮闘している母親も珍しくはない。
そういう人から見れば「何を迷うことがあるのか」と叱られそうだが、欲しいから、産めば何とかなる、と安易に考える気にはなれなかった。
洋介とも、少しずつ第二子の計画の話はしていた。
未だはっきりとした結論は出ていないが、少なくとも絶対ありえないという状況ではない。……なかった。
しかし、もしあの少年が洋介の子なら? その場合、真斗があれほど切望していた兄になるのだ、というのも皮肉なものだ。
──たとえそうではなくても、美保と夫に何らかの関係がある可能性は低くないと沙織の直感が訴えていた。
蒼良は、そして美保もたまたま洋介に会って助けられたわけではない。それはもう確信している。
一緒に過ごしていたところだったのは間違いないと沙織の中では結論付けていた。問題は、何故一緒にいたか、だ。
もし夫が沙織を裏切っていたら。
親の不貞で散々苦労した彼は、言葉にするまでもなく軽蔑しているのが明確にわかる父親と同じ轍は踏まないと信じていた。
実際恋人時代から「不倫だけは許せない」と、そういった話を見聞きするたびに零していたほどだ。
潔癖とさえ感じる彼を、心の底から愛して信頼していたのに……。
もちろん蒼良が洋介の子かどうかも瑣末事ではないが、沙織にとって本題でもない。
もしあの少年が洋介の実子なら、沙織は結婚前から騙されていたことになる。出逢って付き合い始めたのは大学時代だが、結婚は四年半前。
蒼良はどう見ても四歳未満ではなかった。
つまりそういうことだ。
しかしたとえ蒼良と洋介には繋がりなどなく、彼女とは一時の気の迷いだとしても裏切りに変わりはない。
どちらにしても、この先彼と共に生きるのは無理だというところに行きついてしまう。その感情は、おそらく洋介が最も理解できる筈だ。
離婚しても、仕事もあるし両親もいる。住む家もある。一人で真斗を育てていくことはできるだろう。
しかし、それは即ち息子から大好きな父親を奪うことになるのだ。
──どうして? 洋介。私は、私と真斗はあなたの何だったの?
◇ ◇ ◇
《洋介、話があるの。時間取ってもらえない? 週末でいいから》
三日後の火曜日の朝、職場に着く直前。
直接切り出す勇気がなくて、沙織は夫にメッセージを送る。
家庭内では息子の手前もあって二人とも努めて平静を装ってはいるが、沙織は貼り付けた仮面ももう限界だった。真斗の前で爆発する前に、何とか決着をつけてしまいたい。
《わかった。早い方がいいなら僕は今日でも構わないよ。悪いけど、その間真斗はお義母さんに見てもらえるかな?》
シンプルな返信。
何ら理由を訊くこともない彼に、かえって深刻さが際立つ気がした。洋介も妻との間に生まれた火種は十分承知なのだろう。
《じゃあ今日。夕食後に》
こちらも用件だけのメッセージを作成して送信すると、母に電話を掛けて真斗の世話を頼んだ。