(エッセイ)物語を書くということ
カミュの小説「ペスト」の登場人物の市役所職員グランはいつも小説を書く夢を語っていました。素晴らしい美しい小説を書くのだと冒頭部を話すのですが細かいところが気になって話が続きません。彼の善良さを愛する人々は辛抱強く彼の夢の小説の話を聞いてあげるのでした。
これは「なろう」のユーザーの皆様には身近に感じられることではないでしょうか。素晴らしい小説を書く夢、あるいは映画を作る夢、マンガを描く夢、それは多くの人々が抱くものです。実現するのはほんの少数かもしれませんが、時には生涯を貫くファンタジーとして人を支え続けるものであります。
漠然とした物語の予感を形にする難しさについては、これも「なろう」ユーザーの皆様が良く知ってらっしゃるでしょう。まず普通に困難なく内容が理解できるように書かなければいけないし、ある程度の字数が書けなければ内容を伴うこともできない。形にするまで漕ぎつけたとしても、「なろう」の場合は更に評価ポイントという形で残酷に数値化されてしまうのです。小説家の道はなんと険しい事でしょう。
それでも小説を書き続ける人たちがいます。小説家という名声と職業を得たいという人も多いかもしれません。しかし私の印象では少なからぬ人々が「自分の物語」に賭けているようです。自分の内に湧き上がる物語を形にしたい、それが小説を書く第一の要因である人々がいるということです。
なぜ人は物語を書こうとするのでしょうか?
私は人が物語の集合でできているからだと思います。人の記憶はひとつの物語であります。記憶の中で空間的、時間的な要素を結びつけるのは物語です。人の経験という形でストーリーを作って記憶し、回想するのです。人は人生という物語を通してこの世界を記憶しているとも言えます。
人の記憶が物語的であるとすると、アンチドラマチックの意味なき日常は耐え難くさえあるでしょう。人は漠然とした不条理な世界に対して物語として記述し記憶することで対抗するのではないか。
物語を語ることは生きることである、極言すればそうなります。
シェイクスピアの「テンペスト」を引用すれば
「
We are such stuff as dreams are made on, and our little life is rounded with a sleep.
我々は夢と同じ物で作られており、我々の儚い命は眠りと共に終わる
」
私たちはこれからも物語を書き続けるでしょう。




