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ぼくは犬になって走る  作者: 布羅乃ノ子
1/1

記憶の森のオーケストラ

博士の転送実験 


 *猿との出会い


昼下がりの講義室は、どんよりと重たい空気が漂っている。

 時折聞こえる小鳥のさえずりが、重力に負けまいと必死で戦っている瞼を誘惑し、降伏へと導いていく。どれだけの学生が屈服を余儀なくさせられたであろう。

 大きく開け放された窓から時折さわやかな風が吹き込み、淀んだ空気を一掃してくれるが、学生たちの眠気を妨げるようなものではない。逆により深い眠りを誘っていく。

この永遠に止まったかと思える時間が、今、突如ひっくり返った。


キーキキィ、キキキキ!

茶色の獣が奇声を発しながら壇上に現れ、退屈な講義をしていた博士の頭の上まで駆けのぼった。

何事が起きたのだろう、と学生たちは夢から片足を出しかける。

一匹の猿が白黒混じった、もじゃもじゃの髪を握りしめ、嬉しそうに博士の肩の上で飛び跳ねている。分厚い眼鏡が博士の鼻からずれ、今にも床に落ちそうだ。

八十人程いた学生は一気に眠りから覚め、目の前の珍光景を呆然と眺めていた。

すると、一番前の席に座っていた女子学生がおもむろに自分の鞄からバナナを取り出し、猿に差し出した。

ショートボブの小柄で、一見すると中学生にも見違えられそうな可愛らしい女子学生だ。

猿は一瞬躊躇ったが、博士から飛び降りると、女子学生からバナナを受け取った。

その時、女子学生と猿の目が合った。

猿と目を合わせてはいけない、と聞いたことがある。目を合わせる、というのは、ガンをつけているようなものだと。でも、ヒグマの場合目を反らしたら、襲われる、と聞いている。猿と目が合ってしまったら、反らした方がいいのか、それとも反らさずにいた方がいいのか、女子学生は迷った。

周りの空気が凍りついていた。

しばらくの間両者は見つめ合っていたが、ふっと猿が目を反らし、バナナを食べ始めた。

すーっと、周囲の緊張がほぐれる。

「す、すみません。猿を置いてきます。すぐ戻りますから、皆さん、ま、待っていてください」

学生達に頭を下げると、博士がおとなしくなった猿を連れて講義室を出て行った。


講義室は打って変わり、学生達の話し声でざわついた。

「もう、こよみったら、怖かったよお。猿に襲われるかと思った」

隣に座っていたナッチが言った。顔一杯にそばかすが広がっている。夏はテニス、冬はスキーと外のスポーツで日光に当たっているせいかもしれない。髪も男の子のように刈り上げ、女らしさは全くない。そこらの男子より、さっぱりしていて男っぽいかもしれない。

「あの猿の目、優しかったよ。襲ったりするような目じゃなかった」

こよみが呟いた。

最初は怖かった。でもそのうちに、猿の目の奥に悲しくて寂しい暗闇が見えてきたのだ。その時だ、猿が目を反らしたのは。

「こよみ、バナナなんてよく持ってたねー」

ナッチが感心したように言った。

「バナナなかったら、目黒先生、猿にめちゃくちゃにされてたよ」

博士の髪の毛を握って飛び跳ねる猿の姿を思い出し、ナッチは吹き出しながら言った。

「朝からお腹の調子悪くて、お弁当にバナナ持ってきてたの。昼になってもまだ調子治らなくて。食べなくて、良かったぁ。バナナ、役立ったし」

「こよみ、お腹弱いよねえ。食べないで、大丈夫なの? 私なら、死んじゃう」

ナッチがそう言った時、博士が戻ってきた。

急に、講義室は静まる。

「ご、ごめんなさい」

博士が頭を下げた。こよみと目が合うと、余計畏まって深く頭を下げる。

「お騒がせして、申し訳ありませんでした。じ、実は、あの猿は、私のペットでして、講義を始める前に、研究室の檻に入れておいたのですが、その・・自分で開けて、逃げ出してしまいまして・・。檻の鉄骨に針金が巻かれてあったのですが、その針金を外して、それで鍵を開けたようで・・私の不注意で、本当に申し訳ない」

博士が再び頭を下げた。

講義室がざわつく。

「猿が針金使って鍵開けたの? 私だってできないのに、信じられない」

ナッチが驚いて言う。

「すごい、器用な猿だね」

こよみは、感心した。あの猿ならできるかもしれない。

「あの猿って、前は人間だったんだってよ」

突然、こよみの後ろの席から、男子学生のささやき声が聞こえてきた。

思わず、こよみは耳をそばだてる。

「は? おまえ、頭大丈夫か?」

もう一人が笑った。

「まじだって。俺んとこのサークルのOBが昔、目黒先生の研究生と友達でさ。その人が言ってたんだ、その研究生、目黒博士に猿に転送されたんだって」

と、声を潜めて、言う。

「俺だって、馬鹿なこと言ってる、と思って笑ってたけどさ」

「それなら、あの先生、動物でやってたって話は聞いたことあるけど、まさか人体実験はしないだろ」

「それが、したんだよ。OBの先輩の話じゃ、猿に、太田君、って声かけられた、って言うんだ。OB、太田って、名前なんだけどさ。俺、林、って猿に言われて、しばらく呆然としてたって。それからしばらく経ってその猿に声かけた時には、研究生じゃなくて猿に戻ってたってさ。研究生、消えてしまったんだと」

「おまえ、そのOBに担がれたんだわ。ばっかだなあ」

「いや、本当だって。先輩の目、マジだったし。さっきの博士の話、猿が針金で鍵開けたって聞いただろ、あれ、一度人間になったことがあるからできるんだよ。その研究生っての正体が実はコソ泥で、だから針金で鍵を開けられるのかも・・いや、ひょっとすると博士と猿がグルで、盗みを働くために転送したとか・・」

「シーッ、講義始まってるぞ」

博士が人工知能について、スライドを使って説明をしている。一所懸命話しているが、ほとんどの学生が聞いていない。ひそひそ話をしているか、眠っている。

「転送の話、本当なら、優しそうな顔して、怖い先生だね」

ナッチが、こよみに耳打ちした。ナッチにも、後ろの男子学生の声が聞こえていたらしい。

「ホントならね・・」

こよみはこっそり欠伸をした。

可哀そうな先生。泥棒だなんて。

人工知能についての講義はほとんど頭に入ってこなかったが、懸命に説明してくれる博士の姿はこよみの目に好ましく映った。だがその姿も、しだいに輪郭がぼやけ始め、いつのまにかこよみは雲の上のお花畑で散歩をしているのだった。



 *叔父の悪夢


「叔父さん、次はどこにいくの?」

大学からすぐ近くの小さなカフェで、真っ黒に日に焼けた、四十歳ほどの男とこよみは会っていた。

「しばらく北海道にいようと思ってるんだよ。こよみは東京に帰ってるかい?」

こよみは首を振った。

「そうか・・」

茂は優しい目でこよみを見つめながら頷いた。

「帰りたくなったら、帰ればいいさ。姉さんも分かってくれる」

母から逃れるように、北海道の叔父を頼ってきたのはこよみが高校生の時だった。母との交渉も、学校の転入手続きも全て叔父が一人でやってくれたのだ。

こよみは子供の頃から、世界を旅して廻る自由な叔父が好きだった。母は叔父を馬鹿にし、よくけなしていたが、こよみはその言葉を聞く度に胸が痛んだ。母は、高卒の叔父をクズのように扱っていた。母にとって価値ある人間というのは、一流の大学を出て、一流の企業に勤めている者だった。

父は、こよみが三歳の頃家を出て行ったと、聞いた。母を捨て、女の所へ行ったのだという。それ以来、母の関心はこよみに全て向けられ、父への当てつけのように一人でこよみを立派に育てて見せることに集中した。小さな頃から、ピアノと塾に通わされて、友達と遊ぶ時間がなかった。そんなこよみを不憫に思って、外国から戻ると叔父は遊びに連れ出してくれたのだった。

「もう、大学三年か?」

「うん」

「早いなあ。俺が年取っていくわけだ」

茂が目を細めた。

「おじさん、若いよ。三〇歳でも通じるよ」

「そうか?」

「うん。やっぱり、好きなことしてるのがいいのかなあ」

「こよみも好きなことをしたらいいぞ」

「うん」

茂がコーヒーを飲みながら、大きなあくびをした。

「最近、あまり眠れなくてな」

「コーヒーの飲み過ぎじゃないの?」

「いやあ、寝てることは寝てるんだが、夢ばかり見て、熟睡できないんだ」

「えー、どんな夢? 女の人の?」

叔父はまだ独身だ。付き合っている女性の話を聞いたことがない。

「ははっ、残念ながら、猿のだよ」

「猿?」

こよみは、今日の講義の時に現われた目黒先生の猿を思い出した。

「年取って今にも死にそうな猿だ。毎晩毎晩現われるから、参ったよ。どうせなら、綺麗なお姉さんに出てもらいたいもんだ」

「おじさんに、何か伝えたいことがあるんじゃない?」

「何を? 餌をくれってか?」

「そうじゃなくて、んー、助けてほしいとか」

「助けてほしいたって、どこにいるか分からないからな」

こよみが考え込んだ。

「ほら、おじさん、三年前に怪しい高額のアルバイトしたじゃない? なんかの薬の治験だったかなあ。 実験の被験者になったら、一週間で百万入るってやつ」

「ああ、製薬会社の。あれは良かったよ。おかげで、スペインに行って来れた」

こよみは溜息をついた。

「もう、忘れちゃったの? おじさん、あの時、変なこと言ってたのよね。誰か知らない人の意識が頭に入ってきたって」

茂は記憶を探った。

「そんなこと言ったか? 覚えてないなあ」

「やだなあ、おじさんは。その人、三日でいなくなったって、言ってたよ。覚えてないの?」

「その後すぐにスペインに行ったからなあ。思い出すのは、スペインの記憶ばかりだ」

「もう・・、おじさん、若いと思ったけど、やっぱりトシだ」

「まてまて、スペインから帰った後、製薬会社の男が来たのを思い出した。その男に、今こよみが言ったようなことを聞かれた気がする。でも、だめだな。思い出せるのはそれだけだ。何話したかも覚えてない」

「しょうがないなあ。それじゃ、猿の夢は消えないよ。もっともっとひどくなっていくよ。その年寄りの猿に襲われて死ぬとか」

「それは勘弁してほしい」

茂が眉をしかめた。掘りの深い整った顔をしている。外国に行っても、日本人だと思われないことも多いらしい。イケメンの顔なのにいつまでも一人なのは、定職に就いていないせいかと、こよみは思った。

「しばらく北海道にいるって、富良野の家に住むの?」

「そう。友達が農業を始めるから、手伝ってほしい、って言われてね」

母と叔父の実家は昔、富良野の農家だった。母に子供の頃仕事を手伝わされた話はよく聞かされた。農作業事故で母の父親が亡くなった後、農家を辞め、母親の実家の東京へ母沙世は母親と移り住んだ。叔父は、祖父母の元に残り、富良野で高校まで過ごした。母と叔父の価値観の違いは、ここから生まれたのかもしれない。

叔父は高校生の時に祖父を看取り、高校を卒業した後旅に出た。祖父が亡くなった後祖母は施設で過ごしていたが、十年前に亡くなった。旅から帰った後に戻る家として、富良野の山中の家は残っており、こよみが高校生の頃すがっていったのも、この辺鄙な場所に建つ家だった。バスも三時間に一本しか通らず、不便な所にあったが、こよみにとって心が落ち着く大好きな家だった。

急に、店内が賑やかになってきた。振り向くと、テニスラケットを持った女子大生が五、六人入ってきて、テーブルに着いている。

「こよみー!」

その中の一人が、こよみに手を振った。ナッチだ。派手な化粧をした女子大生たちの中で、ボーイッシュなナッチは一人だけ浮いて見える。が、本人はいたって気にしていない様子だ。

「ちょっと、随分、ステキな人と一緒じゃない?」

ナッチが近づいてきて、言った。

こよみが慌てて否定する。

「うちの母さんの弟。タイから帰ってきたとこなの」

ナッチは茂の隣の椅子に載せられた大きなリュックサックを見て、ああ、と頷いた。

「こよみがいつもお世話になってます」

茂が立ち上がって、頭を下げた。

「こよみと寮で同室の、柿本夏実です。こよみから、世界中を回っている叔父さんのお話はよく伺っています」

ナッチも頭を下げた。

「ナッチー!」

女子大生たちの呼び声が聞こえた。

「ハイハーイ!」

ナッチは残念そうに、茂に挨拶をして戻っていった。

「元気な子だね」

茂が女子大生たちの方を見ながら言った。

「こよみにいい友達ができて良かった」

「うん。優しいし、とてもいい子」

「それじゃあ、おじさんは帰るよ。こよみも好きな時に富良野に来たらいい」

「うん。ありがと」

二人は立ち上がり、席を立った。茂はリュックを背負うと、カウンターでコーヒー代を払い、先に立って外に出た。

こよみも、ナッチにそっと手を振って、茂の後を追う。

外は、薄暗くなっていた。

茂が手を振り、大きなリュックの後ろ姿を見せて小さく消えていくのを、こよみはカフェの入口でずっと見送っていた。

 叔父が遠い外国でなく、富良野の近くに住んでいる、と思うだけで、こよみの胸に安堵感が広がった。


 



認知症の母を介護する




 「今日も、お母さん、いなくなっちゃって・・、警察の方が見つけて連れてきてくれたんです」

 詩織が味噌汁を注ぎながら言った。

 「今、お袋は?」

 ホッケの身をほぐしていた健二が、手を止めて言った。

 「昼間、歩き疲れたせいか、七時過ぎにはお布団に入って眠ってます」

 「申し訳ないな。早く施設が見つかればいいんだが」

 時計が一一時の鐘を鳴らした。 

 詩織が小さくあくびをしている。

最近、帰宅時間が十時を過ぎることが多い。それまでずっと、詩織には母の世話をしてもらっている。

 「俺の帰りを待たないで、先に寝てていいんだぞ」

 「でも・・、晩飯が」

 「用意してくれてたら、自分でやるよ。それに、外で食べてきたっていい」

「すみません・・」

詩織が申し訳なさそうに、健二を見た。疲労の色が見える。昼間、お袋を探して歩き回っていたのだろう。

「今度の日曜は休みが取れそうだから、お袋は俺が見るよ。詩織は、どこか好きなところに行ってリフレッシュしてきたらいい」

詩織が驚いて、健二を見た。

「そんな、私、大丈夫です。休み取らなくても」

「俺も、たまにお袋を一人で見てみたいんだよ。買い物でも、映画でも、行ったらいい」

詩織が心配げに健二の顔を伺った。

「大丈夫だよ」

健二は自信ありげに笑って見せた。


日曜の朝、健二は詩織を送り出した。詩織は、千歳へ実の父親の墓参りに行く、と出て行った。

お袋は大人しく、詩織が用意した朝食を食べている。健二は新聞を読み始めた。

二年前、詩織と結婚したばかりの時は気づかなかった認知症の症状が、最近ひどくなっている。

何年か前から、「匂いがしないのよね」と母がよく言っていたが、兄も健二も別に気に留めていなかった。嗅覚の衰えがアルツハイマーの前兆の一つだと知ったのは、つい一年年前のことだ。同じものを毎回買ってくるので、おかしい、と詩織が言い始めたのだ。十個も溜まったマヨネーズを詩織は近所に配って歩いた。

極めつけは、いつも通っているスーパーの帰りに、迷ってしまったことだった。何とか人に聞いて、その時は帰宅できたのだが、その翌日、詩織は母を病院に連れて行った。診断は、心配した通り認知症だった。

それからしばらくして、詩織は流産した。ストレスからかもしれない。以来、子供を産んでいる場合ではない、と体に触れるのを拒否されている。


新聞から顔を上げると、母の姿がないのに気づいた。

飯も食べかけで、スプーンが床に落ちている。

健二は慌てて、玄関を見に行った。鍵は閉まっている。母の靴もある。

以前、八五歳の妻がうたた寝している隙に、認知症の夫が出て行き、電車にはねられて死亡。七百二十万円の賠償金をJRに請求されたケースを思い出した。その時は、ひどいことをする、とJR東海に怒りを感じたが、今認知症の身内を持つ身になってみると、世間全てがJR東海のように管理不行き届き、と自分たちを責めてくるように感じる。

母の部屋を覗いたが、いなかった。まさか、窓から裸足で出てはいかないだろう、と思ったが、心配になって窓から外を調べた。日曜の朝、住宅街を歩いているのは、運動に出てる老人ばかりだ。子供たちは何をしているのだろう。

ガタガタ

床の間で音がしたので行ってみると、母がいた。仏壇の下の扉を開き、引き出しを開けて何やら見ている。

「母さん!」

健二が呼ぶと、母は振り向きざま、健二を睨んだ。

「健二、ここにあった金をどこにやった?」

健二は面食らった。

「ここに、金なんてなかったよ」

「嘘を言っても駄目だよ。ここに私がしまったんだから」

「ああ、その金なら、五年前に父さんの十三回忌の時に使ったじゃないか」

「馬鹿をお言い。十三回忌なんてまだやってないよ」

「やったんだよ。母さん、忘れてるだけだよ」

「たけし!」

母は立ち上がると、部屋を出た。

「健二が金を盗ったんだよ! お前から叱っておくれ」

「母さん! 兄さんはいないんだよ。・・もう死んだんだ」

「たけし!」

母は部屋を出ていった。健二が追いかける。

居間に入ると、母は食べかけの茶碗に気づき、席に座って何事もなかったかのように食べ始めた。

「健二、詩織さんはどこ?」

いつもの母に戻っている。健二はホッとした。

「お父さんのお墓参りに行ってる」

「それはいいことだね。たまに帰らせてあげないと」

スプーンで粥をすくいながら食べている。先程の母は一体なんだったのだろう。健二は首を傾げた。魔が差したに違いない。

食事を終えると母はテレビを見始めた。

健二はチラチラ母を見ながら、新聞を読む。


十時の鐘が鳴ると、母はそわそわし始めた。

詩織から聞いていた通りだ。ちょっとした隙にも外に出て行こうとする。

母はテレビのスイッチを消し、立ち上がった。

「どこにいくの?」

健二が聞いてみる。

「トイレ・・・」

だが、玄関の方へ向かっている。

「トイレはそっちじゃないよ」

 「トイレじゃないよ。買い物にいくんだよ」

 「何か欲しいものがあるんだったら、買ってくるよ」

 母は考えていたが、首を振った。

 「欲しいものはないよ」

 「じゃあ、戻ろう」

頷いて、母もテレビの前に戻った。そのうちに横になって、うとうとし始める。

 その間に、健二はトイレに立った。

 戻ってくると、母の姿が消えていた。

 慌てて玄関へ走る。

母の靴は消えている。

玄関のドアを開け、急いで外に出た。すぐ先をとろとろ歩いている母の姿が目に入った。

「母さん!」

母の手をつかむ。

「どこに行くつもりだよ」

母が健二の手を振り払った。

「買い物」

「買い物って、何買うんだよ」

「マヨネーズ」

「マヨネーズはうちに沢山あるよ」

「買っとかないと、たけしが困るからね」

「母さん」

健二は母の手を握りしめた。

「兄さんは、もういないんだ」

母の目から、すーっと光が消える。しょんぼりした。

「さ、母さん、帰ろう」

力の抜けた母の手を引っ張り、連れて帰る。

健二は泣きたいのを堪えながら、玄関に母を入れた。


詩織が作って置いていった昼飯を母に出した後、健二は母の部屋に連れて行った。

「ちょっと仕事するから、ここで昼寝しててくれるかい?」

母は頷いた。

六畳ほどの部屋に、ベッドとタンス、棚、テレビ、鏡台が置かれている。鏡台はしばらく使われていないようで、埃がかぶっていた。

棚には昔からの小物がたくさん置かれ、ごちゃごちゃしている。

健二は隅に置かれた小型のテレビのスイッチを入れ、母をベッドの上に座らせた。

開いていた窓を閉め、鍵をかけてその上をガムテープで貼りつける。

ほんの一時間だ。今日は暑くないし、大丈夫だろう。

部屋のドアの前にテーブルを置き、開かないようにした。


二階の自分の部屋でパソコンを開く。

認知症に関するデータを調べ始めた。

健二は製薬会社でアルツハイマー治療薬の開発を担当している。健二が作った薬は猿を使った実験では明らかに効果が出ていたのに、臨床試験では思ったような効果が出ていない。母にも認知症と診断されてからその薬を服用させているが、効果どころかせん妄も強く出て、むしろ悪化しているような気がする。せん妄は薬の副作用なのか、認知症が進行しているせいなのか。他の治験者のデータを調べて、早急に判断する必要性を感じた。

気づいたら、二時間経っていた。

急いで母の部屋まで行き、テーブルを避けた。

ドアを開けると、強烈な臭いが鼻を襲ってきた。

思わず鼻を押さえる。

座って何かを一心にやっている母の後ろ姿が目に入った。

まさかまさか・・

「母さん!」

振り向いた母の手の中に、茶色い塊がある。

健二は唖然とした。見れば、茶色い塊があちこちに落ちている。

母は手に持っているものを口の中に入れようとした。

「やめろ!」

健二は大声で怒鳴り、母の手を強くはたいた。

茶色い塊が落ちると同時に、健二の体がとんだ。


何が起きたか分からない。

健二は棚の前でひっくり返っていた。頭と体の上に、棚に並べてあった小さな紙人形や工作物が落ちて載っている。膝の上に転がっている恐竜。これは、確か健二が小学生の時に夏休みの自由研究で作ったものだ。

健二の前で詩織が仁王立ちになって立っていた。

まさか詩織が俺を投げ飛ばしたのか? その細い腕で・・。大体、詩織が柔道などやっていた話は聞いたことがない。そもそも、格闘技などとは無縁の女だ。

「鮫島・・」

その名が口をついて出た。が、詩織には聞こえなかったようだ。

「ご、ごめんなさい」

我に返った詩織が謝った。しかし、すぐにお袋の方へ向き直る。

「お母さん、大丈夫ですか?」

「いたいよぉ、手が」

「赤くなってる。可哀想に」

「知らないおじさんにたたかれた」

「それは大変。さ、お母さん、手当てしに行きましょう。まず手を洗って」

母は素直に頷くと、詩織と一緒に部屋を出た。


健二は一人部屋に取り残された。

愕然として、しばらく転がったままでいた。

ショックが大きい。何のショックだろう。お袋が便を食べようとしたことだろうか。知らないおじさん、と言われたことだろうか。

いや、それらは、母が認知症と診断された時から覚悟してきたことだった。他人の便を入れて腸の難病を治す治療法も確立しているし、野生の動物なら他の動物の便を食べて、腸内細菌を取り入れている。便を食べることは、別に大した問題でない。無論、ショックではあるが。

それより、詩織に投げ飛ばされたことの方が大きかった。

以前から、うすうす鮫島の影を感じていた。

結婚前から、鮫島の意識は詩織の頭から消えた、とは聞いていた。同じ会社で働いてはいたが、健二は鮫島とは面識がなかった。だから、どんな男なのか知らない。しかし、乱暴な男だと聞いていた。頭は切れるが、恐喝や暴力沙汰をおこし、その度に会社が揉み消していた、という噂まである。詩織は、鮫島を心の優しい思いやりのある男だった、と言っているから、噂はデマなのかもしれない。だが、時折詩織には考えられないような乱暴な言動を発する時、鮫島の影が頭にちらついた。詩織の細い体を抱く時も、鮫島が詩織の体の中に潜んでいるようでためらいを感じた。その度に否定し、錯覚だと言い聞かせてきた。

だが、やはり鮫島は詩織の中にまだ存在していたのだ。顕在意識では気づかぬ、潜在意識のずっとずっと深い奥底で。健二は確信した。

居間の方から、母の笑い声が聞こえてきた。

健二はよろよろ立ち上がり、恐竜や工作物を棚に戻した。それから、ティッシュで母の便を片付け始める。

「お母さん、これ似合う!」

詩織の無邪気な声が聞こえる。

この声を辿ればその先に、鮫島がいるのだ。

健二は、これから詩織とどう接していけばいいのか分からなくなった。





林君は生きている?




大学の校舎から五百メートルほど離れた所に、背の低い古びたコンクリートの建物が草の中に埋まっていた。

丈の長くなった草をかき分けかき分け、こよみは建物の入口まで何とか辿り着いた。ノブを回してみるが開かない。鍵がかかっているようだ。

途方に暮れて、こよみはドアをドンドン叩き始めた。

「目黒先生! 目黒先生!」

すると、少し離れたところの窓が開いて、もじゃもじゃ頭の博士の顔がのぞいた。

「ああ、そこは使っていないんだよ。裏に廻ってくれるかい?」

こよみは思わず絶句した。やっと辿り着いたのに。

再び草の中を歩く。草に擦られて腕と顔が痒い。

裏側に来ると、博士の歩いたところが道となっていた。最初から、この道を通ればよかった。何だったんだ、あの苦労は。いつもこんな感じだ。わざわざしなくてもいい苦労をしてしまう。

「どうぞ。お入りなさい」

博士が小さなドアを開けてくれた。

中に入ると、猿が跳んできて、こよみにバナナを差し出した。

「この間の、お返しですよ」

と、博士が説明する。

「え? 私のこと、覚えてるんですか? 一ヶ月も前のことなのに」

こよみが驚いて言った。博士に自分を覚えてもらっていたことも嬉しい。

「もちろん。特に、あなたのことは気に入ったみたいですよ」

「本当ですか?」

「ケチな林が大好物のバナナをあげるんですから、かなりのものです」

猿がバナナを押しつけてくるので、こよみは仕方なく受け取った。黒く熟れ過ぎていて、こよみはあまり好きではない。どちらかと言うと、まだ青い方がいい。

こよみが食べるのを猿が待っているので、皮をむき、黒くなった先っぽを口に入れた。甘く発酵したような味が口の中に広がる。

猿は喜んで、部屋中を跳んで廻った。

二十畳ほどの部屋に、物がたくさん置かれ、積み重ねられている。中央にコンピューターが数台置かれ、こよみと同じぐらいの人型ロボットも二台ほど立っている。その中をぶつからぬよう、器用に猿は跳び回る。

講義の時に会ったのと、少し感じが違う。あの時は、何といったらいいだろう、もっと暗くて、そう、深遠な目をしていた。

「お猿さんの名前は何て言うんですか?」

「林っていいます」

林? 元研究生の名前かしら。

先日の講義室で後ろの席の男子学生が言ったことがこよみの頭によぎった。


「あの猿って、前は人間だったんだってよ」

「俺んとこのサークルのOBが昔、目黒先生の研究生と友達でさ。その人が言ってたんだぜ。その研究生、目黒博士に猿に転送されたんだって」


突然、猿がこよみの手から食べかけのバナナを取りあげ、自分の口の中に入れた。それから、残りをこよみの口の中に入れようとした。

「いらない、いらない!」

こよみは慌てて、口を押えた。

猿は、こよみの指をはがそうとする。

「林君、バナナいらないと言ってるよ」

博士が猿を優しく諭した。

猿は素直にこよみの手を離したが、しょんぼりしている。

「林君は、君に求愛したんです。残念ながら、振られちゃったね、林君」

博士が猿の頭を撫でた。それから、申し訳なさそうに、こよみに聞く。

「あなたのお名前は・・?」

「生命科学科の、原口こよみです」

「ああ、原口さん。申し訳ない。名前が覚えられなくてね」

「学生沢山いますから、当然です。顔を覚えていて下さっただけで嬉しいです」

博士はガラクタの中から背もたれのない丸い回転椅子を取り出して、こよみに差し出した。

「こんな椅子しかなくて申し訳ないのですが、座ってください」

「有難うございます」

座った途端、椅子がクルクル回り始めた。慌てて足で止めようとするが、足先がやっと床に届くぐらいなので、なかなか止まらない。やっと椅子が止まった時は、目が回っていた。

「十四回。最高記録です」

猿も手を叩いている。

「は?」

こよみは訳が分からない。

「ああ、言い忘れました。静かに座らないと、回転しちゃうんですよ」

と言いながら、博士はそうっと自分の回転椅子に腰かけた。

もっと早く言ってよ。こよみの頬が真っ赤になる。

横を見ると、猿が椅子に乗ってクルクル遊んでいる。

「お話というのは、なんでしょう」

分厚い眼鏡の奥で、目を瞬かせながら博士が聞いた。

「あの・・」

こよみは言い難そうに言った。

「先生は以前意識と記憶の転送実験をされていた、と聞いているのですが、そのことでお話を聞かせてもらえないかと・・」

博士はこよみから目を反らし、辛い記憶に耐えるかのように下を向いた。

まずいことを言ってしまった!

こよみは後悔したが、後の祭りだ。

「すみません! 叔父がひょっとすると目黒先生の実験を受けたんじゃないかって、思ったので・・あ、あの、私、帰ります。お邪魔して、申し訳ありませんでした!」

こよみは立ち上がった。立つ時に力が入ったせいか、椅子が空のままクルクル回っている。

「待ちなさい。話しましょう」

博士が静かに言った。

「え?」

こよみは足を止めた。

「誰にも話さないと、約束してくれますか?」

「は、はい! もちろんです」

「叔父さんが私の実験を受けた、とあなたが思ったのは、どうしてですか?」

「あの、三年前に、製薬会社の、何ていう会社だか忘れたのですが、叔父が治験のアルバイトをしたんです。叔父は世界を旅するのが好きで、日本でアルバイトをしてお金を稼いでは、外国に行っていました」

博士に促されて、こよみは再び椅子に座った。今度は静かに座ったので、回転はしない。

「三年前の、その治験のアルバイトというのが、たった一週間で百万円ももらえる、という有り得ないもので、私は危険な薬を飲まされて体を壊したら大変だから止めた方がいい、と叔父に言いました。でも、叔父は全然私の言うことを聞かないで、知らぬ間に製薬会社に行ってしまったんです。一週間して叔父は帰ってきたのですが、二、三回注射されただけで、何の副作用も起きなかった、と喜んでいました。でも、一回目の注射の後、おかしなことが起きたって。注射をされて意識がなくなった後、目覚めたら、自分の頭の中に誰かがいたって、言ってたんです」

遊び飽きたのか、猿は回転椅子をこよみのすぐ横に付け、座った。こよみの横顔をじっと眺めては、手を伸ばし、こよみの体をチョンチョンと触ってくる。

「林君」

博士に注意されては手を止めるが、しばらくするとまた繰り返す。

「すみません。大分あなたを気に入ったみたいで・・」

博士が申し訳なさそうに言った。

「いえ、気に入ってもらえて嬉しいです」

首を傾げ、ちょっと遠慮がちに触って来る猿の仕草がとても可愛かった。

 「叔父さんから、頭の中に誰かがいた、と聞いてあなたはどう思いましたか?」

「注射の副作用で、幻覚だと思いました。三日経ったら、いなくなったと言ってたので、薬の影響だったと」

「でも、先程、あなたは私が転送実験したのじゃないか、と言いましたよね。どうしてそう思うようになったのでしょうか」

「あの・・」

こよみは口ごもった。

「この前の講義の時に、後ろの席に座っていた男子学生が言ってたんです。先生は昔、意識と記憶を転送する実験を行っていたんだって」

猿が、こよみの顔をじっと見ている。

「この林君は、元先生の研究生で、猿に転送されたけれど、その後消えてしまった、って言ってました」

博士が何も言わないので、こよみは話を続けることにした。

「でも私は、消えてない、と思ったんです。林君の目を見た時、何ていうか、知的で、それでいて深い悲しみの様なものも感じました。林君はひょっとすると、お猿さんの意識の底の方に沈んでいるんじゃないか、って、思いました」

博士は黙ってこよみの話を聞き続けた。猿も静かになっている。

「叔父も、三年前の治験のアルバイト以来、変わった感じがします。以前なら、ほとんど外国で暮らしていたのに、日本にいることが多くなりました。それに、叔父は音痴で、音楽なんて聞いたことなかったのに、クラシックなんて聞き始めたんです。驚いて、どうしたの? って聞いても、何となく聞きたくなった、としか言いません。それから、オナラだって」

こよみは話を止めた。ちょっと下品かしら、と思ったのだ。

「オナラ?」

博士が聞き返す。

「あの、下品な話ですみません。叔父はおならを・・平気でどこででもしてたんです。電車の中でも、大きな音で。私は恥ずかしいのでやめるように言ったんですが、出ちゃうんだから仕方ないだろ、って。それが、今はおならなんてしなくなったし、なんだか紳士的になっちゃって、友達まで、ステキだ、なんて言うようになって。最初は、そんな気づかないくらいだったんですけど、だんだんおかしいな、って思うようになって。今じゃ、叔父さん、本当に変わったのが分かります。徐々に変わってきたような感じです」

「いつ頃、叔父さんは治験のアルバイトをしたかわかりますか?」

「三年前の秋・・十月ごろだったと思います。私が高三の時でした」

博士は黙りこんだ。

猿が博士に近づいて、ツンツン突き始めた。反応がないので、博士の眼鏡を取る。

 「こら」

 博士に叱られて、猿は眼鏡を返した。博士が喋ったので安心したようである。

 「詳しく話せないのですが、叔父さんのケース、私が関わってやったものです。叔父さんには、本当に申し訳ないことをしました」

 博士は椅子を下りて、跪いた。

 驚いて、こよみも椅子から飛び降りる。空の椅子が勢いよく回り出した。

 「先生、叔父さんはお金沢山もらえて喜んでるんです。前より、カッコ良くなってモテるようになったし、感謝しなくちゃいけないのはこっちなんです」

 「そうおっしゃってくれるなら、助かるのですが・・」

 「叔父さん、暫く富良野にいてくれることになって、私、すごく嬉しいんです。ただ、その叔父さんに転送された人が気の毒で・・」

 「その人は、事故であと僅かの命しかありませんでした。気の毒なことですが、仕方ありません。それよりも、もし転送が成功していたら、叔父さんがその人に体を乗っ取られた可能性があった訳です。私は自分の研究に慢心して恐ろしいことをしたんですよ」

博士は呻くように言った。

叔父の意識と記憶がその人と入れ替わっていたら、と想像し、こよみはぶるっと震えた。

「私も、林を見て、あなたと同じように感じてます。林はいなくなったのではなく、意識のずっと深い奥底で助けを求めてるんじゃないのか、って思う時があるのですよ」

博士は立ち上がり、人型ロボットの所へ行った。

「このロボットは、林の為に作ったのです。意識をロボットに転送する方法は何とか手立てを講じられたのですが、林の意識を、猿の意識から分離して取り出さなければなりません。そこが難しいところなのですよ」

人型ロボットは人間の顔をしているが、かなりの不細工である。博士の講義中の絵を見ても、美的センスがないのはよく分かった。こんなロボットに転送されたら、林君は逆に死にたくなっちゃうんじゃないのか。

「もう一つロボットがありますけど、他に転送する予定の方がいるんですか?」

博士は頷いた。

「犬に転送された男の子の意識です。難病を生まれた時から患っていて、もう少しで死ぬところを犬に転送したのです」

「ロボットさえ用意すれば、叔父さんに転送された意識もロボットに移せるかもしれないんですね。その人の意識を叔父さんの意識から取り出すことが出来たら」

 「残念ながら、転送元の体は破壊されてしまいます。その人の意識はロボットに転送できますが、叔父さんの体は死亡してしまうので、叔父さんの意識も同時に死んでしまいます」

 そうか・・。今の叔父の方が格好いいから、いいんだけど、でも・・

 「叔父に転送された人が、何か訴えたいことがあるみたいで・・、毎晩、年取った猿の夢を見るらしいんです。何を訴えたいのか、と思って・・」

 「年取った猿?」

 博士は考え込んだ。

 「その転送された人物は、猿を実験に使った場所で仕事をしていました。そこで早老病のワクチンの開発をしていたのですが、今はそのワクチンの製造に成功し世界に撒かれて、早老病患者が出なくなったんです。何も問題はないはずですが、何を訴えたいのでしょうね」

 猿が再びバナナを持って来て、こよみに差し出した。

 こよみは手を振って断るが、猿はバナナを押しつけてくる。これ以上ここにいたら、バナナを食べさせられそうだ。

 「長い時間、有難うございました」

 こよみは博士に頭を下げた。

「明日から、叔父の所に行くのですが、もし何かありましたら叔父をここに連れてきてもいいでしょうか」

 「もちろんです。私は夏休み中、ここに林君と籠っていますから」

 博士がにっこり笑った。

 バナナから逃げるように、こよみは建物を出た。

 やっぱり博士はいい人だった。

鳥の鳴き声が上から聞こえる。

見上げると、雲一つない青い空。

こよみは心が弾んだ。明日は富良野だ。





富良野にて


 *母は若年性認知症


 バスの中は観光客で混んでいた。中国語や英語、韓国語が飛び交う。

 隣りは太った女性で、ひらひらした派手な模様のワンピースを着ている。日本人か中国人か分からない。フーフー言いながら、流れる汗をハンカチで拭いている。

こよみは大きく膨らんだバッグを膝に抱え、窓から外を眺めていた。

 緑色に広がる田んぼ。玉葱畑。赤、黄、紫と色彩豊かな花畑。一年のうちで自然がもっとも生き生きとしている季節かも知れない。

 こよみは外を眺めながら、昨晩の会話を思い出していた。


 「明日から富良野? いいなあ」

 大学の寮で同室のナッチが言った。

 「私の従姉も、富良野にいるんだよね」

 「へー、どのあたり?」

 「スキー場のほう。こよみの叔父さんは?」

 「布礼別、って、ずっと山の方」

 「いいなあ、景色がいいとこでしょ?」

 「うん。何にもないけど、景色だけはいい」

 「私も行きたいけど、テニスとバイトがあるからなあ」 

 ナッチは、テニスサークルの部長をしている。

 「私も仕事にいくんだよ。人手が足りないんだって」

 「何の仕事? 私も行くかな」

 「ナッチは居酒屋のバイト休めないでしょ。仕事は、行ってみなきゃ、なんだか分からない」

 「行きたかったなあ。私も叔父さんの家に泊まって、話、聞きたかった」

 「休みの時があったら、泊まりに来てもいいよ。でも、言っておくけど、私の叔父は四十だから。トシなんだよ」

 「いいの。渋いオジサマが好きなの。オジサマじゃなきゃ、私の良さはわからんのよ」

 こよみはあきれた。

 「ナッチの従姉って、結婚してるの?」

 「ううん、独身。幾つだっけなあ、まだ四十にはなってないと思うけど」

 「なんの仕事?」

 「催眠療法士。アメリカの何だかって言う大学で資格取ったらしいけど、こっちに帰ってきてからもボチボチやってるみたい」

 「面白そう。私も診てもらいたい」

 「こよみ、いいかも。ほら、お母さんのことで悩んでたじゃない」

 「どんなことするの?」

 「無意識の深い部分にアクセスして、心の傷を癒していくの」

 「無意識の深い部分?」

 「私も詳しく説明できないけど、催眠状態になると無意識の中に入っていくことができるんだって。そこで問題を起こしているものを見つけて癒して治す、っていうのが、従姉のやり方かな」

 「すごい。催眠状態になると、無意識の中に入れるんだ。ナッチ、その従姉さんの電話番号教えて!」

 「いいけど。まさか、叔父さんを紹介するわけでないでしょうね」

 「なんで? そのつもりだけど? 私は別に無意識にアクセスしなくたって、母を嫌いな理由は分かってるし」

 「だめ! 叔父さんは私が先に手、つけたんだから」

 「は?」


 思わず吹き出し、こよみは慌てて手で口を押えた。咳もしてみせる。

 隣りの太った女性は汗を拭くのに忙しそうで、何も気づいていないようだ。

 いつの間にかバスは富良野に入っていたようで、駅に停まった。

 隣りの女性は降りる様子がない。

 「すみません・・」

 こよみは立ち上がった。

 「ああ、ごめんなさい。すぐよけますね」

 日本人だったようだ。

 汗を噴き出しながら、太った女性は立ち上がり通路に出た。

会釈をして、こよみはバスの降口に向かった。真っ黒に日に焼けた叔父が手を振っているのが窓から見える。

「叔父さん、待った?」

バスから降りると、茂に声をかけた。

「いいや、ちょうど今来たばかりだよ」

「よかった」

軽トラックが道路の脇に停まっていた。汚れて真っ黒だ。

「悪いね、軽トラで」

「十分」

こよみは軽トラックの助手席に乗った。


富良野は高校を出て以来だった。

二年半のうちに、消えている店も多い。逆に、新しい店もあった。

山に上がっていくと、昔のままだ。

「去年は台風でやられて、道路が流されてしばらく通れなかったんだよ」

と、茂が言う。

見れば、山の中に木が沢山倒れている。

「ちょうどブラジルに行ってた時かな、うちの裏山が崩れて、玄関が土砂で埋まったって連絡が来たのは」

山を抜けると、視界が開けた。家がポツポツと現われ、緩やかな勾配が一面緑と金色に埋まっている。

ちょうどビール麦の収穫時期で、麦の穂が陽を浴びて黄金になびいていた。

「ああ、きれい!」

こよみは溜息をついた。

ナッチにも見せてあげたい、と思う。ただ、叔父に対する熱がもうちょっと冷めてからじゃないと・・。叔父に引かれてしまう。


「着いたよ」

古い小さな民家の前に、軽トラックが止まった。

助手席のドアを開け、茂がこよみの膝の上のカバンをさっと持ち上げる。

「ありがとう、叔父さん」

こよみは軽トラックから跳び下りた。

玄関の横に、大きな泥の山がある。

「この泥が玄関の前にかぶさって、中に入れなかったんだよ」

茂が言った。

「でも、家、何ともなくて良かったね」

土砂は、ちょうど家の前を流れていた。山の崩れた部分は深くえぐられ、木の太い根が哀れに見えるほど露出している。

「水が普段から湧いてたところだからな。緩んでたのかもしれない」

今回は助かったけれど、また大雨が降って裏山が崩れたら家が押し潰されるかもしれない。川も近くにあるし、氾濫する可能性もある。こよみは叔父の身が心配になった。

「大丈夫だよ。叔父さんはもっと危険なところをくぐり抜けてきた身だからな。不死身の男なんだ」

茂がこよみの心配げな顔を見て、にっと笑って見せた。

「おかえり」

急に後ろから、声をかけられた。

驚いて振り向くと、麦藁帽子をかぶり、手にクワを持った眼鏡の女性がいる。

母の沙世だった。

言葉が出ない。爽やかに晴れていたこよみの心が急激にどんよりと曇っていく。

「元気そうじゃない」

沙世がこよみを上から下まで点検する。

「ちょっとやせ気味ね。もうちょっと食べなさい。昔から小食だったものね。だから、背が伸びなかったのよ。私が付いてたら、もっと背が伸びたのに・・」

残念そうに沙世が言う。

「栄養のあるもの食べてるの? 野菜だとか魚を食べなきゃダメよ。今晩はお母さんが作ってあげるわ」

黙って突っ立っているこよみに気を使い、茂が言った。

「姉さん、話は後にして、まず家の中に入ろう。こよみも疲れてるだろ」

「若いんだから、疲れてなんかないわよ。すぐ近くから来たんだし。私は、仕事が途中だから後から家に入るわ。もう、草だらけなんだから」

ブツブツ文句を言いながら、裏庭へ行った。

こよみは茂の後に付いて、家の中へ入る。

「ごめんな。姉さんここに来てること、言わんくて」

茂がこよみに謝った。

「ううん。いいよ、いつか会わなきゃ、って思ってたから」

申し訳なさそうにしている茂に、作り笑いをして見せる。

「親子なんだから、そろそろ会った方がいいと思ってな。こよみに言ったら、絶対こっちに来ないだろ。だから、黙ってたんだよ」

ホント言うと、今すぐにも旭川に飛んで帰りたかった。でも、そんなことをしたら、私の仕事を当てにしている叔父の友達に迷惑がかかってしまう。

明日からは仕事だから、母と顔を合わせる時間も少ないだろう。叔父もいるし、何とかなるにちがいない。こよみは自分に言い聞かせた

それにしても、母は相変わらず口うるさく、自分勝手だ。少しは変わっているかと思ったが、期待したのが間違いだった。

こよみは荷物を持って二階に上がった。

二階に、こよみが高校生の時に使っていた部屋がある。そこは昔、母の沙世が中学二年生まで使っていた部屋だった。六畳の部屋に、勉強机とベッド、箪笥があった。机の中には、母が残していったノートやシャーペン、消しゴムが入っていた。ノートをペラペラめくると、可愛い犬の絵が描かれていた覚えがある。母があんなイラストを描くんだ、と意外だった。それに、可愛らしいミニスカートやワンピースが何枚か箪笥に入っていた。こよみはそれらを奥に押し込み、自分のものを入れた。

部屋に入ると、壁際にカバンがひっくり返っており、ベッドや床の上に女物の下着や服が散乱していた。

え? 

驚いて、こよみが部屋の中を見回す。泥棒?

下から、茂が何か叫んでいる。

こよみは慌てて部屋を出て、階段から茂を見下ろした。

「その部屋、姉さんが使ってるんだよ。こよみは、隣の部屋を使ってくれ。叔父さんが昔使ってた部屋だよ」

茂が言い終わらぬうちに、こよみはカバンを持って降りてきた

お母さんの隣の部屋だなんて、絶対我慢できない。

「叔父さん、下の部屋空いてない?」

「母さんと隣の部屋は嫌か?」

「うん」

茂はじっとこよみを見た後、考え込んだ。

「ちょっとカビ臭い部屋でいいなら・・」

「どこでもいいよ」

茂は急いで床の間の隣りの部屋に行き、窓を開けた。

黒くなった畳。壁の下方は湿気ってカビたのか、色が変わっている。むわっとした臭いも鼻に付く。

「ひどいな。叔父さんの部屋と交替するか?」

「大丈夫、大丈夫、掃除したら何とかなる」

「ここは叔父さんのお祖母さんが寝てた部屋なんだよ。ずっと使ってなかったからなあ」

こよみと茂で拭き掃除をすると、何とか臭いもマシになった。

「ここで、叔父さんも子供ン頃よく祖母さんと一緒に寝たなあ」

「お祖父さんは別の部屋だったの?」

「祖父さんも一緒だったよ。その頃は、曾お祖父さんも生きてて、今叔父さんが寝てる部屋にいたんだ。曾お祖父さんが亡くなった後、祖父さんが移ってきたんだよ」

「よくこんな狭い部屋に二人でいたね」

六畳しかない部屋を見回してこよみが言った。

「昔は、着るものもあまりなかったからなあ。それに、部屋は寝るくらいで、ほとんど茶の間にみんなでいたし」

母の沙世が外から家の中に入ってきたようだった。

「しげるー! しげるー!」

沙世の叫ぶ声が聞こえる。

「ああ、暑い。汗、びっしょりだわ」

茂が部屋を出て行った。

「ほら、ホウレンソウ取って来たわ。夕飯に茹でてちょうだい」

「おひたしがいいかい?」

「そうねえ、久しぶりに卵とじも食べてみたいわ」

「昨日も、食べたよ。姉さんは卵とじが好きだねえ」

「そうだったかしら」

階段を上る音が聞こえる。と、同時に、悲鳴。

「しげるー! ど、泥棒に入られたわ。け、警察、呼んで」

こよみは、ハッとする。そうだ、部屋を覗いた時、服や下着が散らばり、ひどく荒らされていた。

「何か無くなったもの、あるかい?」

茂が妙に冷静な声で聞いている

「あるわよ。婚約指輪がないわ」

「姉さん、そんなもの、とうの昔に投げちゃっただろ?」

「捨てる訳ないじゃない。智史さんからもらったもの」

何かおかしい。こよみは部屋を出た。

茂が階段の下で、上にいる沙世を見上げて話している。

「とにかく警察はこんな事じゃ来ないよ」

「母さん、どうしたの?」

こよみが茂に聞く。

「この子、誰?」

沙世が二階から聞いてきた。

思わず母の顔を見つめる。

「こよみだよ、姉さん」

茂が言った。

沙世が黙りこんだ。記憶を辿っているようだ。

「ああ、こよみ、そんなとこで何してるの? 早く二階にいらっしゃい。あなたの部屋があるのよ」

いつもの母に戻っている。

「こよみは下の部屋を使うことになったよ」

「なんでまた、あんなカビ臭い部屋」

「下の方がトイレが近くていいんだってさ」

茂が言い含めると、沙世は不満げに自分の部屋に戻っていった。

「母さん・・」

こよみは茂に目で問いかけた。

「ちょっと物忘れが激しいんだよ」

「物忘れのレベルじゃないよね。いつから?」

茂はホウレンソウを持って、台所に向かった。水道の水で根に付いた泥を洗っていく。

「姉さんの勤めている会社から、叔父さんの所に連絡があったんだよ。ホントはもっと早く連絡したかったみたいだけど、叔父さんは海外にいて連絡付かなかったから」

「会社に大分迷惑かけてたの?」

こよみは心配になった。母のことだから、どんな言いがかりをつけているか。

「いい人達だね。それは何も言ってなかったよ。ただ、物忘れが激しいから、病院に連れて行った方がいいんじゃないかって」

「病院に連れて行った?」

「こっちに連れてきてからね」

「お医者さんはなんて?」

「若年性認知症」

予想はしていたが、ショックだった。まさか自分の母がなるとは。

「美瑛の物忘れ外来というところに連れて行ったんだよ。そこの先生にいいものを教えてもらった」

黄色い液体の入ったビンを棚から出してきた。

「ニンニクを七〇度のオリーブオイルにつけて作ったニンニクオイルだよ。これが脳の機能にいいらしい。これをサラダにかけて毎日食べてるんだ」

「うわっ、だから、臭かったんだ。軽トラの中で臭くて大変だったんだよね」

「本当か? 悪かったな」

茂が愉快そうに言った。

「ああそうだ、その病院でおばあちゃんを連れていた旭川の人と知り合ったよ。旦那さんが認知症の薬を開発してるらしい。ほら、連絡先聞いといたぞ」

「米倉詩織」という名前と電話番号の書かれたメモを見せてくれた。

「こよみ、旭川に帰ったらこの人に連絡して、認知症の新薬を都合してもらえないか、頼んでくれるかい?」

こよみはうなづいた。



*畑の王子様


青空の下、果てしなく続く畑の一角でこよみはうめいていた。

腰が痛くて堪らない。膝と背中も痛かった。農作業を甘く見ていた自分を呪った。この場で仕事を放棄し、横になりたい。

茂や徳弘さん、他のヘルパー二人はずっと先に進んで小さくなっていた。

こんなんじゃ、自分は役に立たない、という思いが強くなる。

無農薬の人参畑。草に覆い尽くされている。十日以内に全部草を取り尽くさないと売り物になるまで成長できない、と徳弘さんが言っていた。

どう見ても、十日で草を取り切れるとは思えない。二時間以上地べたに這いつくばっているが、こよみなら2メートルやっと進んだところか。

母が子供の頃、学校から帰ると毎日仕事を手伝わされた、と言っていた。ふーん、と聞き流していたが、こんなに大変な作業だったのか。

ふと気づくと、自分が担当していた列の草が既に綺麗に抜き取られている。

あれ?

不思議に思って前を見ると、ずっと前方まで草がなくなっていた。その先に、一人のヘルパーの後ろ姿があった。白いTシャツにジーンズの青年だ。こよみの列の草を抜いてくれている。

痛い腰を無理やり伸ばし、よろよろ立ち上がる。かなり年取ったお婆さんのような格好で青年のところまで歩いた。

青年は真剣な顔で、両手を器用に使って草を抜いている。

「すみません。私の所、やってくれて」

急に声をかけられ、驚いた表情で青年が顔を上げた。こよみを見て、顔を綻ばせる。その爽やかな笑顔がまぶしい。思わずこよみの胸がときめいた。

「あと私、やります」

こよみが顔を赤らめながら言った。

青年は会釈して、さっと自分の列に戻って行った。

かっこいい! 畑の王子様だ。

腰や背中の痛みは相変わらずあるが、痛みが幾らか減ったような気もする。

再びこよみは草取りに集中した。あの人は、確か両手を使って、こう草を取っていた・・。なかなか思ったようにはできないが、前よりは早くなったような気がする。

「休憩! こよみ、こっちに来い!」

暫くして、茂の声が遠くから聞こえた。

顔を上げると、こちらを向いて歩いている4人の姿が通路に見える。

こよみは急いで立ち上がろうとしたが、体が言うことを聞かない。再びお婆さんのように腰を曲げ、よろよろと通路まで出た。

「一番若いもんが、随分ひどい格好してるな」

茂が笑いながら言った。

4人はこよみの所まで到達すると、土の上に座りこんだ。

「ほら、こよみちゃんも座って、おやつを食べたらいい」

徳弘さんがパンとジュースをこよみに渡した。

「すみません。遅くて・・」

「初めてだから、こんなものだよ。僕も、初めて農作業やった時は、進まないし、腰は痛いし、泣きたくなったよ」

背の高い二人の青年が頷いた。ヘルパーだと思っていた二人は実は、ウーファーのようである。

ウーファーというのは、環境に優しい有機農家や事業をしている家にコミュニケーションと学びを目的に旅して廻っている人達のことを言うらしい。労働力を無料で提供する代わりに、宿泊と食事が与えられる。世界中にその組織があり、多くの外国人のウーファーが日本の環境に優しい農家等を廻っており、また日本のウーファーも外国のオーガニックファームに働きに行っている。

ウーファーのうち一人は原田といい、早稲田大学の社会科学部の学生で、一年休学し、日本と外国を廻っていると言った。こよみの一つ年上のようだ。世界を旅して廻っていた茂と話が合うようだ。

もう一人の、こよみを助けた白Tシャツとジーンズの青年は日本人ではなく、台湾人だった。二八歳。中学の体育教師だったが、今は休業して勉強の為にこうして世界を廻っているらしい。

「ハジメマシテ。トニーデス。ヨロシクオネガイシマス」

片言の日本語でこよみに挨拶した。

優しい笑顔に、ドキッとする。

「いつまで、ここにいるんですか?」

どぎまぎしながら聞いた。

「シチ、デス」

指を七本出して答えた。

「七日?」

それしかいないのか、とがっかりするが、気取られないよう別の質問をする。

「次はどこに?」

「カナダ」

そんな遠くに、と思う。

「カナダはいいとこだよ」

茂が言った。

「原田もトニーも、よく働いてくれるから、助かるよ」

徳弘が言う。

「アジア人は一般によく働いてくれるんだけど、その中で特に台湾の人は総じて一生懸命だよ」

「どこの国の人があまり働かない?」

「そうだなあ。ヨーロッパの男だなあ。女性は一生懸命なんだけど、男なら途中で怒って、出て行ったりする」

「ヨーロッパ人は、自己主張が強いからなあ」

「徳弘さんはいいですね。家にいながら、いろんな国の人達と交流できるんだもの」

と言いながら、こよみは土の上に寝転がった。土が服や帽子についたが、そんなことは気にしていられない。腰が痛くて、座っていられなくなった。トニーの目が気になるが、もう限界だ。

「3日も経てば、慣れるさ」

茂が笑いながら言った。



 *ほとばしる鬱積


沙世は毎日、朝と夕方小さなビニールハウスで野菜の世話をしていた。暑い時は路地の畑か庭の草むしりをしている。

沙世が野菜の世話に夢中になっている間、茂もこよみも心配なく、仕事に行っていられた。

昼は家に戻って、沙世と一緒に食べる。そんな生活が続いた。

「畑仕事をして、姉さんの頭の調子が大分良くなったんだよ。やっぱり農作業は体にも頭にもいいんだな」

茂が言った。

時折、沙世は昔に遡っていた。子供の頃育った家にいる為かも知れない。こよみを見ると、一気に時を駆け上り現在に戻ってきた。夢見がちな少女が突如、口うるさい母になる。

「多分、一人でこよみを育てなきゃならんと思って、必死だったんだよ、姉さんは」

茂が沙世のフォローに回る。だが、こよみは茂が母の肩を持てば持つほど、母に対する反感が募った。

ある日、こよみが疲れ果てて仕事から帰って来ると、沙世がこよみを叱りつけた。

「何なの、その格好は。家の中が汚れるでしょ。帰ってきたら、ちゃんと着がえなさい」

身体中が痛く歩くのもやっとだったこよみは、仕事をした格好のまま茶の間でひっくり返っていた。いつまでも子供扱いの母に、思わずプツンと切れた。

「お母さんはどうしていつも自分のことばかりなの? 疲れてないか、とか、大丈夫か、とか何で聞けないの?」

「何を言ってるの? いつもお母さんはあなたのことを・・」

初めてこよみに反発されて、沙世は驚き、慌てていた。

「いつもお母さんは私の気持ちなんて考えてくれなかったよ。小学生の頃、私が友達と遊びたくても、塾に行かせた。みんなが持ってるゲームだって、そんなの必要ないって、買ってくれなかった。私は友達と遊びたかったし、みんなと同じゲームが欲しかった。漫画も読みたかったよ。部活だって、ホントはテニスじゃなくて、演劇部に入りたかった。人前に出て恥ずかしい真似はやめなさい、って母さんが言うから!」

こよみは叫び続けた。ショックで座り込む母の姿が目に入った。それでも、口を止めることはできなかった。ずっと溜め込んできた思いが堰を切ったかのように溢れ続けた。

「高校に入って、友達と原宿に行くって言ったら行かせてくれなかったよね。デートの時もそう。勝手に私の携帯覗いて、そんな男の子と付き合っちゃ駄目だって、それでも私が彼に会いに行ったら、お母さんが来てめちゃくちゃにした」

「あの子は軽薄な子だったの。あなたが後で泣く姿を見たくなかったのよ」

「泣いたっていいじゃない。私は好きだったんだから。私はお母さんの人形じゃない。私は私の人生を生きたいから、お母さんから逃げて北海道に来たの」

「東京の高校が合わなかったからじゃ・・」

「そんなの叔父さんが勝手に言っただけ。私はただお母さんから離れたかった」

沙世の顔が青ざめ、唇がブルブル震えていた。

こよみの心の中に鬼心が頭をもたげた。

「北海道に来て、お父さんの居場所を調べたの。連絡したら、大阪からすぐに会いに来てくれた。お母さんが言うような人じゃなかったよ。優しくて、素敵な人だった」

沙世はうつむき、もはや何の感情も読めなかった。

「もうこれでいいだろ」

茂が優しくこよみの肩に手を置いた。いつの間にか、二人を見ていたのだ。

とたん、こよみの目から涙が溢れだした。自分の部屋に走って入り、布団に打っ伏して泣いた。





夫婦の溝



*犬との出会い


「いってらっしゃい」

詩織が健二を玄関から送り出した。

「今日も遅いから、先に寝てていい」

背を向けて健二が言う。声が冷たく響く。

「はい」

詩織が小さく返事をする。

一度も詩織の顔を見ないまま、健二は車に乗ると出て行った。

何が悪かったんだろう。

溜息をつきながら、詩織は玄関の鍵を閉めた。

最近、健二の様子がおかしい。詩織の顔を見ようとしないし、口数も少なくなった。義母を健二が一人で看た日からだ。

義母の認知症の症状を見て、ショックだったのだろうか。認知症の薬を開発しているとはいえ、患者を実際見ることはないのかもしれない。たとえ見ていたとしても、自分の親となると受け入れられないのかもしれない。

それとも、自分が健二を投げ飛ばしたことが原因だろうか。

あの時、健二に手を叩かれて怯えている義母を見て、咄嗟に体が動いてしまったのだ。弱々しく子供の様に無邪気な義母を守りたい、と強く感じた。義母の介護は嫌でない。両親を亡くしている詩織にとって、義母は孤独でないことを示してくれる大事な家族だった。

義母の気持ちに寄り添って介護をするうちに、息子よりも詩織を信頼し、好意を持ってくれるようになった。それが気に入らないのだろうか。

いずれにせよ、健二がそんなに心の狭い人間だとは思いたくなかった。

時計を見ると、そろそろ7時半になる。義母が起きる時間だ。

部屋の前で声をかける。

「お母さん、起きてますか?」

何も返事がない。

「入りますよ」

ドアを開けた。

ベッドはもぬけの殻だった。ベッドの下に、ずっしり重たくなった紙パンツと濡れたパジャマのズボンが隠してあった。ベッドの敷布が濡れている。

きっとお漏らしをしたのが恥ずかしくて、抜け出したのだろう。

ハンガーに掛けて置いたズボンが無くなっているので、ちゃんとはき替えているようだ。上はパジャマのままだろう。

「お母さん!」

茶の間に向かった。

窓が開いている。外に置いてあったサンダルがなくなっていた。

慌てて玄関に向かい、靴を履いて外に出た。

義母の姿はどこにも見えない。

いったいいつ頃出て行ったのだろう。もし今出て行ったばかりなら、義母の足なら姿が見えるはずだった。

詩織は朝5時に起きて、弁当作りをしている。台所にいるので、茶の間に義母がきたらすぐに分かるはずだった。

まさか、5時前に出て行った? そうなると、3時間近くも外でさ迷っていることになる。

詩織は慌てて走り出した。


庭で土いじりをしていた健二の母が、走って家を出て行く詩織に気づいた。

詩織が玄関で健二を送っている間に庭に出たのだ。すると草が気になって、しゃがんで草抜きを始めたのだった。植木の陰にいたので、詩織に気づかれなかったのだろう。

「詩織さーん!」

呼びながら、健二の母は追いかけるが、すぐに詩織の姿は消えてしまった。

気づくと、見知らぬ土地にいる。

心細さに震えながら、詩織を探して歩いた。


どこを探しても、義母の姿は見えなかった。

警察に頼むしかない。慌てて家を飛び出したので、携帯を忘れていた。とりあえず詩織は家に向かうことにした。

今、何時なのだろう。

家に近づいていくと、玄関の辺りに誰かいるのが見える。二人いるようだ。

いや、一人は人間じゃないようだった。大きな犬だ。もう一人は、義母だった。

ホッとして、力が抜ける。

犬が詩織に気づき、ワンワンと吠え始めた。玄関に辿り着くと、跳びついて詩織の顔を大きな舌でペロペロ舐め始める。

「チャ、チャーリー?」

犬の体重に押され、よろめきながらその名が口に出た。いや、ちがう。チャーリーじゃなかった。ゲンだ。

「詩織さんが家を出て行ったから、追いかけたっけ、見えなくなってしもうて、どこだか分からんところに来てしまって困ってたら、この犬が来てな、ここに連れてきてくれたんだよ」

震えながら、義母が言う。

家を出た時、義母は家にいたのだ。よく確かめもせず家を飛び出したことを詩織は反省した。

「ありがとう」

詩織は、犬の頭を撫でた。犬は嬉しそうだ。キラキラした目は、何かを訴えているようにも見える。

可愛い。思わず犬を抱きしめる。

犬に舐められ、顔も手も唾液でベタベタになった。

「詩織さん」

義母が、詩織のベタベタの手を握りしめた。

「帰って来ないかと思ったよ。もう出て行かないで」

こんなに力があったのか、と思うほど、義母の手が強く詩織の手を握る。

健二さんとの間のよそよそしさが、義母にも伝わっていたのだ。義母は心配していた。

「お母さん、お母さんを置いて出て行ったりなんて、私、絶対しません。約束します」

ほっとした表情が義母の顔に広がった。

義母は、こんな私を頼りにしてくれてるんだ。健二さんと何があろうと、義母だけは守っていく、と詩織は決意した。

振り返ってみると、犬はいなくなっていた。



 *健二の決断


家に帰ると、居場所がなかった。

投げられて以来、詩織とうまく会話ができない。どうしても、鮫島の影がチラついてしまうのだ。

このままじゃ不味い、と思えば思うほど、自分の態度は硬化していった。

詩織が悩んでいるのが手に取るようにわかる。自分に喋りかける声がおどおどしている。

しかしある時から、観念したのか、詩織の方も話しかけてくることはなくなった。二人でいる時は、テレビの音だけが流れている。

母がいる時は、詩織と仲良く話す声が聞こえてくる。献身的に世話をしてくれるのは有難い。だが、一人だけカヤの外に置かれると疎外感を感じてくる。わざとでないのは分かるが、当てつけでないのか、とも疑いたくなる。母も母だ。息子を完全に無視している。

残業をして帰ることが多くなった。

仕事の方も、暗礁に乗り上げていた。自分の開発したアルツハイマー治療薬の効果が出ていなかった。逆に、認知症を促進しているのではないか、という疑いすら出てきたのだ。

治験は、四年前に第三段階に突入し、百人程の患者さんに薬をとってもらっているが、ある病院の入院患者では症状が進行し、亡くなった患者も多い。病院では寝たきりになりやすいせいか、元々進行が速い傾向があった。寿命も、四、五年のケースが多いというから、薬が影響しているかは判断できなかった。しかし、その可能性がある以上、治験は中止にした方がいい。

上司に報告すると、まだ撤退するには早いという。これまでこの薬にかけてきた時間と費用を考えると、そう簡単に撤退できないのは分かっていた。しかし、上司の話しぶりでは、データも改ざんしそうな勢いである。早急に改良点を探し出すことを求められた。

だが、もう改良するところなどし尽くしている。一から新しいものを作り出さなければ難しかった。


「明日、お話を伺いに行きたいのですが。・・はい、存じています。2時ですね。・・分かりました。よろしくお願いします」

気づいたら、旭川科学技術大学の博士に電話をしていた。そんな所に行っても、何の解決にもならないのに。自分で自分がおかしくて笑った。


近くの菓子屋で、菓子の詰め合わせを買った。それを持って、大学へ向かう。

草で覆われた、コンクリートの建物の近くに着き、周りを見回した。

大学の敷地内ではあるが、この辺りにはほとんど人が来ないようだ。草が子供の背丈ほどに伸びている。人が一人通れるほどの道が踏みつけられて出来ており、それが裏口へと通じていた。正面口は使われていないようで、草が茂っていて近づけない。

裏口のドアをノックした。

ドアが開き、猿が顔を出した。と思ったら、パタンと閉められた。

この猿が、話に聞いていた猿か、と感心する。研究生が転送されただけあって、なかなか賢そうだ。

すぐに、髪がもじゃもじゃの、度のきつい眼鏡をかけた男がドアを開けた。

「申し訳ありません。うちの猿が失礼をいたしまして」

「いえいえ、賢そうなお猿さんで。お名前は?」

「林と言います。どうぞお入りください」

「失礼します。どうぞ、お口に合うか分からないのですが・・」

菓子箱を差し出すと、猿があっという間に奪い取っていった。

ビリビリと包装紙を破き、箱を開くと、その場にぶん投げた。どうやら気に入らなかったらしい。

「こら、林君。失礼じゃないか」

博士は慌てて菓子を拾い集めた。

猿は横を向いている。

「すみません。林は、好き嫌いが激しいものですから」

「いいですよ。今度は、林君の好きなものを聞いてから買ってきます」

健二は笑ってみせた。

部屋の中はガラクタでごった返している。物が山積みになっているので、どれだけ部屋が広いのか分からない。動けるスペースは僅かだ。

「どうぞ、お座りください」

博士が回転椅子を差し出した。

「回転しますから、ゆっくりと静かにお座りください」

健二は椅子に座った。回転しない。

「さすがですね。初めての人は、五回ぐらい回ってしまうんですよ」

博士が感心したように言った。

「この前に来た女の子は、十回以上、回っていました」

「回っている間、数えてたんですか?」

「え、ええまあ」

博士は言葉を濁した。

このガラクタだらけの部屋といい、猿と一緒に生活したり、椅子の回転数を数えていたり、変わった男だ、と健二は思った。しかし変わり者だからこそ、驚くべき発明ができるのかもしれない。

「エスタニック製薬に勤めてらっしゃるとか」

「はい」

「何をされているんですか?」

「認知症の薬を開発しています」

「それは、いい仕事をしてますね」

「それが・・、うまくいってないんです」

こんなことを博士に相談するつもりはなかったのだが、成り行きで話すことになった。

「アルツハイマーの原因は、アミロイドベータというたんぱく質が蓄積することで脳神経細胞を傷つけ、死滅させてしまうことにあります。アミロイドベータを分解する薬を開発して、今臨床実験の段階なのですが、それがどうも動物には効いたのですが、人には効果が見られないのです。試験管の中では確実にアミロイドベータが消えていくのが目に見えて分かるのです。それが、人間の頭の中に入ると何かが薬の働きを阻害して分解を阻止するどころか、逆に増加させている可能性も出てきました。今、八方塞の状況です」

健二は溜息をついた。

「それはそれは・・」

博士は考え込んだ。

「アミロイドベータというタンパク質は、正常な脳の状態であれば簡単に分解されて、蓄積しないのでしょう? 実験動物には、分解能力がなくなった動物を使いましたか?」

「それはもちろん。実は、エイジイワクチンの開発で実験に使った猿を使いました。血液検査でアミロイドベータの量が多く出た猿に、化学的に合成したアミロイドベータも注入して、開発中の薬をとらせました。一週間で、アミロイドベータの量が四分の三に減り、一ヶ月で全てなくなったんです」

「エイジイワクチンの・・そうですか。実験施設が火事になって、動物が沢山死んだでしょう」

「あれは、かなり痛手でした。実験中の猿が沢山死んでしまいましたから・・」

と言ったところで、健二は何か思い出したようだった。

「実は、火事の半年近く前、エイジイワクチンを開発していたグループの全員が亡くなったことは博士なら当事者ですからご存知でしょう。その少し前に、開発グループの一人から私に連絡があったのです。驚くような発見をしたから、それを伝えたい、と言ってました。それが、エイジイの感染が起きて、結局会うことが出来なかったのです。ひょっとすると、認知症の薬のことで何か私に伝えることがあったのではないか、と悔やまれてなりません」

「ちょっと待ってください」

急に、博士が立ち上がった。回転椅子がクルクル回る。

「その話、その話・・どこかで・・」

博士は考えながら健二の周りをグルグル回る。

「ああ!」

回転椅子にドサッと座った。途端、回転椅子が博士を乗せて回り始めた。

一、二、三、四、五…一三。

思わず健二は回数を数えてしまった。

目を回しながら、博士が言う。

「先日ここに来た女の子が言ってたんですよ。彼女の叔父が毎晩、年取った猿の夢を見るそうなんです。その叔父さんと言うのが、エイジイワクチンの開発部の一人を転送した相手だったんです。どうやら転送してから、叔父さんの性格が少し変わったらしく、潜在意識の奥底に誰か別の人の意識がいるんじゃないかって疑っていました。その人物が訴えたいことがあって、叔父はその年取った猿の夢を毎晩見るのじゃないかって、言っていたのです」

それを聞いて、健二はここに来た目的を思い出した。

「私は、そのことで博士にご相談しにきたんです。やはり転送された相手の意識は消えずに残っているのでしょうか。妻に、鮫島さんの影がちらちら見えるのです。この間は、妻に投げ飛ばされました。どう考えても、妻がするような行動じゃありません」

「奥さんに投げ飛ばされたんですか・・」

博士が驚いて言った。

猿がおかしそうにキキキキーっと声を立てた。気に入らない、と菓子箱を投げたくせに、入っていた菓子を全部食べてしまっている。菓子の包み紙が散乱していた。

「私も林はいなくなったと思っていたのですが、様子を見ているうちに、どうもまだこの猿の中にいるのではないか、と思い始めました。林は器用な男で、鍵を針金で開けるのが得意でした。この猿も、針金を使って鍵を開けるのです。それに、林は小柄な可愛らしい女の子が好みでしたが、この猿もそんな女の子が近づいたら興奮するのです」

「やはり・・そうですか。この猿も」

健二は呻いた。疑いが事実として眼の前に突き出され、はっきりしたことで、健二は詩織に向き合う覚悟ができた。鮫島が中にいる詩織とは結婚生活を続けられないのは明白だった。離婚を切り出さなければならない。

プーッ、と猿が唾を健二の顔に吐いた。

「すみません! 」

博士が慌てて謝る。

「どうやら私は、林君に嫌われてるみたいですね」

ハンカチをポケットから出して、健二は顔を拭いた。

「博士、その女の子と連絡取れますか? 会ってお話を聞きたいのです」

「分かりました。夏休み中は、富良野の叔父さんの所に行ってると言ってました。いつ頃帰られるか聞いておきましょう」

再び猿が健二に唾を吐きかけた。

「こら、林君、やめなさい!」

博士に叱られ、猿がしゅんとしている。

健二は立ち上がりながら言った。

「長居したみたいです。林君を嫌がらせてしまったようですね。博士、叔父さんにも会ってお話を聞きたいので、私が富良野に行きます。都合のいい日を聞いておいてください」

健二は建物を出ると、固い決意を持って家に向かった。





こよみの恋




続けて畑に行くうちに、仕事も身体も大分慣れてきた。草を抜くスピードも早くなったし、腰や背中の痛みも楽になってきた。自分だけ遅れて、列を手伝ってもらうことも少なくなっている。

こよみとトニーの距離もグンと近くなった。

仕事が終わった後、二人でお喋りすることも多くなった。そんな時は茂が気を遣い、先に帰っている。

こよみは、トニーの話を聞くのが好きだった。片言であまり話は長くできないし、通じないことも多いが声を聞いているだけで心が癒された。彼が両親をとても尊敬し、大切にしていることは伝わる。

「イツカ、リョウシン、ヨンデ、ステキナココ、ミセタイ」

と、トニーが言う。

彼の両親に対する気持ちは、こよみのものと全く違うことに驚かされた。

「ジブンノユメ、リョウシン、シアワセニ クラスコト」

どうして親のことをそんなにまで考えてあげられるのだろう、と思う。何度も質問し、その度にトニーは親への想いを口にしたが、こよみには分からなかった。両親に大事に可愛がられて育てられたからだろうか。先日、こよみが母に言い放ったことをトニーに知られたら、軽蔑されちゃうかもしれない。

歩いて三〇分の距離だが、話に夢中になって暗くなった時は、トニーが家まで送ってくれた。

「サヨナラ!」

トニーの笑顔を見ると、胸が苦しくなる。もうすぐ彼は去ってしまう。

「台湾は、親を大事にするそういう風土なんじゃないかな」

と、茂が言う。

「韓国もそうだけど、昔の日本もそうだったよな。いいことか、悪いことか、分からないけどね。叔父さんに子供がいても、叔父さんなら敬われる様な親になれないからなあ。尊敬されて、真似されて、同じ風来坊になられてもなあ」

茂が苦笑いして言った。


トニーの滞在最後の晩、徳弘の住宅で、徳弘の友人や近所の人達を呼んで送別会が開かれることになった。

「姉さんは叔父さんが見てるから、こよみが行ったらいい」

茂が言った。

仕事から一旦帰ると、シャワーを浴びて汗を流し、ジーパンとTシャツに着替えた。

出かけようとしたところで、二階から下りてきた沙世と鉢合わせする。

可愛らしい熊の絵のついたTシャツに、短パンをはいている。

沙世はこよみに目もくれず、茶の間にいる茂の方へ行く。

「今日、しげる、夕飯なに作るうー?」

喋り方が子供っぽい。あの日以来、母の様子がおかしかった。

こよみは気になりながらも、外に出た。

徳弘の家の前まで茂の自転車を漕ぐ。


バーベキューは既に始まっており、七、八人がその周りを取り囲み、わいわい騒いでいる。

「お、きたぞー。こよみちゃんのお出ましだ!」

酔いの回ってる徳弘が、トニーをこよみに押しつけた。

うわぁ、と酔っぱらいたちの歓声が上がる。

トニーはアルコールに弱いらしく、ふらふらして眠そうだ。何とか目を開いているような状態で、こよみと会話など出来そうもない。

「せっかくこよみちゃん来たのになあ」

早稲田の学生原田が残念そうに言った。こよみとトニーの仲を取り持とうとしていたらしい。

「おねえちゃん」

と、徳弘の幼い娘がコップと皿、割り箸をこよみに渡した。

酔って顔の赤くなった三十代くらいの男性が、ビールを持ってきた。茂の住宅の隣家の伊藤だった。

「あ、私、飲めな・・」

と、こよみがコップを隠そうとすると、伊藤はコップをこよみから奪って、ビールを注ぐ。

「こよみちゃんも、すっかり大人になったなあ。ここに来た時は中学生か?」

「いえ、高校生です。高2です」

伊藤がビールの入ったコップをこよみに渡した。仕方なくこよみは受け取る。

「うちのお袋と婆さんがすっかりこよみちゃんを気に入っちゃってな、俺の嫁にしようって騒いでたんだけどなあ」

最近結婚したばかりの伊藤が、残念そうに言った。

茂が海外にいる間は、伊藤の母親や祖母が毎日のように、こよみの所にお惣菜や漬物を持って様子を見に来てくれていた。その他にも、駐在所の巡査や近隣の人が心配して来るので、東京の家にいる時よりも賑やかなくらいであった。雪が降れば、朝から伊藤がトラクターで除雪をし、大雪の時は車で街の高校まで送ってくれることもあった。

ここの人達は本当に親切な人ばかりだと、こよみはしみじみ思う。一年と半年くらいしかいなかったが、地域の人達の優しさは身に染みて感じていた。

「茂さんに、女の子一人にして置いていくな、って、幾ら言っても、全然聞かなかったもんなあ」

「ホントに、あいつは病気だ。一カ所に落ち着けないんだね」

「でも、最近はちょっと落ち着いてきたぞ。やっぱり齢なのかねえ」

せっかく伊藤が注いでくれたので、ビールを一口飲む。

まずい。

徳弘の妻らしき女性が赤ん坊を背負って、おにぎりの沢山のった皿を運んできた。

「どうぞ」

と、一つ、こよみにくれる。

ほっそりした、綺麗な女性だ。

「毎日、草取りに来てくれて、助かります。腰、痛いしょ?」

「大分慣れました。最初は、ホントに痛くて仕事も遅いし、私には無理だと思ったんですけど」

苦いビールをもう一口飲む。

「何とか、続けられて良かったです。それより、新規就農されて、大変だったんじゃないですか?」

と、もう二口飲んだ。

「そうですね。私は赤ん坊がいて働けないから、旦那が大変だったと思います。茂さんには本当に助けてもらって・・」

「茂さんは経験があるからなあ、いろいろ教えてくれるから助かるよ。いろんな農家、仕事して回ってるし、よく知ってる」

徳弘が間に入ってきて、言った。

叔父はそんなことをしてたのか、と飲みながら、こよみは感心した。叔父のことをあまり知らなかったなあ、と思う。

いつの間にか、コップが空になっている。

「こよみちゃん、イケる口じゃないか」

徳弘がビールを注いだ。


昨晩のことはあまり覚えていない。

よろよろしながら、トニーに送られて帰った覚えがある。

覚えているのは・・

くるくる回る満天の星。

それから・・

「ヤクソクー! ヤクソクー!」と、自分がトニーに迫ったことだ。

思い出すだけで、顔が赤くなる。

何の約束を迫ったのだろう。まさか結婚の約束なんて迫ってはいないだろう。

台湾に連れて行ってくれ、とか。

両親に会わせてくれとか。

ああ、やだやだやだ!

顔を枕に埋めた。

自分がむりやりトニーの小指を引っ張り、自分の小指を絡ませて指切りした光景がフラッシュする。

「おーい、こよみ、生きてるかぁ!」

ドアの外から茂の声がした。

「午後からは、仕事に出てこいよ。人参の草取りもあと少しなんだから」

「はーい!」

こよみは慌てて跳ね起きた。





催眠療法



 *少女になった母


あの日以来、沙世は無邪気な少女に戻ったままだった。

押し入れの奥に仕舞い込んであったミニスカートや水玉のワンピースを取り出して着ている。

たまに配達に来る運送屋のお兄ちゃんが驚いて、沙世の顔を見返すことがあった。

沙世は大きな声で歌を歌い、楽しそうだ。歌は昔の曲なので、聞いたことはあったが、こよみには曲名は分からなかった。

こよみは出来る限り沙世との接触を避けた。沙世の世界では、こよみはまだ存在しないし、沙世もこよみを見ようとしなかった。

沙世は茂を羨ましがった。

「しげるはいいよね、じいちゃんやばあちゃんに可愛がられて」

「姉さんだって、可愛がられただろ」

「ううん。私、ばあちゃんやじいちゃんと一緒に寝たことないもん」

「もう、大きかったからだよ」

「小っちゃかった時だって、一度もないよ。いいなあ、しげる。いっつもじいちゃんの膝の上に座ってて」

「姉さん、じいさんの膝の上に座りたかったの?」

「うん」

「姉さんはいつも、母さんの手伝いをしてたなあ」

「お母さん、忙しくて疲れてたから。手伝ってあげないと、可哀そうだったし」

「姉さんは優しいんだよ」

「優しくないよ。いつも、可愛がられてるしげるに妬いてた。ずるいって。私は可愛げのない子だったから、一生懸命手伝わないと褒めてくれないのに」

「父さんは姉さんを可愛がってたじゃないか」

「でも、死んじゃった。父さんだけが、私を分かってくれたのに」

「僕は、父さんにあまり可愛がられなかったよ」

「いいじゃない。他の人みんなに可愛がられたんだから。私も、ホントはここに残りたかった。お母さん一人じゃ可哀そうだったから付いて行ったのに・・」

「姉さん、新しいお父さんに虐められたの?」

「虐められてはないけど、居場所がなかった。こっちに帰ればよかった。勇気があれば、お母さんに言えたのに」

何度も何度も繰り返して、同じやり取りがされた。叔父は本当によく辛抱強く母に付き合ってくれると、こよみは感心した。昔、会うたびに母は定職に就かない叔父をクズのように扱い、ひどい言葉を浴びせてきたのに。叔父の懐の深さに感銘を受けた。


人参畑の草取りも終盤にかかっていた。

絶対終わらない、と思っていた人参畑の草抜きが、あと一日三人でやれば終わる、という段階になっていた。

ところが、あと一日で終わる、というのに、雨が降って畑に入れなくなってしまった。ハウスの中の作業はあったが、この日こよみは茂と休んだ。

茂は最近夢にうなされて、よく眠れていない。年老いた猿が毎晩出てきて、何かを訴えかけるという。「わかった」と返事をするのだが、目覚めた途端、忘れてしまうのだそうだ。

こよみは、ナッチの従姉に電話をかけることにした。

電話で話してみると、ナッチに似て気さくないい人のようだ。いつ頃来られるか、聞かれたので、なるべく早く、と頼んだ。畑が湿気って入れないうちがいい。すると、明日の午後二時、と話が決まった。

その日の夕方、目黒博士から電話があった。

認知症の薬を開発している製薬会社の人が、茂の中にいる人物について話を聞きたいという。「明日の午後二時から、催眠療法で叔父から話を聞きだす予定なんです。その時に、その方も同席して一緒に話を聞いたらどうでしょう」と提案した。折り返し博士から電話があり、相手が了承したから、よろしく頼む、と返事をもらう。



 *神からの警告


翌日午後、ナッチの従姉の家に二人で向かった。

あらかじめ場所を聞いておいたので、すぐに分かった。

普通の住宅だ。「寺岡京子」という表札が玄関に吊り下げられてある。家の前の駐車スペースに、軽トラックを停めた。

「ちょっと洗ってくればよかったね」

住宅街に車を置くには、汚れすぎている。

ほんの少しの時間差で、静かな音を立ててグレイの車が一台入ってきた。綺麗に洗車されてピカピカしている。高級そうな車だ。軽トラックに比べたら、どんな車も立派に見えるだろうけど。

車の中から、スーツを着た三十代後半の男が降りてきた。誠実そうな顔をしている。

「エスタニック製薬の米倉健二と申します」

男は名刺を二人に渡した後、菓子包みをこよみに差し出した。

「高橋茂です。名刺はないんですが」

「原口こよみです」

二人は男に自己紹介した。

「急に連絡しまして、申し訳ありません」

男は恐縮して謝った。

「あなたとは・・会ったことあるような気がしますが」

茂が思い出そうとしながら、言った。

「四年前、高橋さんがうちの会社の治験に参加された後、お訪ねしたことがあります。ちょうどスペインから帰られた後でした」

「あ、ああ。そういえば・・治験の後に頭に入ってきた人間のことを聞いて回ってると」

「あの時もお世話になりました」

「もう二時になるから、中に入りましょう」

こよみが口を挟んだ。


ナッチの従姉の外貌は、電話で話したのとは違い、ナッチとは全く似ていなかった。かなり太っていて、さっぱりした服が好みのナッチと違い、ヒラヒラのついた派手な柄のワンピースを着ている。

どこかで会ったことがあるような気がする。記憶を探っていくうちに、富良野に来る時に乗ったバスで隣の席だった人だ、と思い出した。

「あなたが夏実のお友達のこよみちゃんね。夏実がお世話になって」

寺岡京子がこよみを抱きしめた。

突然ふくよかな体に抱きしめられ、こよみは驚きとともに、温かな母親の羊水に包まれているような感覚になった。心の芯から癒されていく。

汗を拭きながら、京子は男たちの方に向く。

「どちらがこよみちゃんの叔父さんかしら」

「はい」

茂が前に出た。顔色を見ると、どうやら京子は苦手なタイプらしい。

米倉が名刺を京子に渡した。

「セラピーの様子を拝見させていただきたいのですが」

「いいわよ」

京子はあっさり言った。

「ただし、隣の部屋でモニターを通して見てちょうだい。雑音は催眠の妨げになるのよ。こよみちゃんも一緒にね」

米倉とこよみは別室に案内された。四〇インチほどのテレビが置かれ、その前にソファーとテーブルが置かれている。テーブルの上には、ガラスのコップが伏せて置かれていた。

「冷蔵庫に麦茶とジュースが入ってるから、好きに出して飲んでちょうだい」

「はい、有難うございます」

二人は礼を言った。

「それと、叔父さんに聞いてもらいたいことをこのマイクを通して言ってちょうだい。私がそれを叔父さんに伝えます」

「分かりました」

京子が部屋を出て行ったあと、こよみは冷蔵庫を開けた。

「麦茶とオレンジジュースとコーラがありますが、何飲みますか?」

「そうですね。麦茶をお願いしてもいいですか?」

こよみは麦茶の入ったボトルを取り出し、二つのコップに注いだ。

「うちの母が認知症になって、叔父が病院に連れて行ったんですが、その時に奥さんに会ったそうです。お母さんとご一緒だったようで」

米倉が驚いた顔をした。

「私の妻にですか?」

「はい。この方がそうですよね」

こよみはポケットからメモを取り出して、米倉に見せた。米倉詩織という名前と電話番号が書かれている。

米倉は頷いた。

「妻です」

「とても優しい方のようで、叔父はいろいろ、認知症の人との関わり方を教えてもらったと言ってました」

「そうですか・・」

「旦那さんが製薬会社に勤めてて、認知症の薬を開発してる、と聞いてました。もし、新しい薬で・・」

こよみは米倉の表情が変わったので、話を中途で止めた。

「妻は病院でそんなことを喋ってるんですか」

「いえ、話の流れの中で、叔父が聞きだしたようで・・」

こよみは慌てて米倉の妻を弁護する。しかし、米倉の険しい表情は変わらなかった。

奥さんと仲が悪いのだろうか・・

ぎこちない空気の中、米倉と並んで座り、麦茶を飲んだ。


そのうちに、スピーカーから声が聞こえ始めた。

モニターは真っ暗で何も見えない。

「何も映らないのですが」

こよみはマイクに向けて話しかけた。

「リラックスできるように、こちらの部屋の中は暗くしてありますので、よく見えないと思います。声の方を重視してお聞きください」

京子の囁く声が聞こえてきた。

「ここも暗くしましょう」

米倉がカーテンを閉めた。

すると、リクライニングチェアーに横たわっているらしい茂の顔が何となく見え始めた。京子の指示に従って、鼻から息を吸い、口から息を吐いている。

数を数える静かな京子の声。

「・・・今、あなたの前に大きな扉が見えます。私が五つ数えたら扉を開けてみてください。では、開けてみましょう。5、4、3、2、1、はい、開けてください」

茂の眉毛がかすかに動く。

「扉は開きましたか?」

「開けました」

茂のかすれ声が聞こえた。

「下まで続く階段があなたの足元にあります。その階段を下りてください。深くふかーく心の奥底まで続く階段です。下まで着いたら、教えてください」

 長い間沈黙が続いた。皆、辛抱強く待っている。

 茂の顔を皆で見守る。

 若いと思っていたが、よく見ると深い皺が額に三本ある。やっぱ、トシなんだなあ、とこよみが思っていると、

 「・・着きました」

 やっと茂の返事があった。

 静かな京子の声が続く。

 「目の前に、今度は小さな扉があります。五つ数えます。五つ数えたら開けてください。5、4、3、2、1、はい、開けてください」

茂の眉毛がぴくっと動いた。

「開きましたか?」

「はい」

「何が見えますか?」

「木です」

「他に何がありますか?」

「木しか見えません」

「そこはどんなところですか?」

「森です。・・深い森の中です」

「あなたに会いたがっている男性がこの森の中にいるはずです。探してみてください」

瞼の下で眼球が激しく動いている。森の中を探し歩いているのだろうか。

こよみは半信半疑のまま、固唾をのんで見守った。

「ダメです。見つかりません」

「声を出して、呼んでみてください」

「おーい、おーい!」

この後、しばらく沈黙が続いた。

茂の瞼の動きも止まっている。

「何がありましたか?」

京子が静かに問いかける。

目を閉じた茂の無表情の顔。

「男性と会えましたか?」

茂の無表情の顔。

「茂さん、聞こえていますか?」

京子の声が少し大きくなってくる。

「茂さん、聞こえてたら、返事をしてください」

京子の強い声に、こよみは不安になる。

茂の顔はぴくりとも動かない。

「茂さん、今、どこにいますか?」

京子がもう一度強く言う。

叔父は息をしているのだろうか。こよみは心配になり立ち上がった。

「では、強制的に戻ることにします。私が五つ数え終わったら、あなたは元の部屋の中に戻っています。5、4、3、・・」

「待ってください」

突然、茂の口から若い別の人物の声が聞こえた。

「!」

こよみも米倉も、驚愕した。耳を疑う。

「あなたは誰ですか?」

京子の声は落ち着いている。

「私は、木原智史といいます」

隣りの米倉が息を吞むのが感じられた。知り合いなのかもしれない。

「茂さんはどこですか?」

「私のすぐ横にいます」

「茂さんと代わってください」

「できません」

「なぜですか」

「私が伝えるべきことをまだ伝えていないからです」

「では、伝え終えたら、茂さんと代わってくれますか?」

「もちろんです。お約束します」

「では、どうぞお話し下さい」

「私にまだ自分の体があった、四年前に話は遡ります」

木原が静かに話し始めた。

「私は製薬会社に入ってまだ五年も経たぬうちに、あるウイルスのワクチン開発スタッフの一員に抜擢されました。チーフの方が私の仕事ぶりを認めて、推薦してくださったのです。両親も、恋人の佑香も私の栄進を喜びましたし、仲間たちは私を羨みました。

ところが研究施設にこもって一年も経つと、私の神経が病んできました。怒ったり泣いたり、と情緒が不安定になったのです。恋人の佑香はそんな私に愛想を尽かして、去っていきました。

そんな年のある八月の夜のことです。この年、ウイルスを撒き散らさないために研究施設から外に出ることを禁じられていました。その時、チームは伝染しやすいウイルスを作り上げていたからです。万が一、私たちが感染しても、外部の人達にウイルスを広げないようにするためでした。しかしその夜私は決まりを破って、施設の周りを散歩していました。もう外に出ないと、気が狂いそうだったからです。

真っ暗な草むらのあちこちから、鈴虫の鳴き声が聞こえました。それはもう、素晴らしい合奏でした。虫のオーケストラです。今まで聞いたどんな音楽よりも、美しく可憐でそれでいて壮大でした。私は心の奥底から感動で震えました。その美しい音色を聞きながら、時が経つのも忘れて立ち尽くしていました。私の頬には止めどなく涙が流れ、同時に心が癒されていくのも感じたのです」

その時の感動を思い出したかのように、木原の声が詰まった。

「・・私は、いつも実験に使われた猿たちが年老いて、弱っている姿に心を痛めていました。その猿たちにこの鈴虫の鳴き声を聞かせたら、私のように癒されるに違いない。私はそう思って、鈴虫の鳴き声を録音したのです。そして、猿たちに聞かせました。すると、驚くべきことが起きました。猿たちが若返ったのです」

隣りの米倉から、緊張感が伝わってくる。

「若返ったというと、語弊があるかもしれません。歩けなくなっていた猿が歩けるようになったり、おかしな行動をしていた猿が正常になりました。血液を採取して調べた所、アミロイドベータの値が激減していたのです。

そこで、他の虫の鳴き声でも実験してみました。しかしながら、効果はあるものの、鈴虫ほどにはありませんでした。鈴虫の鳴き声の周波数は四五〇〇ヘルツです。コオロギは四〇〇〇ヘルツ、キリギリスは五〇〇〇ヘルツ以上になります。セミも種類によって異なりますが、五〇〇〇ヘルツ、六〇〇〇ヘルツとなります。アミロイドベータを減らすのに最も最適な周波数は、実験によって四五〇〇ヘルツだと判明しました」

米倉は立ち上がり、震える声で京子に頼んだ。

「寺岡さん、私は木原と同じ会社に勤めていました。彼とは知っている仲です。私がここにいることをお伝えください」

京子はカメラに向かって頷いて見せた。

「木原さん、こちらにあなたのお知り合いがいらしていて、あなたのお話を聞かれていました。米倉健二さんという方です」

「ああ・・」

感嘆の声が聞こえた。

「私が一番お伝えしたかった方です。・・私は米倉さんのお兄さんの推薦のおかげで、このチームに入ることが出来ました。しかし、私のせいでチーム全員にウイルスを感染させてしまいました。猿の血液を採取してる時に、不注意から私はウイルスに感染し、瞬く間にチーム全員が伝染してしまったのです。米倉さんのお兄さんの命、他の方々の命が亡くなってしまったのは、全て私の責任です。でも、だからこそ、犠牲になったお命を無駄にしたくないのです。私の不注意からとはいえ、いわばチーム全員の命と引き換えに得た情報です。このまま世に出ず、埋められたままにしておく訳にいかないのです」

木原の悲痛な叫びが部屋の中に響いた。この叫びが、毎夜茂の夢に年老いた猿を登場させたのだろう。

「ひょっとするとモーツァルトの曲も、アミロイドベータを減らす働きがあるのではないか、聞いてみてください」

米倉が京子に頼んだ。

「木原さん、米倉さんが、モーツァルトの曲もアミロイドベータを減らす働きがあるか聞いています」

すると、木原が米倉の問いに答えた。

「鈴虫ほどではありませんが、モーツァルトの曲は四〇〇〇ヘルツ以上の曲が多いので、幾らか効果があるのではないかと思います。モーツァルトの曲を聞かせると、植物がよく育つのも高周波数の影響ではないかと思います」

「ああ!」

米倉が呻いた。

「私は自分が開発した薬が、動物の脳に蓄積したアミロイドベータを減らした、と勘違いしていました。動物たちに安らぎを与えようと、ルームミュージックにかけていたモーツァルトの曲だったとは・・」

京子が、米倉の言葉を伝えた。

すると、閑やかだった木原の声が、突然厳しくなった。

「人工的に作った薬は症状をいくらか抑えられるかもしれません。しかし、完全に治すことにはならないでしょう。今、世界中で、認知症の患者が急激に増加しています。これは、人々の生活が自然から離れていったためです。草や虫を排除し、人工物で取り囲まれた生活をすることによって、身体や脳を癒す周波数が排除されたが為に人々は心も体も病んできているのです。人間も自然の一部です。自然から離れては生きられない。認知症の蔓延は、自然から離れるな、という神からの警告です」

木原の声は、聴いていた者たちを圧倒した。

「実験のデータは、会社のコンピューターの共有フォルダに保存されています。フォルダ名はアルファベットの大文字で、KIHARA、パスワードはアルファベット小文字のyuukaです。会社は、儲けにならないと、データを消してしまおうとするかもしれませんが、米倉さん、・・あなたに全てをお預けします」

その後、沈黙が続いた。

誰も口を開くことが出来なかったのだ。

しばらくして、京子が思い出したように木原に声をかけた。

「他にお伝えすることはありますか?」

「木原さんは、消えちゃったよ」

茂の声だった。


その晩から、茂は夢を見ることもなくなり、よく眠れるようになった。

おならも所構わずするようになり、デリカシーのない、だらけた中年の親父になった。ナッチが会ったら、いっぺんに憧れも吹っ飛ぶだろう。

沙世に対しても、以前の様に辛抱強く接することが出来なくなり、茂は話の途中に逃げ出すようになった。でも、夏の間は互いに夢中になるものがあるのでまだ何とか二人でやっていけそうである。冬は冬で何とかなるだろう。

こよみは、急遽旭川に帰ることになった。一学期中家庭教師のバイトで教えていた生徒が、塾の夏期講習を中止し、代わりにこよみにみてもらいたい、と連絡してきたのだ。徳弘家に別のウーファーが新たに加わったこともあり、残りの人参の草取りも後僅かなので、戻って生徒を教えることにした。せっかく慣れたので、もっと農作業をしてみたい気持ちはあったが、早く博士の所に行って、今回の結果を報告もしたかった。あの林君からも、ナッチの従姉の手を借りれば話を聞けるかも知れない。


「叔父さん、お母さんのこと頼みます」

「よし、任せとけ。鈴虫の鳴き声をずっと聞かせておくから、姉さんの認知症なんてあっという間に治ってるさ。今度こよみに会う時は、また昔のうるさい母さんになってるぞ」

「それは、勘弁してもらいたいけど、・・でもいいか」

母の子供時代の寂しさや悲しみ、大人になってからは夫の浮気や離婚。母は愛に飢えた人生を送ってきたのだと、こよみは感じた。だから、母は私に執着してしまったのだろう。

こよみは少しではあったが、ようやく母を受け入れられる気持ちになっていた。





絶望の底から



 *離婚届


鈴虫の鳴き声を聞かせる前のアミロイドベータの量、鈴虫の鳴き声を聞かせた時間、時間に応じて変化したアミロイドベータの量、他の虫の音色のケース等々、細かく緻密にデータが記録されている。

木原というのは、どういう男だったのだろう、と健二は感嘆した。

ワクチンの開発の仕事をしながら、わずかの時間でこれだけのデータを取っているのだ。夜寝る暇もなかったに違いない。

「会社は、儲けにならないと、データを消してしまおうとするかもしれません。米倉さん、・・あなたに全てをお預けします」

木原の言葉が頭の中で響く。

上司にはこのデータを秘密にしておこう。あの上司は、利益しか頭にない男だ。

健二は、パソコンを閉じた。

副社長の顔が健二の頭の中にあった。兄の友人だった人だ。兄の遺志を継いで、利益にはならない、人に優しいワクチンを作ることに成功した人でもあった。この人なら大丈夫、という、説明は出来ないが直感めいたものがあった。

今、副社長はアメリカに出張に行っているらしい。帰ってきたら、副社長に報告しに行くことに決めた。その前に、自分の開発した薬は上司が何といおうと取り下げよう。あの薬が効かないことは、はっきりしたのだから。


茶の間に行くと、詩織が台所で洗い物をしていた。母はいなかった。昼寝をしているのだろう。

「話がある」

詩織の手が止まった。

詩織は静かに茶の間に来て、健二の前に座った。

健二は切り出した。

「君に初めて会った時、弱々しくて、支えてあげないと倒れてしまいそうだった。守ってやらないと、と俺は思った」

そうだった。詩織はか細く、頼りなげで、抱きしめてやりたかった。

「だが実際は、君は強かった。君の中にまだ鮫島さんが生きていたからだ」

詩織は下を向いたまま、身動き一つしなかった。鮫島がいることは薄々気づいていたのかもしれない。それはそうだろう。俺を投げ飛ばしたのだから。

「俺は、鮫島さんに会ったことはないし、話したこともないからどういう人か知らない。だが、どんな男だろうと、男が中に存在しているような女と夫婦生活を続けることはできない」

健二は、自分の名前と印を押した離婚届の用紙を詩織の前に置いた。

詩織は下を向いているので、どんな表情をしているか見えなかった。

「鮫島さんが君にはついているから、俺などいなくても大丈夫だろう」

詩織は黙って下を向いていた。今にも鮫島が詩織の中から出てきて、何やら騒ぎ出すのではないか、と健二は恐れた。しかし、鮫島が怒ろうと、詩織が泣こうと、健二は離婚を止める気はなかった。

セミの鳴き声が庭から聞こえる。

汗が背中を流れ落ちる。

しばらくして詩織は離婚用紙を手に持ち、口を開いた。

「・・分かりました・・でも、まだ待ってください。私は、お母さんと約束したんです。絶対お母さんを見捨てない、お母さんの傍にずっといる、って」

健二は、予想もしてなかった返事に戸惑った。

母は、知り合いから勧められた施設に預ける予定だった。そこは運動や音楽などを積極的に取り入れている以外に、自分の身の回りのことは自分でする、という方針で、掃除、洗濯、料理もスタッフの援助を借りながら自分でさせられる。そのためか、認知症の進行もゆっくりで、寝たきりになる患者は少ない、と評判だった。ここにいると、詩織が全て母の身の周りの世話を先回りしてしてしまうので、母にとって良くないのでは、と感じていた。

「分かった。とりあえず、母が納得するまで君に面倒をみてもらう。それまで、申し訳ないが、よろしく頼む」

健二はそう言うと、部屋を出た。離婚の延期という思いがけない成り行きだったが、健二は自分の心のどこかでホッとしている自分がいることに気づいた。




*事故


詩織はしばらく立ち上がれなかった。

健二がいつか言い出すのではないか、とは思っていた。心の準備はしていたつもりだった。だが、実際口に出して言われると、自分を支えてきた中核の柱がへし折られ、バラバラと自分という存在が崩れ落ちていくような感覚に囚われた。

もし義母の存在がなかったら、立ち直れなかっただろう。

義母の様子を見に行かなければ・・。昼寝の時間が長い。

力を振り絞り、何とか立ち上がった時、詩織の携帯電話が鳴った。

「米倉さん? お宅のおばあちゃん、大通りで歩いてるのを見かけたわよ。危ないから、早く行ってあげて」

大通りは車の往来が激しい。

詩織の心臓がバクバク鳴る。

「け、健二さん!」

二階に駆け上がり、健二の部屋のドアを激しく叩いた。

「お、お母さんが、大通りにいるんですって!」

詩織と健二は車にとび乗った。


日曜日のため、大通りの歩道はショッピングをする親子連れや若い男女であふれていた。

詩織は車の中から、歩道を目を凝らして見るが義母の姿は見当たらない。

先の信号で折り返して、今度は反対側の歩道を、と思って目を向ける。

そちらは、スーパーのセールをしているのか、大きな袋やダンボールを抱えて店から出てくる大勢の男性や女性でごった返している。車から降りて、探しに行かないと駄目だわ、と詩織は焦る。

その時、その歩道からお年寄りが対向車線の車道に飛び出してきた。

何かを追いかけている様子。

義母だ。

「危ない!」

詩織が叫ぶ。


激しいクラクション

キキキキィッー、と大通りに響き渡る車のブレーキ音。

「ぶつかる!」

皆、固唾をのんだ。

その時、大きな影が車の前を走った。

一瞬の事なので何が起きたのか、よく分からない。

お年寄りは車の横で倒れていた。

若い運転手の蒼白な顔。

皺だらけの手がもぞもぞと動き始める。その手に紙がある。

生きている。

皆、ほっとする。


母を助けたのは、大きな犬だった。

代わりに犬が車にぶつかったのだろう。車から数メートル飛ばされ、血を流して倒れている。

車のバンパーはすっかり潰れていた。

「車を犬の所に!」

詩織の叫び声で、慌てて健二は車を対向車線に回した。

「ゲン! ゲン!」

詩織は叫びながら、犬を抱えて車の中に運び入れた。

悲鳴を上げて走ってきた、飼い主らしい女性に車に乗るよう促す。

「健二さんは、お母さんを」

我に返って、健二は母を助け起こした。擦り傷と打撲はあるが、大したことはない。手に、家の住所と電話番号が詩織の字で書かれた紙が握られている。

キキーッ

車は急発進して、去っていった。

健二は母と車道に取り残され、呆然と立ち尽くした。




クラクションを鳴らしながら、車は猛スピードで走っていた。

赤信号も無視して、走っている。

後部座席で、飼い主は犬を抱きしめている。

「携帯、持ってるか?」

「はい」

女性は涙を拭って、カバンから携帯電話を取り出した。

「目黒博士のところに電話して」

女性は博士の番号を押した。

なぜ自分が目黒博士の番号を知っていることを、この運転手は知っているのだろう、という疑問は、気が動転していたので何も思わなかった。ただ、言われるままに、電話をかけた。

「ああ、博士、ちょっと待ってください」

女性は携帯電話を運転手に渡した。

運転手は乱暴に携帯をつかみ、喋り始める。

「博士、ゲンが交通事故に遭った。至急、転送の準備をしてくれ。あと、一五分で着く。つべこべ言うな。ゲンの命がかかってる。早く用意しろ!」

運転手は一方的に電話を切り、女性に放り投げた。

この言い方、あの人に似てる。

女性はそう思ったが、心は悲しみで一杯だったので深く考えなかった。

温かなゲンの温もりが下がってきている。

賢くて、優しい犬だった。

自分の命を捨ててでもおばあさんを助けたのは、いかにもゲンらしかった。

「あなたは、立派だったわ」

女性は犬に話しかけた。

死んだようには見えない。今にも目を開けて、つぶらな瞳で自分を見つめてきそうだ。

ゲンの長い毛を優しく撫でた。

キキキキィー

急ブレーキがかけられ、女性の体が前につんのめった。

「ばかやろー! 死にてえのか!」

トラックの運転手の罵声が聞こえてくる。

「うるせー!」

車はトラックを迂回し、猛スピードで進む。

後方で、トラックの長い警笛音が聞こえていた。

「あの、もうスピードを出さなくても・・」

女性が言いかけると、運転手はさえぎった。

「うるさい。黙ってろ」

女性は黙った。


しばらくして車は大学の構内に入り、草で覆われた施設の前で停まった。

運転手は運転席を飛び出し、後部席のドアを勢いよく開けた。

犬を抱えて下ろそうとするが、重い。

抱いたまま、後ろにひっくり返った。

草の上に犬と転がったまま、運転手は動かない。

そのまま長い時間が過ぎる。

心配して女性が車から降り、様子を見に来た。

運転手は空を見上げて、泣いていた。

「ちくしょう・・ちくしょう・・ちくしょう・・」

気が狂ったように唸り声を上げるセミ達。

鮫島の呻きは、セミの圧倒的な轟声の中に掻き消されていった。





別れ




先日来た時には丈の長い草に覆われていたが、周りの草がすっかり綺麗に刈られている。

お化け屋敷の様だった建物が、幾らか真面な大学の施設に見えた。

健二は建物の近くで車を停めると、後部座席のドアを開けた。中から、寺岡京子が汗を拭きながら出てくる。


催眠療法で茂の中にいた木原から話を聞き出せたことを知り、博士が京子に依頼したのだった。ただ催眠して聞きたい相手は、猿の中の林ではなく、詩織の中の鮫島だった。

鮫島は以前、犬に転送されたゲンの意識を助けるために犬の意識を一時的に消したことがあった。その方法を博士は何とか知りたかった。もし、猿の意識を消すことが出来たら、林の意識だけを自分の作った人型ロボットの人工知能に転送できる。

無論、転送する時に猿本人の体は破壊され、消すのが一時的だったはずの猿の意識も死んでしまうので、今すぐにはするつもりはない。いざという時、つまり猿の命が尽きるその前に、林の意識を人工知能に転送したいと思っていた。

健二は博士からその話を聞き、自分が京子を富良野まで迎えにいくことを申し出た。

「林君をあちらのお宅に連れて行くわけにいきませんからね。」

と、博士には言ったが、本当は自分もその詩織の催眠現場に参加したいという気持ちがあった。

詩織の中の鮫島は、自分たちの夫婦生活をどこまで見ていたのか。自分が詩織を抱き寄せ、唇を奪い、痩せて膨らみのない、女としては到底魅力のない体を激しく求め、獣のように咬合しているところを、鮫島は冷笑しながら見ていたのだろうか。

気にしないようにすればするほど、意識がそちらに向かっていく。

そんな下世話な話が鮫島の口から出たら、という恐れがあった。あの鮫島の事だから、何を喋り始めるか分からない。

もう別れることを決めた女である。あまり関わらない方がいい、という思いもあった。

しかし、科学に関わるものの端くれとして、意識の転送によって起きた事の次第を知りたい、という知的好奇心が勝った。


京子と建物の方へ向かった。

太った京子は、ほんの少し歩いただけで息を切らしている。

「今日は、特に暑いわ」

と言いながら、噴き出てくる玉のような汗を拭き取った。

正面口の前では、先に来ていた詩織が待っていた。

「遠いところ、来て下さり有難うございます」

「いえいえ、こちらこそ遠いのに迎えに来て下さって、恐縮ですわ」

京子と健二は詩織に案内されながら、地下の階段を降りて行った。


地下の部屋には、猿と博士が待っていた。

猿は健二の顔を見ると、面白くなさそうにプイと横を向いた。

昔、博士はこの部屋で、転送実験をしていたらしい。

大きな金属の箱とガラスの箱が隅に並べられていた。コンピューターらしき物の上に布が被されている。

「急にお呼び立てしまして、申し訳ありません」

博士が、京子に頭を下げた。

ひんやりした地下室に来て、京子は元気が出てきたようだ。

「私も、こんなことは初めてなものですから、とても興味深くやらせていただいてるんですよ」

京子がにっこりして言った。

「今回は博士に催眠を?」

京子が聞く。

「いえいえ、彼女です」

博士が、冷たい麦茶を用意してきた詩織を指した。

「よろしくお願いいたします」

京子に詩織は会釈をし、皆に麦茶を配った。

「鮫島哲也という、ちょっと厄介な男が彼女の中に恐らくいるのです。口が悪い、乱暴な人なので、先生も気を付けてください」

「大丈夫ですよ。そういうことは慣れてますから。セラピー中に怒鳴りまくる方もいらっしゃるんですよ」

「それはまた、どうしてですか?」

博士が驚いて聞いた。

「怒りを抑えて胸の内に閉じ込めて生きてこられたからです。その方は、体の不調を訴えられて、病院を何件も回られたのですが、原因が全く分からないまま何年も過ごしていらっしゃいました。お薬は飲まれてたんですが、症状が多少良くなってもすぐに悪化して、苦しまれていました」

「どんな症状だったんですか?」

健二が聞いた。

「体が鉛のように重くて起き上がれない、とおっしゃっていました。後は、眠れなかったり、眩暈や便秘もあったようです」

「自律神経の薬は飲んだんでしょうかね」

「ええ、ずっと服用されていたみたいです。でも、症状は少し緩和するくらいで、良くはならなかったそうです」

京子は、健二の目を真っ直ぐ見て言った。

前回のセラピーを見ても未だに拭えぬ、催眠療法への不信感を健二は京子に見透かされたような気がした。

「その方に、催眠中ご自分の胸の中に閉じ込めていた怒りに気づかれたので、蓋を開けて頂きました。同時に溜まった怒りが怒涛のように流れ出てきたのです。怒りを出し切ってから催眠から覚めると、その方はすっかり元気になっておられました」

博士はその話にひどく感銘していた。だが、健二はそれは別に催眠に頼らなくても感情を開放すればいいことだ、と思ってしまう。


猿は寺岡京子に興味があるようで、遠くからチラチラ見ている。

先日会った可愛らしい女子大生も来る予定だったが、急遽叔父に呼び出されて富良野に戻ったという話だった。

母は一日デイサービスに預けた。詩織と離れるのが不安だったらしく、いつまでも詩織の手を離さないので無理やり引き剥がして、迎えに来た車に乗せた。

先日の事故の時になぜ大通りまで行ったのか母に問い質すと、黒猫を追いかけていったのだと言った。母の言うことが本当ならの話だが。黒猫は、詩織が結婚した時に連れてきた猫だった。すぐに姿を消してしまったのだが、母はその猫を覚えていたのだろう。

博士は、犬が交通事故で亡くなったことでかなり動揺していた。一ヶ月経ち、ようやく博士も立ち直っていた。

母を助けてくれた犬には、少年の意識が転送されていたらしい。

あの時の詩織も尋常でない慌てぶりだった。もの凄い勢いであの大きな犬を車に乗せ、急発進して行った。

その亡くなった少年は、詩織とどんな関係があったのだろうか。それとも鮫島と関係があったのだろうか。

急に鮫島に話を聞きたいと博士が言い始めたのも、少年が亡くなったことで、猿の中にいる林の身が心配になったのかもしれない、と健二は思った。


詩織と寺岡京子は奥の部屋に消えていった。

健二は用意して置いてあるモニターに電源を入れた。スピーカーとマイクもチェックする。

寺岡京子がいなくなってしまったので、猿はつまらなくなったらしく、椅子を回して遊び始めた。キーキーうるさくて、詩織のいる部屋の音が聞こえない。健二が睨むと、猿は睨み返してきた上に、歯を見せて威嚇した。

仕方がないので、健二は急いで車に戻りイヤフォンを取りに行った。戻ってくると、既に始まっていた。イヤフォンをモニターに差し込む。


画面に、詩織の顔が大きく映っている。

暫くぶりに詩織の顔を見た気がした。結婚した当時と比べて、少しやつれているか。認知症の母の世話で疲れているのかもしれない。

「5、4、3、2、1、さあ、ドアを開けてください」

イヤフォンから京子の声がはっきり聞こえる。やはりイヤフォンを取りに行って良かった。

博士は静かにするよう注意しているが、猿は相変わらず騒いでいる。


「目の前に何が見えますか?」

「岩があります。海藻がゆらゆら揺れています」

「そこはどこですか?」

「海底です。きれいな魚が沢山泳いでいます」

「魚と一緒に誰か泳いでいませんか?」

しばらく黙った後、詩織が答えた。

「誰もいません」

「それでは、海の中を泳いで探してみてください」

詩織の瞼が激しく動く。

瞼の動きが静かになった。京子が声をかける。

「今、どちらをさがしていますか?」

「・・深い海底です。暗くて何も見えません。時々ちら、ちらっと見える明りを頼りに泳いでいます」

「続けて、探してみてください」

瞼が静かに動き続ける。

突然、瞼の動きが止まった。

「ぎゃ!」

短い叫び声があがった。

「どうしました?」

「――深い穴に落ちていきます!」

詩織の恐怖の声。

聞いてる者に緊張が走る。

「落ち着いて。大丈夫。ここはあなたの心の中です」

京子が静かな声で言う。

詩織の唇が震えている。

「止まりません。どこまで落ちるのでしょうか?」

「あなたを待っている人の所までです」

「あ!」

詩織が叫んだ。

「どうしました?」

「誰かに手をつかまれました」

「手をつかんでいるのは誰ですか?」

「落ちるのが止まりました」

「誰かがあなたを止めてくれたのですね?」

「はい」

「顔を見てください。誰ですか?」

「知らない人です」

「知らない? 鮫島さんではないのですか?」

詩織のはっと息を吞む音が聞こえる。

「鮫島さんです! ああ、生きてたんですね。会いたかった!」

幸せそうな声だった。思わず健二の心に嫉妬心が湧いてくる。

「彼と交替してもらってもいいですか?」

京子が言う。

「はい」

心なし詩織の顔つきが変わったように見える。

「めぐろー!」

突然、乱暴な言葉が詩織の口から飛び出た。

「は、はい!」

猿を静かにさせようと格闘していた博士は驚いて、振り返った。

「おめえ、俺を呼ぶのが遅すぎる」

「は?」

「ゲンが死んじまったじゃないか。俺が開発した薬は、お前の猿にしか使えねえ。オレはお前の猿なんかに薬を開発したわけじゃねえんだぞ」

猿が急に静かになった。

「その薬の作り方を、何とか教えてください。林を助けてやりたいんです」

京子が、博士の言葉を伝えている。

「嫌だよ。自分で考えな。オレはもうここからオサラバすることにした。ゲンが死んじまった以上、ここにいる意味がねえ」

健二は驚いた。鮫島は、その少年の為に詩織の中に残っていたというのか・・

「待ってください! その前に、教えてください! 薬の作り方を!」

必死で博士が頼む。

「オレの仲間を助けるために作った薬だ。これを使えば、ゲンの意識だけをあんたの作った人工知能に転送することも可能だった」

呻くように言った後、鮫島は黙った。

「ゲン君は本当に残念でした。でも、ゲン君の死を無駄にしない為にも、林の為に薬の作り方を教えてほしいのです」

「ふん、林など助けても、ゲンは喜ばない」

「いいえ、喜びます。教えてください、どうやって薬を作るのか」

博士の顔は必死だ。

「随分、林に入れ込んでるんだな」

「私の息子の様な存在ですから」

「息子か・・」

息子という言葉に鮫島は反応したようだった。

「お願いします。教えてください」

博士が畳みかけるように言う。

猿も身動きせず黙って聞いている。

「分かんねえのか。オレよりIQが高いくせに」

「わ、分かりません」

正直に、博士が言う。

京子は博士の言葉を鮫島に伝えるのに忙しい。

しばらく沈黙した後、鮫島は話し出した。

「その部屋に、転送する時に使った金属の箱があるだろ? その中に入っている、ナントカっていうジェル。あんたが転送した沢山の動物と人間の細胞が浸み込んでいるヤツだ。そのジェルを水で一万倍に薄めて、脳に注入する。そうすると、宿主の意識が一時的に破壊される。簡単なもんだ」

「あのジェルを?」

博士が驚いた。

「思いつきもしなかった。確かにあれは転送するのに必要とする莫大なパワーを供給してくれる。その上強力な破壊力も持つ。それを薄めて脳に・・」

博士は感動して言った。

「さすが鮫島君だ。ありがとう。動物の命をむやみに奪わない約束をゲン君としたからね、この猿が元気なうちは転送をしないよ。林君も我慢してくれるだろう」

猿が博士に抱きついて、博士の顔にチュウをした。

「それから、米倉!」

急に、自分に振られて、健二はドキッとする。

「おまえは、ひでえ男だな。オレよりひどい」

ムッとする健二。

「結婚する前に、お前が詩織に言った言葉、覚えてるか?」

健二は、黙っている。

「一生、あなたを守ります・・それが、なんだ? 大ウソつき野郎だな。オレが中にいるから結婚してられない、離婚してくれ? 笑わせるな!」

鮫島が怒鳴った。

「詩織は傷つきやすい、優しい女だ。素直だから騙されやすいし、利用されやすい。頼れる親もいない。唯一頼れるおまえからも放り出されようとしている」

あなたがいるじゃないか、と言おうとして、健二は止めた。

フン、と鮫島が鼻で笑う。

「だが、オレにとっては好都合なことだ」

鮫島が何を言おうとしているのか、健二は量りかねた。

「詩織とオレが交替するには、お前が邪魔だからな」

「え! 」

博士も健二も驚く。

「さっき、あなたはここからオサラバするって、言ったじゃないですか」

米倉が愕然としながら言う。

「ほう!」

鮫島が馬鹿にしたような声を出した。

「オレが本気で言ったと思ってるのか? やはり米倉の弟だなあ。ヤツも簡単にだまされた」

健二は、ムッとする。

「詩織には奥に引っ込んでもらって、これからはオレがこの体を使って生きることにする。認知症の薬の開発は面白そうだ。オレなら、おまえより優れた薬を作り出せる」

「もう・・」

鈴虫の鳴き声のことを言おうとして、健二は止めた。鮫島はまだ知らないのだ。

「詩織も納得してるよ。生きていても、辛いだけだからな」

「寺岡さん、催眠中に意識の交替なんてありえるんですか?」

健二は矛先を京子に向けた。

「まだ私は実際に経験してないので何とも言えませんが、鮫島さんの意識が詩織さんのものと代わることは有り得ると思います」

京子の声は冷静だ。

「もしそんなことが起きたら、あなたを訴えますよ」

健二の声が震えている。

京子が健二の声を伝える。

「何をそんなに興奮している? お前には関係ないだろう。どうせ別れる女じゃないか」

健二はぐっと詰まった。

「そうだ。おまえにいい土産を見せてやろう。今、オレが座っているのは、詩織が子供の頃から感情を詰め込んできた箱の上だ。この箱の蓋を今から開ける。別れる前に見せてやろう、詩織が蓋をしてきた感情をな。京子ちゃんの御手前、見せてもらおうじゃないか」

しばらく静かになった。


しくしく子供の泣き声が聞こえる。

「どうしたの?」

京子が優しく聞く。

「お母さんが出て行っちゃったの?」

「お母さんが大好きだったのね?」

「うん」

「それじゃあ、思いっきり泣きなさい。おばさんの胸の中で、泣きたくなくなるまで、泣くのよ」

小さな子供のくぐもった泣き声が続く。


それが急に、子供の悲鳴になる。

「どうしたの?」

京子の声。

「お父さんが私をけるの」

「かわいそうに」

「こわい! 助けて!」

(うとうとしていた猿が目を覚まし、モニターを凝視している)

「いたい!」

「どこをけられたの?」

「おなか・・」

「おばさんがおなかをさすってあげるわ」

子供の荒い息使いが次第に静かになっていく。


突如、少女の切ない叫び声。

「やめて、やめて、お父さん! 痛い!」

「逃げなさい。おばさんが守ってあげる」

京子の声。

泣きながら喘ぐ少女。

「大人になりたくない。お父さんに触られるのが嫌」

「だから、やせているのね。ちゃんと食べるのよ。おばさんが守ってあげるから」


少女の泣き声が、大人の怒り声に代わる。

「働いても働いても、お父さんが全部使っちゃう。借金もどんどん膨らんでいく」

「ひどいお父さんだわ」

と、京子。

「死んでしまえばいいのに」

憎しみのこもった声。


「許せない!」

怒りのこもった女の声。

「何があったのですか?」

「付き合っていた男が、私の全財産を持って出て行ってしまいました。私を愛してる、なんて言ったのは初めから嘘だったんです」


「ひどい! ひどいひどい」

「何をされたんですか?」

「仕事の同僚のミスを全部、私に押しつけられました」

「それはひどい」

「また仕事を変えなきゃなりません」


「ああ・・」

溜息が聞こえる。

「どうしたんですか」

「父が死にました。私に恨まれたまま。もっと優しい言葉をかければ良かったです」

「あなたは十分親孝行しましたよ。お父さんはきっと喜んでいますよ」


詩織の泣き声がする。

「どうされたんですか?」

「健二さんに・・」

聞いている健二はどきっとする。

「健二さんに離婚しよう、と言われました」

詩織の顔を見つめる健二。

「あなたは離婚したくないのね」

「はい」

「健二さんを愛してらっしゃるのね」

「愛してます」

健二の心が大きく揺れ動いた。

「大丈夫よ。健二さんもあなたのことを愛してます。そうですよね?」

京子がカメラに向かって言う。

声が出ない健二。

詩織を俺はまだ愛してるのか?

博士と猿が健二を見る。

「健二さんも、詩織さんのことを愛してますよね? 正直にお答えください」

返事が出来ない。

毎朝健二の為に弁当を作り、送り出す詩織の姿が浮かんだ。何も言わず毎夜、健二のワイシャツにアイロンをかけ、靴を磨いている詩織。

部屋の隅から聞こえる、詩織の寝息。台所にいる詩織の気配。

当然そこに在るものと思っていたそれらが全て無くなると想像した時、突如喪失感が健二の心の中に広がった。何の気力も無くなり、生きがいも全て消え失せた。

離婚しようなど、どうして思ったのか。空っぽになった家に、一人で暮らしていけるのか。

鮫島への嫉妬心から、危うく大切なものを失うところだったと、気づいた。

猿が健二の肩に飛び乗り、髪を引っ張った。

「痛い!」

健二が叫んだ。

「もう一度お願いします」

京子の声。

「あ、愛してます」

言葉が飛び出た。

「離婚はしませんね」

「しません。」

京子が詩織に伝える。

「泣かせて申し訳なかったと。これからは絶対君を泣かせない、と伝えてください」

伝える京子。

一筋の涙が詩織の頬を流れた。

「ああ、泣かせた」

博士がこっそり言う。

「・・では、戻ることにしましょう。私が五つ数え・・」

言いかける京子を詩織が遮った。

「哲也さんにお別れの挨拶を」

ドキッとする博士と健二。

「では言ってきてください」

「はい」

静かになる。

博士と健二は、今にも鮫島の声が詩織の口から出てくるのではないか、と心配した。

「お別れしてきました」

詩織の声だったので、安心する。

「鮫島さんは何とおっしゃってましたか?」

「幸せになれよ、と言ってくれました」

鮫島は最初から、詩織と交替する気などなかったのだと、健二は気づいた。この時初めて、詩織が鮫島を心優しい人だと言っていた訳が分かったような気がした。

京子に誘導され、詩織は階段を昇っていった。





母への愛




旭川に戻り数週間経ってから、小包が寮に届いた。

誰からだろう、と思って送り主を見ると、台湾人のトニーからだ。

「ヤクソクノメイプルシロップ、オクリマス」

と書かれたカードが添えられて、大きなメイプルシロップのボトルが入っている。

メイプルシロップを送ってもらう約束なんてしたっけ。

考えたが、思い出せない。話が通じてない時もあったから、トニーが勘違いして送ってきたのかもしれない。

とりあえずお礼のメールをトニーに送った。

それにしても、ナッチと分けたとしても、こんなに沢山はいらない。家庭教師で教えている夏音に分けてあげよう、とこよみは思いついた。


夏音は、オシャレの好きな中学二年生の女の子だった。

いったん塾の夏期講習に参加していたのだが、付いて行けなくなり休むようになってしまった。それで母親が心配して、こよみに連絡したのだ。

「ホントに、うちのママうるさいんだ」

髪をくるくる指で回しながら、夏音が言った。オシャレや男の子の方に興味があり、勉強に身が入っていない。

こよみが童顔のせいか、齢を近く感じているのかもしれない。好きな男の子やその子と話した内容などをよく打ち明けてきた。

ひょっとするとわざと話しているのではないか、と思う時もある。数学を教えている最中に、悩みごとを相談され、真面目に聞いているうちに終了の時間が来てしまったことがあった。次に来た時にその悩みの話をしたら、あれ、そんなこと言ったっけ? と夏音は首を傾げた。それ以来、勉強以外のおしゃべりは出来るだけ早く切り上げるようにしている。

一方、成績があまり芳しくない夏音を母親は心配していた。このままでは、普通高校には行けないのではないか、そればかり考えている。

父親は海外出張に行っていて、ここ何年も不在らしい。その父親が夏音を大学に行かせるようにと言ってるのだという。

勉強が好きでない夏音を大学に行かせようとするのは無理があると、こよみは思っている。もっと夏音に向いたものがあるのではないか。たとえばデザインとか、好きそうだ。

「ママの格好がダサくて、とても友達に見せられないの。恥ずかしいったら、本当に」

夏音はよくこぼしていた。

母親の話によると、娘の友達が遊びに来ると姿を見せたら怒られるのだという。一度、トイレに行った際友達にばったり出会ってしまったことがあった。その後、夏音は一週間口をきいてくれなかったという。それ以来、友達が遊びに来ている時はトイレを我慢して部屋の中で息を殺して読書しているという。

母親の服装を別におかしくもなく年相応でいい、とこよみは思うのだが、夏音はみっともない、と憤怒していた。

「反抗期だから」

と、母親があきらめて言う。

「小さな頃は、ママ、ママ、って、どこに行くにも付いて歩いて、可愛かったのに」

溜息をつきながら言った。


私が中学の頃はどうだっただろう。

こよみは中学の頃を思い返した。

母は強かった。とても、反抗できるような感じではなかった。

夜遅く仕事から帰って来るのに、掃除も炊事も手抜きをしなかった。全てを完ぺきにこなし、文句のつけようがなかった。

こよみには絶対に真似は出来ないと思う。別れた夫から慰謝料も養育費ももらわず、こうやってこよみを大学にまで通わせている。

「勉強して、良い大学に行き、良い職場に就きなさい」

そう小さな頃から言われてきたのは、母のように一人で女が子供を育てていくには実際に必要だったからかもしれない。そういう経験をしてきたからこそ、口酸っぱく言ってきたのだろう。


「先生、メイプルシロップのお礼に、ママがお昼御飯食べていきませんかって」

玄関で靴を履きかけると、夏音が走ってきた。そんな時の夏音の顔は浮き浮きしていて、まだ中学生の子供らしい。

こよみが頷くと、喜んで母親に伝えに行った。

テーブルを囲んで、楽しく三人で冷やし中華を頂く。

「先生、明日もうちでお昼食べよう」

「それはだめよ。お母さん、大変なんだから」

「二人分作るのも、三人分作るのも、一緒だもん。ねえ、ママ」

「是非、先生。私の料理でよかったら」

「いいんですか? それなら・・」

いろいろ問題はあるのかもしれないが、温かな家庭だ。

うらやましい。こよみの家は同じ母娘一人でも、もっとギスギスしていた。

腹も膨らみ、心も満足して、こよみは母娘に見送られて家を出た。


寮に近づいてから、明日の午後は博士の所に行く予定だったことを思い出した。

今度は博士の施設で、先日会った製薬会社の男性の奥さんに催眠させるという。奥さんにも誰かが転送されているらしく、博士がその人から話を聞き出したいらしい。

前回の不思議な体験は、こよみの心を強く動かした。普段気にも留めていなかった、無意識というものの未知なる領域にすっかり魅了され、もっと知りたいという思いが強くなっていた。ナッチの従姉の寺岡さんからもっともっと話を聞きたい、と思う。

夏音の家に明日の昼食の断りの連絡をしようとして、スマホの電源を切っていたことに気づく。電源を入れると、叔父から留守電が入っている。先に、夏音の家に電話をかけた。

その前を誰かが通り過ぎていく。

「あ!」

念入りに化粧された顔が振り向くと同時に、電話に夏音の母親が出る。

慌てて母親に明日の昼食を断り、厚化粧の女に声をかけた。

「どうしたの? ナッチ!」

塗りたくった化粧の下で、ナッチは笑ってみせた。

「ついに、私の良さを分かってくれる男が現われたのよ。これからデート!」

あまりの変貌ぶりに、こよみも言葉が出ない。

「ああ、こよみの叔父さんには内緒にしておいて」

ナッチは大きく手を振ると、姿を消した。

友達として、もうちょっと化粧を落とした方がいい、と言ってあげた方が良かっただろうか。そんなことを思いながら、叔父の留守電に耳を傾けた。

「こよみ、すぐに連絡くれ」

珍しく深刻な声だ。

どうしたのだろう。少し緊張しながら、茂に電話をする。

「こよみか」

低く抑えられた声。

こよみの体に緊張が走る。

「姉さんが自殺した」

「え?」

「部屋で首を吊ってたんだ」

――一気に膝の力が抜け、歩道に座り込んだ。

横目で見ながら、通り過ぎていくサラリーマン風の男。

「発見が早かったから、助かって、今、病院だ」

叔父の声が遠くで聞こえる。

手がブルブル震え、スマホが膝の上に抜け落ちた。


タクシーが病院の前に停まった。

青ざめたこよみが降りてきて、小走りで病院の玄関に向かう。

受付で母の病室を聞き、エレベーターに乗った。

心臓の鼓動が早い。がくがく足が震える。

ドアが開くと、入院服を着た女性が点滴をぶらさげて前に立っていた。会釈をして、通り過ぎる。

詰め所の横の病室に入った。

一人部屋だ。寝ている沙世に付いて座っていた茂が振り返った。疲れた顔をしている。

「お、お母さんは・・」

声が震えた。

「落ち着いてるよ。大丈夫だ、こよみ」

茂の手が肩に置かれると、ほっとして体から力が抜けるのを感じた。

「叔父さんのおかげだ。ありがとう」

「たまたま忘れ物を取りに帰ったんだよ。姉さんの部屋の窓が閉まってるからおかしいと思って、二階に行ったらね」

想像するのも恐ろしかった。

叔父が続ける。

「吊ってすぐだったんだな、体が痙攣してたからね。すぐ下ろして救急車を呼んだんだ」

 「・・良かった。叔父さんが忘れ物をしてくれて」

 「そうさ、忘れ物が多いのも、たまには役に立つことがある」

 「ふふ、そうだね」

 それから茂が安心させるように言った。

 「発見が早かったから、おそらく後遺症はないだろう、って先生が言ってたよ」

 「よかった・・」

 母の首に付いた紐の痕が生々しい。

 「鈴虫の鳴き声、聞かせなきゃよかった」

 ポツンとこよみが言った。

 「え?」

 「だって、お母さんの過去は哀しいものばかりだもの。一人娘に、お母さんから離れたかった、なんて言われたら、・・自殺したくなるのも分かるよ」

 「こよみのせいじゃないよ」

 「・・うん」

 母の顔を初めてじっくり見た。

シミがこんなにあったんだ。でも、齢の割にきれいな肌をしてる。私の額が狭いのは、母に似たんだな。

「木原さんが言ってたけど」

「木原さん?」

「叔父さんの頭ん中にいた人」

「ああ」

「認知症は、人間が自然から離れたことへの神からの警告だって、言ってたんだよね」

「ん・・」

「でも、私は違うと思うんだ。逆に、神様からの贈り物だと思う」

「どうして?」

「だって、嫌なことも忘れられるでしょ。お母さん、幸せそうだったもの。子供時代に戻って」

「そうだな」

「ん・・」

「――鈴虫の音、やめるか」

「・・お母さんが起きてから、・・考えようかな」

しばらく二人は沙世の顔を眺めていた。

「ちょっとションベン」

「叔父さん、昼ご飯食べた?」

「いや」

「食べてきたらいいよ。私、お母さん見てるから」

叔父はこよみの顔を見て、頷いた。

「じゃ、頼むよ」

「うん、いってらっしゃい」

一人になって、こよみは母の手をとった。

小さくて、細い指。こよみは自分の両手で包み込む。

こんなに小さかっただろうか。

・・子供の頃を思い出す。

苛められて泣きながら帰って来た時、母はいじめっ子のことを怒りながら、この手で私の涙を拭ってくれたのだった。

足が痛くて眠れなかった夜、仕事で疲れていても私が眠るまで足を擦ってくれたこともあった。

ひび割れた手で、毎日部活で泥だらけになった靴下を洗っている姿が浮かぶ。

高熱を出した時に、一晩中何度も何度も濡れたタオルを取り替えに来ていた、ぼんやりした記憶。

朝早くから、弁当を毎日作ってくれていたエプロン姿。

志望校に落ちて落ち込んでいた時に、慰めようと肩を抱いてきた母。すぐに振り払ってしまったが、そのあたたかな温もりはずっと心と体に残っている。

次々に湧き出てくる思い出。

ヒヤッとして血の気のない母の指をさする。

涙が出てきて止まらない。

――ごめんね、お母さん。

こよみは心の中で叫んだ。

これからは、私がお母さんを守っていくから。


突然、ドレミの歌の着メロが病室に鳴り響いた。

びくんと母の顔が動き、また動かなくなった。

しまった。マナーモードにするの忘れた、と思いながら、メールを見る。

トニーからだった。

片言の日本語で、書かれている。

「メイプルシロップ オクル ヤクソク ユビキリ コヨミ ヨッパライ」

ヨッパライ?

ああ、あの晩のことだ、とこよみは思い出した。酔っ払ってトニーに、「結婚して」って迫ったんじゃないか心配してたけど。なんだ、メイプルシロップが欲しいって言っただけだったんだ。こよみは安心するとともに、ほんの少し残念な気持ちにもなった。

再び、メールが来た。今度は、マナーモードにしたので音は鳴らない。

「アト、2ウィークス ホッカイドウニ モドル イマ ボクノユメ コヨミニ アウコト」

こよみの胸がどくんと高鳴った。

暗く陰鬱で冷たかった病室が、突如明るく優しさと音楽に満ちた部屋に変わっていく。

心なしか沙世の顔も微笑んでいるように見える。

こよみは目をつぶり、音楽に合わせて踊り出した。





エピローグ




どこにも案内を出していないというのに、葬式場は弔問客で溢れていた。

焼香後、挨拶にくる弔問客に、頭を下げる遺族。

喪主の石田謙一。知らせを聞いて、アメリカから飛んで帰って来たらしい。少し疲れた顔をしている。その横で、故人の母親は泣きはらした顔をしていた。

無理もない。故人はまだ十九歳だったというのだから。これから、という年齢だ。

その隣に座っているのは・・エスタニック製薬の社長か。七十歳を越えているはずだが、若々しい。さすが会社をここまで大きくした人物だ。その表情からは、何を考えているのか読み取れない。

前の人がいなくなり、健二は僧侶に一礼し祭壇に進んだ。

遺影を見て、驚く。小さな子供の頃の写真だ。可愛らしい顔で笑っている。

合掌し、抹香をつまんだ。

焼香を済ませた後、遺族に頭を下げる。頭を上げた時、喪主の謙一と目が合った。米倉健の弟だと分かったのだろうか。一瞬、何か言いたげな顔をした。しかしすぐに、次の参列者に頭を下げていた。

読経が低く響き渡る中、健二の頭に昨夜詩織に言われたことがよみがえっていた。


「お母さん、健二さんの薬を飲むって言って、聞かないんです」

困ったように、詩織が言った。

健二の開発した薬に効果がないと分かってから、詩織に薬を母に飲ませるのを止めるよう指示していた。副作用も心配だった。

ところが、母は薬を家中引っくり返して探し回ったのだ。

「別の薬をあげても駄目で・・、健二の薬はどこだって。私もすっかりお手上げなんです」

健二は、母の気持ちが痛いほどわかった。

この薬は、健二が入社してから十年以上ずっと力を注いできたものだった。遊びにも行かず夜遅くまで薬の開発に没頭してきた健二の姿を母は見てきた。薬が完成した時、自分よりも母の方が喜んでいたくらいなのだ。

上司は健二が臨床実験を勝手に中止したことをひどく怒っていたが、無念だったのは健二の方だ。この、どうにもならない、やるせない気持ちを理解してくれるのは、ずっと健二の姿を見てきた母しかいなかった。

会社に在庫が沢山あったはずだ。それを、帰りに寄って持ち帰ろう。

健二は、母に自分の薬を飲ませ続けることを決意した。

鈴虫の鳴き声によるアミロイドベータの減少データを、もっと取らなければならない。どのような方法で聞くことが最も効果が出るのか。音量はどのくらいがいいのか。聞く時間はどのくらいがベストなのか。

いろいろ調べることは沢山ある。

副社長はすぐにアメリカに戻るのだろうか。

会社に予定を聞いてから副社長の所へ話に行こう、と健二は考えた。


葬儀が終わり、遺族だけを残して弔問客は皆式場を出た。

黒い礼服を着た大勢の人達をかきわけ、窓際に近づく。

空は青く晴れ渡り、そのまま散歩に行きたいほどの天気だ。

「いいお天気ですね」

隣りの女性が健二に声をかけてきた。

女性の顔を見て驚いた。

「もしかすると、あなたは、母を助けてくれた犬の飼い主じゃ」

黒髪の、ふっくらした唇の可愛らしい女性に、見覚えがあった。

女性は頷いた。

「その節は、本当に申し訳ありませんでした」

健二は深々と頭を下げた。

「気になさらないで」

女性がほほ笑んだ。

「こちらには奥様の関係で・・?」

弔問者のほとんどは会社関係だった。だが、この女性は違うだろう。

女性は頷いた。

「亡くなった竜君は、息子と同じ病気だったの。生まれつき難病でね、二年前にいい薬が開発されたから病気の進行は止まったのだけど、認知症の方がひどくなって・・」

「認知症・・」

健二は驚いた。難病と言うのは、あのエイジイだろうか。

「息子は認知症にはならなかったのよ。もう少し早く薬が出来ていたら、息子ももっと長く生きていられたのに。まだ一七歳だったのよ」

「申し訳ありません・・」

健二は済まない気持ちで一杯になった。

女性は慌てた。

「いえいえ、あなたを責めているんじゃないの。目黒博士から話は聞いたわ。息子の意識があの犬のゲンの中で生きてたって。でもね、私は信じてないの。三年も一緒にいたけれど、犬のゲンから息子のことを感じ取れなかった。母親の私がよ」

女性の声から真の響きが感じられた。

「息子はとっくに空に昇ってたのよ」

女性は空を見上げた。

「見て、あの青い空。あそこで、ゲンと犬のゲンが走り回ってるわ」

健二も目を凝らして空を見る。

一瞬、少年の笑い声と犬の吠え声が聞こえたような気がした。


                


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