白き霧の中で手を取りし二人の姫神のお話
ようやく外に出ることが出来た、と私は思った。懐かしい光景が目の前に広がる……
勿論、時の流れにより、かつては一面の野原で会ったそこは、田んぼが広がり、幅の広い農道が整備されている。
その時と変わらぬ位置に、鎮座する山々の稜線も変わっているし、 コンクリートの橋脚の高速道路も走っている。
家も増えた。今の時代の家とは、過去と赴きがまるで違う。一つ一つが強固な城の様に、外を拒んでいるように見える。
ただひとつ変わらないのが、私の拠り所、大きくなっている山桜……こればかりは時が止まっているようだ。
貴方とここで出会い、そして私は清らかな貴方に触れ、百年の眠りに付くことができた。
こうしてヒトの姿をとれるように、邪が取り除かれた。ようやく土着の神になれた。封じられた祠から出ることが出来た。
同じ名前を持つ、さよひめよ、ああ、懐かしい、懐かしい、礼を言いたい、手を取り謝りたい、溢れる、会いたいと……
私は桜の樹にもたれ掛かり、願えば込めて空を見上げた。
私の名前は……五月、わけあり人間から、土着の姫神となるはずだったモノ。
――ある田舎の町に、美しい山桜の巨木がある。それは境内の中でもなく、公園の中でもなく、山や、町の中でもない。
それは、沿線沿いの田んぼが広がる、農道の傍らにぽつねんと立っていた。しかもその樹は農道の道筋を明らかに曲げている。
それがなければ、真っ直ぐな道路なのだが、桜に遠慮するかの様に、樹を避けてカーブをしているのだ。
明らかに何やらいわれや、曰くがあるのが、道路を見ても分かる。勿論集落には、伐ってはいけないという言い伝えがあり、根本にも小さな祠が奉られている。
そのむかし、さよひめと呼ばれる人間の娘がいた。彼女は両親を亡くし、その供養はどうしたらいいのかと、当時からあったこの祠に願をかけに来たのだ。
祠には、かつて人間だった娘が奉られていた。彼女生きていた時代、江戸よりはるかに昔の事だった。
ある時、夜な夜な村を襲いヒトを喰らうために蟒蛇が山を下って集落に出てきていた、人々は困り果て神に神意を問うた。占の結果は、
鎮める為に、生け贄を捧げよ、巳年生まれの者
巳年生まれだからと言うだけで選ばれた彼女。神は、老若男女の言及を、していなかったのだが、
村の人々は数人いた中で折り悪く、父親が病で働けぬ為に、村の厄介に、そのうちなるだろうと考え彼女に目をつけた。
村の為、厄介をかけているからと言われたら断りようがない事情……己を誤魔化し、諦め、その役目を担ったのだが、どうにも納得が出来ない。
父親の病といっても、ごく軽いものだったし、現にその頃にはそれも癒えて来ており、野良仕事こそ、周りの手を借りていたが、それ相応にきちんと品物で返していた。
家の中で縄をなったり、草履を作ったり、篭を編んだりと、それなりに手仕事はしていたからだ。
もう少し休むと、元の様に働けるからと笑って過ごしていたのだ。また元気な折りには、誰よりも御近所の助けを、村の務めを一番にしていたというのに、この扱い……
巳年生まれは事実な事。逃れられぬ定め娘だった。そして娘『五月』は『姫神』となったのだ。
その尊い功徳により、一柱として、土着の神に仲間入りをした、しかし一度は眠りにつき、神として、生まれ変わる『再生の儀』を彼女は執り行なうことが出来なかった。
彼女が住んでいた小屋近く、山桜の若木の根元に五月の為の祠をつくり、人々の信仰の対象になったのに、それが出来なかったのだ。
なぜなら彼女は成仏することなく、底に留まり心にはふつふつと、おさまらぬ想いが満ちていたから。
父がその後、娘の供養の為に、生涯を念仏と共に生きていっても、娘の心はおさまらなかった
姫神の心は粟粒づつ、ポチポチと邪な色に染まって行く。それは彼女にとっては良くないモノ。
土着の神として、時には祠を出て、風に乗り日の中で人々の声を聞くことがつとめの、土地を守る姫神として、持ち得ていてはいけない重い石の様なモノ。
それを捨て去り、再生の眠りにつかなければいずれ神でもなく、魂でもなく、アヤカシでもなく、
中途半端な存在で、自らを浄化し動かぬ内は、そこから動けなくなる、モノに固まってしまう。
そして棄てきれぬ思いが彼女を絡めとり、とうとうそこで、うごうごと、黒くうごめき動けないモノになってしまった。
……それからどれ程の時が過ぎたのか、その村に再び蟒蛇が姿を現したのは……人々の暮らしが、武士により支配されている江戸の時。
『庄屋の娘を寄越せ、庄屋の悪童は、我らの子供を殺した、お前の子を喰ってやろうぞ』
その時の村を治めていた庄屋の子供が、山に薪を集めに行った時に、小さな水蛇を誤って殺してしまったのだ。
慌てて帰って、山に供え物を持って行きそれが住まうと言われる、沼の岸にある祠に詫びを入れたのだが、聞く耳を持たぬ蟒蛇だった。
そして、土着の神としてその事を知り得ていた姫神は、さよひめに知恵を授ける。
それは意趣返し、己と同じ様な定めに晒す事で、長年の憂さをはらすかの様な言葉だった。
『孝行な娘、亡き両親の供養の金子なら、庄屋の娘に、成り代わると良かろう』
そして彼女は、それに従い供養の金子を手に入れ、両親の法要を執り行うと、自ら進んで贄となった。
そして、彼女はその尊い功徳により、この土地に座してる姫山におられるという、護りし大神に拾われ、一夜で神として生まれ変わり、それ以降天で暮らしている。
*****
あなたが天に昇る時に、私のもとへ訪ねてくれた。ありがとうと、礼を言いに……大神様から隠れる様に、白き霧が濃く重く辺り漂う早朝に……
ここからでれぬ私に、手を合わせ祠に触れて、邪な私にお礼を言って去って行った。
泣きたかった。私は涙を流したかった。
しかし邪が阻むのか、それが出来ない、清らな涙を流せない。
ならば手を取り謝りたいと願った、しかし重く邪に、陰となっている私は外に出れなかった。
私は深く悔いた、とても深く……そして、せめてもと蟒蛇を退治する方法を、庄屋の夢枕に立ち教えてた。
タバコの脂、松のヤニを集めて御神酒に混ぜ沼に注げ、とそれによりヤツのカラダは、溶けるであろうと。
それに従って、庄屋は動いた、そして見事、蟒蛇は退治されたのだ。
長年ここに居座る事で、風に、大地から様々な事を知りえていたのに、私は教えなかった。
己の事だけに捕らわれ、なんと情けの無い私。過去の事は、辛い事だった、今も忘れる事は出来ない。
しかしもし父が選ばれていたのなら、恐らく彼女と同じように、自ら進んで何もかも思う残すことなく捧げたと思う。
父の読経に、耳を貸さなかった、私の犯した不幸が身に染みた。あの時、父が村の為にと私を差し出した事を知り、捨てられたと思っていたから、
それはないと言うのに、哀れな自分を納得させる為に、そう思った、
私は彼女と違い、全てを呪って贄となった。それなのに父は日々経を唱え、皆は私を奉っていた。
それを強固に拒んだ私。ここにうごめくモノに成り下がったのも、全ては自身の心一つ。ようやく動く事が出来た……
そして私は蟒蛇を退治する事が出来たとの報告を受けた後……眠りに付くことが出来た。土着の神としての『再生の儀』を行ったのだ。
――気がつけばいつの間にか日か沈み、夜が更けて行く……空を見上げれば星が、変わらぬ瞬きをちらちら魅せている。
朝に会える?白き濃く重く霧が広がるこの土地で、貴方に会えるかしら、声が届くはず……
桜の樹にもたれながら貴方を待つ、朝に会える。貴方は覚えていてくれている。
白い、白い濃く乳白色の霧の海を渡り、この地に降りてくる。先ずは、手を取り謝るわ、すまなかったと、
そしてありがとうと、礼を言いたい。
……薄花色に染まって行く空、辺りに集まってくる水滴、それはゆっくりと密度を増していく。
右も左も前も後ろも、霧が世界をおおっていく。私は空を見上げる。
うつくしい蒼の衣の裳裾が見える。長い髪が、白き霧の中に、浮かび上がってくる。
立ち上がると、手を伸ばす。風は吹かない、吹けば霧が、晴れてしまう。
貴方が差し出す手に……清らかなる天の姫御手を取れるときを、大地の姫神として、生まれ変わった私はようやく迎えた。
白い濃く甘い乳色の霧が覆う、この土地で私達は再び出会った。
会いたかったと……手を取ったそのとき、私達は声を揃えて……そして、笑顔を交わした。