母と娘
12/25 新作短編投稿。
連続の投稿です。
よろしくお願いいたします。
役場近くの大きな橋を渡っている途中、カレンとその娘のエイダは、突然の悪天候に見舞われた。年老いた母の使いで、馴染みの知り合いに手紙を届けた帰りのことだった。
カレンは十になる娘をしっかりと抱きかかえ、小走りで道を駆ける。エイダは母の胸に頭を置き、揺れる腕の中で過ぎ行く木造の家々を眺めた。
どれくらい走ったのだろうか。カレンは走っているうち、ふと見覚えのある看板に目が止まった。
白ペンキの上に、茶色の下手くそな文字と歪んだ絵がかかれている。まるで赤子が描いたようにくにゃくにゃした造形がカレンを笑わせる。
「エイダ、ここで少し雨宿りしましょう」
「ここは?」
エイダは店の軒下に降り立ち、キョトンと緑で大きな扉を見上げた。
カレンは濡れた服と髪を手で払ってから、こほんと一つ咳をしてから扉を開ける。
錆びた鉄のギィという音と、木製の沈んだ音が雨音に混じって響く。
「知り合いのコーヒー屋さんよ。美味しいパンも出してくれるの」
エイダは母の後ろに隠れながら、おどおどとあたりを見回した。見れば、カウンターに一人、自分と同じくらいの女の子が椅子に座っているのが見えた。クリーム色の長いスカートで、小さなエプロンを腰に巻いている。小さな声だが「いらっしゃいませ」と丁寧な口調で話した。直後、奥から黄色いエプロンをつけた女性が煙草をくわえながら来た。カウンターの子供を抱きかかえて言う。
「うちはコーヒー屋じゃありませんよ」
「あら、そうだったかしら?」
長い金髪が特徴的で、パンツスタイルがとてもよく似合っている。
「ええ、ウチはパン屋です。そして」
カレンと店員と思しき女性は「美味しいコーヒーはおまけ」と同時に付け加えた。
二人はクスクスと笑い、子供達は首をかしげる。
「おかあさん?」
「エイダ、このおばさんはね」
「おば?」
「間違えた。このアンリお姉さんはね、お母さんの古いお友達なの」
「そうなの?」
「ああ、そうだよアビー。この女、ママよりやんちゃだったんだぜ」
「学校でふざけてた男の子を何人も蹴散らしたママよりも?」
「ちょっとアンリ。変なこと子供に教えないでよ」
「お母さん?」
「大丈夫よ、エイダ。お母さんは何も怖くないわ」
「蝶のように舞い、蜂のように刺す人なんだよね?」
「お、母さん……?」
「アンリってば!」
カレンはエイダを引き連れ、四人がけのテーブル席に向かうと、コートを椅子にかけてからエイダの服上着を優しく脱がせた。娘を抱きかかえ椅子に座らせると、カレンは大きく息をついて座った。
「おばさん、注文は?」
「アンリ、言われるとすごく疲れるからやめてその呼び方。ブレンドと、この子にはホットミルクとパンケーキをちょうだい」
アンリはお世辞にも丁寧とは言い難い態度で注文を取り終えると、タバコを吸ったままカウンターでコーヒーを作り始めた。その姿はとても端正で姿勢良く、目つきは真剣そのものだった。カレンはその様子をまじまじと見つめる。なんだか物珍しく見えた。
その視線に気づいたのか、アンリが彼女を見て首をかしげる。
「珍獣がいるわ」
「どつくぞ」
「いえ、あなたとても真面目な顔つきをしているから。まるで正直者の泉に落ちたみたい」
「変わったんだよ。ガキだっているし、もう昔のあたしじゃないんだ」
アビーは踏み台に上がると戸棚から皿を取り出しトレイに乗せ、母親が作り終わったものをゆっくりとそれに配置し、客元へと運んでいく。カレンは小さな店員からカップとケーキをスムーズに受け取った。
「村はずれにあった柿の木を放火するような子じゃなくなったのね、アンリは」
「それ、アンタ。あたしは家でボヤ」
「そうだっけ?」
カレンは出来上がったコーヒーをすすりながら額に指を置き、頭をひねる。手洗いに立ち、悩みながら歩く母親の後ろ姿を見ながら、エイダは見知らぬ母の幼少期を空想した。容姿は今の自分に近いのだろうか。声は。態度はどうだったんだろうか。エトセトラ、エトセトラ。
「ねぇ、アンリお姉さん、お母さんてどんな人だったの?」
「うん? 昔のカレン?」
「私のイメージではとても怖そうなのだけど」
アンリはエイダの質問を聞くと、接客してから何本目かの煙草に火をつけた。自前のコーヒーをすすり、白い吐息を宙に浮かばせる。小さな雲はすぐに消え、次には煙の線が立ち上がった。
「怖いかどうかは知らないが、とても優しかったよ」
「そうなの?」
「あたしが小学校で男の子にいじめられてた時、相手の家に乗り込んで家中破壊しながらいじめをするなと、彼とその両親に説得したんだ」
「せっとく?」
「ああ、あれ以降青ざめて怯えたながら学校生活を過ごしたエリックの姿が忘れられない」
彼女はエリックが隣村に引っ越したところまで話し、くつくつ笑った。
雨音が激しくなったようで、どうやら雷の音まで聞こえる。ビリビリとした緊張が身を包んだ。
だが、これぐらいで聞くのをやめては昔の母の姿がわからない。へこたれてはいけない気持ちがエイダの身と心を震わせる。ホットミルクをグイと喉奥に流し込み、カップを勢いよくテーブルの置く。
「他には何を」
「学校でテストがあったときだな。点数が悪いと発表されて大恥かくんだが、カレンやあたしはその常連でさ。そしたらカレンのやつ、職員室に爆竹仕掛けてな。テストの答案を爆破しやがったんだよ」
「ばく……は?」
「もう職員室中が炎と煙でめちゃくちゃなわけ。街から警察が来て検証やら犯人探しで色々時間を稼いでさ、テストやるまでに猛勉強した私たちは見事、満点を取ることになったんだなこれが」
エイダは今の所、学力はそれなりに良い。「最初からそうしておけばよかったのでは」など、とてもいえない。
「そう、なんだ。へぇ。あ、じゃあ見た目は? 今の私に似ているかしら? お母さんと同じ綺麗な黒髪なの」
「あの時のカレンと同じでいい香りのする髪だ。でも、エイダほどお嬢様気質じゃなかったな。一時期は真っ赤に染めててさ。カレンは家の都合で短くできないから邪魔ってんで縛ってよ。そんでいつ何時ケンカになってもいいように短パン履いててさ、なんでかっつーとスカートじゃ蹴りが出しづらいんだよな。意外に思うだろ? 走り込みからの飛び蹴りがどうしても相手の急所に入らないってんでアイツ、親に無理やりスカート穿かされた日は真っ先に学校の手洗いでズボンに着替えんだよ。で、男子とケンカな。腕力じゃ敵わないのわかってるから外国の投げ業集ってやつ? 図書館で借りてよくやってたんだよ。最終的に武器持った方が強いってわかってバットと爆竹を持ち出したんだが」
○
戻ってきた母を交えての昔話は、とてもホットミルク一杯では終わらない。四人の笑い声が絶えず外に漏れだすほど話し合った。不意に窓の外を見ると、いつのまにか雨は上がっているではないか。
窓から見える景色は薄青く、暗くとも星で爽やかだ。雨上がりの香りがどこか気分を高揚させる。エイダは駆け出したい気分でいっぱいだった。
「はしたないわよエイダ」
「ごめんなさい、お母さん。でもなんだか、今すぐにでも、お母さんとかけっこがしたいわ!」
「ふふん、お母さんは負けないわよ! それ!!」
「あ、ずるい、お母さん!」
街灯のぼんやりとしたオレンジ色がいくつも見える。
変わらないわとカレンは言って、風になびく黒髪を手で軽く押さえながら、二人で帰路を駆け足気味に闊歩した。
○
マチルダは庭で本を読みながら孫の面倒を見るのが日課だった。人形遊びに参加したり、お菓子を一緒に作って、お茶の淹れ方を教えてあげたり。それはここ数十年で一番の幸福であり、余生の生きがいと言って過言ではない。
しかし、今日学校から戻った後から孫の姿が見えない。友達とかくれんぼかだろうか。それならそれでいい。しかし声が聞こえないというのはとても不安で落ち着かない。
「エイダ。エイダ、どこだい?」
「おばあさま?」
「ああ、エイダここにいたのかい?」
広くはないとはいえ、老人が家中、外まで歩き回ると疲れてしょうがない。庭の外れにある大きな倉庫からエイダをの後ろ姿を見つけ、息を切らせながら、安堵しつつ彼女の元へ歩み寄る。
「どうしたんだい、こんなところで」
「おばあさま、来ちゃいけないわ」
「どうしてだい? そんなところにいないで部屋でお茶でも飲みましょう?」
「ええ。もう少ししたら行くわ。でも今はダメなの」
「何をしようとしてるんだいお前は」
「ちょっとこれから隣村に住んでいるトーマスの家へ行くの。彼ったら酷いのよ、私のお友達の洋服をハサミで切ったの。だから彼と彼の両親の服と飼っている犬の毛まで切り取って自分の犯した罪の重さを身を以て思い知らせてあげるの。大丈夫よおばあさま。これはきっかりあと一時間で片がつくの。そしたらアビーと一緒におばあさまにお菓子の作り方を習って、お茶を飲むの。大丈夫よおばあさま。そんなに顔をしないで。大丈夫だからおばあさま。私、お母さんの娘よ。こんなの楽勝なのよ。そうだわおばあさま、爆竹ってどこかしら。昨日お母さんが教えてくれた隠し場所を探したんだけど見つからなくて」
マチルダは震える手で、自身の鼻に乗った小さな眼鏡を押しのけ、目頭を軽く揉んだ。
一度だけ鼻をすすり、眼鏡を戻してから古臭い木製の戸棚をついと指差した。