Side フェンリル08
森の中を駆けながら、額に浮かんだ汗を片手で拭い去る。
もちろん汗と言っても疲労からくるものでなく、どちらかと言えば冷や汗のたぐいと言ったほうが正しいかもしれない。
――まさかあんな、すぐにバレそうになるとはなぁ。
思わず眉間をもみほぐしたいところだがいかんせん、今は森の中を疾走中。しかも、稀に毒物を持った人の匂いがすることからくっころ妹の刺客がそこかしこに配置されていそうで気が抜けない。
意外とも思える。いや、案外細かいところに目端の利く女性だからこそ気づいただろう言葉に、母さんの機嫌が悪くなっていないだろうな。と内心冷や汗だらだらものである。
だって、女性、いや、母さんに向かって『丸みをおびてる』は無いだろう。
母さん、スタイル抜群に見えて実は結構体型の事を気にしている。
以前、うっかり体重計に乗っているところを見てしまい、何の気なしに「あれ? 2㎏増えた?」と言ってしまったらそれから2週間野草しか食わせてもらえなかったからな……。
「ひょえぇ~、しっ、しぬぅぅぅ~」
後ろ隣から聞こえてくる死にそうな悲鳴に、心の中で十字を切りながらほんの少しだけ振り返ってみる。
「ひぃえぇぇぇぇ~、おたすけ~」
必死の形相を浮かべたくっころさんがフェンリルの首根っこにしがみつき、それでいて悲鳴をあげてはいるのだがまったく重心はぶれておらず、それどころかかなり安定した状態で危なげなく背にまたがっているのは一体どういうことなのだろう?
やはりお嬢なだけあって乗馬の心得があるから? それにくっころさんの身体能力は常人に比べれば頭一つが抜き出ているし、母さんが振り落とそうとしていない。と言うことなのだろうか?
今一つふに落ちず、フェンリルと目を合わせるとうろんな目で返された。
いや母さん、『悲鳴がうるさいからとりあえず振り落としていいか?』ってそれはやめてください。
どうやら先ほどのくっころさんの失言については怒ってなさそうだが、耳元で悲鳴をあげられるのには辟易してきたのか『振り落として黙らしていいか』的な物騒な考えに至ったようだ。
確かに眷属化の影響で滅多なことじゃ死ななくなったけど、この速度で振り落とされたらいくらくっころさんと言えど、変な方向に首が曲がったり、腹が裂けて見ちゃいけないものがはみ出てこないとも限らない。
精神衛生上、そういったグロいモノはよろしくないので出来れば勘弁してほしい。
視線でそう返したところ、母さんにはものっそい器用にため息をつかれてしまった。
そう。おおむねそうじゃないかと思われていただろうが実はこのフェンリル、母さんなのである。
くっころさんへ眷属の件を内緒にすると決めた時、母さんから「ならお前がフェンリルである事もごまかしといた方が良いだろう」的なことを言われ、ついでに自分も王城へ行ってみたいから使い魔の真似事をしてやるよ。となってフェンリル体の母さんをくっころさんに紹介することになったのだ。
しかしくっころさん、フェンリル体の私とは一回しか会ってないのによく違いに気づけたよなぁ。
確かにくっころさんはどうしょうもない救いようのない駄犬ではあるものの、妙なところで無駄に鋭い勘の冴えを見せる時がある。
そうだよな。王家では正確なフェンリル像が伝わっていたにも関わらず、体長2mで、初見なら銀狼と間違えてもおかしく無い私を、「フェンリル覚悟」と断定して突っかかってきたし、妹が自分の命を狙っていると知っていながら何年も過ごしてきた。
家で常備薬を作成させた時には"これだけは行ってはならない"と教えた手順だけを的確に選びとって、毒薬どころか物体Xを造り上げるその手腕とか、掃除や薪割り、洗濯などでも物体Xを量産せしめていた。何をどうすればあんなおぞましい生命を作れるのかしらないが、きっとくっころさんの選びとった手法がある意味で正解だったからこそ奴らは生まれてきたのだろう。
『ボゲ~』
っ!?
っと、いかんいかん。変なことを考えたからか、アレの幻聴まで聞こえ始めた気がしてきた……。
うん、これ以上くっころさんについて考察するのはやめておこう。精神衛生上、それが正解のような気がしてきた。
考えを一時中断し、相変わらず悲鳴を上げ続けているくっころさんに視線を戻す。
「ひょええええぇ~」
悲鳴を上げつつも、しっかりと母さんにしがみつくくっころさん。
彼女のことだから落ちて頭を打って気絶するなり、座ったまま失神すると思っていたのだが、意外にも神経も図太かったようで、母さんの背中にベッタリとくっついて、悲鳴を上げながらもジッと前方を見据えていた。
日本の知識で言えば、軽く150km/hは出てるはずなのだがよく悲鳴を上げる程度で母さんの背に乗っていられるな……。などと感心しつつも、先程、フェンリルの違いを見抜きかけた野生の勘にはもうしばらく警戒が必要だろうと思い直す。
「たっ……、たすっ……」
目が合った瞬間、涙目で助けを求められたような気がした。
ちょっと嗜虐心がうずいたが、面倒なのでそれは見なかったことにして今度は母さんの状態を確認してみる。
「………………」
うん、全然問題なさそうだ。むしろ余裕か? ……いや、間違いなく機嫌は悪くなりつつある。
私の全速力に軽々と付いてこれる。というか、母さんの方が速いので疲れは全くないだろうが、それでも絶えず続く悲鳴には辟易するものがあるのだろう。器用に耳をふさぐよう伏せているが、それでもなかなかにクルものがあるのか眉間にしわが寄っている。
しかし困ったな……。どうしたものだろう?
この調子で走っていては、目的地へ到着するまでに倍の時間がかかってしまう。
最初の予定ではくっころさんには早々に失神してもらい、私もフェンリル体になってスピードを上げるつもりだったのだが、こうもくっころさんが頑張っていては私もフェンリル体に変異することができない。
それに母さんの不機嫌ゲージも気がかりだ。もし、上限を突破しようものならこれから向かう王都が更地に還ってしまうかもしれない。
……となれば選択の余地は無い……、か。
すまんな、くっころさん。
心の中でくっころさんの冥福を祈り、駆け抜ける途中で枝ぶりの良い木を発見し、偶然を装いながら引っ張ってしなりをつける。
母さんにも意図が伝わったのだろう。うまくくっころさんが枝の戻る位置へ行くようルートを修正する。
「ふぇぇぇ、がぺっ!?」
悲鳴が途切れ、ゴシャッ……ドサッ。と言う音が背後から聞こえた。
おそらく狙い通りに木の枝(直径20cm程度)がくっころさんに命中し、その反動で地面に落ちてしまったのだろう。
眷属化による耐久力の向上があれど、これはたまったものじゃなかったはず。なにせ時速150km/hでの正面衝突と走っているものからの落下だ。
普通の人間なら最初の一撃で顔がトマトのように弾け、落下した体がぼぎょぼぎょのげちょげちょのどろどろになってしまうはず。
多少頑丈なこの世界の人間、しかも眷属となって何倍もタフになったくっころさんと言えど……。
「大丈夫か、くっころさん!?」
腹をくくり、グロ勘弁。と心の中で十字を切りながら心配げな表情を作ると、声を荒げるそぶりでくっころさんの落ちた辺りへ急ぐ。
「たっ……、たろさんか、すまない、急に木の枝が……」
そしてそこには息こそ絶え絶えながら、しっかりと意識を残したくっころさんが仰向けで地面に転がっていた。
「私はもうダメだ……、私が息絶える前に、せめて純潔だけでもたろさんに貰ってほし、くぺっ!?」
一瞬、凄え……。と感心しそうになったが、私に向かって手を伸ばしながら、何を錯乱しているのかトチ狂ったことを言ってきたので、無言で喉に貫手を決め意識を刈り取る。
「最初からこうすれば良かった……」
ビクンビクンと痙攣するくっころさんを見下ろしながら、無駄に出たいやぁな汗をぬぐい取ってぼそりと呟く。
「一度ぐらい抱いてやりゃぁ良いのに。
そんなんだから前世でも今世でも彼女すら出来ないんじゃないかい?」
「母さんは黙っといてっ!! それに王族の純潔とか色々と重いから却下なのっ!!」
いつの間に戻ってきたのか、私の独り言を聞いた母さんがそう言ってため息をつくが、私はそrをジト目で見返す。
全く、何を言い出すかなこの人は……。
昨今の日本と違い、この世界での純潔の価値は非常に重く、特に貴族ときた日にゃぁ純潔でなければ嫁入りを許さず。とまでのたまう処女厨がはびこっている。
そんな貴族の、しかも王族の純潔を奪ったとあっては一体どんなことになってしまうのか……。
国の一つ程度、何かあったら潰すのは簡単だが敵に回してまで戯れたいとはとうてい思えない。というか、王女の純血奪って国を滅ぼした、なんて不名誉な噂は嫌すぎるので却下だ、却下。
「大丈夫、バレやしないって」
「いや、ばれるって……」
とまぁ、こんな世界だからか、それとも必要に迫られてか。
何故か処女判別魔法なるものが存在する。
この魔法、無駄に性能が良くって経験人数やその相手、更に回数まで分かってしまうのだから始末が悪い。
唯一の救いといえば相手の許可が必要な為、悪用ができないってことぐらいだろう。
ついでに言えば、男に使えば童貞判別ができるのだがそちらはあまりにも需要が低い。……というか、浮気がばれるとヤバイ人達のために全力でひた隠しにされているため、その事実を知るものは意外と少ない。
「ったく、そんな気が小さいからあそこも小さいままなんだよ」
「ちょっ!? 見たのっ!?」
「おや、教えてほしいのかい?」
「ぐっ……」
ダメだ……、母さんのからかいにはとうてい勝てる気がしない。と言うか、藪をつついて蛇を出す結果しか思えない。ここは大人しく負けを認めて先を急ぐことにしよう。
「はぁ、もう小さい男でいいから先を急ごうよ」
「そうだね。小さいもんは仕方ない。……ってちょい待ちな」
肩を落とし、くっころさんをぐるぐる巻きにして母さんにくくりつけようとしたが、母さんが鼻を鳴らすと静止をかけてきた。
「どうした? ……ってこれはっ!?」
母さんに習って鼻を鳴らすと、遠く離れた地――進行方向とは真逆の私の家がある方向から血と煙の匂いが鼻についた。
「これって……」
「距離からすると麓の村だね。もしかすると口封じかい?」
背中にゾワリと嫌なものが走る。
考えてもいなかったが、くっころさんはこれでも一応一国の王女だ。
もし、くっころさんの死亡がやむを得なかったものとして処理されていれば問題ないが、麓の村にくっころ妹の手の者が行っていたとしたら?
そしてくっころさん死亡の罪を被せるのにちょうど良いのは私と言っていた。その罪を被せようと話を持っていったが、村人に断られたので口封じとして焼き討ちしたのだとしたら?
そんな考えが脳裏に走るが、ここでくっころさんを放置するわけにも行かないし、下手に連れて行って生きてるのが公になってももの凄く不味い。
となればどうしたら……。
「麓の村はあたしが行く。アンタはくっころさんを妹に合わせるのが先決だ」
私の悩みを看過したのだろう。母さんはそう言うと、私の返事を待たずに麓の村へと走っていった。
「ありがとう」
そのあまりにも早い対応に姿こそ見えなくなっていたものの、一言だけお礼を言うと踵を返し、くっころさんをぐるぐる巻きにしたロープの先端を胸のあたりできゅっと巻きつけ、遊びを確認した後、身体中に魔力をを行き渡らせる。
「ぐっうぅぅぅぅ、グガアアアッッ」
そのままフェンリル体へなるべく魔力を開放すると、体組織が変貌してゆくのがわかる。
器用さを持つ人の身体から、力強さと俊敏さを持つ獣の身体へ。
体内を循環する魔力が人の質から獣の質へ。
溢れ出る魔力が地面の草を枯らすが、すぐに影響を抑えるため魔力の放出を抑え、体の大きさを2m前後の体型に縮める。
背中に括りつけたくっころさんが落ちてないのを確認し、そっと地面を踏み出す。
それだけでもあふれる力が地面を弾けさせ、前へ向かった推進力が私達を押し出す。
先ほどの速さが150km/hと言ったところなら、今の自分は340km/hと言ったところだろうか、新幹線並だな。
すぐに最高速に到達し、そんなことを考えつつも所々で暗殺者特有の匂いを感じとったので、自身とくっころさんの身体に認識阻害の魔法を掛け、まっすぐに王城へと向かってゆく。
以前来た時と同様、一足で城壁を飛び越え、屋根を伝って街中を疾走し、王城にたどり着くと尖塔の内部に滑り込む。
くっころ妹の匂いを確認したところ、以前と同じ部屋にいるのがわかったので、この尖塔自体がくっころ妹の部屋なのだろう。と確信する。
滑りこんだ部屋は沢山の服に侵食されていたので、日本で言えばクローゼットのようなものと思える。
随分と大きなクローゼットは服の数も数えるのが馬鹿らしくなるほど揃えられていて、相変わらず凄いな……。と感心させられるが、羨んだところで意味はないのでさっさと辺りの様子を伺う。
……勿論下着類は以前に物色したので今回は目もくれない。
こちらも以前と同様、隣の部屋とその奥から人の気配こそ感じれど、部屋の中からは全く人の気配が感じ取れない。
安心して認識阻害の術式を解きくと、縮こまった体をほぐすために大きく伸びをする。
「――っん~」 ベショッ 「かぺっ!?」
……かペ?
聞き覚えのない音に首をひねり、音の出処を確認するため背中のあたりを確認してみる。
音がしたのは扉付近。
伸びをした状態のまま少し顔を下げてみると、目の前では簀巻にされたくっころさんが床と濃厚なキッスを交わしていた。別名、ずり落ちた。とも言える。
……あ、やっべぇ。
まずいな。人化してからくっころさんを起こす予定だったのだが、今の衝撃で起きたかもしれない。
仕方がないのでそのまま様子を見てみると、さすがくっころさんというべきだろうか、その体勢のまま身じろぎしながら変なことをのたまい始めた。
「さきっぽ……、先っぽだけでいいのだ。既成事実さえ掴めばあとは……、ぐふふっ」
「黙れ駄犬がっ!!」
何が先っぽだけなのか想像もしたくないが、これ以上放置すると何かが穢される気がして、取り敢えず小さな声で突っ込みながら後頭部を前足で踏みつける。
「ぐえっ!?」
こう見えてもうら若き乙女……、だったはずだが、聞こえるのは潰れたカエルの潰れたような悲鳴。これは駄犬から駄蛙にジョブアップしたほうがいいのか?
一瞬途方に暮れかけるも、ここが敵地だった事を思い出し、すぐに気を引き締め直す。
うん、人化は諦めよう。
タロさんもっとぉ~。と未だに寝ぼけているくっころさんを後ろ足で蹴り飛ばし、ぐるぐる巻にしているロープを噛み切ってくっころさんを自由にしてやる。
「はっ!? ここはっ!?」
ここまでやれば流石に起きたか、がばっと起き上がるくっころさん。
「あと一歩で既成事実が成立したのにっ!? はぐあっ!?」
開口一番、変なことをのたまったので、とりあえず蹴りを入れて黙らせる。
「痛いでは……、はっ!? ここは一体!? むっ、これはティリアーネのドレス……となるとここは王城の尖塔、ティリの服部屋か?」
そしてやっと現状を把握することのできたか、キョロキョロとあたりを見回すとやっとここが王城であることに気付いたようだ。
「となるとこっちはっ!!」
そして私が静止する暇もなく、隣の部屋に続く妹姫の部屋の扉をバンと開けると、正々堂々と言い放った。
「ティリアーネ、今いいだろうか?」
って、忍んできたんじゃなかったんかいっ!!
思わず突っ込みたくなるのを懸命に我慢し、やっちまったもんは仕方がないので、いつでもくっころさんを守れるように隣へ寄り添う。
というか、それは先にノックをするなり、部屋の前でいうべき言葉だろうに。
「曲者っ!!
……ってお姉様ぁっ!! お姉様っ、何度言えばわかるのですかっ!! 人の部屋へ入るのであれば先にノックをするなり、部屋の前で言うべき言葉があるでしょうに!! ってお姉様ぁっ!?」
最初は身構えようとした妹だったが、相手がくっころさんと判るとすぐにこんこんと諭そうとして、すぐに目を見開くと驚きの声を上げる。
おー、驚いてる驚いてる。そりゃぁ、殺したと思っていた姉が帰ってきて、しかも片腕が届いたというのに五体満足の姿だもんなぁ、そりゃ驚きもするって。
それでもまず突っ込むべきところを的確に突っ込んでいるあたり、くっころ妹の苦労が忍ばれる。ってか、服部屋から現れるのは無視っ? それともくっころさんにとって当たり前の登場だったのかっ!? そしてくっころ妹、意外と私と気が合うかもっ?
悩む私をよそに、くっころ妹はくっころさんを指差してわなわなと口を開く。
「それにその白銀の狼に白銀の髪……、もっ、もっ、もっ、もしかしてお姉様っ、フェフェフェっ、フェンリルの眷属になってしまわれたのですかっ!?」
ん?
フェンリルの眷属?
うん、そうそう。一房の白銀の髪は眷属の証だからねぇ。
って? え? おおっと?