奉奠
「本当に?」
少女は大声を上げ、両手に抱えていた籠を危うく落としそうになった。慌てて持ち直し、少女は顔を上げて勢い込む。
「ねえ、本当に私が選ばれたの?」
少女の問いに、相手はコクリと頷いた。途端に顔を綻ばせた少女に、相手もつられて笑みを浮かべる。
「夢みたい!私が、奉奠に選ばれるだなんて!」
美しい少女だった。抜けような白い肌に、桃色の頬は興奮のためか赤く染まっている。唇は花のように紅く咲き綻んでおり、瞳は満天の星空のように輝いている。小さな額に垂れているのは銀色の巻き毛。腰まで届くそれは動き易いよう緩く編まれている。
「よかったね。ずっと憧れていたものね。友人として、とても誇らしいよ」
「うん・・・!私みたいなはぐれものが選ばれたのは、貴方がずっと応援していてくれたお陰よ!本当に有難う!」
クルクルと回る少女に苦笑を浮かべ、彼女の友人は少女が籠から落とした果実を地面に着くまえに捕まる。それに気付くと、少女は照れ笑いを浮かべて果実を受け取った。
「早速明日から禊ぎに入るの?」
「ええ、多分。詳しいことは巫女様に聞きに行くわ」
「今回も、満月に合わせるのかな」
空を仰ぎ見た友人に合わせ、少女も顔を上げる。晴れ渡った空には白い月が浮かんでいる。もう何日かすれば満月になるのだろう。
少女の住む村では、古くから月の神が信仰されている。月神は村に豊穣を与え、様々な獣や厄災から村を守っていた。しかし神とはいえど万能ではない。信仰がなければ力を発揮することが出来ないのだ。そして神の力が薄れるということは即ち、村に厄災が訪れることに他ならない。それを防ぐため、神に信仰を示すため、村では奉奠として信仰に篤く、美しい年頃の娘を捧げるのだ。
信心深い村の娘達はみな、奉奠に選ばれることを夢見る。奉奠に選ばれ、神の元へ行くことは正しく名誉あることなのだから。それは銀髪の少女も同じだった。赤ん坊の頃に村の入り口に捨て置かれていたという少女はその珍しい髪色から何かと奇異な目で見られることが多かった。時にはその髪色や不確かな身元から、はぐれものと疎まれることもあったほどだ。
しかし今日、少女は奉奠に選ばれた。神の力が最も強まる満月には、神の元へと訪れるのだ。
少女は果物屋の老夫婦の世話になっている。足腰の弱い夫婦にかわり、家事をしたり果樹園の世話をしたりと身の回りから商売に関わることまで行っているのだ。しかし奉奠として選ばれたからには満月の夜からは村には帰ることは出来ない。いや、禊ぎをすることを考えるとすぐにでも村を離れなければならない。老夫婦の今後を案じながらもしかし、少女は神を思って心を踊らせるのであった。
老夫婦は少女の報せを聞くと、まるで我がことのように喜んだ。共に巫女の話を聞くと、巫女の勧めに従い、すぐにでも禊ぎを始めるように少女を急かす。少女も夫婦を気にかけてもらえるよう村の人々に声をかけ、禊ぎの洞窟へと向かったのだった。
洞窟は、天井は遥か高く一点に向かって窄まっていた。その一点には穴が空いており、一筋の光が漏れている。それは真っ直ぐ洞窟の湖に降り、宙に漂う埃を美しく照らし出していた。
湖の色はまるでサファイアの様に蒼く、辺りをその色に染め上げている。洞窟には風は吹かず湖はしんと凪いでいた。
禊ぎの衣装に着替えた少女はそうっと爪先を湖に浸す。途端に大きく波紋が広がっていき、少女には身を切るような冷たさを伝えた。それでも少女は冷たさを堪え、光の射す中央へと腰まで水に浸かって歩くのだった。
禊ぎとは、洞窟で三日三晩神へ祈りを捧げるものだ。その間に口に出来るのは神の住む山に実っていた果実と湖の水のみ。そうして穢れを落とし、満月の日には奉奠に相応しく飾り立て、神の元へと赴くのだ。
無事禊ぎを終えた少女は、一度村へ戻り美しい衣装に袖を通す。純白のそれは細やかな刺繍が月を模してあしらわれており、少女の美しい肌を際立たせるかのように胸元と背中は大きく開いている。背中からは薄いベールが長く伸び、床に垂れても尚人一人分余る。複雑に編み込んだ髪には真珠のような髪飾りが幾つか散りばめられ、月光を浴びてはきらりと光る。額には銀色の石が垂らされ、顔には薄化粧を施している。村の者達は皆、美しい少女の姿に吐息を漏らした。正に神に捧げるに相応しい美しさだと。
やがて日が暮れ、月が出ると村の巫女が呼んだ霞雲が月を覆いだした。少女は顔を隠すための薄布を被り、歩きだした。目指すは岩肌の露出する神の住む山。村から山の麓までは村人が総出で篝火を焚いて列をなしている。そして洞穴の入り口までは巫女見習いが奉奠の少女のベールを持って付き従うのだ。
歓喜に満ちた村人の顔。老夫婦も、少女の友人も巫女も、そして少女自身も誇らしげに顔を輝かせていた。
「さあ、先へ」
促された先は完全なる闇。少女を歓待するように、洞穴は大きく口を開けている。少女は深く息を吐き出し、振り返って巫女見習いの少女を見やった。
深紅の衣を纏った巫女見習いは、その顔に緊張と羨望を浮かべている。彼女はまだ十代の半ば、少女とさほど変わらない年齢だろう。羨望の眼差しは隠されること無く少女に注がれていた。
「では、これを」
少女は震える指先で顔を隠していた薄布を巫女見習いに渡した。洞穴を前にして、神の気配を感じたように思え、期待に胸が震えているのだ。
薄布は麓まで独りきりで降りる付き添いの巫女見習いに渡すのが慣習だった。神の力が薄まっている山の中を無事帰ることが出来るよう、奉奠の少女は祈りを捧げ、巫女見習いは村へ帰る。古くからそう決められていた。
「では、私から祈りを」
少女が指を組んで告げると巫女見習いは厳粛に頷いた。
「私の血が、そなたを護るでしょう」
少女はナイフで指先を切って血を一滴、薄布に擦り付けた。巫女見習いは感謝の念を胸に頭を下げ、顔を上げると少女の指先に布を巻いて血を止め、一歩下がった。そして片膝を付いて深々と頭を下げる。
少女は笑みを浮かべると身を翻し、洞穴の中へ入る。少女の姿が見えなくなり、足音が聞こえなくなると巫女見習いは洞穴に背を向け歩き出した。一体神はどのような姿をしているのだろう、奉奠の少女は、きっと神に限りない幸福を与えられるのだろう、などと想像をしながら。
少女はすぐに闇に包まれた。月光も星明かりも届かない洞穴は、足元すら覚束ない。
もうどの位進んだのか。道は随分と前から下っていて今頃は地面を潜っている頃なのだろう。村から山までの道を何往復もするほどの距離を歩いているのではないのか。少女は胸元で強く拳を握りしめた。もう少しで神の元へ行ける。もうすぐ神にこの身を捧げられる。期待と、僅かな不安とに心臓が煩い。
ーーそして。
少女は突然歩みを止めた。何かを聞いたのではない。何故なら自身の鼓動で足音ですらかき消されてしまう程だったのだから。何かを見たのでもない。何故なら相も変わらず少女は闇に捕らわれていたのだから。
少女は、熱い風を感じたのだった。ぶわり、ぶわりと定期的に吹いてくる不快な風。生臭い悪臭も共に漂ってくる。
恐る恐る顔を上げた少女は恐怖に目を見張った。少女の背丈の倍ほどの高さに赤く光る一対の瞳があったのだ。
これは神などという神聖なものではない、と少女は思った。むしろ獣ではないか。神とは今目の前にいるモノのことを指していたのか?コレが、こんな恐ろしいモノが、自分をまるで獲物であるかのように見ているモノが、神であるはずがない。神であっていいはずがない。
正面から送られてくる風は位置を変え、少女の頭を僅かに掠る程度となった。獣も自分に気づいたのだ。少女は一歩、また一歩と後ずさった。
じゃり、と重々しい音も動く。ぐるぐると腹の虫が低く唸った。きっと少女の香りを嗅いで食欲をそそられたのだろう。
「ほう、てん・・・だなんて、こんなの、まるで、ただの生贄じゃない・・・」
小さく呻いて少女はその場にへたり込んだ。逃げる気力などない。自分は死ぬのだ、と確かな現実味が感じられた。
「あああああああああああっ!!」
恐怖と激痛にまみれた少女の断末魔は、山を下る巫女見習いの少女ただ一人が聞き届けた。