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猛虎覚醒

(……あれから八年か)

 夜空に満月が輝くその夜、カーテンを閉めて真っ暗な部屋の中で、彼はあの日のことを思い出していた。彼がここに来た時、彼はまだ六歳と余りに幼く弱かった。昔から女性的な顔つきである彼は、あの頃は少女と見間違えられる程の容姿で、主人と一緒にとママゴトのようなことをして遊んでいた頃が懐かしい。だが、今や彼は十四歳だ。成長期を迎え、身長は急激に伸びた。年齢を考えればかなり背の高い部類に入る。日々鍛え続けた肉体は逞しく引き絞まり、声も落ち着きある男の声となった。

 今、彼がいるこの広大な部屋は、彼の主の寝室だ。今、主はすぐ傍のベッドにいる。布団の中に潜り込んでいるが、チラリと覗く肩の素肌を見ると、その体には何も身につけていないことが分かる。ずっと一緒だったこの少女と、共に今日という日を迎えることに、恐れや迷いが無いわけではない。だが、人はいつか、今日この日を迎えなければいけないのだ。

(……少年時代は今日で終わり。これから僕は大人になるんだ)


 ソラ・アロンゾ。十四歳。職業、ボディガード。

 世に栄えるアロンゾ財閥の令嬢がいかにも弱そうな男を側近中の側近、ボディガードとして使用していることは一部の人間には有名な話だった。

 ボディガードと言えば肉体が強靱で盾にもなれる大柄なライカンスロープというのが定番だが、この男はまるで逆だ。いかにも弱そうな優男で、性格もどちらかと言えば弱気。とても戦闘向きとは思えない。だが不思議な特殊能力があり、まるで背中に目があるかのように後ろから飛んできたボールを避けたりする。実は凄く強いのではないか、という噂もある。だが、彼が実戦で戦う姿を見た者は誰もいない。

 と言うのも、彼の主人であるアロンゾ家令嬢は、彼とは別に大勢の警備兵に常時守られているのだ。ボディガードというのは主を守る最終防衛ラインだが、厳重な警備に阻まれ、外部からの脅威がそこまで到達した事は、彼が着任して以降は一度も無い。この弱そうな少年一人のみがボディガードという極めて脆弱な状況を容認されているのも、周囲の警備兵が手厚いという背景があってこそだ。彼のボディガードとしての実力は全く謎に包まれている。

 もう一つ、彼の特筆すべき点は、やはりその整った顔立ちだろう。顔だけ見れば女かと思ってしまうほど綺麗な顔をしており、しかも背は高くて体格もスマートと、とにかく容姿が良い。そんな男が歳の近い少女のボディガードとして常時彼女の傍から離れない。ともなれば、周囲にてこのような噂が立つのは当然だった。

『あのボディガードは主人と関係を持っている』

 だが、真相を知るものは誰もいない。彼のボディーガードとしての能力と、彼と主人との関係性。この二つは屋敷の使用人の間では常に関心の対象であった。

 その二つの噂の一方は、今日これから真実として明らかになる。


「来たよ。起きて、ジーネ」

「ええ」

 ソラはベッドの中にいる主人に話しかけた。ベッドの中に潜り込んではいたが、眠ってはいなかった。夜遅くだと言うのに、ずっと起きて待っていたらしい。

「私は待っていたわ、ソラ。今日、この日、この時を」

「本当にいいんだね? 後戻りは出来ないよ?」

「ええ、いいわ。私があなたを大人にしてあげる」


 ジーネ・アロンゾ。十三歳。アロンゾ財閥の令嬢にして、ソラの主人だ。


「さあ、こっちにいらっしゃい」

「う、うん」

 ジーネに促されて、彼はベッドに座った。やはり、ベッドの中にいるジーネは何も見つけていない。直視出来ずに目を逸らしてしまう。

 ソラが初めてジーネの裸を見たのは、ここに来てすぐだ。あの頃から、ジーネはソラに裸を見せるような行為をしていた。成長するにつれて背徳感を感じるようになったので、次第にソラはジーネのそれを見ないようににした。だが、ずっと一緒にいれば、意図せずとも目に入ってしまう事は儘ある。幼い妖精のようだったジーネの身体も、次第に女性的な特徴を示すようになっていった。一言で言えばジーネのスタイルは芸術的だ。高名な芸術家による彫像のように、全身のパーツの一つ一つに無駄無く、過剰な主張も無い。身体の曲線も優雅で、肌も白磁のようで、ひたすら美しいばかりなのだ。今はベッドの中にいるが、それでも中でどのような身体がどのような姿勢でいるのか、腕はどこに置いて足はどのように開いているのか、脳裏に詳細に浮かんでくるので背徳感に苛まれる。

 今日、ソラが大人になることは、二人の合意の上だ。しかも、これは彼女の父親を初めとして、周囲からは誰も認められていない。二人だけの秘密だ。だが、この試みについて、二人の間には少し温度差があるとソラは感じていた。どちらかと言うとジーネの方が積極的で、ソラの方が受動的だ。ソラは恐れているのだ。今からやろうとしていることは、自分が背負うには余りにも大きく大切なものだ。本当に良いのだろうか、と自信を持ちきれない。そんなソラの不安を察して、ジーネはベッドから起き上がると、優しくソラの背中を抱きしめた。

「ソラ、恐がらないで。私はずっとこの時を待っていたのだから」

「本当に、僕でいいの?」

「ええ」

「ジーネがそう言ってくれるなら……僕は、命を賭けて君を守るよ」

 この少女にそこまで言われては、男として後には引けない。ソラは決意を固めた。

 その時、突然、屋敷の気配に乱れが生じる。

『ギャッ!?』

 普通は聞こえない程小さな音だったが、ソラの耳には確かに聞こえた。今の声は、この屋敷の警備員の断末魔だ。この屋敷を守る命の灯火の一つが、今消えたようだ。

「来るよ、ジーネ。もうすぐだ!」

「楽しみね。クスクスクスクス」

 今、二人の元に暗殺者が迫っている。

 つい先日のことだ。ジーネ独自の情報網により、ジーネの命を狙う暗殺者の存在が浮き上がった。この暗殺者は陰形の達人らしく、今までこの男の姿を見た者は誰もいない。コードネームはヒドゥン。どれだけ厚い警備でもすり抜けて目的を達成してしまう、恐るべき凄腕の殺人者なのだ。この情報を、あえてジーネはソラ以外の誰にも話さなかった。ジーネから計画を明かされた時、ソラには戦慄が走った。

『警備兵に頼らず、ソラ一人で自分を守れ』

 極めて危険な計画だ。自分が敗れればジーネが死ぬ。ソラはジーネに従い、秘密にしたままこの時を迎えてしまったが、やはり無謀ではないかと嫌な汗が背筋を流れる。

 そのソラの横で、ジーネがとつとつと語り始めた。

「ソラ、あなたが初めてこの家に来た時、あなたはまだ六歳だった。いくら何でも六歳では無理だったわ。もし私の命を狙う人が現れても、とてもとても戦えない。だからパパがこの屋敷に警備兵を配置すると決めた時、私は何も言えなかった。あの人達、誰? 名前も知らないわ。いつの間にか違う人に入れ替わっているし。どうせその時の生活の都合で、たまたまここで働いている人ばかり。もしもの時には一目散に逃げ出すに決まってる。ううん、ただその時の生活の都合で働いているだけだもの。ほんの僅かな金を積まれただけで、あっさり寝返るに決まってる。そ、そんな得体の知れない人達に、ああ、わ、私が、こ、この体が守られていると思うと、吐き気がする! ハァ!  ハァ!」

 ジーネの呼吸が荒くなってきた。興奮してきているのだ。

「でも、あの時の私はまだ五歳で、あなたは六歳。二人とも小さくて、どうしようも無いくらい弱かった。だから私は我慢した。いつ裏切るとも分からない、あの野蛮人共に守られることに! もし、まだ幼かった私たちに、あの野蛮人共が集団で牙を剝いて襲いかかってきたりしたら、私は、また……また……、オゲッ!?」

(……発作!? こんな時に!!)

 ジーネは時々、こうして発作的に嫌なことを思い出して、嘔吐してしまう病がある。しかし今は敵襲の真っ最中だ。暗殺者が目前まで迫っている。発作など起こしている場合では無いのだが、しかし実際に起きてしまったものは仕方がない。背中をさすってあげると、すぐに小康状態に戻った。まだ少し息があがっているが、話は出来る程度には回復したようだ。ジーネはフゥと深呼吸すると、また話を続けた。

「私は待ったわ。ソラには才能がある。もう少し大きくなれば、どんな人にも負けないくらいに強くなる。思った通りだったわ。あなたは十三歳になる頃には急に背が伸びて、凄く強くなった。これならもう大丈夫。誰が来てもソラは絶対に私を守ってくれる。なのに、またしてもあの警備兵共が邪魔に。あんなにゾロゾロと大勢いたら、ソラが戦う出番が無いじゃない。私はパパにお願いしたわ。もう警備兵はいらないって。でも、お父様は許してくれなかった。警備は厚い程良いって。ましてや身の安全をソラみたいな子供に全部預けてしまうなんて論外だって。ソラは強いのに。あんな奴ら全員よりも、ソラ一人の方がずっと強いのに。憎かったわ、あの警備兵共が! 皆殺しにしてやりたかったッ!」

 あの時のことはソラもよく覚えている。涙を流す程に本気で悔しがって、ナイフでベッドをズタズタに切り裂いて、中の綿を引きずり出して辺り一面に散り散らかしていた。あれは多分、ベッドの中の綿を誰かの臓物に見立てていたのだと思う。あの時、ソラは声も無く震えて見ているしか無かった。

「でも、ダメだったわ。アレはいくらでも補充が出来るもの。いくら殺したところで、数日もすれば元通りになってる。だから私は我慢して、待つしか無かった。いつかきっと、あの警備兵共が役に立たないその日、その時、その場所で、ソラが私を守ってくれる。どんな時、どんな場所で、どんな人が相手でも、ソラは私を裏切らない!」

 そう、ジーネの計画は、ソラを暗殺者とぶつけることそのものだ。この屋敷は警備が厳重であるので、いくら修行を積んでも、ソラの実戦経験はゼロだ。経験不足であることはソラも重々承知で悩んでいたことだ。どれだけ修行を重ねても実戦経験が無ければ格闘家として一人前の大人になったとは言えないだろう。

(……僕がこれから戦う相手は本物の殺人者だ。命のやりとりになる。格闘家ならば、いつかは経験しておかなければならない道だ。けど)

 問題は、この勝負は自分の命だけでなく、ジーネの命まで懸かってしまっていることだ。余りにも背負うものが大き過ぎる。しかし、それはジーネも承知の上だ。

(……分かっている。ジーネは僕を試しているんだ。僕の力と、僕の気持ちを。それも自分自身の命を懸けて。だったら、僕も応えなきゃ。ジーネの気持ちに!)

 ソラの顔つきに決意が固まったことを見て、ジーネは満足げに笑みを浮かべた。

「そうよ、ソラ。ソラは私を裏切らない」

「もちろんさ。僕はジーネを裏切らない!」

 そして、寝室と廊下を繋ぐドアが開いた。人が入ってくる気配があるが、姿は見えない。

「おい、止まれ!」

 ソラが警告すると、侵入者は足を止めた。それはそうだ。姿が見えないのに、見えているかのように確信を持って警告されたのだ。侵入者も驚いたことだろう。

「そうか、姿を見られたことが無いっていうのは、透明になれたからなんだな。ライカンスロープの特殊能力だ。でも、それだけじゃ警備兵の鼻はすり抜けられないだろう。風下から接近するとか、色々とテクニックがあるんだろうね。ただ姿が見えないだけじゃなくて、本当に凄腕なんだな。でも、僕には通用しないよ」

「……何者だ?」

 何も見えない空間から男の声が尋ねてくる。ソラはそれに率直に応えた。

「僕はアロンゾ私設兵団護衛兵、ソラ・アロンゾ」

「噂のボディガードか。戦闘には使えないお飾りだと聞いていたが」

「バカな人ね。私はあなたみたいなバカな人が来るのをずっと待っていたの。あなたは私の期待を裏切らなかった。クスクスクスクスクス」

「どんな事情があるのか知らないが、ボディガードの僕から見て、金の為に人を殺すお前の道は認められない。暗殺者ヒドゥン。お前の道は、このソラ・アロンゾが断つ!」

「……死ね」

 刺客の声が消えた。いや、声だけでなく、足音も呼吸音も、心臓の音も聞こえない。殺気も全く消えてしまっている。流石にここまで侵入してくるだけのことはある。かなりの手練れのようだ。だが、だからこそ、この勝負はソラに有利だ。

 ソラはジーネのボディガードだ。常に周囲に気を配り、ジーネを守り続ける。油断して隙を突かれることなど絶対にあり得ない。ソラの特殊能力、後ろから飛んでくるボールでも避けるその能力の正体は、空気の振動感知だ。研ぎ澄まされたその感覚で空気の流れを完全に把握する。例え完全に気配を消していようと、身体を動かした分だけ空気が動いている。

 目を瞑っていても周囲を感知出来るソラに、不意討ちや騙し討ちは一切通じない。ソラに勝つためには、正面から正々堂々と闘い、力と技のぶつかり合いで勝負を制する以外に方法は無い。今まで数々の要人を手に掛けてきた凄腕の暗殺者も、その隠形が通じないソラを相手にしては、勝利する道などあるはずも無かった。


 その直後、ズズン! と何かが壊れるような地響きが屋敷全体を揺るがした。

 宿直だったメイドがジーネの寝室に急行して中に入ると、窓が割れて大穴が開いている。思わず悲鳴を上げそうになったが、

「し~っ!」

 それより速く、ベッドの前にいたソラが制止したので、悲鳴は上げなかった。

「大きな音を立てたらダメです。ジーネが眠っていますから」

 メイドがそちらへ歩み寄ると、確かに、ジーネがスースーと寝息を立てていた。不眠症のジーネがこれほど熟睡するのは珍しい。それ以上に珍しいのはジーネの寝顔だ。普段の妖艶さからは考えられないほど穏やかで、まるで幼女のようだ。次にメイドはベッドの前を離れ、壊れた窓に近寄る。下を見ると、顔面が潰れ、窓から叩き落とされたらしい爬虫類系のライカンスロープが警備兵に捕獲されている。これをソラがやったのかと尋ねると、

「はい。何とかなって良かったです。でも、窓を壊したのは失敗でしたね。寒さでジーネが起きないと良いんですけど。明日になったら、修理の人を呼んで下さい」

 特に何事でも無かったかのように、自然な返事が返ってきた。怪我は無いのか、休まなくて大丈夫なのか、と心配すると、

「大丈夫です。僕はジーネのボディガードですから」

 ベッドの横を離れるつもりは無いらしい。そして、ソラは優しげな表情でジーネの可愛らしい寝顔を覗き込んだ。

「ゆっくり眠ってね、ジーネ。僕はいつまでもここにいるから」

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