ベルガスの霊峰
(……と言っても、ソラ君の行くところって)
ソラは引きこもりであるジーネのボディーガードなので、その行動範囲は極めて狭い。範囲というより、点だ。限定された点と点と往復しているだけの生活を送っている。特にこれと言って知り合いもいないし、街の外に出たならばとっくにナナの情報網に引っかかっている。目撃証言が得られないのは、人がいない所にいるからに違いない。そう考えると、ソラの向かうと思われる点は自ずと限られてくる。
(……やっぱり)
以前、ソラと一緒に行ったソラの両親の墓。超古代文明時代の生き残りである、ソラの父親が長期睡眠に使用したと聞かされた、コールドスリープ装置だ。そこに行くと、この前に自分とソラが赴いた時に供えたものとは、違う花が添えられていた。ソラは姿を消す際に、ここに立ち寄ったのだ。
墓の正面に立ち、上を見上げると、そこには坂があるだけでその先は見えない。ここは凄く高い山の麓なのだ。この山は麓と頂上では気候が全然違うくらいに非常に高い。だが、遠くから見ると上の方は雪で、下の方は青々とした木々が茂るその姿は非常に美しい。この山は霊峰と呼ばれており、ベルガスでは神聖な場所として大切にされている。人が美しいと思う気持ちが同じであれば、きっと、超古代文明時代でも同様に大切にされていただろう。
(……もしかして、この山の上なんじゃ)
以前、ソラは山育ちだと聞いたことがある。幼い頃はこの山の中で父親と暮らし、空手を教えて貰っていた、と。上の方は凄く寒くて空気も薄く、修行にはもってこいの環境らしい。ただ、同時にかなり危険だ。頂上を目指して登ろうとして戻って来なかった人が多数いる。夏の一時期以外は入山禁止とされており、秋である今は当然立ち入ってはならない。
(……ボクはネコのライカンスロープだもん。山登りくらい何でもないもん!)
しかし、この上にソラがいると確信したナナは、危険なんてなんのその。そのままの格好で登っていってしまった。
(……死ぬ)
ナナが後悔したのは、随分登って雲の中に入ってしまうくらいの頃だ。寒いとは聞いていたが、運動していれば寒くてもへっちゃら、とせっせと登ってきたものの、途中から凄く苦しくなってきて、ペースはスローダウン。息を吸っても吸っても全然楽にならない。
(……く、空気が薄いって、こういうことだったんだ)
グルグルと目が回って、頭も痛くなってきた。どうやら急いで登ったせいで高山病になってしまったらしい。ヘロヘロになって動きが止まれば、いよいよ寒さが身に染みてくる。着の身着のままで登ったことがとんでもない大間違いだった。自殺行為もいいとこ。幸いなのは、お弁当だけは持っていたことだ。途中で休憩してランチタイムにし、少し休むことで高山病も落ち着いてきた。
(……それにしても、ここ、何も無いところなんだ)
落ち着いて周りを見渡してみる。下の方は木が沢山茂っていたのに、ある程度登ってくると、もう岩と背の低い植物が生えているばかりで他には何も無い。植物限界と言って、ある程度の高さまで来ると植物が生えなくなるのだ。植物が生えなくなれば、生き物もいない。何も無い、ただ過酷なだけの環境。空気が少ないので火の力も弱い。水は少しはあるけど雪と氷ばかり。代わりに土と鉱石は沢山ある。木・火・土・金・水の五行のバランスが著しく悪い最僻地。人というか、命に大して厳し過ぎる所だ。
(……こ、これでソラ君がいなかったらどうしよう)
泣きそうになってくる。上はもう見えてきているのだが、寒いのと、空気が薄いので登っていけない。しかも、登ったら登ったで、その後は降りなければいけないのだ。これでソラがいなかったら、ガックリして降りる元気なんか残っていないかもしれない。
ミケネコ急便の看板娘ナナ。本名ニャニャ。誰もいない山の上で、ネコなのに犬死にす。そんな最悪な結末が身近に迫っているのをヒシヒシと感じてきてしまう。
(……そ、そんなこと無いよね。ソラ君は絶対いるもんね。ボクが死にそうになったら助けてくれるもんね)
そんな風に祈りながら、ナナは再び登り始めた。
(……死ぬ、死ぬ)
ナナは根性でさらに足を進めた。先ほどの休憩から距離は僅かなのに、寒さと疲労、空気の薄さで足が動かず、非常に進みが遅い。朝に登り始めたのに、昼も回って、ついに夜になってしまった。もう晩ご飯の時間でお腹も空いた。でも、弁当は昼に食べてしまってもう無い。真っ暗で何も見えないので手探りで四つん這いになって登っていく。これは本当に死ぬ。こんな真っ暗じゃ降りられない。かといって朝まで待っていたら凍死する。
(……死ぬ、死ぬ、死ぬ、死、あれ?)
何と、ずっと上り坂だったのが、急に平坦になった。
(……も、もしかして、頂上に着いたのかも。ソラ君、どこにいるの?)
声を出して探したいが、寒さで声が出ない。ともかくヨロヨロと、何も見えない所を前だと思う方に進んでいくと。
「きゃぁっっっ!?」
急に前が下り坂になって、足を踏み外し転倒した! ゴロゴロと転げ落ちていく。ナナは知らなかったのだが、この山頂は凹みになっているのだ。いつまで続くのかと思うほどに転げ落ちたところで、ドンッ! と何かにぶつかってようやく止まった。
「痛たたたたた……あっ?」
痛めた身体を抱き締めるように少し身体を起こすと、ぶつかったのは人間だと分かった。結構いい歳した中年のおじさんが座り込んでいる。
「あっ、す、すいません! ちょっと暗くて前が見えなくて。あの、人を探しているんですけど、中等生くらいの男の子見ませんでした? 名前はソラ君って言って、最近テレビに出てる人なんですけど、あの……………あ……………」
名も知らぬおじさんは、それはそれは、寝息一つ立てず、実に安らかに眠っていた。このおじさんは何十年という年月を費やして、ようやくここまで登ってきたのだ。おそらくは、大変な人生だっただろう。人が山とか、海とか、美しい自然を求めてわざわざ遠くまで出掛けるのは、それは癒やしを求めてのことだ。人と人の中に居ては回復出来ない心の疲れを、美しい自然に接することで癒やしたい。このおじさんの安らかな顔を見るに、きっと最後の最後で、生きている人間には知り得ない、本当に美しい世界を見ることが出来たのだろう。ナナは静かに手を合わせ、祈りを捧げた。長い間、お疲れ様でした。
それからナナは転ばないようにゆっくりと辺りを探索した。その途中、数人ほど、同じように安らかな顔をした人と出会った。ここで出会った人々は、それぞれ全く違う人生を歩んできた人達だ。しかし、今は一様に安らかな顔をして眠っている。そうしてナナは知った。人は皆、最後は平等だということを。そしてこの山、ベルガスの霊峰は、訪れた命が今まで積み重ねた苦しみを消し去り、平等に安らぎを与えてくれる聖地なのだということを。
(……嫌だよ、ソラ君。私はまだお疲れ様したくないよ。まだ頑張りたいの。ソラ君やジーネさんと頑張って、好きな人と頑張って、将来は小作りも子育ても頑張って、おばあちゃんになっても頑張って、頑張り記録を更新するまで頑張りたいの。ソラ君もだよね? ソラ君が頑張るのはこれからなんだよ。ソラ君、どこなの? あっ?)
辺りは完全な暗闇なので本当に間近しか見えない。だから手探りで感触から確かめる所からなのだが、今まで出会った人は総じて丸まっていたのに対し、今度は違う。ピンと背筋を伸ばして座っている。顔を寄せると、いつも見ていた、自分の目指していた顔だ!
「ソラ君ッ!!」
生き返ったようにパッ元気を取り戻して笑みが浮かぶが、すぐに気がつく。ソラはいつもと同じ薄手の格好だ。自分が話しかけても反応を示さず、胡座の姿勢からピクリともしない。その顔には寒さも悩みも苦しみも無く、ただただ静かで美しかった。
「う、うそ……」
今まで自身が死にそうになっていた体験から分かる。ソラは自分と同じく、何も持たずに山を登ってきたのだ。いや、自分には昼のお弁当くらいはあったが、ソラにはそれも無かった。一切何も無しで山を登ってしまったのだ。それでもどうにか山頂に辿り着いたソラだったが、もう山を下りる元気など無く、その場に座り込み、極寒の夜を過ごした。
そして、空の向こうへと旅だったのだ。
「う、嘘だよね、ソラ君。冗談だよね?」
きっとソラは、自分を驚かせようとしているだけだ。空気が薄くても火くらいは起こせる。本当は近くにキャンプが張ってあって、そこには暖かい服と、暖かい食べ物があるのだ。自分もそれを分けて貰って、暖まって元気になったら、一緒に山を下りてジーネの所へ行く。ジーネも待ってる。みんな、ソラが返ってくるのを待っているのだ。ガチガチと震える奥歯を噛み締め、その手でソラの顔を触ってみるが、暖かさは全く無い。凍えきった自分の手よりもソラの頬は冷たい。
「ああ……」
ナナは力なくと膝を落とした。嫌な予感は当たった。いや、それ以下だった。ここまでソラに会えると信じて、孤独と寒さ、空腹に耐え登ってきたナナの気持ちも砕け散る。もう立ち上がれない。この寒い夜を乗り越えることは出来ないだろう。
「ソラ君。ボク、寂しいよ、寂しいよぉ……」
ポロポロと涙を流し、ナナは最後の力を振り絞って、ソラに抱きついた。ずっとこうしたいという気持ちに耐えて登ってきたのだ。最期くらい、ご褒美を貰ってもいいだろう。
(……ソラ君、ボクは本当はずっと、ソラ君のこと)
そして、ナナは目を閉じ、安らかな笑みを浮かべた――――――。
「あれ、ナナ? 何でこんなところに?」
「へ?」
さて、寝ようと思ったら、急にソラが動いて声も聞こえてきた。しかもいつもと同じように呑気な調子だ。夢かと思う暇も無い。
「えええええッッッッッ!? ソラ君、死んだんじゃなかったの!?」
「死なないよ。こんな所で死んでどうするのさ」
「だって、身体が凄く冷たかったし」
「ここは寒いからね。こんな所にずっといれば、そりゃ、まあ」
「声掛けても起きなかったし」
「う~ん、気づかなかったかも」
「触っても起きなかったし!」
「それくらい何も気づかなるなるのが、この瞑想って修行なのさ♪」
ナナはガクッと両手を地に着いた。全部思い過ごしだったらしい。
「もしかして、僕を捜しに来てくれたの?」
「そ、そうだよ! みんな心配してるよ!! 何でこんな所にいるの!? 今までずっとここに居たの? 服は? 食べ物は?」
一気に色々聞かれても、ソラには答えきれない。
「ここはね、昔、父さんが一人で修行する時に使っていた所なんだ」
「こ、こんな何も無い所で?」
「それがいいのさ。寒くて、空気も薄く、食べ物も無く、そういった何も無い所に身を置くことで精神を研ぎ澄ませる」
「た、食べ物も無くって、何も食べてないの?」
しかし、その割には元気そうだ。
「これは断食って言って、何も食べないで瞑想に入り、精神を集中して、人の眠っている力を引き出すという修行方法なんだ。おかげで僕の絶好調だよ。この何も無い環境で、何も食べず、心を無にすることで、僕は限りなく『空』に近ついたッ!」
ナナにしてみれば、正気を疑ってしまうような修行だ。だが、ソラにしてみれば、自分の肉体を極限状況に置くことが空を体得する上での重要点なのだ。
ソラが呑気な笑顔から、少し真面目な顔になる。
「僕は今まで甘え過ぎていた。初めてジーネに会って、ジーネに拾って貰った時から、僕はジーネに甘えてきたんだ。だから最近、ジーネの様子がおかしいってだけで、僕は不安になってしまって、怖くなってしまった。僕は後ろでジーネが支えていてくれなきゃ戦えない男だ。でも、今のジーネは調子がおかしい。だから、今度ばかりは僕は一人で戦わなきゃいけない。父さんはいつも言っていた。人は誰かと戦う前に、まず自分と戦わなければならない。だから、僕はジーネと離れて、一人でここに修行に来たんだ!」
何だかソラらしからぬ強きな発言だ。だが、何となくナナには不安があった。そして案の定、その言葉が飛び出した。
「で、でも、何も言わずに出てきちゃったから、ジーネは怒ってるかな」
「お、怒ってるなんてもんじゃないよ。死にそうだよ!」
「し、死にそうって?」
「ジーネさんって、いつもソラ君が食べて毒味した物を食べてたでしょ? ソラ君がいないから毒味する人がいなくて、もう何日も何も食べてないんだよ!」
「なっ!?」
「それで衰弱しちゃって、もう本当に死にそう! ソラ君と違って、普通の人は何も食べないでいると死んじゃうんだよ!!」
そんな事態になっているとは思ってもいなかった!
「わ、分かった、すぐ帰ろう! 本当は大会前日までここで修行しているつもりだったけど、もう十分だ。断食修行はここまでだッ!!」
「今日が大会前日でしょ!!」
「あら~。またうっかりしてたか」
「毎回毎回、ソラ君のうっかりは洒落になって無いの! その瞑想って修行してて時間を忘れたの!? ボクが来なかったら絶対大会が終わってもここに居たよ! あ、分かった。ソラのお父さんもきっと同じことやって一人だけ寝坊したんだよ。絶対そうだよ!」
「そ、そういうことだったのか。父さんの謎が一つ解けた!」
「納得してる場合じゃ無いよ! 早く帰らなきゃ! で、でも、今から山を降りるなんて、とてもじゃないけど……」
そう、すでに完全に日は沈み、辺りは真っ暗。オマケに寒くてお腹も減っており、とても山を降りるなんて無理だ。それどころか、命の危険がある始末である。
「それは大丈夫。とりゃ!」
「きゃあ!?」
ソラなナナをお姫様だっこにすると、颯爽と駆けだし、山壁を飛び降りた。
「あきゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッッッッッッッ!?」
真っ暗闇の下り坂を全速力で駆け下りていく。これが断食修行の成果なのだろう。これだけ空気が薄い所で、しかも自分を抱えているのに、息一つ乱さず走り抜けていく。
(……ソラ君って、本当に超人なのかも!?)
女とはいえ、ナナは脚力に自信のあるネコのライカンスロープだ。だが、ソラの身体バランスと脚力はもう自分をずっと超えている。それどころか、知り合いを思い返してもこれほどの域に達しているものはいない。長年の過酷な修行と今回の断食修行により、ソラの身体能力は未知の領域に達しようとしている。
これなら国内最強と呼ばれるランスロットにも勝てるかもしれない。
「ソラ君! ジーネさんが待ってるよ、急いで!!」
「うん!」




