無明の世界
この小説、「ジーネ様はうらぎらない」は、
王道・バトル・ラブコメ・ファンタジー格闘小説です。
特に読んでいて不快になる要素は無いと思うので、
安心して読み進めて頂ければ幸いです。
(……僕は、誰にも信じて貰えないのかな)
その日、少年は仕事探しに人材雇用ギルドに来ていた。年齢はまだ六歳と幼く、体格も年相応に小さい。髪は短く、冬だというのに身に纏っているのは薄手の運動服のみと、格好こそ極めて貧しいが、顔つきを見ればとても可愛い。女装させればどこから見ても女の子見えるだろう。今は困り果てて半泣きでいるから、なおさらそう見える。
そんなか弱そうな少年が何故、こんな所で職探しをしているのか? 実はつい最近、ずっと二人で一緒に暮らしてきた父親が他界してしまったのだ。家は元から貧乏だったので生活費はあっという間に底を突き、本日中に仕事を見つけないと餓死の危機に直面してしまう。ちなみに、この少年は自分の長所を体力だと思っている。このため、志望職種はもっぱら戦闘要員だ。
「僕の父さんは虎だったので、僕も」
「お前のどこが虎なんだよ……」
あっさり追い返されてしまった。世の中には厳しい。この世界では主に二つの能力が重要視される。魔法と、変身だ。先天的に並の人間よりも強い肉体を持ち、なおかつ変身することで更に強靱となる変身能力を持つのが、獣人ライカンスロープだ。一方、変身できない人でも勉強することで魔法が使えるようになり、一通りの魔法を一人前に習得すれば魔法使いと呼ばれるようになる。ところが、この少年は変身できない普通の人間であるにも関わらず魔法教育を受けていない。よって、魔法が使えない。代わりに体力には自信を持っているのだが、一般的に体力の評価が高いのはライカンスロープと考えられている。そのため、いくら当人が自信を持っていてもそんなことは誰にも信じて貰えず、就職活動は極めて難航していた。
「坊主、俺の所で働かないか?」
「えっ、本当ですか!? 仕事はどんな?」
「お前みたいな可愛い顔をした子供が好みなお姉さんと一緒に遊んで」
「あわわわわ……」
慌てて逃げ出した。心外なことに、この手の怪しげな求人は望んでもいないのに向こうからいくらでも寄ってくる。おかげで知りたくも無い余計な知識を身につけてしまった。こういう悪い意味で大人な仕事はやりたく無い。就職というのは人生における重要な分岐点だ。仕事があれば何でもいいというわけではない。
(……でも、このままだとお腹が空いて死んじゃうし)
部屋の隅から反対側の隅へ移動して少し落ち着くと、そろそろ本格的に不安になってきた。グーと空腹でお腹が鳴る。この少年の将来の夢は亡き父親を後継することだ。父は『猛虎』の異名を取る程に凄まじく強い格闘家だった。自分と同じく変身は出来ないものの、驚きなことに本物の虎のライカンスロープと対決しても圧勝するくらい強かった。だから、自分も父の次くらいには強くなりたいと思って、毎日一生懸命に頑張って修行を続けてきた。毎日毎日死ぬほど苦しい修行に耐えてきた。それなりに力もついたと思っていた。なのに、父が死んだ途端にこの様だ。生まれてから今まで続けてきた努力は何の意味も無かった。
(……あんなに頑張ったのに。何で? 何で誰も僕を信じてくれないの?)
努力すれば報われるというのがこの少年の価値観の根底だ。それが崩壊した今、少年は崖から奈落の底に落ちたも同然である。自失呆然の果てに両目から光が消えていく。
(……ううっ、何も見えない。真っ暗だ。一体僕はどうしちゃったの?)
真昼間だということは分かっているが、頭が混乱して本当に視界を奪われたかのように目の前は完全な暗闇だ。
(……父さん、父さんが言ったんじゃないか。頑張って修行すれば、絶対に良いことがあるって。父さんが言うから僕は頑張ったんだよ。父さんがいなくても一人で頑張っていけると思ってたのに……。その結果がこれなの? 父さんは僕に嘘を教えたの? じゃあ、僕って一体何だったの? 僕は一体、誰? 何? 何なの? 何? 何? 何?)
「あがっ!?」
突然、何か衝撃を受けて少年は倒れ込んだ。混雑した屋内に座り込んでいたので、通りがかりの大人に蹴飛ばされたとか、そんな所だろう。しかし、少年はもう目が見えなくなる程に自失茫然で右も左も分からぬ不覚の状態だ。自分が倒れていることすら分かっていない。
(……ううっ。ぼ、僕の進む道は、どこに? 何も見えない。真っ暗だよ……。ど、どこかに光は無いの? 誰か、僕の道を照らして……。僕を信じてくれる人。誰か、僕を、信じて……)
「クスクスクスクス」
(……ん、な、何? 女の子の声? 何でこんな所に?)
地面に突っ伏して悶え苦しんでいると、状況から考えて場違いな少女らしき笑い声が聞こえてきた。少年が頭を上げると、ぼやっと周囲が明るくなってきて、そこには目が覚めるように可愛らしい少女がいた。
「あなた、仕事を探しているの? そんな子供なのに?」
「え……あ、う、うん」
周囲が明るくなって、ようやく自分が倒れていることに気がつき、体を起こした。とりあえず座り直して、改めて女の子を見てみる。
(……こ、こんな可愛い子は初めてだ! け、けど)
背丈から鑑みるに、年齢は自分と同じか、一つ年下くらいだろう。流れるような青い髪と宝石のようにキラキラした大きな青い眼が特徴的。肌は真っ白で傷一つ無い。可愛過ぎて少女の周囲が光り輝いているように見えるくらいだ。表情や身のこなしも生活感や現実間が漂っておらず、夢や幻想の世界から来たのではないかと思えてくる。身なりもフリルの付いたドレスと非常に良く、きっとどこかお金持ちのお嬢様だろう。高嶺に咲く花すら霞む美しさだ。
しかし、座り込んでいる自分の前に立ち、上から見下ろすその視線には、人の根底を見透かすような冷酷な気配が入っていた。その瞳は美しかれども氷のように冷たい。上流階級の人というのは、子供でもこんな風なのだろうか?
この視線に気がつくと、少年は急に彼女が怖くなってしまった。
(……こ、こんな娘が、な、何で僕なんかに?)
少年が怯えるのも当然だ。
元々が貧乏な無名の家の出身で、父親を亡くして大人の後ろ盾が無くなり、学校に行っていないので教養も無く、肉体労働で食い繫ごうにも仕事が見つからない。誰にも相手にされずに野垂れ死に寸前である自分に比べ、彼女は全てが揃い過ぎている。単に金持ちと貧乏人という関係だけではない。彼女は身なりが綺麗なだけでなく、作法が体の細部にまで行き届いていて、それこそ瞬き一つ取っても自分とは違う。頭も相当に良さそうだ。
そして何より、精神性が全然違う。少年の頭の中にあるのは明日の食事のことだけ。それに対し、彼女は家に帰れば食事は勝手に出てくるだろうし、寝床の心配も無い。家が裕福であるなら相当先々まで不自由しないだろうし、仮に何らかの危機に見舞われても、本人の頭が良いのであれば対処出来る自信もあるだろう。そういった庶民が持っている悩み、不安が取り除かれているならば、彼女は一体何を考え、何を望むのだろう? この少女が自分に話しかけてきた理由も全く不明だ。何も見えない。何一つ理解出来ない。まるで果てしない巨大な闇が目の前を覆い尽くしているようで恐ろしかったのだ。
「さっき自分のことを虎って言ってたわね? でも、ライカンスロープじゃないの?」
しかし、自分が怯えていることも余所に、少女には関心を持たれてしまったらしい。
「へ、変身は出来ないけど、父さんは猛虎って呼ばれるくらい強い人だった。僕はその父さんの子供で、ちゃんと練習もしているから、大人になれば……」
「そのお父さんは?」
「ついこの前に突然パタッと死んじゃった。お母さんは僕を生む時に死んだらしいし。お金は元から無い。学校に行ってないから友達もいない。家も放り出して来ちゃったし、服も今着ているこれだけ。そして仕事は見つからない。これじゃ希望なんかとても持てないよ。何にも無くなっちゃった」
「その話、本当?」
「ひぃっ!? ほ、本当だよ! な、何をそんなに疑って……!?」
急に、少女がガシッと少年の顔を掴むと、目の奥底を覗き込んでくる。少女が着目しているのは、この目も当てられない悲惨な境遇のようだ。確かに、ここまで全てを失い果てた人間などそうそう見つからないだろう。互いの息が感じれる程の近距離なので、少女がフーフーと少し興奮気味なのが感じられる。口元は先ほどからずっと同じくニヤニヤ笑いつつも、目は笑っていない。というより、歪みきっている。まるで地獄から沸き上がってきた亡霊のような異様な迫力を醸し出している。
「本当みたいね」
少しして解放して貰えると、少女はまたクスクスと笑い始めた。漂わせる亡霊のような気配とはまるで合わない無邪気な笑顔を見ると、いよいよ少年の背筋に冷たいものが走った。
(……この娘は危険だ! 死の気配が漂ってる!!)
先ほどからこの少年が『練習している』と主張しているように、この少年は護身術だけは身につけている。故に、自らの命の危機に対しては敏感に感じ取れるのだ。この少女に関わり続けることは命を危険に晒すことになる。これは直感ではなく確信である。しかし、少年が初めてこの少女を見た瞬間、確かにこの少女の周囲が光り輝いているように見えたのだ。その印象が暗闇に怯える少年をその場に留まらせた。
「虎ってくらい凄いのに、仕事は見つからないの?」
「だ、誰も信じてくれないんだよ。僕は子供だから。ここ最近、あっちこっちで仕事を探してきたけど、サッパリ見つからないんだ」
「クスクスクスクス、世の中というのはそういうものよ」
(……ううっ。この娘、暗闇だ。真っ暗だよ。何でこんな……)
目の前にいる目が覚めるような可愛い少女の、クスクスとした無邪気な笑顔の後ろには、氷の様に冷たく絶望的な暗闇が存在していた。心で感じ取ると言うより、目で見て分かる程に色濃い。誰の目にもそう映るだろう。寒空の下で湯気が立ち上るのが目で見て分かるように、少女からは絶え間なく漆黒の闇が沸き上がっている。
そんな少女が、まるで神の教えを説く聖女のように、少年に語り聞かせる。
「教えてあげる。みんなね、騙されるのが嫌なの。嘘をつかれるのが嫌なの。裏切られるのが嫌なの。せっかくあなたを信じてみたのに、あなたがコロッと敵にやられて死んじゃったり、お金を積まれて寝返ったり。ううん、もしかしたら、最初から裏切るつもりで潜入しようとしているだけなのかも。他人をその気にさせておいて、ここぞという所で裏切る。世の中はそういう人で一杯なの。どこを見ても嘘つきばかり。あなたも同じ」
「ぼ、僕はそんなことしないよ! で、でも」
(……僕、さっき父さんのこと、どう思ってたっけ? 父さんが、僕に、嘘を教えたって。そんな。そんなわけ無いのに……)
改めて考えると愕然とする。ずっと山暮らしで、街の人間とは誰とも接点の無い生活を送っていた少年にとって、唯一信頼出来る人間と言えば父親だけだった。あれほど深く信じていた父親に対してでも、人間追い込まれれば疑いを持ってしまうものなのか?
(……暗闇。僕の世界は、真っ暗だ。昔、父さんが言ってたっけ。こういう人の迷いが作り出す暗闇を『無明』って言うんだ。僕は、こんな世界で生きていかなければならないのか……)
「どう? 分かった?」
「う、うん……」
少年は頷くとふぅと一息した。不思議なことだが、何だか落ち着いてしまった。世の中がそういうものだと悟って、心の整理が出来てしまったようだ。
(……僕の世界が今まで明るかったのは、父さんがいてくれたからだったんだ。でも、父さんは死んじゃったし、もう僕に光は無いんだ。無いなら、仕方無いよな……)
少年は「さて」と一声呟くと、手に膝をついて立ち上がった。
「これからどうするの?」
「とにかく、お腹空いたから何か食べ物を探すよ。さっき僕に声を掛けてくれた人にお願いしようかな。そのままお世話になれば、とりあえず食べ物には困らないと思う」
「あなたにはやりたいことがあるのではなかったかしら?」
「そ、それはもう無理だよ。僕は小さい頃から父さんみたいになりたくてずっと練習してきたけど、まだ子供過ぎたかもしれない。誰も信じてくれないよ。残念だけど……」
(……でも、本当に残念だな)
少年は心からそう思った。自分を諭してくれたこの聡明な少女は、おそらく自分より遙かに深い暗闇の中にいる。僅かな光源も無い、完全な無明の世界にいるのだ。最初、少女を見て少年の周囲が明るくなったように感じたのは、言わば目が慣れたということだ。少女の奈落より深い闇に比べれば、自分の闇はまだ薄暗い程度なので、少女を見ているうちに目が慣れて、暗くても周りが見えるようになった。そういうことだ。
そして、自分程度の闇であれほど怖かったのだから、この少女はどれほどの恐怖を抱えて生きているのだろう? 出来るならば、助けてあげたい。自分が父から学び、修行を続けて得た力は、こういう少女を守るために使うものではなかっただろうか?
だが、最早自分には無理だ。自分の目指した道はもう断たれてしまった。
「諦めてはダメよ」
しかし、身の振り方を考え直そうと思っていた思考を少女が思い直させる。
「そうやって人生の大事な所で諦めてしまう人は、これからもずっと諦め続けて生きて行かなければならなくなっちゃうの。それは自分で自分を裏切る事と同じ。私は私を裏切らない。あなたもあなたを裏切らない」
(……この娘、励ましてくれるの? こんなに弱くて、何も無い僕を?)
少女の話を聞いて、少年は父から何度も聞いた言葉を思い出した。ネバーギブアップ。自分で自分を諦めてはならない。最近の忙しさと生活苦で忘れかけていたが、少女の言葉で鮮明に思い出した。折れかけていた心に、再び闘志が蘇る。
「そ、そうだね。何を弱気になってたんだろう? チャンスなんて、これからいくらでもあるはずじゃないか。諦めてはダメだ! こうなったら山で動物を捕まえて、それを食べて食い繋ぐ。大変だけど、修行にもなるしね。それで就職活動も続ける。僕の志望の戦闘要員は別に珍しい仕事でもないし。もう少し体が大きくなりさえすれば、絶対に見つかるはずだ。ネバーギブアップ。僕は自分を裏切らない!」
「そう、それでいいの。自分で自分を裏切るような人は、すぐに他人も裏切るに決まっているもの。これでいいの。あなたは私を裏切らない」
「へ? 僕が、君を、裏切らない?」
「あなた、名前は何て言うの?」
「ソラ、だよ」
少年の名前は、ソラ。名字は無い。この国では名字はある程度上流階級でなければ持っていないのが通常で、ソラは下層中の下層出身だ。名字などあるわけ無い。
「ソラ。あなたに今からチャンスが訪れるわ。あれを見なさい」
少女が示した先を見ると、ジーネと同じく青い髪に青い眼で、髭を生やした凄みのある壮年の男性が二階から下を見下ろしていた。一階中央のホールにはいかにも強そうなライカンスロープ達が大勢集まっている。
「あの人、知ってる。有名人だ。マリオ・アロンゾさんだ」
髭の男性、マリオはこの国の大財閥、アロンゾ家の当主だ。アロンゾ家は主に娯楽産業を生業としており、国中のギャンブルの総元締めでもある。アロンゾ家は規模が大きくなった今でこそ名家として扱われているが、実態はマフィアだ。下手に反社会勢力を野放しにするより実力者に統率させた方が良いとして暗黙の了解を得ている、国家公認マフィアとも言うべき集団である。このため、常に命を狙われる危険がある。つい最近、マリオの命を狙った大規模な戦闘が行われ、撃退はしたものの、マリオの抱える私兵集団『アロンゾ私設兵団』に大幅な欠員が出た。この情報はギルドの中で広く出回っており、耳寄りな情報としてソラも察知していた。そして今日、ここにマリオがいるということは、その欠員補充に戦闘要員を探しに来たということだ。何やら片手にコインを持っており、今にも投げそうな雰囲気である。
「え、も、もしかして、あのコインを投げて、拾った人がアロンゾ私設兵団のメンバーとして雇って貰えるってこと?」
「そうよ」
確かに、それなら公正公平で完全な実力勝負で手っ取り早い。いかにもアロンゾ家の人間がやりそうなことだ。
「今からパパはコインを十枚投げるわ。九枚は金貨だけど、一枚は銀貨。金貨はパパのだけど、銀貨は私のなの。ソラ、あなたは銀貨を取りなさい」
「え、パパ!? じゃあ、君は?」
「私はジーネ・アロンゾ。絶対に銀貨を取るのよ。金貨ではなく、絶対に銀貨。他の人に奪われては絶対ダメ」
(……げげっ!?)
何と、投げ落とされる十枚のコインの中から、一枚だけある銀貨を見分けて、それをあの大勢いるライカンスロープに先んじて取れ、という要求だ。難易度が高過ぎる。しかもジーネの話しぶりは、失敗したら絶対許さない、と言わんばかり。凄まじいプレッシャーである。
「ソラなら出来るわ。私は期待しているの。ソラなら、きっとあの銀のコインを掴んでくれるって。私の期待を裏切ってはダメ。絶対ダメ。ソラは私を裏切らない」
(……僕は、ジーネを、裏切らない?)
しかし、ジーネに自分なら出来ると言われると、何だかそんな気がしてきた。よくよく考えてみれば、これは得意分野だと思う。体格や身のこなしから、ジーネはソラの才能を見抜いてくれているのかもしれない。いずれにせよ、ソラには願ったり叶ったりだ。
「そ、そうだね。僕なら出来る。僕はこういうチャンスを待っていたんだ!」
「そう、それでいいの。ソラは私を裏切らない」
マリオが二階からコインを投げた。キラキラと光を反射して落ちる十枚のコインのうち、一枚だけある銀貨を見分けるなど、常人ならば不可能だ。しかし、ソラの動体視力ならば余裕で見分けられる。
「はっ!!!!!!!!」
壁際にいたソラは壁を蹴って真横にジャンプした。三角飛びだ! 一気にホールまで躍り出て、空中でコインをキャッチして宙返りし、見事反対側の壁際に着地する。何と、一足飛びで壁から壁へ飛び移るムササビのような大跳躍を見せたのだ。
右手を改めて確認すると、間違い無く銀貨が握られていた。
「や、やった、ジーネ、やったよ! 銀貨ゲットだ! 僕はジーネを裏切らない!」
銀貨を握りしめた右手を掲げ、ガッツポーツを決めた! コインを取ろうとしていたライカンスロープ達、その他の求職者、この施設の使用人達、マリオ、そしてジーネ。この屋敷にいる全ての人間の視線がソラに集中する。
「な、なんじゃあ、あのガキはぁぁぁぁ!?」
「横取りしやがったッ!」
「取り返せ!」
「あわわわわわ……」
一度誰かが掴んだコインを奪い取ってはいけない、などというルールは無い。一斉に凶暴なライカンスロープが襲いかかってくる。慌てて建物のあちこちを逃げ回るが、やはり身のこなしが非常に軽い。これは掴まらないだろう。
「な、何だ、あの小僧は……!?」
「クスクスクスクス……ククククククク」
マリオが唖然としてその様子を見ていると、娘のジーネの元に歩み寄ってきた。抱き上げて娘の様子を見てみると、他者に漏れ聞こえないように口を押さえているが、愉快で愉快でたまらないらしい。どこの馬の骨とも分からぬ少年がいきなり横から銀貨をかっさらったのは、明らかにジーネの差し金だ。口先一つで誰かを丸め込み、思い通りに動かし、思い通りの結果が手に入る。この世にこれほど愉快なことは無い。だが、ジーネはまだ五歳だ。無邪気で毎日が楽しいことばかりの明るい娘。そういう娘だったはず。それがこんな謀略めいたことをするとは、マリオには信じがたかった。
「パパ。これでソラが私のボディガードね」
「あ、あんなチャラけた小僧が……。ま、まあ、約束だからな。仕方あるまい」
マリオはこのコイン投げを行うに当たって、一つだけ約束をさせられていた。新規雇用する十人のうち、一人だけはジーネ直属の配下にするということ。その目印として、一枚だけ銀貨を投げ、それを掴んだ者をその任に就かせる。その際、誰が銀貨を掴んだとしても、マリオは絶対に却下してはいけないという約束だ。ちょっとしたギャンブルである。
「ウフ、ウフフフフ……」
逃げ回るソラを見つめるジーネの目は、まるで何かに取り憑かれたようだ。これはマリオの知るジーネでは無い。なぜ、本当は素直で明るい純真な子供であるはずのジーネがこんなことになっているのか。マリオには心当たりがあった。今回の欠員補充は、表向きにはマリオの命を狙って大規模な襲撃が行われ、その際に私兵集団に多数の死者が出たため、とされている。
だが、真相はこうだ。
本当に狙われたのはジーネだった。首謀者はマリオの弟、ジーネから見て叔父に当たる男だ。家督相続権第二位の弟が、第一位のジーネを亡き者にしようと企てたという、権力者や大富豪に良くある、分かり易い相続抗争である。
弟はジーネが生まれた時からずっと、ジーネを可愛がっていた。その他の親戚や、数多くいる使用人も、みんなジーネを可愛がっていた。ジーネもまた、自分は周りの大人みんなから愛されていると思っていたのだろう。だが、それは全て弟の仕掛けた巧妙な策略だったのだ。財産狙いの他の親族と結託し、少しずつジーネの周りの使用人を自分の息の掛かった者に入れ替え、そして最近、遂に暗殺計画が実行に移された。マリオはその動きを直前で察知しジーネの元に駆けつけたが、時既に遅かった。
マリオにとって最大の誤算は、ジーネとその母を警護していたボディガードが裏切ったことだ。マリオの親友でもあり、信頼できる男だったのだが、彼は老いた母を人質に取られ、裏切りを強要されたのだ。マリオが駆けつけた時、すでに母はジーネを庇って命を落としており、ジーネも首を絞められて口から泡を吹き、殺される寸前だった。
昏倒したジーネが一命を取り留め、目を覚ましたのは数日後のことだ。その時にはすでにマリオによって首謀者である弟や共謀した親族、親友だったボディーガード、その他関係者等の粛正は全て済んでいた。しかし、目覚めたジーネが、以前のように愛らしい笑みを浮かべることは二度と無かった。複数の医者に相談したが、皆違うことを言う。
『目の前で母を殺された心的外傷が原因である』
『可愛がってくれていた大人達に裏切られ、深刻な人間不信に陥っている』
『首を絞められたことによる酸欠で脳に障害が残った』
本当の原因は誰にも分からない。だが、幼い少女に到底耐えられるはずの無い過大な負荷が心身両面に襲いかかった結果、特に精神面において深刻な傷が残ったということは、事実として受け入れなければならないことだ。そして、結論は皆共通している。
『これを治療することは如何なる手段を以てしても不可能である』
だが、マリオは諦めていなかった。何かあるだろう。今すぐには治せないとしても、どこかに、何かはあるだろう。自分で出来ることがあるなら、何でもやる。治せる人がいるというなら、誰でもいい。誰でも何でもいいから、とにかくジーネの心を治してくれ。
「ウフ、ウフ、ウフフフフフ……」
歪んだ笑みを浮かべる愛娘を見る度に、マリオは心を痛めた。
「ジーネ。人は慎重に選べ。特にボディガードはなおさらだ。ボディガードは自分の身を守る最後の砦だ。もし裏切られるようなことがあれば、決して助からん」
お前の母がそうであったように、とは続けることは出来なかった。だが、聡明なジーネにはマリオの気持ちと意図は十分に伝わっているはずだ。
「大丈夫よ、パパ。ソラは大丈夫」
しかし、ジーネの狂気が消えることは無かった。
「ソラは何にも無いの。パパもママももういないの。お金も無いの服も無いの家も無いの。だからソラは私のボディガードになるの。ソラが守るモノは私しか無いの。私を裏切ったら、ソラは何も無くなっちゃうの。だから、ソラは私を裏切らないの。だから、ソラは、絶対、私を、裏切らない! アハハハハハハハハハハッッッッ!!」
―――父さん。こうして僕はジーネのボディガードになりました。これから僕はジーネの為に生きていきます。この娘の周りに光はありません。そして僕にも。だから、僕には暗闇の中で戦う力が必要です。両目が無くなった位に真っ暗な中でも世界を見通すことの出来る力。父さんなら出来たよね? だから、僕にもください。無明の中に光を見出す、『空』の力を。