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身じろぎもせず黙ったままのわたしに、アルツは静かな声で礼を言う。
「来てくれて、ありがとう」
わたしはそっと目を開け、アルツを見た。アルツの表情は何かの感情で歪んでいる。その顔を見て、わたしはコズミさんのたくさんあった分からない言葉の一つを理解した気がした。
「――コズミさんが何をしようとしていたのか、知っていたのですか?」
アルツはくっと目を細めたが、覚悟を決めたような真摯な顔になり、わたしに答える。
「……そういう気配には敏感なんだ」
きっとそうなんだろう、アルツは生死が近いところで生まれ育った。
「コズミさんが今日、その何かをしそうだと気がついてたんですね」
ふっと視線が逸らされる。わたしがアルツの頬に両手をやると、躊躇いながらも再びわたしと視線を合わせた。
「ウテウオの薬包紙はわざと忘れて行ったのですね。わたしをここへ来させる為に」
「…………うん」
わたしは何か苦くて熱い大きな塊を飲み込む。頭に血が集まり沸騰しそうだ。目頭は熱くなり、ぶわっと溢れる涙で視界が歪む。
「貴方は! ――貴方は!!」
添えていた両手は、気がついたらアルツの頬に爪を立てていた。はっとなり離すが、我慢できずアルツの胸を強く叩く。屈んでいたアルツはわたしのひ弱な力に押され尻餅をつき、壁に背中を打ち付け、わたしもそのままアルツの上に倒れこんだ。
アルツはわたしの視線から逃げるように、両手で顔を覆い隠す。
「貴方はわたくしを、自分が生きるか死ぬかの賭けの駒にしたのですか?
わたくしが気づかなければ、気づくのが遅ければ……いいえ、気づくのがもっと早くても貴方はきっとコズミさんに殺されていた」
わたしの詰問に、アルツは両手で顔を覆ったまま小さな声で謝る。
「……ごめん」
わたしが、このタイミングでここに来なかったらアルツは死んでいた。自分で言ったその言葉が、わたしを打ちのめす。
アルツが死んでしまっていた? もしかしたらもう会えなくなっていた? 今自分の身体で暖かいと感じているアルツは、あの死んでしまった子猫のように冷たくなっていた?
わたしの身体はガクガクと震え、息が止まるほどの嗚咽が喉から漏れた。
「ごめん……ごめん」
アルツの謝罪なんて聞きたくなくて、わたしは嗚咽の飲み込み言い募る。
「アルツ…………、貴方は死にたかったのですか?」
アルツは手で顔を覆い隠したまま、何も言わない。
「わたしは、来なかった方が良かったのですか?」
「違う! それは違うんだ。オレは自分で選べなくて……君に甘えた」
アルツは顔を隠したまま答える。
「コズミが望んでくれるなら、一緒に死んでしまいたかった。でも、家には父さんもあいつらもいる、オレは村に……ラントに帰らなきゃ。
でももうお終いにもしたかった」
アルツの破滅願望に、わたしは息をつめる。
もしかして、アルツはお終いにしてまいたかったから、わたしの顔を隠さず連れまわしていたのだろうか? 巫女をかどわかした罪に問われても構わないと。
それだけじゃない。奥神殿に侵入してウテウオを盗もうとしたことだって、わたしに泥棒だと正体を明かした事だって、すべてお終いにしたいという願望から来たことなのではないのか?
どうしてそんな出会いのわたくしに、こんな役目を押し付けたの? わたくしは貴方を助けられなくて、一生苦しむことになっていたかもしれないのに。
ひどい! ひどい! ひどい!
そう言って、なじって罵ってしまいたかった。でも、身体を縮こませて、涙と嗚咽を堪えているこの人を見ると、わたしは何も言えなくなってしまう。
そうなんだ、この人はまだ17年しか生きていないんだ。成人して1年しかたっていない、世間ではきっとまだ半人前扱いされる年なんだ。
ふとわたしは当たり前なそのことに気が付く。
なんでも知っていて、色々なことが出来て、どんなことにも動揺せずに大人たちと対等に渡り合う彼を、わたしはいつの間にか自分よりずっとずっと大人で、神様みたいな人だと思うようになっていた。
今、目の前で慟哭を耐えるこの人を見て、初めてこの人がわたしとそう変わらない年の人間なんだと気づく。
もう、泣かないで欲しい。哀しまないで欲しい。傷つかないで、ひとりでそれを抱え込まないで。
いつのまにか、わたしはアルツを責める気持ちも忘れて、アルツの震える身体を胸に抱き寄せ、その頭を、肩を、背中を両手でさすっていた。凍えるアルツの身体を暖めるかのように。
昼間、わたしはアルツのことを好きだと思った。今、わたしがアルツに感じるこの気持ちは一体何なのだろう。胸の奥から溢れ出す、この人を愛しいと思う気持ち。
暖かいのに、寂しくて辛くて苦しい。
ふとコズミさんのことを思う。彼女もこの人にこんな気持ちを持っていたのだろうか? それでもアルツを殺して、自分も自殺しようと思ったのだろうか? 自殺してしまったら、もう常世でアルツと会えないと分かっていたのに、それでも構わないと思うほど、アルツの気持ちが変わるのを恐れたのだろうか? あの人に会わす顔がないと言っていた。会えなくなっても構わなかったのだろうか?
そこまで考えて、わたしは違和感を覚えた。
「――アルツ」
「……うん」
アルツは少し落ち着いたのか、小さいが普段通りの声を返す。
「――コズミさんはアルツのことを『アイツ』って言っていました」
「うん」
「『あの人』と呼ぶのは誰のことですか?」
「5年前に亡くなった旦那さんのことだと思うけど」
わたしは小さく息を吸い込んだ。
言われた時はよく分からず、殺しかけたアルツに会わす顔がないと言っているのかと勝手に考えたのだが、コズミさんはずっとアルツのことを『アイツ』と言っていた。『あの人』が亡くなった旦那さんのことならば、その人に会わす顔がないということは……
「コズミさんは、自殺をするつもりかもしれません」
「なっ!」
「『あの人に会わす顔がない』と言っていました。常世にいる旦那さんに『会わす顔がない』ということは……」
わたしがそこまで言うと、アルツは急に立ち上がり、出入り口の扉から飛び出そうとしたが、「あっ」と声を上げ、わたしを振り返る。
「わたしは大丈夫です。ここからちゃんと帰れます。早くコズミさんを追ってください」
わたしは精一杯頑張って、微笑んでみせた。
「――ごめん」
小さく謝り、飛び出すアルツをわたしは静かに見送る。
その気持ちは、決して静かではないけれども。




