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アルツがウテウオの薬包紙を忘れていったことに気が付いたのは、夜わたしが温室に本を読みに行った時だった。
温室で調剤する時に使用する机の上に置いてあるそれは、確かに昼間わたしがアルツに手渡したものだ。何時もはすぐに懐へ仕舞うのに珍しい。今日のわたしの失敗に動揺させてしまったのだろうか。
何にせよ、これを今日アルツに渡さないと、二週間コズミさんの元に薬が無いことになってしまう。強い薬だから余分には渡していない、明日からすぐコズミさんは困ることになるだろう。
今日散々アルツに一人で出かけたことを叱られたので一瞬躊躇したが、わたしはアルツから貰った魔具を取り出して身に付けた。
奥神殿から抜け出て、懐からアルツに貰った首飾りを取り出す。迷子札だと言われたこの魔具は、アルツの持っている首飾りの魔具と対になっていて、飾りの部分の裏にある方位磁石に似た針が、互いの方向を指してくれるのだ。
わたしはそれを頼りに学び舎や図書館などがある区画を通り過ぎ、市街地に出た。初めて歩く街中はまだ夜のはじめ頃のためか人通りも多く、わたしぐらいの年齢の子どももちらほら見られる。それでも子ども一人で出歩くのは目立つようで、しきりに視線を感じ、わたしは小走りになって人通りの多い道を通り過ぎた。
魔具が示すまま進むと静かな住宅地に変わり、遂に一軒の小さな民家にたどり着く。恐らくこの家はコズミさんのお宅なのだろう。わたしはここで再び躊躇した。アルツがコズミさんと二人でいる姿をなぜだか見たくなかったのだ。しかし、ここで引き返すことも出来ず、嫌がる足をなんとか向かわせて、玄関の扉をほとほとと力なく叩く。
途端、中でガシャンと何かが落ちて壊れる音が聞こえた。わたしは嫌な予感がして、急いで扉のノブを回す。抵抗なく開いた扉を押して中に入ると、そこには座ったまま机に力なく突っ伏しているアルツと、その脇で刃物を持ったまま立ち尽くす女性の姿が、わたしの目に飛び込んできた。
わたし一人ではアルツを運べなかったのでコズミさんに手伝ってもらい、隣の寝室の寝台に寝かせた。アルツの身体に異常がないことを確認するとわたしはもと居た部屋に戻り、椅子に座ったまま呆然としているコズミさんに問い質す。
「どうして、こんなことをしたのですか?」
本当はもっと責め立てて罵ってしまいたいのに、ふんわりした茶色い髪に、真ん丸い瞳の彼女の雰囲気が、先日死んでしまった子猫に似通っていて、強い言葉を浴びせさせるのを躊躇わせた。
「どうして、か」
コズミさんは、自分の言葉を確認するように呟く。
「アイツに忘れられるのが我慢ならなかったから、かな」
コズミさんの言うことはよく分からなかったが、反論せずには居られなかった。
「アルツはコズミさんを忘れたりなんかしません!」
わたしの強い言葉に、コズミさんはわたしをまじまじと見つめる。その綺麗な琥珀色の瞳にどきりとしながら、わたしも見つめ返す。
コズミさんはふっと視線を外し、ため息をつくと「そうかあ」と一人納得したように呟いた。
「今の薬はあなたが作ってくれたものなんだね」
「ど、どうしてそれを……」
わたしのことや、禁止薬物であるウテウオの話は一切していないとアルツは言っていたのに。
「ふふふ。女の勘かなあ」
口角をきゅっと上げ笑う様子は女のわたしから見てもとても可愛く、思わず見惚れてしまっていると、コズミさんは一転寂しげな表情に変わり目をつむった。
「この薬を貰うようになってすぐにかな。アイツに『もう長く生きて欲しいって思わないようにする。君の望みは邪魔しない』って言われたの。今まで散々病院行けだ、診察させろだ煩かったのに」
「それはアルツの強がりで、本当の気持ちは……」
「分かってる! それぐらい分かってるわ」
わたしの言葉は強い口調と視線で遮られた。しかし、コズミさんはそれを恥じたようにわたしから視線を外し、話を続ける。
「それはあたしが死ぬことを覚悟して、納得したから出てきた言葉よ。あたしにはアイツがあたしを過去の人間にするための努力をしてる気がした。
あたしはどうしてもそれが許せなかったの。アイツがあたしを忘れて別の人を想うようになるんだと考えただけで、居ても立ってもいられなかった」
「だから、アルツを殺そうとしたのですか? そして自分も死のうと思ったのですか」
わたしの質問にコズミさんは視線をずらしたまま答えない。だからわたしは更に尋ねた。
「――コズミさんはアルツを好きなんですね」
今度の質問にコズミさんは肩を震わせた。それが答えである気がして、わたしは切なくなる。
「どうして……、どうしてアルツもコズミさんもお互い好き合っているのに、こんな結末を望むのですか? 他に、他にお互いが幸せになれる道は無いのですか?」
「そんなのあるわけないじゃない!!」
コズミさんはわたしを睨み付けるように見ながら、大声で言い返す。
「あたしはもうすぐ死ぬのよ、あたしがアイツのこと好きだからってなんになるのよ!
せいぜいアイツの足を引っ張るだけなのが関の山よ。だから、もっと一緒にいてって甘えたいのを我慢して、悪態ついて遠ざけてたんじゃない! 薬をくれるのを口実にしなきゃ、会うことも自分に許せなかったのに……。
あなたに何がわかるのよ、これからアイツと一緒にいられるあなたに!」
堰を切ったように溢れ出すコズミさんの本音に、わたしはただ息をつめて聞いているだけしか出来なかった。コズミさんは取り乱したことを恥じたのか、再び視線を外して小さな声で「ごめんなさい」とわたしに謝り、そして穏やかな口調に戻って訥々と語りだす。
「あたしの病気のことがなくても、あたしとアイツとの間に先は無かったわ。
アイツはもともと故郷で治療所を開くために教都に来てたんだもん。時期が来たら、あたしを置いて去ってたよ。
知ってる? アイツ、自分の意思が強いように見えるのに、育ててくれた神官のお義父さんにめちゃめちゃ傾倒してて、その人の言うがままに生きてんの。その人が言うから困った人には手助けして、その人が望むから教都に来て医術師になって治療所を開くための勉強をしてる。
一緒に死んで欲しいって言ったら少しは考えてくれるかなって自惚れてたけど、それも無さそうね。あなたがこうして来たってことは」
そう言って寂しく笑うコズミさんの言うことは、わたしにはやっぱりよく分からないことばかりだ。
「コズミさんは常世を信じているって聞きました。……待てなかったのですか?」
わたしの言葉に、コズミさんは少し傷ついたような顔をする。
「人の心は変わるよ、あたしみたいに」
「それは……」
「はは、あの人に会わす顔がないよ。なにしてんだろ、あたし」
笑って肩を竦めるコズミさんに、わたしは何も言えなかった。そんなわたしをコズミさんは見つめ、優しく微笑む。
「アルツのこと、好き?」
「――はい」
「そっか。ふふふ、アイツにそんな趣味があったなんて知らなかったわ」
面白そうに笑うコズミさんに、先ほどまでの憂いは感じられなかった。そしておもむろに立ち上がると、部屋の片隅に置いてあった鞄を肩に掛け、あたしを振り返る。
「モーンって街に、あたしみたいに先の無い病人を最後まで世話してくれる所があってね、前から知り合いに勧められてたんだ。ちょっとお金が掛かるんだけど、この家を処分して、なんとか作れたから行くことにしたの」
「えっ! でも……」
「あたしなんかにアルツが殺せるとは思ってなかった。本当はこんな馬鹿げたこと実行する気もなかったのに、なんでだろう。自分をどうしても止められなかった」
視線を落とすコズミさんの告白を聞き、わたしはある可能性を思いつく。
「コズミさん! 何か幻覚とかありませんでしたか? 見えないはずのものが見えたり、聞こえないはずの声が聞こえたり……」
コズミさんはしばし考え込んだが、眉を寄せながら首を振る。
「変な夢は度々見た気がするけど、そんなことは多分なかったと思う」
コズミさんはそう言ってくれたが、今回のことに幻覚・脅迫概念などの副作用があるウテウオが、コズミさんの理性をなくし、背中を押したに違いない。
わたしは、なんてことをしたんだ。薬術師でもないのにいい気になって禁止薬物を調薬し、人に処方するなんて……。結果がこれだ。
ショックのあまり押し黙るわたしを、コズミさんは気遣わしげに見ていたが、おもむろにあたしの頭を優しく撫でた。
「もしかして、薬の副作用とかでこうなっちゃったとか考えてるのかもしれないけど、そんな責任感じること無いよ。あたしが全部悪いんだし」
「そんな! コズミさんはちっとも悪くなんかありません。これは全部わたしの……」
「ううん。もし薬の副作用が関係したとしても、やっぱりそれもあたしのせいだよ。だって、前の薬が効かないって言ったの嘘だったんだから」
「えっ?」
コズミさんの告白にわたしは絶句する。
「アイツとちゃんと別れなきゃって決心して、『薬は効かないから来なくていい』って嘘ついちゃったんだ。あれより強い薬は無いって聞いてたから、お互いもう薬を口実に会えなくなるでしょ。そうしたら、新しい薬をまた持って来るんだもん。決心したはずなのに、またアイツの優しさにズルズル甘えちゃった。
今回のことはあたしが原因なの。だからあなたは負わなくていい責任を感じなくていいんだよ。全部あたしが悪いの。分かった?」
そういってコズミさんはわたしを抱きしめて、頭を撫でてくれた。そして荷物を脇に置くと身をかがめ、目線をわたしに合わせる。
「あなたがくれた薬、とっても良く効いたの。痛くて痛くて堪らない時、あの薬を飲むとすっと痛みが消えて無くなった。終わらない痛みの中で死んだ方がマシってずっと思っていたのに、その時だけは明るい気持ちになれたの。それが薬の副作用だっていうのかもしれないけど、あたしはそれに確かに救われた。
ありがとう。あなたはあたしの恩人よ。暗闇の中からあたしを救い出してくれた恩人。
だから、今回のことで自分を責めないで。あなたはきっとあたしを救ってくれたみたいに、たくさんの人を救うことが出来る人だよ。あたしみたいな女のせいで、あなたが傷つくことになって欲しくないの、勝手な言い分だけど」
優しい言葉と優しい眼差しに、わたしの涙は溢れ出し、止めることが出来ない。
コズミさんは優しくわたしの頬にキスを一つ落とすと、ちょっと照れたみたいに笑う。
「実はちょっとヤキモチ焼いたりしてたんだけど、最後に本人に会えて良かったわ。あたしみたいなくだらない女じゃなくって、素敵な大人になってね」
そういってコズミさんは立ち上がり、脇に置いていた荷物を再度背負うと出口に向かった。
そして、扉の前でわたしを振り返り、綺麗な笑顔をわたしに見せる。
「さよなら、小さな薬術師さん。ほんとうにありがとう」
ふと寝室へ目線をやると、少し意地悪そうな顔になり、
「手を出すなら成人してからにしなさいよね、ロリコン医術師さん」
そう言うと、ひらり踵を返して外へ出て行ってしまった。
最後のコズミさんの言葉もよく分からず首を傾げていると、寝室の扉が音も無く開きアルツが姿を現す。
「ロリコンじゃないんだけど……。コズミは最後まで厳しいなあ」
「アルツ! 起きていたのですか?」
わたしが驚いた顔をすると、アルツは決まり悪げに視線を泳がせる。わたしはむっとしてアルツを見た。
「何時からそこで話を聞いていたのですか?」
「――ウテウオの副作用の話ぐらいから」
わたしが視線を落とすと、アルツは近づいて先ほどコズミさんがしたように、かがんでわたしと視線を合わせる。
「薬の件は、オレの診断ミスだ。薬の処方で問題があった場合、責任を負うのは処方を指示した医術師の方なんだ。シアが責任を感じる必要は全く無い」
「薬術師のメダルが無いのに、人に薬を処方したのはわたしです」
「それを強要したのはオレだ」
「でも!」
一歩も引かないわたしに、アルツは目の前でパンと手を叩いて黙らせた。そして両手でわたしの頬を覆い視線を合わせる。
「それならば、これは二人の罪ということにしよう。――君はオレのパートナーなんだから」
吐きそうなほど後悔しているのに、わたしはその言葉の甘美さに、一瞬酔いそうになった。自分の愚かな考えを唾棄し、頭を冷やすため目を閉じる。
「……わかりました」
これから自分が薬術とどう付き合っていくのかわからない。けど、この罪は決して忘れない、忘れてはいけないんだ。
薬術師になれないわたしが、アルツの本当のパートナーになれる日はない。でも、パートナーだと言ってくれたアルツを裏切らないだけの薬術の知識と技術を、わたしは絶対手に入れるんだ。
そう心に誓い、わたしは閉じた目にぎゅっと力を込めた。




