4-8
「もう歩けますから降ろしてください」――そう何度言っても、アルツはわたしを抱えたまま宿屋に帰った。その間一言も口を聞いてくれない。わたしはまたアルツに迷惑を掛けてしまった。そして、遂に怒らせ、アルツはわたしに愛想をつかせてしまったに違いない。わたしは溢れそうになる涙を堪えるため、ぐっと唇を噛み締めた。
アルツはわたしを宿屋の部屋の寝台に横たわらせると、そのまま黙って部屋を出ようとする。
「待ってください。ごめんなさい、ごめんなさい。わたくし……」
なんて謝れば、なんて言えば許してもらえるんだろう。どうすればアルツの怒りが溶けるんだろう。わたしはほんとうに何も知らなくて、何も分からない。己の無知さ加減に嫌気が差す。必死に堪えようとした涙が次々溢れ、頬を伝いシーツに染み込んだ。
そんなわたしの傍らに座り、アルツはわたしの涙を優しく拭った。
「シア、泣かないで。これは君が泣くようなことじゃない。大丈夫、大丈夫だよ」
そう言って、わたしを覗き込んだアルツの表情は穏やかで、怒りの感情は一欠けらも見つからなかった。しかし、その目の中に一筋の悲しみを見つけたとき、わたしはやっと気が付く。わたしはアルツを怒らせたんじゃない、傷つけたんだ。
「ご、ごめんなさい」
それでもやっぱり謝る以外、わたしは何も言葉を持てなかった。わたしは本当に愚かな人間だ。一番大切な人を守るどころか傷つけてしまうことしか出来ない。
アルツはわたしを抱きしめ、涙が止まるまで優しく背中をさすってくれる。そしてわたしの嗚咽が収まるのを待つと、落ち着いた声で話しかけた。
「シアは、シアのお母さんとお父さんが、何故あんなに早く亡くなってしまったか知ってる?」
「――いいえ。父は病気で亡くなったとは聞いていますが、母の理由は教えてもらえませんでした」
「その辺を伏せるところが、神殿の連中のあくどいところだよな……。シアのお父さん、つまり先代の守護騎士リュイン殿は守護騎士になる直前に不治の病であることが分かったんだ。本来ならそこで別の守護騎士に選ばれるはずだった」
「どうして父がそのまま守護騎士になったのですか?」
「アルトレージュ様がリュイン殿を守護騎士に望んだんだ。すでに何度も会っていたから、リュイン殿と心を通わせていたんだね。巫女の望むことに神殿は逆らえない。だから、そのままリュイン殿が守護騎士に任じられたんだ。まあ、すぐ亡くなられても次ぎの守護騎士を用意すれば良いと神殿の連中も考えたんだろうね」
「――でも、その父より母の方が先に亡くなってしまった」
「そう、君を産んですぐにね。――アルトレージュ様はリュイン殿に会うたびに『癒しの術』掛けていたんだ、こっそりと何度も何度も。『蘇生の術』と違い病を治す訳ではないが、そのお陰でリュイン殿の病の進行は遅かった」
「どうして『蘇生の術』をしなかったのですか?」
「それはオレもわからない。守護騎士や守護騎士候補に『蘇生の術』を使うのは禁じられていることだが、『癒しの術』を使うことも同じく禁じられているんだ。アルトレージュ様がどうして『癒しの術』選び、掛け続けた理由はわからない。……でも」
「でも、それが原因で母はあんなに早く亡くなったんですね」
「――多分そうなんだろう。アルトレージュ様が亡くなられて、リュイン殿の病状は急激に進み、君が1歳になる前に亡くなってしまった」
「知りませんでした。……わたしは本当に何も知らないのですね」
両親の死因も知らず、本気で知ろうとはせずのうのうと生きてきたのだ、わたしという人間は。呆然と呟くわたしをアルツは再び優しく抱きしめてくれる。
「『蘇生の術』や『癒しの術』を使うことが巫女の命を削ることだなんて不都合な話は、神殿は伝えたがらないだけだ。シアが知らないのはシアの責任じゃない」
「――ありがとうございます」
アルツはわたしをすべてから守ろうとしてくれる。でも、負うべき責任も取り払おうとするのは間違いなのではないだろうか。
アルツの心遣いは嬉しいが、わたしはそんなふうに思った。
「でも、だからもう『蘇生の術』も『癒しの術』もシアに使って欲しくない。これらはシアの命を短くする。オレはシアが一日でも一瞬でも長く生きて欲しいんだ。
巫女が皆早世なのは知っているし、覚悟もしている。でもシアと少しでも長く一緒にいたい。
オレの我が儘を聞いてくれないか?」
アルツはズルイ。そんなふうにお願いされたら、わたしは何も考えられなくなってしまう。
「――でも病で苦しんでいる方や、哀しむ家族の方を見ていると、わたしに少しでも出来ることがあるなら、と思うんです」
「シアの気持ちは分かる。でも巫女の力はもう使ってはいけない。救えない命があることを知るべきだ。すべての命を救えると思うのは傲慢だよ」
「わたしは……、巫女の力がなければなんの力もない役立たずです」
「君は薬術師だ。君はその薬を作る力で命を救うんだよ、オレと一緒に。君はオレのパートナーなんだろう」
「でもアルツは薬術師のメダルも持っています。わたしがいる必要はあるのでしょうか」
「オレが持っているのは青銅だ。簡単な薬を調薬することは出来るが高度な薬は出来ないし、新薬の開発も黄金じゃないと出来ない。今までオレは救急中心だったけど、これから研究も視野に入れる。シアの協力が必要なんだ」
「わたしは……、アルツの役に立てるのでしょうか?」
「勿論だよ。でも本当のことを言うと、そんなことどうでも良いんだ」
アルツの言葉に、わたしは息を詰めて見返す。アルツは、少しイタズラっぽい微笑みを浮かべながら、言葉を続けた。
「シアはオレが君を癒しの巫女だから好きなんだと思う?」
「……いいえ」
アルツはわたしが巫女であったことを嫌っている。
「じゃあ、薬の知識があるから、役に立つ人間だからシアの傍にいるんだと思う?」
「……いいえ」
もっとアルツの役に立つ人は他にいっぱいいる。例えば、あの双子の兄妹のように。
「じゃあ、どうして今オレは君の前にいるんだと思う?」
「わ、わたしが傍にいてほしいと望んだから」
「ふふ、そうだね。確かに君が望んでくれたから、今オレは君の傍にいられる。こないだも言ったけど、オレも君の傍に居たいと望んでいるから今オレたちは一緒にいるんだ。
オレは相手が望んでいるからって、好きでもない奴と一緒にいるほど優しい人間じゃないよ」
どうしてアルツは、わたしと一緒にいてくれるんだろうか。彼を欲しがっている人は大勢いる。そのなかで、一番面倒なわたしを何故選んでくれたんだろうか?
そして……
「――わたしなんかのどこを好きになってくれたんですか?」
「じゃあ、シアはオレのどこが好き?」
「……よく分からないです。ごめんなさい」
そう改めて聞かれると、アルツのどこが好きなのか簡単に表現することができなかった。アルツと一緒にいるとギュッと胸が苦しくなって、でも嬉しくて暖かくなる。この気持ちがアルツの何によって引き起こされているものなのか、よく分からなかった。
「ううん、いいんだ。オレもそうだから。シアの良い所なら幾らでも上げられるけど、それがあるからシアのことを好きになったわけじゃないし、それがなくてもオレはシアのことを好きだ。
オレはシアがどんな立場でも、どんな人間でも、役に立たなくたって好きなんだ。一番、大切な人なんだよ。オレは君が思ってるほど出来た人間じゃない。だから、誰がメダルを偽ろうが、誰が病気で苦しんで亡くなってしまおうが、誰が傷ついても構わない。シアが傷つく方がずっと嫌なんだ。
だから……、もう今日みたいなことはしないで欲しい。君の憂いはオレが晴らす。少しでも君に危険な真似はして欲しくない。
――お願いだ。頼む」
そう言うと、アルツはわたしの肩に顔を埋める。
「――それが、アルツやわたしの大切な人だとしてでもですか?」
「そうだ。オレに君より大切な人なんかいない。シアの大切な人だとしても、それでシアが傷つくのは嫌なんだ。……勝手な男で、ごめん」
アルツは肩に顔を押しつけたまま、わたしを抱きしめた。わたしもアルツの背中に手を回し、そっと撫でる。
アルツの言葉はすごく嬉しかった。さきほどあれだけ嫉妬していた自分が馬鹿馬鹿しくなるほどの気持ちを、アルツがわたしにくれていることが分かったから。
嬉しかったが、本当に良いんだろうか、という疑問が湧いてくる。わたしの大切な人なんて数がしれているけれど、アルツの大切な人はわたしが知らないだけでたくさんいるはずだ。これではアルツはわたしの為なら、その人たちをすべて切り捨てると言っているに等しいのではないか? アルツにそんなことをさせるのが本当に正しいことなのだろうか。
わたしには何が正しいことなのか、やっぱり分からなかった。




