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ハエのようにホイホイと浮気をするので頬をはたいてみた。

作者: 入多麗夜
掲載日:2026/08/28

三日前、殺虫剤を買った時に思いついたタイトルです。


連載版の告知あります。詳しくない後書きにて

 クラリッサ・アーデルハイトには、十年近く付き合っている婚約者がいる。ローデン伯爵家の嫡男、ヴィクトル。幼い頃から家同士の付き合いがあり、十二歳の頃に正式な婚約者となってからも二人の関係は大きく変わらなかった。多少喧嘩をすることはあっても翌日には普通に話していたし、互いの好みも癖もよく知っている。甘い関係ではなかったものの、クラリッサはヴィクトルをきちんと愛していたし、いずれ彼と結婚することにも何の疑問も抱いていなかった。ただし、それは三年前までの話である。ヴィクトルにはどうにも直らない欠点が一つあった。女性に弱い。それも、少し褒められれば機嫌が良くなる程度なら可愛げもあったのだが、彼の場合はそこから先へ進んでしまう。綺麗な令嬢に微笑まれれば嬉しそうに話し込み、相談を持ちかけられれば二人きりでも構わず応じ、頼られれば必要以上に世話を焼く。婚約者がいる男として距離を取るべき場面でも、その場の雰囲気に流されてしまうのである。


 最初に問題が起きたのは三年前の春だった。王宮で開かれた夜会の途中、クラリッサは庭園の片隅でヴィクトルが若い令嬢を抱き締めているところを目撃した。令嬢は彼の胸へ顔を埋め、ヴィクトルもその背へ腕を回していたのだから、いくら仲の良い友人だと言われても納得できる光景ではない。クラリッサに気づいた瞬間、ヴィクトルは顔色を変え、その日のうちに何度も謝った。相手から悩みを相談されていたこと、酒が入っていたこと、泣き出した彼女を慰めているうちにああなったこと。言い訳を一通り並べたあと、最後には自分が軽率だったと認め、二度としないと誓った。クラリッサも当然怒ったが、長く続いてきた婚約を一度の過ちだけで終わらせる気にはなれなかった。ヴィクトルは昔から知っている相手であり、それまで決定的に信頼を裏切られたこともなかったからだ。誰にでも間違いはある。今回だけはそう思うことにした。


 ところが、その半年後には別の令嬢と二人きりで観劇へ出掛けていたことが発覚した。本人は「同行する予定だった者が来られなくなったから、代わりに誘われただけだ」と説明したが、クラリッサには何も告げていなかったうえ、その令嬢とは以前から手紙のやり取りまでしていた。二度目ともなれば、さすがに一度目と同じようには受け流せない。クラリッサはかなり強く怒り、ヴィクトルも平謝りした。婚約者がいる身として軽率だった、今後は女性と二人きりになるようなことはしない。そう約束したので、クラリッサはこれを最後にするよう念を押した。



 だが、さらに数か月後には別の令嬢へ宝石を贈っていたことが分かった。誕生日だったから、友人として贈っただけだというのがヴィクトルの言い分だったが、婚約者であるクラリッサにも普段は贈らないような首飾りを選んでいたのだから、友人だからでは到底済まない。問い詰められて初めて問題の大きさに気づいたらしく、その翌日には謝罪の花束を抱えてアーデルハイト侯爵邸までやって来た。


 四度目は手紙だった。とある子爵令嬢と何十通もの手紙を交わし、日々の出来事から悩み事まで事細かに話していた。恋文と呼ぶほど露骨な内容ではなかったものの、婚約者に隠して続けるにはあまりにも親密だった。しかも、その時期のヴィクトルは仕事が忙しいと言ってクラリッサと会う回数を減らしていたのである。その件が発覚した夜、クラリッサはそれまでのように激しく怒ることもなく、ただ疲れ切った顔で彼を見つめた。


「どうして毎回こうなるのかしら。最初から浮気をしようと思っているわけではないのでしょう?」


 ヴィクトルはしばらく黙り込んでいた。やがて困ったように眉を寄せ、自分でも分からないと答えた。その言葉を聞いた時、クラリッサは怒りより先に呆れた。悪気がなければ許されるわけではない。むしろ、自分でも理由が分からないまま同じことを繰り返しているのなら、今後も直る保証などどこにもない。それでも婚約を解消しなかったのは、十年以上という付き合いの長さがあったからだった。家同士の関係も深く、双方の両親は二人の結婚を当然のものとして考えている。そして何より、クラリッサ自身がここまで積み重ねてきた時間を無駄だったと思いたくなかった。ヴィクトルも普段から最低な男というわけではない。体調を崩せば見舞いに来るし、クラリッサの誕生日を忘れたこともない。困っていれば手を貸し、家族にも礼儀正しい。だからこそ、いつか落ち着くのではないかと期待してしまった。


 そんな中、二人の結婚が半年後に正式決定した。式場の手配が始まり、衣装の採寸も行われ、両家では招待客の一覧まで作られていた。そこでクラリッサはヴィクトルへ、今まで以上にはっきりと釘を刺した。


「これまでのことをいつまでも蒸し返すつもりはないわ。でも、次は本当にありませんからね。結婚したあとに同じことをされるくらいなら、その前に終わらせた方がいいもの」


 冗談を言っている顔ではないと理解したのだろう。ヴィクトルも笑わずに頷き、自分だっていつまでも同じことを繰り返すつもりはないと答えた。もう二十五歳であり、結婚する以上は婚約者を不安にさせるような振る舞いもやめるという。その言葉をどこまで信用していいのかは分からなかったが、少なくともそれから三か月ほどは何も起こらなかった。ヴィクトルは以前より頻繁にクラリッサを訪ねるようになり、結婚式の準備にも真面目に関わった。社交の場でも、女性に声をかけられたからといって長々と話し込むことはなくなったらしい。共通の知人から「最近のヴィクトルは随分と落ち着いた」と聞いた時、クラリッサも少しだけ安心した。結婚を目前にして、ようやく本当に変わってくれたのかもしれない。そんな期待が戻り始めた頃だった。


 王宮で開かれた夏の夜会で、クラリッサは友人たちとしばらく話したあと、それまで近くにいたはずのヴィクトルがいなくなっていることに気づいた。以前ならその時点で嫌な予感がしただろうが、ここ三か月は何も起きていない。誰かに呼ばれたのだろうと思いながら広間を見渡したものの姿はなく、休憩室にも見当たらなかった。知人の男性たちに尋ねても誰も行き先を知らないと言うので、最後に庭園へ続く回廊まで足を運んだところ、少し先から聞き慣れた声がした。柱の陰にヴィクトルがいる。その向かいには、クラリッサも顔だけは知っている若い男爵令嬢が立っていた。社交界へ出るようになってまだ二年ほどの、明るく可愛らしい女性だったはずだ。


 ただ話しているだけなら何の問題もない。しかし次の瞬間、その令嬢はヴィクトルの腕へ身体を寄せた。彼は離れなかった。クラリッサはその場で足を止め、少し離れた場所から二人を見る。令嬢は楽しそうに笑いながら何かを話し、ヴィクトルも困った顔をしているわけではない。やがて彼女がさらに距離を詰め、その顔がゆっくりと近づいていった。それでもヴィクトルは避けなかった。二人の唇が重なる。ほんの一瞬だったが、それで十分だった。クラリッサは自分でも驚くほど冷静だった。胸が締めつけられることもなければ、涙が出ることもない。三年間で似たようなことを何度も繰り返されてきたせいか、悲しむより先に呆れがきた。ああ、またか。頭に浮かんだのは、それだけだった。


 やがてヴィクトルが顔を上げ、こちらを見る。クラリッサと目が合った瞬間、それまで緩んでいた彼の表情が固まった。隣にいた令嬢も遅れて気づき、顔色を変える。クラリッサは怒鳴ることもなく、ただ静かに二人の前まで歩いていった。


「こんばんは、ヴィクトル。ずいぶん楽しそうだったわね」


 その穏やかな声がかえって恐ろしかったのか、ヴィクトルは明らかに狼狽した。令嬢の方は何か言い訳をしようとしたものの、クラリッサが何も責めないまま見つめていると、結局小さく頭を下げて逃げるように立ち去った。クラリッサは追わなかった。婚約の約束をしたのは彼女ではない。守るべきものを何度も破ってきた相手は目の前にいる。


「今のは違うんだ。彼女が急に近づいてきて、俺も驚いて避けるのが遅れただけなんだ。本当にそれだけで、俺から口づけをしたわけじゃない」


 クラリッサはしばらく黙って聞いていた。あまりにも聞き覚えがある。庭園で抱き締めていた時も、観劇へ行った時も、宝石を贈った時も、手紙を隠していた時も、最初に出てきたのは大抵「向こうからだった」という説明だった。


「あなた、本当に便利ね。何かあるたびに相手の女性が勝手に近づいてきて、あなたは何もできずに流されてしまう人なんだもの」

「そんな言い方をしなくてもいいだろう。今回は本当に、俺も――」

「どうしてそんなにホイホイ浮気ができるのかしら」


 ヴィクトルが言葉を止める。クラリッサは怒っているというより、本気で不思議そうに彼を見ていた。


「綺麗な女性に笑いかけられればホイホイ。相談を持ちかけられればホイホイ。誘われればホイホイ。身体を寄せられてもホイホイ。今回はとうとう口づけまでしたのよね。そこまで何度も同じことができるなんて、ある意味すごいわ」


「だから、俺からしたわけじゃ――」

「ハエみたい」


 ヴィクトルの口が止まった。


「……ハエ?」

「ええ。甘そうなものを見つけるたびに、何も考えずホイホイ飛んでいくハエみたいだと言ったのよ」


 まさか十年以上付き合ってきた婚約者からハエ扱いされるとは思っていなかったらしい。ヴィクトルは浮気を責められた時以上に傷ついたような顔をした。それでもすぐに気を取り直し、クラリッサへ一歩近づく。


「悪かった。本当に悪かったと思っている。軽率だったし、君が怒るのも当然だ。でも信じてくれ。愛しているのは君だけなんだ。これまでだって、それだけは一度も変わっていない」


 その言葉を聞いた瞬間、クラリッサの右手が動いた。


 ぱん、と乾いた音が回廊へ響いた。


 思い切り殴ったわけではない。ただ、それまで一度も手を上げたことのないクラリッサに頬をはたかれたことがよほど衝撃だったのだろう。ヴィクトルは顔を横へ向けたまま固まり、数秒遅れて頬を押さえた。クラリッサ自身も少しだけ手のひらが痛かったが、不思議なくらい気分は晴れていた。三年間、何度も同じ言い訳を聞かされ、そのたびに怒って、許して、期待して、また裏切られてきた。その全部が、今の一発でようやく終わったような気がした。


「これで最後よ。あなたの浮気を許すのも、言い訳を聞くのも、今日で終わり。婚約は解消します」


 ヴィクトルはしばらく何を言われたのか理解できないような顔をしていた。これまで何度問題を起こしても、最後にはクラリッサが婚約を続けてくれた。その経験があるせいで、今回も謝り続ければ何とかなると思っていたのだろう。ようやく意味を理解すると、慌てて彼女を引き止めようとした。


「待ってくれ。もう二度としない。今度こそ本当だ。結婚まで三か月しかないんだぞ。ここまで準備も進めてきたのに、たった一度の口づけだけで十年近い婚約を終わらせるのか?」


 その言葉を聞いて、クラリッサの中に残っていたわずかな迷いまで綺麗に消えた。


「一度ではないでしょう。私が知っているだけでも五度目よ。三年前の庭園、二人きりで行った観劇、他の令嬢に贈った宝石、隠れて続けていた手紙、そして今日。あなた、本当に数えていなかったのね」


 ヴィクトルは何も言えなくなった。クラリッサはそれ以上声を荒らげることもなく、静かに続けた。


「私は今日の口づけ一回だけで婚約を解消するわけではないの。三年間、あなたが何度も同じことを繰り返してきた結果よ。私が許すたびに反省したような顔をして、しばらく経てばまた別の女性へ飛んでいく。結婚すれば変わるとでも思っていたけれど、結婚三か月前ですらこれなら、その先なんて考えるまでもないわ」

「俺は本当に君を愛しているんだ」

「だったら、愛している相手を五回も同じことで傷つけないで」


 それだけ告げると、クラリッサは背を向けた。今度はヴィクトルも追いかけてこなかった。


 翌朝、クラリッサは両親へこれまでのことをすべて話した。アーデルハイト侯爵夫妻は娘が婚約解消を申し出たこと自体には驚いたものの、三年間に起きた出来事を最初から聞かされるうちに表情を険しくしていった。両親も何度か女性関係で揉めたことは知っていたが、ここまで回数が多いとは知らなかったらしい。その日のうちにローデン伯爵家へ正式な申し入れが送られ、両家で話し合いの場が設けられた。ヴィクトルの父であるローデン伯爵も、さすがに息子を庇うことはできなかった。以前から女性好きなところがあることは把握していたらしく、結婚を目前に控えてなお同じことを繰り返したことに激怒し、ヴィクトル本人へ相当厳しい叱責をしたという。婚約解消は一週間もしないうちに決まり、すでに進んでいた式場や衣装、招待状などの費用についても、原因を作ったローデン家側が多くを負担することでまとまった。


 クラリッサは夜会での出来事を社交界へ言い触らすつもりなどなかった。しかし、そもそも秘密にしておけるような状況でもなかった。ヴィクトルが若い令嬢と庭園へ向かうところを見た者もいれば、その後に一人で広間へ戻ったクラリッサを見た者もいる。その数日後、十年近く続いていた婚約が突然解消されたとなれば、噂が広まるのは当然だった。しかもヴィクトルが以前から女性に弱いことは、一部の貴族の間では知られていたらしい。あれだけ長く付き合っていた婚約者にとうとう捨てられた、結婚三か月前にも別の令嬢へ手を出したらしい。そんな話が社交界を巡り始めると、娘を持つ家々は一斉に警戒した。伯爵家の嫡男であり、家柄だけを見れば縁談が集まってもおかしくない立場だったが、結婚相手として見れば話は別である。少し女性に声をかけられただけで婚約者の存在を忘れる男へ、大事な娘を嫁がせたい親などそうはいなかった。


 一方、クラリッサは自分でも拍子抜けするほど穏やかに過ごしていた。十年近い婚約を終わらせたのだから、もっと寂しくなると思っていた。実際、幼い頃から隣にいた相手が突然いなくなったことへの違和感はあったし、楽しかった思い出まで消えたわけではない。それでも、それ以上に大きかったのは解放感だった。もう夜会のたびにヴィクトルが誰と話しているのか気にしなくていい。仕事が忙しいと言われた時、本当に仕事なのかと疑わなくていい。知らない令嬢の名前を聞くたびに、また何かあるのではないかと身構えなくてもいい。そのことに気づいた時、クラリッサは自分が思っていた以上に長い間疲れていたのだと理解した。


 それから数か月後、友人たちと参加した夜会で、クラリッサは久しぶりにヴィクトルの姿を見かけた。少し離れた場所で若い令嬢に声をかけようとしているところだったが、その令嬢の母親がさりげなく娘の前へ入って話を遮り、そのまま別の場所へ連れていく。ヴィクトルは何とも言えない顔で取り残されていた。


「相変わらずね。あの方、また綺麗なご令嬢を見つけて飛んでいこうとしていたわよ」


 友人と笑いながら、クラリッサはヴィクトルへ背を向けた。もう追いかける必要も、注意する必要もない。彼がこれから先も同じことを繰り返すのか、それともようやく自分の振る舞いを改めるのか、それすら今のクラリッサにはどうでもよかった。浮気性の男が一度頬をはたかれただけで直るとは思わないし、そもそも直してやる義理もないのだ。


 何度裏切られても許してきた三年間は、もう終わったのだ。


 クラリッサは振り返ることなく、友人たちとともに夜会の賑わいの中へ戻っていった。

連載を始めました! かなり気合いを入れて書いてます。(代表作にも設定しました)


『一度は私を捨てたくせに、今さら口説き直すおつもりですか?』

https://ncode.syosetu.com/n9992mo/

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― 新着の感想 ―
状況の書き方がおかしかったので・・・ これで最後よ。あなたの浮気を許すのも、言い訳を聞くのも、今日で終わり ってことは「今日は許します」ってことですよね。 二回目の浮気の時に 「今後は女性と二人き…
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