第9話「折れた万年筆」
教会本部の回廊は、朝の光を高窓から落としていた。
白い石壁に反射する光が、等間隔の柱の影を床に並べている。セフィアはその影を踏まないように、少しだけ足の幅を調整しながら歩いた。
癖だった。子どもの頃からの。
薬事照合印の受け取りは、三階の発行局で済んだ。封筒に入った照合印と受領控えを鞄にしまう。発行自体は昨日の午前中に終わっていたから、署名して受け取るだけの手続きだ。
これで薬師の治療薬は、最短三日で出荷に乗る。
避難民のもとに届く。
あの窓口が通したものが、ちゃんと人を救う。
それだけで十分な成果だった。本来なら。
セフィアは回廊の角を曲がり、階段を一つ下りた。
二階ではなく、地階へ続く細い階段。
教会本部に来た本当の理由は、こちらだ。
*
地階書庫の扉は、厚い樫の木でできている。
管理番号が真鍮の札で打ちつけてあり、取手の横に署名台帳が吊るされていた。セフィアは審査補佐官見習いの名義で入庫記録を記入し、扉を押した。
冷たい空気が足元から這い上がってきた。
書庫の中は薄暗い。天井近くにある小さな採光窓から差す光が、棚と棚の間に細い帯を作っているだけだった。紙と革と、古い接着剤の匂いが混じっている。
探しているのは、旧式官給品管理簿。
教会が王国監督院と共同で保管している記録のうち、現行の台帳ではなく、二十年以上前の支給記録が綴じられた旧式の分冊だ。
セフィアは棚の分類札を指でたどった。
「運用記録」「照合台帳」「支給品目録」――。
三列目の奥に、背表紙の色が違う束があった。褪せた藍色の革装丁。分冊番号が手書きで振られている。
引き出す。
重い。
閲覧台に運び、紐を解いた。
*
頁を繰る指が止まったのは、四十七頁だった。
支給品種別の欄。記録具の項。
セフィアが探していたのは、あの折れた万年筆に刻まれていた規格番号だ。胸ポケットから折れた金属片を出したユースの手元を、一度だけ近くで見たことがある。軸の付け根に、極小の刻印が並んでいた。
普通の万年筆にはない番号体系だった。
規格番号だけではない。あのとき掌で受けた重さも、市販品のそれではなかった。
一般職員への支給品目でもない。
セフィアはその番号列を手帳に控えてある。今朝、宿を出る前に確認し直した。
管理簿の四十七頁。記録具の支給台帳。
番号体系が一致する区分は、一つだけだった。
「監督補佐官級――現場判断権限付与者への支給記録具」
さらに、番号末尾の枝番が製造後の仕様変更を示していた。原型ではなく、改修型。
セフィアの指が、その行の上で止まった。
書庫の空気が、少しだけ冷たくなった気がした。
*
監督補佐官級。
教会の照合業務でも、滅多に目にしない区分だ。現場において独立した判断権限を持つ上位実務職。窓口の受付係とは、制度上の格が三つは違う。
支給される記録具も、通常の万年筆とは異なる。決裁記録との照合が可能な特殊仕様で、インクの組成から用紙への定着方式まで、通常品とは別の規格で管理されている。
その「改修型」が、ユースの両親の形見だった。
セフィアは管理簿の頁をさらに遡った。
個別の支給先は、この分冊には記載がない。ここにあるのは品目と規格の対照表だけだ。誰に支給されたかを辿るには、監督院側の人事記録との突き合わせが必要になる。
だが、一つだけ確かなことがある。
あの万年筆は、安物ではなかった。
ユースは「両親の形見」と言った。それ以上は語らなかった。経歴上の記録では、両親はかつて地方の申請所に勤務していた。それだけだ。
地方の申請所。末端の窓口業務。
その職に就いていた人間が、なぜ監督補佐官級の記録具を持っていたのか。
セフィアには、その一点が引っかかっていた。
*
セフィアは管理簿を元の位置に戻し、紐を結び直した。
閲覧台帳に退出時刻を記入する。筆圧がいつもより少し強い。
階段を上がりながら、考えていた。
横流し品か。
誰かから譲り受けたのか。
あるいは――そもそも「末端の職員」という前提のほうが、事実と噛み合っていないのか。
セフィアは回廊の光の中に出て、足を止めた。
高窓から差す朝の光が、さっきとは角度を変えている。書庫にいた時間は、思ったより長かった。
推測を重ねても仕方がなかった。
記録は記録で、推測は推測だ。あの窓口の人に日々やっていることと同じで、証拠がなければ進めない。
セフィアは鞄の紐を握り直して、教会本部を出た。
*
旧棟に戻ったのは、昼を少し過ぎた頃だった。
臨時窓口の前には申請者の列はなく、ユースは帳票の整理をしていた。灰色の髪。乱れのない制服。姿勢は昨日と寸分も変わらない。
「おつかれさまです」
セフィアは補佐席に鞄を置いた。
「薬師さんの照合印、受け取ってきました」
封筒を差し出す。ユースは手を止め、封筒を受け取り、中身を確認した。照合印の印影、発行日付、受領番号。三点を指先で順に触れ、帳票の該当欄に転記する。
「問題ありません。控え票を薬師へ回付してください」
「はい」
そこまでは、いつも通りの業務だった。
セフィアは控え票の処理を終え、それから少しだけ間を置いた。
窓口の向こうは空いている。午後の受付開始まで、まだ少し時間がある。
「それと、もう一つ」
ユースの手が止まった。帳票に向けていた視線が、ほんの僅かに上がる。
「教会本部の地階書庫で、旧式官給品管理簿を閲覧してきました」
声は普段と同じ、柔らかな調子だった。
「あの万年筆の規格番号を照合しました」
ユースは何も言わなかった。
セフィアは続けた。
「記録具の支給台帳に、一致する番号体系がありました。一つだけ」
窓口の向こうで、旧棟の高窓から光が差している。埃が光の筋の中をゆっくり横切っていく。
「監督補佐官級。現場判断権限付与者への支給記録具。その改修型です」
*
ユースは帳票に視線を戻した。
手は動いていない。
三秒。五秒。
それから、いつもと同じ速度で筆を走らせ始めた。
「そうですか」
それだけだった。
セフィアは黙った。追い詰めるつもりはない。報告すべきことを報告しただけだ。
でも、一つだけ確認しなければならないことがあった。
「ユースさん」
「はい」
「ご両親は、地方の申請所にお勤めだったと――経歴にはそうあります」
ユースの筆が止まることはなかった。
「ええ」
「下級職員に、あの規格の記録具が支給されることは――」
「ありません」
遮るように、ではなかった。事実を事実として述べる声だった。
セフィアは一拍だけ待った。
「では、なぜ」
ユースは帳票の行末に句点を打ち、筆を置いた。
「それは私にも分かりません」
初めて聞く言葉だった。
この人が「分かりません」と言うのを、セフィアは補佐についてから一度も聞いたことがなかった。
*
窓口の外で、鳥が鳴いた。
旧棟の高窓は建てつけが古いから、外の音がよく通る。
ユースは帳票を閉じ、棚に戻した。動作はいつも通り正確で、無駄がない。
「両親は、地方の申請所で働いていました」
セフィアは口を挟まなかった。
「上級冒険者と地方貴族から、違法な許認可を通すよう圧力を受けていたそうです。断れば職を失い、通せば記載違反になる。結局、通しました」
ユースの声には抑揚がなかった。
「発生した魔獣被害の責任を、記載ミスとして押しつけられました。一家は破滅しました」
帳票棚の前に立ったまま、ユースは窓口の方を向いた。
「あの万年筆は、父が持っていたものです。ずっと安物だと思っていました」
そこで言葉が切れた。
セフィアは何も言わなかった。
慰めの言葉は不要だった。この人に必要なのは、そういうものではない。
代わりに、実務者として確認すべきことを口にした。
「支給先の個別記録は、監督院側の人事台帳との突き合わせが必要です。教会の書庫だけでは辿れません」
「ええ」
「調べますか」
ユースは少しだけ間を置いた。
「――今は、業務に支障が出ます」
断ったのではなかった。「今は」と言った。
セフィアには、それで十分だった。
*
午後の受付が始まった。
申請者が三人。通行証の期限延長が一件、教会治療の紹介状添付が一件、辺境砦への物資搬入許可の再申請が一件。
ユースはいつも通りに処理した。不備があれば正確に指摘し、修正箇所を示し、正しく整えば受理した。
セフィアは照合メモを揃え、予約台帳を更新した。
何も変わらない午後だった。
ただ、帳票を繰るユースの手元を見たとき、セフィアの目は一瞬だけ胸ポケットの方へ動いた。
折れた金属片が入っている場所。
安物だと思われていた万年筆。
監督補佐官級の記録具。
末端の職員だったはずの両親。
圧力を受け、通してしまい、責任を押しつけられた――。
ユースが語った断片を、セフィアは頭の中で並べ直していた。
記録具の格と、職歴の格が合わない。その矛盾の先に、まだ見えていないものがある。
*
夕方。
最後の申請者が帰り、窓口札を裏返す。
セフィアは鞄を肩にかけながら、ふと口を開いた。
「ユースさん」
「はい」
「あの万年筆、修繕できるか調べてみてもいいですか」
ユースの手が、帳票を閉じる途中で一瞬だけ遅れた。
一瞬だけ。
「……好きにしてください」
声は平坦だった。
でもセフィアは、その一瞬の遅れを聞き逃さなかった。
「では、好きにします」
旧棟を出る。
夕暮れの赤い光が、昨日と同じ角度で回廊に差していた。
セフィアの足取りは軽い。でも頭の中では、もう次の手順を組み立てていた。
修繕するには、まず素材を特定しなければならない。素材が特定できれば、製造時期が絞れる。製造時期が絞れれば、支給時期が絞れる。
支給時期が絞れれば――監督院の人事記録と突き合わせなくても、ある程度の推定はできる。
あの万年筆が、いつ、誰から、どういう経路で両親の手に渡ったのか。
セフィアは審査補佐官見習いだ。照合と追跡は、本業だった。
*
旧棟に一人残ったユースは、灯りを落とす前に、胸ポケットに手を当てた。
布越しに、折れた金属片の感触がある。
冷たくて、硬い。
父の書斎で、いつも机の端に置かれていた万年筆。
子どもの手には重すぎて、一度も使わせてもらえなかったもの。
監督補佐官級の記録具。
父は、知っていたのだろうか。自分が持っているものの意味を。
ユースは手を下ろした。
考えても、今は答えが出ない。
代わりに、懐から備品帳票を取り出した。魔王軍側の不明記号を書き写したあのメモ。ドレヴァンの書類にもあった、現代の正式記法の奥にある古い層。
古い記号。古い規程。古い記録具。
ユースは帳票を畳み、懐に戻した。
窓口の灯りを落とす。
明日も窓口は開く。
誰が来ても、何を持ってきても。
不備があれば止める。正しければ通す。
それは、父も同じことをしていたはずだった。
少なくとも、ユースはそう信じている。




