第8話「四天王、菓子折り持参」
翌朝。
旧棟の臨時窓口は、夜明けと同時に冷えた石壁の空気を吸い込む。
ユースはいつもと同じ時刻に席についた。帳票の束を確認し、番号札の発券機を起動する。昨日受理した薬師の控え票を綴じ、教会本部への照合依頼票の回付状況を確認する。
セフィアが二杯分の茶を持って現れた。
「おはようございます。教会本部から連絡がありました。薬師さんの薬事照合印、午前中に発行されるそうです」
「予定通りです」
「あと、今朝の午前枠ですけど」
セフィアは予約台帳を開き、該当の行を指でなぞった。
魔王軍正式記法。備考欄の手書き注記。
「来ますね」
ユースは茶を受け取り、一口だけ含んだ。
「番号札は通常発券です。特別対応はありません」
「ええ、もちろん」
セフィアは自分の席に戻り、照合メモの束を手元に引き寄せた。その動作が妙に楽しげなのは、気のせいではなかった。
*
午前の受付が始まった。
通行証の更新、補給物資の納入届け。番号順に呼び、不備を確認し、受理か差戻しを淡々と処理する。いつもの朝だった。
待合椅子に商人風の男と、辺境から来たらしい兵站担当の若い兵士が座った頃――旧棟の入口に、場違いな影が立った。
身の丈は一般の人間より頭ひとつ高い。深い灰青の外套を纏い、角は短く磨かれていた。魔族特有の尖った耳が外套の縁から覗いている。
だがその佇まいには、戦場の威圧ではなく、どこか疲弊した実務者の匂いがあった。
右手に書類束。左手に、丁寧に包装された桐箱。
商人と兵士の二人が、入口の影を見て固まった。
魔族の男は、二人を一瞥してから――何の躊躇もなく番号札を取った。
紙片を確認し、待合椅子の端に腰を下ろす。
商人が喉を鳴らした。兵站担当の若い兵士は、自分の番号札と魔族の番号札を交互に見て、それから窓口のほうを見た。
ユースは帳票から顔を上げなかった。
*
商人が呼ばれた。窓口へ進む。補給物資の納入届け。中継拠点の届出番号に一箇所空欄があった。
「第三欄、経由地の届出番号が未記入です。直送であれば備考欄に『直送・経由地なし』と明記してください」
「あ、ああ……すみません、すぐ書きます」
商人はペンを借り、その場で修正した。ユースが確認し、照合印の位置を指で示す。
「受理します」
商人は控え票を受け取りながら、ちらりと後ろを振り返った。
待合椅子に座った魔族の男は、膝に桐箱を載せ、静かに番号札を握っていた。
商人は足早に去った。
兵站担当の兵士が呼ばれ、処理が終わった。
*
「次の方どうぞ」
灰青の外套が立ち上がる。足音は重いが、歩幅は正確だった。窓口の前で止まり、番号札を差し出す。
ユースはそれを受け取った。
「ご用件を」
「補給契約の更新申請だ。先日差し戻された分の再提出になる」
声は低く、落ち着いていた。怒鳴る気配はない。
書類束が窓口に置かれた。ユースはそれを手に取り、一枚目をめくった。
魔王軍の正式書式。前回、眷属印三通不足で差し戻した案件。今回は眷属印が揃っている――三通、すべて署名と押印が確認できた。
ユースは二枚目に進んだ。
セフィアが補佐席から、照合メモと予約記録を静かに並べた。
三枚目。
四枚目。
魔族の男は、黙って待っていた。桐箱はまだ膝の上にあった。
五枚目を確認し終えたところで、ユースの指が止まった。
「輸送魔獣の契約維持台帳、末尾に管理番号の転記があります」
「ああ」
「この番号は旧式です。今年度の管理番号対照表で読み替えが必要ですが、対照欄が空白のままです」
魔族の男의 眉が、わずかに動いた。
「……旧式、だと?」
「昨年度末の改定で、輸送区分の管理番号体系が変更されました。魔王軍側にも通達が出ているはずです」
沈黙。
「出ている――はずだ、と言ったか」
「ええ」
魔族の男は桐箱を窓口台の端に置いた。空いた左手で外套の内側を探り、折り畳まれた紙片を一枚引き抜く。両手で広げ、目を通す。それからゆっくりと、紙片を窓口に向けた。
「これか」
通達書の写しだった。ただし、魔王軍側の内部回覧で末端まで届いた形跡がない。上部に受領印がひとつだけ押され、その下の配布先欄はすべて空白だった。
「受領はされている。だが現場には降りていない」
ユースはその紙片を一瞥した。
「窓口が確認するのは提出書類の整合性です。内部の伝達事情は管轄外です」
「分かっている」
魔族の男は通達書の写しを畳み直した。
「つまり、不備か」
「対照欄を補正のうえ再提出してください。差戻しです」
ユースは差戻し票を起票した。理由欄に「管理番号旧式・対照欄未記入」と記し、控えを切り離す。
その時だった。
魔族の男が、窓口台の端に置いた桐箱を改めて前に押し出した。
「これは別件だ。手土産として持ってきた」
桐箱の包装は丁寧で、留め紐は魔族の礼装結びだった。中身がどれほどの品か、包みの質だけで察しがつく。
セフィアの視線が桐箱に触れた。それからユースに移った。
ユースは桐箱を見なかった。
差戻し票の控えを魔族の男に差し出しながら、声のトーンを一切変えずに言った。
「窓口職員への贈答品は受領できません。規程第十七条、窓口業務における利益供与の禁止です」
「賄賂のつもりはない」
「意図に関わらず、受領した時点で規程違反となります。お持ち帰りください」
魔族の男は桐箱を見下ろした。
窓口の向こう側のユースは、すでに次の帳票を手に取っていた。差戻し票の控えだけが、窓口の縁に置かれている。
数秒の間があった。
魔族の男が桐箱を引き取った。
「……なるほど」
低い声に、怒りはなかった。
「前の使者から聞いてはいたが、本当に動かんな」
「不備が解消されていません。差戻しです。次の方どうぞ」
ユースは顔を上げなかった。
*
魔族の男――魔王軍補給将ドレヴァンは、桐箱を外套の下に戻しながら窓口を離れた。
待合椅子の脇を通り過ぎる時、先ほどの兵站担当の若い兵士とすれ立った。兵士は壁に張りついていた。
ドレヴァンは気にも留めなかった。
旧棟の廊下に出る手前で、足を止めた。
振り返る。
窓口の奥で、灰色の髪の青年が次の帳票を開いている。隣の補佐席では、金髪の女が照合メモに何かを書き込んでいた。
ドレヴァンは短く息を吐いた。
「通達が末端まで届かん組織と、通達を全部把握している窓口か」
誰にともなく呟いた。
その言葉は、魔王軍の内情への苛立ちと、窓口への何か別の感情が混じった、複雑な響きを持っていた。
*
ドレヴァンが去った後も、窓口は止まらなかった。
午前の残りを処理し、昼の休憩に入る。
セフィアが照合メモを閉じながら口を開いた。
「あの桐箱、気になりません?」
「関係ありません」
「魔族の礼装結びでしたよ。あの結び方と箱の材質は、相当格の高い贈答品です。中身が何であれ、窓口ひとつに持ってくるような代物ではありません」
「受領禁止です」
「分かっていますけど」
セフィアはペンの軸を唇に当てた。
「面白い方でしたね」
ユースは弁当の包みを開きながら答えなかった。
「怒鳴らなかったでしょう」
「ええ」
「差戻されて怒鳴らない申請者は珍しいです。特に、魔王軍で」
ユースは箸を取った。
「書類の不備は不備です。怒鳴る怒鳴らないは関係ありません」
「そうですね。でも――」
セフィアは照合メモを開き直した。
「あの方、通達が現場に降りていないことを、自分で把握していました。つまり、自分の組織の不備を理解したうえで申請に来ている」
ユースの箸が止まった。一瞬だけ。
「だから何です」
「いえ、何でもありません」
セフィアは笑った。薬師を見送った時の柔らかさとも、勇者案件を差し戻す時の毒とも違う。どこか興味深げな、観察者の表情だった。
「ただ、あの方はまた来ますね。今度はちゃんと対照表を埋めて」
ユースは答えず、食事に戻った。
*
午後。
旧棟の窓口には、午前より人が増えていた。
通常の申請者に混じって、明らかに見物目的の者がいた。壁際に立ち、番号札も取らず、窓口のやり取りを遠巻きに眺めている。
午前中に居合わせた兵站担当の若い兵士が、中央庁の本棟に戻ってから何を話したのか。
「聞いたか。旧棟の臨時窓口、魔王軍の使者が番号札取って並んでたって」
「嘘だろ」
「嘘じゃない。しかも贈り物持ってきて、断られてた」
「勇者の申請差し戻した窓口だろ、あそこ」
「そう。あの窓口、勇者でも魔王軍でも同じなんだよ。不備があれば止める。正しければ通す。それだけ」
声は旧棟の廊下にまでは届かない。
だが、夕方には本棟の食堂で、翌朝には中央庁の別の課で、三日後には関所の兵士たちの間で、同じ話が繰り返されることになる。
「あの窓口だけは、勇者も魔王軍も平等に止める」
それは称賛なのか、畏怖なのか、あるいは呆れなのか。
言った本人たちにも分からなかった。ただ事実として、旧棟の臨時窓口に関する話題は、静かに、しかし確実に広がっていた。
*
夕方。
最後の申請者が去り、セフィアが本日の差戻し票の控えを並べた。
「魔王軍案件の差戻し一件。案件番号は――」
差戻し票の申請者欄に目を落す。魔王軍正式記法で記された名と役職。
「ドレヴァン補給将。予約台帳の記法と同じですね。前回の使者より上位の方が直接来た、と」
「上位かどうかは窓口の判断事項ではありません。書類の不備は誰が持ってきても不備です」
「はいはい」
セフィアは差戻し票を綴じた。
ふと、視線がユースの胸ポケットに向いた。
折れた万年筆の金属片。毎日そこにある。ユースがそれに触れることはない。ただ、そこにあるだけ。
セフィアは何かを言いかけ、やめた。
代わりに、別のことを口にした。
「明日、教会本部に寄ります。薬師さんの照合印の受け取りと、ついでに確認したいことがあるので」
「業務に支障がなければ」
「もちろんです」
セフィアは鞄を肩にかけた。
旧棟の高窓から差し込む光は、昨日と同じ夕暮れの赤だった。
「おつかれさまでした」
「ええ」
ユースの声は平坦だった。
セフィアは旧棟を出た。足取りは軽いが、その目にはいつもの柔らかさとは少し違うものがあった。
教会本部で確認したいこと。
薬事照合印だけなら、わざわざ本部に出向く必要はない。回付で済む。
セフィアが確認したいのは、別のものだ。
ある記録具の登録台帳。教会が保管する、旧式の官給品管理簿。
あの折れた万年筆の、本当の出自。
*
旧棟に一人残ったユースは、最後の帳票を片付けた。
懐から備品帳票を取り出し、広げる。
四日前に書き写した、魔王軍側の不明記号。
今日ドレヴァンが持ち込んだ書類の書式にも、同じ記号体系の痕跡があった。現代の魔王軍が使う正式記法の奥に、もっと古い層がある。
ユースはその記号をもう一度なぞり、帳票を畳んで懐に戻した。
窓口の灯りを落す。
明日も窓口は開く。
誰が来ても、何を持ってきても。
不備があれば止める。正しければ通す。
それだけだ。




