第7話「正しい者だけを通す窓口」
番号札の六十三番が呼ばれたのは、午後の陽が高窓の桟を超えた頃だった。
薬師は立ち上がった。
鞄を肩にかけ直し、片手に申請書、もう片手に番号札。窓口まで七歩。その七歩の間に、一度だけ足が止まりかけた。
だが止まらなかった。
カウンターの前に立つ。申請書を、両手で差し出した。
「治療薬流通許可申請です」
声は小さかったが、震えてはいなかった。
ユースは書類を受け取った。封筒ではなく、単票の申請書一枚。角が丸くなり、折り目が深い。何度も鞄に入れ、何度も取り出し、何度も出せずに持ち帰った紙だった。
ユースはそれを開いた。
*
十秒。二十秒。
薬師は窓口の向こう側を見ていた。灰色の髪の青年が、申請書の上から下まで視線を動かしている。表情は読めない。先ほど勇者の書類を差し戻した時と、まったく同じ顔だった。
三十秒が過ぎた頃、ユースがペンの尻で申請書の中段を軽く叩いた。
「薬種の区分番号が旧様式のままです。昨年の改訂で末尾に識別符が追加されています」
薬師の顔から、わずかに血の気が引いた。
――またか。
他の窓口でも同じだった。不備を告げられ、「受理できません」と返される。何が間違っているかは言われても、どう直せば通るかは教えてもらえなかった。
だがユースは、ペン先を動かさなかった。代わりに、カウンター横の帳票棚から薄い冊子を一冊引き出した。
「今年度の薬種区分対照表です。旧番号から新番号への読み替えは二十三頁に載っています。ここで書き直せます」
薬師は目を見開いた。
ユースは申請書を返さず、次の箇所へ視線を落とした。
「流通経路の記載が、出荷元と納入先の二点だけになっています。中継拠点を経由する場合は経由地の届出番号が必要です。地方診療所への直送であれば、備考欄に『直送・経由地なし』と明記すれば経由地欄は空白のまま受理できます」
薬師の手が、かすかに震えた。
ユースは気づかなかったか、気づいても変わらなかったか。同じ速度で続ける。
「最後に、教会の薬事照合印が押されていません」
「……それは」
薬師の声が詰まった。
「他の窓口では、教会の照合は申請者側で取ってこいと言われました。ですが教会の窓口では、先に行政側の仮受理がないと照合印は出せないと――」
「たらい回しですね」
横から、柔らかい声が入った。
セフィアが補佐席から身を乗り出している。照合メモの束を片手に、もう片手で小さな用紙を一枚引き出していた。
「教会側の薬事照合は、行政窓口からの照合依頼票があれば仮受理なしでも先行発行できます。運用通達の第四十二号ですね。ほとんどの窓口が知らないんですけど」
セフィアはその用紙をカウンターに置いた。照合依頼票。すでに窓口名と日付が記入されている。
「私は教会の審査補佐官見習いですので、この場で照合依頼を起票できます。薬種名と流通経路が確定した段階で、照合印の即日発行を教会本部へ回せますよ」
薬師は、二人を交互に見た。
窓口の青年は、不備を指摘しただけではなかった。直し方を、一つ残らず示した。
補佐席の女性は、制度の隙間に落ちていた薬師を、合法の手順で拾い上げようとしている。
薬師は番号札を握り直した。
「……書き直します。ここで、今、書き直します」
ユースは対照表の冊子を薬師の側へ滑らせた。
「記入台は右手です。修正が終わったら、もう一度この窓口へ」
*
薬師は記入台で申請書と向き合った。
対照表を開き、旧番号を新番号へ書き換える。備考欄に「直送・経由地なし」と記入する。ペンが走るたびに、角の擦れた紙が少しだけ新しくなっていく。
その間、ユースは次の案件を処理していた。態度は変わらない。一枚確認し、ペンを走らせ、帳票を綴じる。
セフィアは照合依頼票を仕上げ、教会本部への連絡帳に綴じた。照合メモに薬種名と流通経路を書き加えながら、視線だけをちらりと記入台の方へ向けた。
薬師の背中は、もう丸まっていなかった。
*
二十分後。
薬師が窓口に戻った。修正済みの申請書を差し出す。
ユースは受け取り、上から順に確認した。
薬種区分番号。新様式に書き換え済み。対照表の該当頁と一致。
流通経路。出荷元、納入先、備考欄の直送記載。記入漏れなし。
署名欄。日付。訂正箇所への訂正印。
ユースはセフィアへ視線を送った。一瞬の確認。セフィアが小さく頷く。照合依頼票의起票完了、教会本部への即日回付が可能であるという意味だった。
ユースは申請書の右上に、受付印を押した。
「受理します」
二文字だった。
声の温度は変わらなかった。先ほどアルヴェインの虚偽を差し戻した時と、一音の差もない。
だが薬師は、その二文字を聞いた瞬間、番号札を持つ手の力が抜けた。
番号札が、かたん、とカウンターに落ちた。
「――あ」
薬師は慌てて拾おうとしたが、指がうまく動かなかった。
ユースはそれを見ていなかった。すでに受理済みの申請書を帳票ファイルへ綴じ、次の処理に移っている。
セフィアが、落ちた番号札をそっとカウンター越しに返した。
「お疲れさまでした。照合印は明日の午前中に教会本部から発行されますので、届きましたらこちらの控え番号で受け取ってください」
セフィアは控え票を一枚添えた。その動作は丁寧だったが、過剰に優しくはなかった。窓口業務の延長線上にある、正確な案内だった。
薬師は控え票を受け取った。
何か言おうとした。口が開きかけた。だが言葉にはならなかった。
代わりに、深く頭を下げた。
「……ありがとう、ございます」
ユースは答えなかった。ペンが帳票の上を走っている。
薬師は頭を上げ、鞄を抱え直し、旧棟の廊下を出て行った。
足音が遠ざかる。
待合室の長椅子に残っていた数人の申請者が、その背中を見送り、それから窓口の方を見た。
誰も何も言わなかった。だが、次に番号を呼ばれた申請者は、書類を出す前に一度だけ手元を確認してから窓口へ向かった。
*
夕方。
窓口の処理が一段落し、ユースが帳票を整理している間に、セフィアが照合メモの末尾にペンを走らせていた。
「あの薬、地方の診療所に届けば、南街道沿いの避難民にも回りますよね」
ユースは帳票の綴じ紐を結びながら答えた。
「流通経路が承認されれば、最短で三日後には出荷可能です」
「三日」
セフィアはペンを止めた。
「武闘家の呪毒にも効く薬種が含まれていました。まあ、勇者パーティー側に治療申請を出す能力が残っていれば、ですけど」
その声には、ほんの微量の棘が混じっていた。
ユースはそれには応じず、次の帳票を開いた。
セフィアも深追いしなかった。照合メモを閉じ、明日の予約台帳を引き寄せる。
めくる。明日の午前枠。午後枠。
ページの端に、見慣れない記号が添えてあった。
予約者の所属欄に、魔王軍側の正式記法。それだけなら四日前の使者の再来訪だと分かる。
だが備考欄に、手書きで一行。
『持参品あり(贈答用)』
セフィアの手が止まった。
「……ユースさん」
「見えています」
ユースは帳票から目を上げなかった。
「菓子折りで窓口が動くと思っているなら、差戻し理由がひとつ増えるだけです」
セフィアは予約台帳を閉じた。
口元に浮かんだのは、薬師を見送った時とは違う種類の笑みだった。
「明日、楽しみですね」
ユースは答えなかった。
帳票にペンが走る。旧棟の高窓から差し込む光が、夕暮れの赤に変わり始めている。
窓口は明日も開く。
正しいものを通し、間違ったものを止める。
それだけが、ここにある。




