第5話「教会の変人補佐官」
教会棟の地下書庫には、窓がない。
蝋燭の火が揺れるたびに、羊皮紙の束が橙色と影を繰り返す。審査官見習いセフィア・ルミナレスは、その光の下で五年分の帳票を積み上げていた。
最後の一冊を閉じる。
指先が乾いている。蝋燭は三本目。地上に出れば、もう朝の鐘が鳴っている頃だろう。
「――百四十七件」
声に出したのは、自分でもう一度確認するためだった。
過去五年間、勇者支援課・第三窓口を経由した申請のうち、通常であれば監査で弾かれるはずの案件が百四十七件。そのすべてが、同じ筆跡による裏面補注と差替え様式の添付によって、かろうじて法的に成立していた。
かろうじて、ではない。
セフィアは積み上げた帳票の背表紙を指で辿った。一件ごとに、代替条文の根拠が違う。救済ラインの選び方が違う。添付資料の組み合わせが違う。同じ手法の使い回しが、一度もない。
百四十七通りの、別々の解法。
「……変態だわ」
口をついて出た言葉に、セフィア自身が少し目を瞬いた。
だが撤回はしなかった。
これは変態の仕事だ。条文の森を一人で歩き、抜け道ではなく正道だけを選び、しかも毎回違う正道を見つけている。審査の仕事に取り憑かれた自分が言うのだから間違いない。
セフィアは帳票の束を元の位置へ正確に戻し、照合メモだけを懐にしまった。
燭台を手に取り、地下書庫の階段へ向かう。足取りに迷いはなかった。
階段を上りきると、扉の隙間から朝の光が細く差し込んでいた。セフィアはそこで蝋燭を吹き消した。
*
監督院旧棟。
朝の光が高窓から差し込み、埃の粒子を白く浮かべている。
ユース・グレイナーは臨時窓口の椅子に座り、番号札発券機の紙を補充していた。昨日より減りが早い。旧棟の臨時窓口に人が来るようになったのは、ここ数日のことだ。
噂が広がっている、ということだろう。勇者側の使者も魔王軍の使者も同じ列に並ばせ、同じ温度で差し戻す窓口がある、と。
ユースにとっては、どうでもいいことだった。
発券機の蓋を閉じる。窓口の帳票を確認する。備品の配置を直す。昨日処理した案件の控えを、保管棚の正しい位置へ差し込む。
机の角に、小さな染みがあった。
インクではない。昨日の昼に茶を零した跡だ。ユースは布で拭き取り、布を定位置へ戻した。
準備が終わる。
窓口の札を表に返す。
「本日の受付を開始します」
誰もいない待合室に、事務的な声が落ちた。
*
最初の番号札は、中央庁の文書課からの経費照会だった。差替え様式の在庫確認。三分で処理し、受理印を押す。
二番目は、辺境砦への補給申請の中継確認。添付の輸送経路申告書に記載漏れが一箇所。指摘し、差戻す。
三番目は――
「十五番でお待ちの方」
呼び出しに応じて、待合室の長椅子から立ち上がった人影があった。
淡い金髪が、高窓からの光を受けて白く光った。
教会の制服。審査部門の袖章。手には番号札と、帳票ではなく――照合メモの束。
窓口の前に座った彼女は、番号札を丁寧にカウンターへ置いた。
ユースは番号を確認し、いつも通りの声で言った。
「ご用件をどうぞ」
彼女は一拍、ユースの顔を見た。
それから、照合メモの束をカウンターに広げた。
「教会直属審査補佐官見習い、セフィア・ルミナレスです」
名乗りは簡潔だった。だがその後に続いた言葉は、簡潔とは程遠かった。
「勇者支援課・第三窓口の過去五年分の処理履歴を照合しました。百四十七件の監査危険案件が、すべて同一担当者の裏面補注と代替様式添付によって成立しています。代替条文の根拠は一件ごとに異なり、救済ラインの重複使用はゼロ。添付構成に至っては百四十七通りが全て別パターンです」
ユースのペンが、止まった。
止まったのは一瞬だった。すぐに手元の処理帳票へ視線を戻す。
「それは勇者支援課への照会案件では」
「いいえ」
セフィアの声は柔らかかった。だが、柔らかさの奥に、何か硬いものがあった。
「照会ではありません。確認です」
彼女は照合メモの一枚を指で押さえた。
「この筆跡は、あなたのものですね」
ユースは答えなかった。
セフィアは続けた。
「聖剣使用許可の更新漏れ。討伐報酬請求の証憑不足。治療申請の記載漏れ。補給認可の虚偽数量。通行証の名義不整合。公費精算の二重計上――」
一つ挙げるごとに、照合メモを一枚ずつ、カウンターに並べていく。
「――これらが全て、あなたの手で法的に成立させられていました。勇者パーティーは三年間、一度も監査で止まっていません。監査官が見逃したのではなく、監査の前に全ての穴が塞がれていたからです」
ユースはペンを置かなかった。手元の帳票に、次の行を書き始めた。
セフィアの声が、少しだけ低くなった。
「あなたは雑務係じゃありません」
ペン先が紙の上を滑る音だけが、窓口に残った。
「壊れるはずの世界を、ずっと実務で延命させていたんです」
ユースの手が止まった。
今度は、一瞬ではなかった。
高窓から差し込む光の角度が、わずかに変わった。埃の粒子が、二人の間をゆっくりと落ちていく。
ユースは手元の帳票を見ていた。自分が書きかけた文字を見ていた。
それから、視線だけを上げた。
セフィアと目が合った。
清楚な美貌、と形容するのが正確だろう。だがユースの視界に映ったのは、彼女の目の下の隈だった。自分と同じ種類の隈。徹夜で帳票を読んだ人間だけが持つ、乾いた充血。
「……で」
ユースは短く言った。
「ご用件は」
セフィアは、少し目を見開いた。
それから――笑った。
困ったような、呆れたような、それでいてどこか嬉しそうな笑み。
「用件は二つです」
彼女は指を立てた。
「一つ。教会側の照合権限を持つ審査補佐官見習いとして、この窓口の補佐に就きます」
「申請していませんが」
「教会側からの出向手続きは今朝済ませました。監督院旧棟の臨時要員受け入れ規程、第十二条第三項。教会直属審査官の照合支援は、受け入れ先の事前同意なく配置できます」
ユースの眉が、ほんのわずかに動いた。
それはこの窓口で、これまで誰も引き出したことのない反応だった。
「……条文を調べてから来たんですか」
「当然です」
セフィアはにこりと笑った。実務オタクの笑みだった。
「照合権限を持つ者が隣にいれば、処理速度は最低でも一・三倍になります。教会記録との即時突合が可能になりますから、差戻し判定の精度も上がります。現状、あなたは一人で窓口と棚卸しを兼務していますね。物理的に足りていないはずです」
ユースは黙っていた。
セフィアの言っていることは、正しかった。
「二つ目の用件は」
ユースが聞くと、セフィアの表情が変わった。
笑みが消えたわけではない。だが、目の奥の光が、一段冷たくなった。
「二つ目は――」
彼女の視線が、ユースの胸元へ動いた。
ユースが帳票を取ろうと身を傾けた拍子に、制服の胸ポケットから帳票の角と、折れた金属片が覗いた。
セフィアの手が、自分の膝の上で握られた。
「――その万年筆を、見せていただけますか」
ユースは答えなかった。
沈黙が、長く伸びた。
高窓の光が、セフィアの金髪の上を這い、カウンターの木目を照らし、ユースの手元の帳票に淡い影を落とした。
ユースは胸ポケットから、折れた万年筆の破片を取り出した。
黒銀の軸。ペン先は根元から折れ、先端が失われている。それでも軸の部分には細かな手入れの跡があり、金属の表面は曇りなく磨かれていた。
筆記具の残骸にしては、掌に残る重さが妙だった。
折れた箇所だけが、不自然に歪んでいた。
外から力を加えなければ、こうはならない。
セフィアはそれを見た。
見て、何も言わなかった。
ただ、照合メモを握る指が白くなった。
ユースはそれに気づいていた。
「両親の形見です」
短く言った。それ以上は言わなかった。
セフィアは唇を引き結んだ。何かを飲み込むように、一度だけ目を閉じた。
それから目を開けた時、彼女の瞳には先ほどまでとは別の光があった。
怒り、だろう。
だがそれは叫ぶ類の怒りではなかった。照合メモを正確に揃え直し、カウンターの端に整然と積み上げる――その指先の正確さの中に、静かに、確実に宿っている種類の怒りだった。
「補佐席はどちらですか」
セフィアは立ち上がりながら聞いた。
「……まだ了承していませんが」
「第十二条第三項です。事前同意は不要です」
ユースは、ほんの一瞬だけ、窓口の向こう側を見た。
何を考えたのかは分からない。
「――窓口の左手側に、空き机があります」
それだけ言って、ユースは手元の帳票に視線を戻した。
ペンを取る。中断していた行の続きを書き始める。
セフィアは待合室側を回り、窓口の内側に入った。空き机の椅子を引き、座る前に机の上を掌で確認した。埃はなかった。毎日拭いている机だ、とセフィアは思ったかもしれない。
椅子に座る。照合メモの束を机に広げる。教会側の帳票書式を確認し、筆記具を取り出す。
窓口に、二つ分のペンの音が落ちた。
*
午前中の処理件数は、七件だった。
ユースが窓口で受け付け、審査し、差戻しか受理かを判定する。セフィアは隣の机で教会記録との照合を行い、必要に応じて即時確認を返す。
三件目で、ユースの処理が止まった。
遠征補給の中継確認だった。通常であれば添付書類を確認し、不備があれば指摘して差戻す。だが添付の治療認可番号が、教会側の発行記録と一致するかどうかは、これまでユース一人では即時に確認できなかった。
「治療認可番号、四七三二〇番台の照合をお願いできますか」
「はい」
セフィアの返答は速かった。教会側の帳票を繰る音が数秒。
「四七三二一番。発行日は今月三日。施術対象は辺境砦第二分隊所属の歩兵。認可時刻は午前九時十二分。有効です」
ユースの手が、わずかに速く動いた。
処理完了。受理印。
四件目。五件目。六件目。
セフィアの照合が入るたびに、ユースが帳票の裏面に回って確認する時間が消えた。その分だけ、窓口の回転が速くなった。
七件目を処理し終えた時、ユースはペンを置いた。
「一・四倍」
「え?」
「午前の処理速度。通常比で一・四倍です」
セフィアは一瞬きょとんとし、それから口元だけで笑った。
「一・三倍と申し上げたのに。控えめに見積もりすぎましたね」
「午後の案件はもう少し重いので、平均すれば一・三倍に収束するかもしれません」
「あら。それは午後が楽しみです」
ユースは何も返さず、次の帳票を開いた。
だがペンを走らせるその横顔を, セフィアは少しだけ長く見ていた。
隈の残る目元。乾いた指先。手入れの行き届いた制服。乱れのない机上。
そして胸ポケットに戻された、折れた万年筆の金属片。
セフィアは自分の帳票に視線を落とした。
照合メモの端に、小さく書き足した。
『第三窓口・元担当者の過去処理に、複数件の虚偽戦果が含まれる可能性あり。教会治療記録との日付照合により確認可能。要・継続調査。』
ペンを止める。
窓口の外で、旧棟の鐘が鳴った。昼の鐘。
セフィアは書き足した文字を見つめ、それから帳票を閉じた。
*
午後の最初の番号札は、勇者支援課からの連絡書だった。
ユースが封を切り、中身を一読する。
表情は変わらなかった。
だがその紙を、いつもより一拍長く見ていた。
セフィアが視線で問う。
ユースは連絡書をカウンターの処理待ち棚へ入れた。
「明日、討伐報酬の前借り申請が来るそうです」
「どちらから?」
「勇者パーティー側から」
セフィアの手が止まった。
照合メモの束――あの五年分の記録が、彼女の机の端に積まれている。
セフィアはゆっくりと、笑みを浮かべた。
柔らかく、上品で、穏やかな笑み。
ただし目だけが、笑っていなかった。
「……楽しみですね」
ユースはその笑みを見て、一瞬だけ何かを考えたように見えた。
それから何も言わず、次の帳票を開いた。
窓口に、二つ分のペンの音が戻った。
午後の光が、旧棟の高窓からゆっくりと傾いていく。




