第4話「魔王軍まで番号札を取る」
翌朝、旧棟の記録保管室には薄い朝日が差していた。
窓枠の木が歪んでいるせいで、光が斜めに床を這う。その光の帯の中に、昨夜ユースが別置きした帳票が一枚、静かに横たわっていた。
魔王軍の補給契約書式。
ユースは出勤してすぐ、その帳票を手に取った。押印欄を確認し、様式番号を確認し、右上の契約種別欄を確認した。
通常の補給認可とは異なる記号体系。数字の並びに混ざる、角ばった古い文字。
ユースはその帳票を、未整理案件の山には戻さなかった。机の左端、帳票立ての仕切りの向こう側に差し込む。
それだけだった。
*
臨時整理要員としてのユースの職務は、本来「未整理案件の棚卸しと分類」だった。
だが監督院の旧棟には、正規の窓口要員が足りていなかった。
配属初日に庶務担当がこう言った。
「整理だけじゃなく、関係者の照会対応もやってくれ。窓口番号札の機械はあるから」
つまり、ここでも窓口だ。
ユースは朝のうちに待合席の番号札発券機を確認し、受付用の帳票立てを並べ直し、差戻し用の付箋を切り揃えた。
八時、旧棟の臨時窓口が開く。
最初の一時間は平穏だった。商隊の通行許可照会が二件、辺境砦からの物資台帳確認が一件。どれも不備はなく、処理は淡々と進んだ。
九時を少し回った頃、空気が変わった。
*
最初に気づいたのは、待合席の隅に座っていた老商人だった。
入口の方を見て、手に持っていた申請控えを取り落とした。
拾おうともしない。
次に、窓口の横で立ち話をしていた庶務担当の女性職員が、会話を途中で止めた。口が半開きのまま固まっている。
ユースは帳票から視線を上げなかった。
だが、待合室全体を覆った沈黙は届いていた。音が消えるのではなく、音を出すことを全員が忘れたような静寂。
足音だけが響く。
硬い靴底が石の床を叩く音。人間のものとは歩幅が違った。一歩が長い。
その足音が、番号札発券機の前で止まった。
小さな機械音。紙が一枚、吐き出される。
足音が再開し、待合席の端へ向かった。
椅子が軋む音。
ユースはそこで初めて顔を上げた。
*
待合席の一番奥に、黒い外套の人物が座っていた。
フードの下から覗く肌は灰青色。人間ではない。額の両脇に、短い角の痕跡が見える。
手には、番号札が一枚。
その番号は「14」だった。
隣の席との間に、三つ分の空席ができていた。誰も近くに座ろうとしない。
老商人は、落とした申請控えをようやく拾い上げたが、手が震えていた。
庶務担当の女性が、小走りでユースの窓口まで来た。
「あ、あの――あれ、魔王軍の――」
「番号札を取っていますか」
「え? は、はい、取って――」
「では順番通りです」
女性の顔から血の気が引いた。だがユースはすでに帳票に視線を戻していた。
*
十番。商隊の追加照会。受理。
十一番。監督院内の部署間転送依頼。書式の版が古い。差戻し。
十二番。
勇者支援課からの連絡使者だった。
若い男で、額に汗をかいていた。待合室に座っている「あれ」を何度も振り返りながら、窓口に書類の束を差し出す。
「勇者アルヴェイン様からの緊急要請です。補給認可の即時復旧と、聖剣使用許可の臨時更新を――」
ユースは書類を受け取り、一枚目をめくった。
二枚目をめくった。
三枚目で手を止めた。
「補給認可申請書は乙種三号様式が必要です。これは丙種です」
「え」
「聖剣使用許可の臨時更新には、直近の使用記録報告書の添付が必要です。ありません」
「そ、それは――」
「加えて、緊急要請の承認には所属課長の押印が要りますが、この欄は空白です」
使者の顔が青ざめた。
「で、ですが、勇者からの直接命令で――」
「口頭の命令は添付書類の代替になりません。様式を揃えて再度お越しください。差戻しです」
ユースは書類の束を使者に返し、差戻しの控えに日付と理由を書き込んだ。
使者は何か言いかけたが、ユースの視線はすでに次の帳票に移っていた。
「……失礼します」
使者は書類を抱え、逃げるように待合室を出た。
その背中を、待合席の奥から灰青色の目が静かに追っていた。
*
十三番。辺境砦の補足資料提出。受理。
「十四番の方」
ユースの声に、待合室が凍った。
黒い外套の人物が立ち上がった。
歩み寄る足音 Red。硬い靴底が三歩、四歩。窓口の前に立つと、フードの下の顔がはっきり見えた。
灰青色の肌。切れ長の瞳は金色で、瞳孔が縦に細い。口元には牙の先端が覗いている。
魔王軍の使者。
その手が外套の内側に入り、待合室の老商人が椅子ごと後ずさった。
だが使者が取り出したのは、革表紙の書類挟みだった。
窓口の台に、丁寧に置かれる。
「補給契約の更新手続きに参りました」
低い声だった。威嚇ではない。事務的な、用件だけの声。
ユースは書類挟みを開いた。
契約更新書式、補給品目一覧、輸送経路申告書。角ばった文字と、中央庁の標準書式が混在している。
ユースは一枚ずつ確認した。
契約番号。照合。
品目一覧。照合。
輸送経路。照合。
押印欄。
ユースの指が止まった。
「眷属印が三通不足しています」
使者の金色の目が、わずかに見開かれた。
「……三通、ですか」
「第一輸送隊の眷属維持契約分、第三輸送隊の同契約分、そして広域召喚術の基盤契約分です。いずれも更新には眷属印の原本添付が必須です」
使者は一瞬、窓口の向こうにいる灰色の髪の青年を見つめた。
人間の窓口係。背が特別高いわけでもなく、体格が良いわけでもない。表情はない。目の下にうっすらと隈が残っている。
それだけの男が、魔王軍の補給書式を一読で精査し、三箇所の不備を指摘した。
使者は口を開き、
閉じた。
「……承知した。揃えて出直す」
「差戻しです。次の方どうぞ」
使者は書類挟みを受け取り、番号札を窓口の横の回収箱に入れた。
その動作が、ひどく律儀だった。
*
外套の裾が待合室の出口を抜けた後も、沈黙は続いた。
十五番を持つ若い事務官が、自分の番号を呼ばれても立ち上がれなかった。
老商人が、隣の男に囁いた。
「今の……魔王軍だよな?」
「ああ……番号札、取ってたな……」
「あの窓口の兄ちゃん、差戻したぞ。魔王軍を」
「さっき勇者の使いも差戻されてた」
二人は顔を見合わせた。
それ以上、何も言えなかった。
ユースは帳票に向き合っていた。十五番が来ないので、受付票を確認し、もう一度呼んだ。
「十五番の方」
若い事務官が、弾かれたように立ち上がった。
*
午後になると、旧棟の臨時窓口に妙な噂が立ち始めた。
「あそこ、勇者の案件も差戻すらしい」
「魔王軍が来ても同じだって」
「怒鳴っても賄賂でも駄目で、不備は不備で返すんだと」
庶務担当の女性は午後一番に上司へ報告を上げた。上司は報告書を読み、眉間を揉み、何も言わずに書類を棚へ戻した。
面倒なことになったという顔だったが、規程上は何一つ間違っていない。
それが一番厄介だと、上司は知っていた。
*
夕方。窓口を閉め、ユースは最後の帳票整理に入った。
机の左端に置いた魔王軍の帳票を、もう一度手に取る。
今日の補給契約更新とは別の案件。昨夜、未整理の山から抜き出したものだ。
押印欄の横に、小さな記号が並んでいる。通常の運用記号ではない。
ユースは手持ちの備品帳票の裏に、その記号を書き写した。
三つの記号を写し終えたところで、ペンを止めた。
書き写した記号を見つめる。
窓の外で、鐘が鳴った。六時の鐘。昨日と同じ音だ。
ユースは備品帳票を折り畳み、懐にしまった。折れた万年筆の破片のすぐ隣。
冷たい金属片と、紙の角が触れ合った。
*
同じ頃。
王都の教会棟の地下書庫で、一人の審査官見習いが勇者案件の書架の前に立っていた。
照合用の帳票を片手に、過去五年分の処理履歴を順に追っている。
あるはずのない署名があった。
受理回数の異常。差戻し件数の偏り。同じ筆跡が、あらゆる案件の裏面に残っている。
見習いはその筆跡を指でなぞり、静かに息を吸った。
一人。
この量を、たった一人で。
帳票を書架に戻す手が、小さく震えていた。
だがそれは恐怖ではなかった。
*
王都のどこかで、勇者パーティーの使者は持ち帰った書類を見て途方に暮れている。
王都のどこかで、武闘家の包帯が、また一枚替えられている。黒ずみは首筋に近づいている。
王都のどこかで、魔王軍の使者が本国へ伝書を飛ばしている。
「眷属印三通、至急手配されたし。なお、王都の臨時窓口は番号札制である」
そして監督院の旧棟で、ユースは今日の処理記録を書き終え、机上を拭き、椅子を引いた。
明日もここに来る。番号札を出し、不備を指摘し、正しい書類だけを通す。
勇者であろうと。
魔王軍であろうと。
それが窓口だ。




