第3話「翌日、勇者は宿にも泊まれない」
朝日が王都の石畳を白く染める頃、勇者パーティーの朝は快調に始まるはずだった。
アルヴェイン・クロスは宿の階段を降りながら、首を鳴らした。昨日は気分がよかった。あの陰気な受付係を切り捨てて、ようやくパーティーが身軽になった。今日からは実力で道を切り開く。書類仕事など、次の担当をあてがわせればいい。
「出発は昼だ。午前中に補給と精算を済ませておけ」
振り返らずに言い置いて、食堂へ向かう。
だが、宿の主人が帳場の前に立っていた。腕を組んで、帳簿を開いたまま。
「勇者殿。昨夜の宿泊分ですが」
「あとで精算しろ。公費だ」
「それが、通りません」
アルヴェインの足が止まった。
宿の主人は帳簿の一行を指で示した。
「公費精算には承認番号が必要です。昨日までは毎回、担当の方が事前に番号を発行してくださっていたんですが――今朝、中央庁に照会をかけたところ、新規の承認番号が出ませんでした」
「は?」
「窓口担当者の異動に伴い、勇者支援課第三窓口は後任未着任のため新規受理を保留中とのことです。精算処理が再開されるまで、宿泊費は自費でお願いすることになります」
主人の声に悪意はなかった。淡々と、帳簿の数字を読み上げるだけだ。
「ふざけるな。俺は王国公認の――」
「存じております。ですが、承認番号のない精算は受けられません。これは規程ですので」
主人は帳簿を閉じた。その動作に、もう交渉の余地はなかった。
アルヴェインの後ろで、斥候が小さく息を飲んだ。
*
宿を出ると、空は晴れていた。
皮肉なほどに。
アルヴェインは自費で宿泊費を叩きつけるように払い、宿を出た。まだ怒りの方が大きい。些末な事務手続きの問題だ。中央庁に行って怒鳴れば片がつく。
だがその前に、聖剣だった。
訓練場の隅で、アルヴェインは聖剣を抜いた。
昨日と同じ鍔鳴りがする。柄を握る感触も変わらない。
振った。
光が、鈍い。
本来なら軌跡に沿って白金の残光が走るはずの刃が、くすんだ銀のまま空を切った。
もう一度。
鈍い。
三度目。――変わらない。
「おい、なんだこれは」
武闘家が後ろから覗き込もうとして、顔をしかめた。左の脇腹を庇う動きが混じっている。一昨日の掃討任務で、魔獣の牙に抉られた傷だ。裂傷は深く、しかも呪毒が残っている。傷口の周囲は昨夜から黒ずみ始めていて、市井の薬では毒が抜けない。教会の浄化術でなければ壊死が広がる――僧侶がそう言っていた。
「更新、切れてるんじゃないですか」
痛みを押し殺した声だった。
「切れるわけがない。あいつが――」
アルヴェインは言いかけて、止まった。
あいつが、毎回やっていた。聖剣使用許可の更新申請。提出期限の管理。認可番号の照合。
全部。
「……教会に行くぞ」
聖剣を鞘に戻す音が、妙に乾いていた。
*
教会の治療受付は、白い石造りの広間の奥にあった。
僧侶が先に窓口へ立った。武闘家の左脇腹の裂傷――呪毒による壊死の進行を止めるための浄化治療申請だ。放置すればあと二、三日で傷口から腐り始める。
受付の担当者は書類を受け取り、端末を操作した。
数秒。
「申し訳ありませんが、この申請は受理できません」
僧侶が目を丸くした。
「なぜですか。様式は合っているはずです」
「様式の問題ではなく、患者登録の問題です。勇者パーティー所属者の治療対象者登録ですが、次期更新届の提出期限が昨日でした。期限までに更新届が提出されなかったため、本日付で登録が失効しております」
「昨日――昨日が期限?」
「はい。これまでは第三窓口の担当者の方が、毎期、期限前に更新届を提出してくださっていたのですが、昨日付で窓口の処理が停止しておりまして。更新届が届いておりません」
僧侶は口を開きかけて、閉じた。
昨日。ユースが追放された日だ。
「登録が回復するまでは、新規の治療申請を受け付けることができません。回復には、改めて治療対象者情報更新届・甲種をご提出いただく必要があります。添付書類として、身分証明の写し、直近の健康記録、所属組織の在籍証明が必要です」
僧侶の顔から血の気が引いた。
聞いたこともない様式名だった。
その後ろで、武闘家が柱に手をついた。脇腹を押さえる手の下、包帯の端が黒く滲んでいる。
アルヴェインが横から割り込んだ。
「俺は勇者だ。見ろ、仲間が呪毒で死にかけてるんだ。緊急の治療くらい通せるだろう」
受付担当者は、目を伏せたまま答えた。
「勇者案件であっても、規程上の要件が満たされていない場合は受理できません」
声に感情はなかった。ただ規程がそこにあるだけだった。
*
中央庁に着いたのは午後だった。
アルヴェインは正面入口から入り、まっすぐ勇者支援課へ向かった。斥候がその半歩後ろを歩いている。僧侶と武闘家は教会で様式を探し回っている――はずだが、見つかった気配はない。
勇者支援課の受付には、見知らぬ担当者が座っていた。
「補給認可の申請だ。次の遠征分を出せ」
担当者は書類棚を確認し、端末を叩いた。
「勇者パーティー・アルヴェイン隊の補給認可ですね。……確認いたしましたが、前回の認可期間が昨日付で満了しており、次期申請が未提出の状態です」
「だから今出しに来たんだ」
「申請書はお持ちですか」
「申請書?」
「補給認可申請書・乙種三号です。遠征規模に応じて添付資料が変わりますが、基本構成として、申請者身分証、隊員名簿の最新版、前回認可の完了報告書、装備一覧の更新分、行動計画書が必要です」
アルヴェインは何も持っていなかった。
「……そんなもの、今まで勝手に通っていただろう」
「はい。前任の担当者が事前に全て準備されていたものと思われます。現在は担当不在のため、申請者ご自身でご用意いただく形になります」
斥候が後ろで、壁の掲示板を見ていた。補給認可申請に必要な書類の一覧が貼ってある。項目は十二。注記がさらに八つ。
斥候は黙って視線を逸らした。
*
通行証の窓口は、もっと短かった。
「勇者パーティーの前線通行証ですが、有効期限が本日までです。更新申請はお済みですか」
「されていない、か」
「はい。更新には第三窓口経由の事前承認が必要ですが、現在その窓口は――」
「分かった」
アルヴェインは窓口を離れた。
分かった、と言ったが、何も分かっていなかった。分かったのは、どの窓口へ行っても同じ言葉が返ってくるということだけだ。
必要書類が不足しています。
規程上、受理できません。
前任の担当者が――
前任の。
あの灰色の髪の男が、どれだけの帳票を毎日捌いていたのか。アルヴェインはそれを考えることすらしなかった。考える必要がなかったからだ。
いつだって、机の上に完成した書類が積まれていた。署名欄だけが空白で、サインすれば全てが動いた。
その「全て」が、止まっている。
宿泊。治療。補給。通行。報酬精算。聖剣使用許可。
一つずつではない。全部が、同時に。
*
中央庁のロビーに戻ると、僧侶と武闘家がベンチに座っていた。
僧侶の手には、何枚かの用紙がある。だが書き込まれた文字は少なく、赤い訂正線が何本も引かれている。教会で入手した様式を書こうとして、途中で詰まったらしい。
武闘家は壁にもたれ、左の脇腹を押さえていた。額に薄く汗が浮いている。朝より顔色が悪い。包帯を替える時間すら惜しんで教会と中央庁を往復したのだろう。呪毒は待ってくれない。
「だめでした」
僧侶が言った。声が小さい。
「治療対象者情報更新届の書き方が分からなくて、教会の受付に聞いたんですが、添付の健康記録は中央庁の保健管理室で発行してもらう必要があって、保健管理室に行ったら在籍証明が先だと言われて、在籍証明は勇者支援課の発行なんですが、勇者支援課に行ったら第三窓口が停止中で――」
「もういい」
アルヴェインが遮った。
ロビーには他の申請者たちがいた。商人、兵士、冒険者。それぞれが番号札を持ち、順番を待ち、窓口で書類を出し、受理されたり差戻されたりしている。
誰もがこの制度の中で、自分の書類を自分で書いて生きている。
アルヴェインだけが、それを一度もしたことがなかった。
「明日だ」
彼はそう言った。
「明日もう一度来る。上に話をつけて、担当を替えさせる」
斥候が何か言いかけた。だがアルヴェインの背中を見て、口を閉じた。
三人は顔を見合わせた。
僧侶は赤線だらけの用紙を鞄にしまった。武闘家は壁から背を離そうとして、一瞬、動きが止まった。脇腹に走った痛みをやり過ごすように、短く息を吐く。斥候は、窓口の向こうで淡々と帳票を処理している担当者たちを、もう一度だけ見た。
あの速度で、あの量を、一人で。
――毎日?
斥候はその考えを振り払うように歩き出した。今はまだ、認めたくなかった。
*
同じ日の夕刻。
王都の東端、監督院の旧棟。
使われなくなった記録保管室の一角に、机が一つ置かれていた。窓は小さく、西日が帳票の束を斜めに照らしている。
ユース・グレイナーは、その机に向かっていた。
肩書は変わった。監督院付の臨時整理要員。仮配置。正規の職員ですらない。
だが机の上には帳票があった。
監督院が抱える未整理案件の一部。他の部署で処理しきれなかったもの、分類が曖昧なまま棚に積まれていたもの。誰も手をつけたがらない雑務の山だ。
ユースは最初の一枚を手に取った。
起票日を確認する。関連条項を引く。添付の不足を数える。
三日間の徹夜のあとだった。体はまだ重い。目の奥に鈍い熱が残っている。
だが手は動いた。
一枚目を処理し、二枚目を取る。三枚目の途中で添付の相互参照に不備を見つけ、付箋を貼る。四枚目は様式の旧版だったため、現行版との差分を余白に書き添えた。
窓の外で、鐘が鳴った。夕方の六時を告げる鐘だ。
ユースは顔を上げなかった。
懐の中で、折れた万年筆の破片が衣擦れのたびに微かに触れ合う。
冷たい。
いつも通りの冷たさだった。
ユースは五枚目の帳票を開いた。
その隅に、見慣れない押印があった。魔王軍の補給契約に使われる様式記号だ。
監督院の未整理案件の中に、魔王軍関連の書類が紛れ込んでいる。
ユースはその一枚を、他の帳票とは別の位置に置いた。
何も言わなかった。表情も変えなかった。
ただ、六枚目を取る手が、一瞬だけ止まった。
*
王都のどこかで、勇者パーティーは今夜の宿を自費で探している。
王都のどこかで、聖剣は鞘の中で光を失ったまま眠っている。
王都のどこかで、武闘家の脇腹の黒ずみが、少しずつ広がっている。
王都のどこかで、処理されなかった帳票が、静かに期限を迎えようとしている。
そして監督院の片隅で、一人の臨時整理要員が、誰にも見られることなく帳票を捌いている。
六枚目。七枚目。
明日も同じだ。正しいものは通す。不備のあるものは正す。
それだけの日常が、これから何を動かすのか。
まだ誰も知らない。




