第23話「窓口権限、合法的剥奪」
三日は、あっけなく過ぎた。
施行十二日目の朝。旧棟の廊下には、いつもと同じ薄い日差しが差し込んでいる。
ユースは受付台の鍵を開け、帳票棚の管理票を確認し、番号札の束を揃えた。今日の照会は朝一でまだ届いていない。昨日までの累計は八十三件。すべて法務局へ転送済み。
セフィアが奥の扉から入ってきた。いつもの教会制服、いつもの淡い金髪。ただ、書類鞄を持つ指先だけが白かった。
「おはようございます」
「おはようございます」
ユースは帳票棚を閉じ、窓口端末の前に座った。
今日の日付。施行十二日目。
通達に記された施行日。
セフィアは自分の補佐席に着き、照合台帳を開いた。紙の擦れる音だけが、しばらく続いた。
*
足音が聞こえたのは、八時半だった。
複数。整った歩調。靴底の硬い音が旧棟の床に反射する。
廊下の突き当たりに、三人の姿が現れた。
先頭は監督院管理統括部の腕章をつけた中年の男。後ろに事務官が二人。全員が革表紙の書類挟みを抱えている。
「第三窓口臨時担当、ユース・グレイナー殿」
中年の男は窓口の前で立ち止まり、書類挟みを開いた。
「監督院管理統括部より通達します。『戦時一元運用に伴う第三窓口権限再編』の施行を、本日付で執行いたします」
声は事務的で、感情の色がなかった。
ユースは席から立ち、受付台越しに一礼した。
「確認します」
執行担当官が差し出した書類は三枚。施行通知の正本。ユースはそれを受け取り、二十秒もかけずに読み終えた。
文面に誤記はない。書式も正規。添付番号の参照先も合っている。
「受領しました」
ユースが受領印を押す。朱肉の匂いが、静かな窓口に広がった。
*
手続きは、淡々と進んだ。
執行担当官の事務官が窓口端末の横に立ち、権限台帳を開いた。
「窓口決裁権限の移管を行います。現行の個別裁量区分を停止し、案件処理権限を監督院法務局特例処理室へ一元化します」
一元化。
その単語が意味するのは、差戻しも受理も却下も、この窓口では下せなくなるということだった。
ユースは引き出しから封筒を一つ取り出し、受付台に置いた。
「引き継ぎ書類です。現在進行中の案件一覧、照会転送の累計記録、保留案件の整理票。すべて揃っています」
事務官が封筒を受け取り、中を確認した。
一枚、二枚と捲る指が途中で止まった。
「……これは」
「累計八十三件分の転送記録です。日付順に整理してあります」
事務官は中年の執行担当官を振り返った。執行担当官の眉が僅かに動いたが、それ以上は何も言わなかった。
セフィアは補佐席で、照合台帳を閉じていた。指先はもう白くない。代わりに、視線だけが鋭く書類の束を追っていた。
権限台帳に、新しい印が押される。
「個別裁量区分、停止。移管先、法務局特例処理室。施行日、本日付」
音もなく、窓口の決裁権限が消えた。
*
執行担当官たちが帰ったのは、九時過ぎだった。
旧棟の廊下に足音が遠ざかるのを聞きながら、ユースは窓口端末の前に座ったままだった。
端末の画面には、「権限移管済——個別決裁停止中」の表示が点灯している。
差戻しのボタンに触れても、もう何も起きない。
セフィアが立ち上がり、窓口の外を確認した。廊下には誰もいない。
「……合法、ですね」
「合法です」
ユースの声に、揺らぎはなかった。
「手続きに不備はありません。通達も正規、執行も正規、移管先の指定も規程内です」
セフィアは補佐席に戻り、照合台帳をもう一度開いた。開いたが、ページを捲る手が動かなかった。
「これに対して、私たちが取れる——」
「正面からの取消申立ては可能です。ただし審査には最低でも二週間。その間、権限は戻りません」
二週間。
その間に照会は積み上がり、特例処理室が案件を回し、ユースの窓口は「不要だった」という既成事実になる。
セフィアの指が照合台帳の縁を撫でた。爪が紙に小さな跡をつけた。
ユースはそれを見ていたが、何も言わなかった。
*
十時を過ぎた頃、もう一組の足音が来た。
今度は二人。一人は革靴、もう一人は少し柔らかい底の音。
ギデオン・ヴァルカスだった。
温厚な笑みをたたえた壮年の官僚が、部下を一人連れて旧棟の窓口に立っている。法務局次長の徽章が、廊下からの光を受けて鈍く光った。
「おはようございます、グレイナー殿。——いえ、もう『殿』は大仰ですかな」
ギデオンの声は穏やかで、どこにも棘がなかった。世間話をしに来た上席のような口調。
「本日の施行、滞りなく完了したと聞きました。引き継ぎ書類も完璧だったそうで。さすがですね」
ユースは受付台の向こう側から、ギデオンを見た。
「ご用件は」
「いえ、労いに。窓口業務は激務でしょう。これでようやく肩の荷が下りるのではありませんか」
ギデオンの後ろで、部下の男が書類挟みを胸に抱えていた。目の下に隈があった。照会転送の対応で眠れていないのだろう。
「ところで」
ギデオンは一歩、窓口に近づいた。
「監督補佐官待遇の件も、これで白紙でしょうな。臨時整理要員に窓口権限がないのであれば、待遇打診の根拠も消える。残念ですが」
セフィアの手が、照合台帳の上で止まった。
ユースは答えなかった。
代わりに、受付台の左端に置いたままの封筒——三日前に届いた通達の原本——を手に取り、添付資料を抜き出した。
七枚。
一枚目から六枚目を受付台に並べ、七枚目だけを指先で軽く持ち上げた。
「第七添付資料」
ユースの声は、朝から変わらない温度だった。
「通行監査欄が空白です」
それだけだった。
ギデオンの部下が、反射的に書類挟みを開いた。自分の手元の写しを探している。指が頁を繰り、ある箇所で止まった。
顔から色が落ちた。
ギデオンは部下の手元を一瞥し、笑みを崩さなかった。
「空白? 些末な記載漏れでしょう。補正すれば済む話です」
ユースは七枚目を受付台に戻した。
「後で効きますよ」
それ以上、何も言わなかった。
沈黙が落ちた。
旧棟の窓から差し込む光が、受付台の上を白く切り取っている。ギデオンの影と、ユースの手元の封筒が、同じ光の中にあった。
ギデオンは一拍置いて、外套の襟を正した。
「では、お体に気をつけて。——窓口業務がなくなれば、少しは休めるでしょう」
踵を返す。部下が慌ててついていく。
廊下に二人分の足音が遠ざかっていく途中、部下の声が微かに聞こえた。
「次長、あの通行監査欄の——」
「放っておきなさい。窓口を失った男の虚勢だ」
足音が消えた。
*
旧棟に、静寂が戻った。
セフィアが口を開いた。
「通行監査欄の空白」
「はい」
「あれは、どういう——」
「今は意味がありません」
ユースは封筒を受付台の左端に戻した。未処理書類の定位置。ただし、もうここで処理できる書類はない。
「権限がなければ、指摘しても公式の照会にはなりません。今の私にできるのは、読むことだけです」
セフィアは少しだけ目を伏せ、それから顔を上げた。
「読むことだけ、ですか」
「閲覧権限は残っています」
ユースの視線が、帳票棚に向いた。
整然と並んだ帳票。背表紙の管理票。補給起票票の隅の確認印。正しい位置に戻った通行台帳。結び直された治療記録の綴じ紐。
三日前に置いた勝ち筋は、棚の中で静かに眠っている。権限が消えても、書類は消えない。
ユースは窓口端末の「個別決裁停止中」の表示を一瞥し、引き出しから鍵を取り出した。
「閉めます」
「——はい」
セフィアは照合台帳を鞄にしまい、補佐席を立った。
鍵が施錠口に差し込まれる。昨日と同じ動作。一昨日と同じ動作。三日前と同じ動作。
だが今日からは、この鍵を回しても、明日開く窓口に決裁権限はない。
錠が落ちた。
短い金属音が、旧棟の廊下に響いて消えた。
ユースは鍵をポケットに入れ、廊下に出た。セフィアが後に続く。
「ユースさん」
「はい」
「あの人は笑っていましたね」
ユースは振り返らなかった。
「笑っていました」
「部下の方は、笑っていませんでしたけれど」
旧棟の出口に向かう廊下は薄暗い。二人の足音だけが、等間隔で床を叩いている。
「ルミナレスさん」
「はい」
「明日から、照合台帳は持ってこなくて構いません」
セフィアの足音が、一拍だけ途切れた。
「——照合する対象がなくなる、ということですか」
「この窓口では、そうです」
セフィアは足を止めなかった。すぐに元の歩調に戻り、ユースの半歩後ろを歩いた。
旧棟の出口が近づく。外の光が、廊下の先を白く染めている。
「でも」
セフィアの声は穏やかだった。穏やかで、どこか硬かった。
「照合台帳そのものは、持っていてもいいですよね」
ユースは出口の光の中に踏み出しながら、短く答えた。
「持っていてください」
外の空気は、三日前と変わらなかった。
王都の雑踏が遠くに聞こえる。中央庁の屋根が午前の光を反射している。
ユースは一度だけ、旧棟を振り返った。
古い石壁。小さな窓。あの中の帳票棚に、仕込みが眠っている。
そしてギデオンの通達書の第七添付資料には、空白が一つ残っている。
今日の時点では、ただの空白。
だがユースの目には、その空白の先にある書類の連鎖が、すでに見えていた。




