第22話「仕込み」
朝の旧棟に、予定通りの封筒が届いた。
辺境砦の公印。照会番号は昨日の続番。
ユースは封を切り、中身を一読した。転送認可番号のずれに対する再照会——文面は丁寧だが、末尾の一行だけ語調が変わっている。
『前任の第三窓口担当であれば、本件は照会以前に解消済みであったと認識しております』
セフィアが横から覗き込み、その一行で目を止めた。
「……砦の方、怒ってますね」
「怒ってはいません。事実を書いているだけです」
ユースは照会票を転送用の綴じに挟み、法務局特例処理室の宛名票を貼った。
施行九日目。本日一件目の転送。累計六十四件。
転送票の束が、机の端で静かに厚みを増していく。
*
午前の照会が五件を超えたあたりで、ユースは転送処理の手を止めた。
「セフィアさん。午後、棚卸しをします」
「棚卸し、ですか」
「勇者案件の末端書類です。起票票、台帳、治療記録、監査綴り」
セフィアは一瞬だけ首を傾げ、それからすぐに頷いた。
「お手伝いします」
「見ていてください」
午後。
旧棟の窓から差し込む光が、書類棚の列を斜めに照らしていた。
ユースは上段から勇者案件の棚卸し記録を一冊ずつ引き出し、受付台に並べた。補給起票票の束。通行台帳。治療記録の綴り。監査用の照合控え。
帳票の紙が乾いた音を立てる。
セフィアは隣の椅子に座り、両手を膝の上に置いたまま、ユースの手元を見ていた。
*
最初に、補給起票票。
ユースは束の中から一枚を引き抜き、端の余白に目を落とした。
指先が起票番号の列をなぞる。三桁目で止まった。
卓上の朱肉入れを開き、小さな確認印を押す。
余白の隅。帳票本体の記載にはかからない位置。
印の直径は、小指の爪ほどだった。
ユースはその一枚を元の位置に戻し、束を揃え直した。
*
次に、通行台帳。
分厚い台帳を開き、ページの角を一枚ずつ確認していく。
セフィアには、ユースが何を探しているのか分からなかった。ページをめくる速度は一定で、ときどき指が止まる以外に変化がない。
七十三ページ目で、ユースの手が止まった。
そのページを抜き、三ページ前に差し替えた。
「……ページ順が違っていたんですか」
「元に戻しました」
セフィアは台帳の背表紙を見た。勇者支援課時代の管理票が貼られている。この台帳を最後に正しく管理していたのは、目の前の男だ。
ユースは台帳を閉じ、背表紙の端を指で叩いて位置を整えた。
*
最後に、治療記録の綴り。
革紐で束ねられた古い書式が、棚の下段から引き出された。
ユースは綴じ紐の結び目を見た。
解いた。
結び直した。
それだけだった。
紐の通し方が変わった——ように見えた。あるいは変わっていないのかもしれない。セフィアの目では判別できなかった。
ユースは綴りを棚に戻し、隣の帳票との間隔を指一本分に揃えた。
*
「……それだけで?」
セフィアの声は小さかった。
補給起票票の隅に、爪ほどの印を一つ。通行台帳のページを、三枚戻しただけ。治療記録の綴じ紐を、結び直しただけ。
どれも、書類を壊したわけではない。改竄でもない。
ユースは立ったまま、棚の列を見渡した。
帳票が一列に並んでいる。背表紙の管理票が等間隔で白く光っている。昨日ギデオンの部下が目を離せなくなった、あの棚と同じ眺めだった。
「十分です」
その一言には、根拠の説明がなかった。
セフィアは問い返さなかった。
ユースがそう言うとき、理由を聞いても返ってくるのは条文番号と台帳番号だけだ。それよりも、彼女はユースの手を見ていた。
指先に朱肉の跡が、ほんの少しだけ残っている。
あの爪ほどの印一つが、数週間後にどこで、誰の前で効くのか。
今は分からない。
だがユースは「十分です」と言った。
セフィアはその言葉を、そのまま信じることにした。
*
夕方。
照会の本日分は十四件に達していた。前日比プラス三件。累計七十七件。
セフィアが最後の転送票を発送箱に入れたとき、旧棟の廊下に足音が聞こえた。
中央庁の連絡係だった。
封筒を一通、受付台に置く。
「監督院管理統括部より、第三窓口臨時担当宛てです」
連絡係は頭を下げ、足早に去った。
封筒の表書きは活字で印字されていた。
『戦時一元運用に伴う第三窓口権限再編について(通達)』
セフィアの指先が、受付台の上で止まった。
ユースは封筒を手に取り、裏の封印を確認した。監督院の公印。法務局経由の添え書き。
封を切る。
通達書は三枚。添付資料が四枚。
ユースの目が紙面を走る速度は、いつもと変わらなかった。一枚目の終わりで視線が止まることもなく、二枚目、三枚目、添付の一枚目、二枚目。
七枚すべてを読み終えるまでに、二十秒かかっていない。
セフィアは、ユースの表情を見ていた。
変わらない。
朝、辺境砦の再照会を読んだときと同じ顔。午後、補給起票票に印を押したときと同じ顔。
ユースは通達書を元の順番に揃え、封筒に戻した。
「来ましたね」
セフィアの声が、少しだけ掠れていた。
「来ました」
ユースは封筒を受付台の左端——未処理書類の定位置——に置いた。
「施行日は」
「三日後です」
セフィアは息を吸い、吐いた。
三日後。
三日後に、この窓口の権限が——。
「……午後の棚卸しは」
「終わっています」
ユースの声は平坦だった。
セフィアはもう一度、棚を見た。
帳票が一列に並んでいる。背表紙の管理票が等間隔で白く光っている。補給起票票の隅には爪ほどの印。通行台帳のページは正しい位置に戻り、治療記録の綴じ紐は結び直されている。
——先に、終わっている。
セフィアの視線がユースに戻った。
彼は受付台の鍵を引き出しから取り出していた。昨日と同じ動作。施錠口に鍵を差し込む。
「知っていたんですか。今日届くと」
ユースは鍵を回した。
「届く前に、終わらせる必要がありました」
錠が落ちた。
旧棟の廊下に、昨日と同じ短い音が響く。
だが昨日と違うのは、受付台の左端に通達の封筒が一通、置かれていることだった。
三日後、この窓口から権限が消える。
そして棚の中には、ユースが今日置いた勝ち筋が、静かに眠っている。




