第21話「窓口側と作る側」
施行八日目の朝は、静かだった。
旧棟の廊下には人の足音がなく、受付台の前に並ぶ椅子はどれも空のままだった。
ユースは転送票の日付欄に八日目の数字を書き入れ、次の一枚を引き寄せた。
教会治療認可窓口からの照会。三件目。内容は昨日とほぼ同じで、起票時刻の不整合を訊いている。
「同じ質問が来てますね」
セフィアが隣席で封筒を開きながら言った。
「同じ不備が残っているからです」
ユースは転送票の宛先欄に「法務局特例処理室」と書き、管轄外の印を押した。
三枚目を処理し終えたところで、旧棟の入口から足音が聞こえた。
一人ではない。三人分。
革靴の音が規則正しく、だが先頭だけわずかに歩幅が広い。
セフィアの手が封筒の上で止まった。
ユースは転送票を脇に寄せ、受付台の上を整えた。
*
最初に姿を見せたのは、法務局の下位職員だった。
若い男が二人、書類鞄を抱えて廊下の角を曲がってくる。顔色が悪い。ここ数日の照会対応で削られているのが見て取れた。
その後ろから、ギデオン・ヴァルカスが現れた。
濃紺の法務官服。胸元の局章は磨かれ、書類一枚持たない手は背中で組まれている。
温厚そうな目元に、薄い笑みが浮かんでいた。
「朝早くから失礼する」
ギデオンは受付台の前で立ち止まり、待合椅子には座らなかった。
視線がまず受付台の上を走り、次にユースの手元を見た。転送票の束と、管轄外の印。
それから、ほんの一瞬だけ、ユースの背後へ目を向けた。
「――賑やかだったと聞いていたが、今は随分と落ち着いたようだね」
窓口に申請者がいないことを言っている。
ユースは顔を上げた。
「特例処理で窓口を迂回していますので」
「効率化の成果だよ。窓口を通さなくても処理できるなら、申請者の負担も減る」
ギデオンの声は穏やかで、会議室で上層部に説明するときと同じ温度だった。
セフィアが立ち上がり、来客用の茶を淹れようとした。
「結構だ。長居するつもりはない」
ギデオンが片手でそれを制した。
セフィアは微笑んだまま座り直した。
*
「直接伺ったのは、現状の確認だ」
ギデオンは受付台に片手を置き、ユースと正面から向き合った。
「特例施行後、この窓口の処理件数は。申請受理は何件だ」
「零件です」
「差戻しは」
「零件です」
「却下は」
「零件です」
ギデオンの眉が微かに上がった。意外さではなく、確認の動作だった。
「照会の転送は」
「本日分を含め、累計五十五件」
後ろの部下の一人が、小さく息を吸った。
ギデオンは振り返らなかった。
「五十五件。すべて管轄外として法務局へ転送した、と」
「特例処理室の管轄です。臨時戦時特例により、勇者関連案件の窓口審査は迂回されています」
「それは承知している」
「であれば、照会への対応も特例処理室が行うのが規程上正しい判断です」
ユースの声には抑揚がなかった。
ギデオンは数秒だけ黙り、それからゆっくりと笑った。
「君は優秀だ」
唐突な称賛だった。
「窓口審査が迂回されている以上、君に処理義務はない。照会を転送するのも規程通り。特例の不備を君が補填する義務もない。完璧に正しい」
ユースは何も答えなかった。
「だが――」
ギデオンの声がわずかに低くなった。
「正しいことと、意味があることは違う」
*
ギデオンは受付台から手を離し、一歩下がった。
旧棟の廊下を見回す動作は自然で、だがその目は空間を値踏みしていた。
壁に掛けられた業務表。転送票の控え綴り。照会番号の台帳。
そして――ユースの背後にある書類棚。
「ここは旧棟の臨時窓口だ。正式な第三窓口ではない」
「はい」
「申請者も来ない。処理件数は零。照会の転送だけが仕事だ」
「現状では」
「であれば、この窓口の存続意義を問われても仕方がないと、私は思うが」
ギデオンの言葉は穏やかだった。脅しの色はなく、事実を並べているだけに聞こえた。
セフィアの指が、台帳の角をなぞった。
ユースは答えなかった。
ギデオンはその沈黙を待ってから、続けた。
「君に敵意はない。むしろ、君のような人材が窓口に埋もれていることを惜しいと思っている」
「ありがとうございます」
感情の読めない返答だった。
ギデオンは一瞬だけ目を細め、それから本題に入った。
「現場は規程を読む」
声が変わった。穏やかさはそのままだが、芯に硬いものが通った。
「上は規程を作る」
部下の二人が、背筋を伸ばした。
「君は優秀だ。だが所詮――窓口側だ」
その言葉は、侮蔑ではなかった。
事実の宣告だった。
規程を読み、規程に従い、規程の枠内で処理する者。それが窓口。
規程そのものを書き換え、枠を作り直し、処理の前提ごと動かす者。それが法務局。
ギデオンは自分がどちら側にいるかを、静かに告げていた。
ユースは反論しなかった。
視線も動かさなかった。
ただ一度だけ、目線がギデオンの顔からわずかに逸れた。
ギデオンの背後――旧棟の書類棚の方へ。
ギデオンはその視線を追い、振り返った。
*
書類棚は、旧棟の壁際に三列並んでいた。
上段から下段まで、帳票の束がびっしりと詰まっている。
一見すると、ただの業務資料にしか見えない。
だが近づけば分かる。
背表紙に貼られた管理票は、すべて手書きで、一枚ごとに案件番号と日付が記されている。付箋の色は三種類に分かれ、それぞれの幅まで揃っていた。
綴じ紐の結び目は一律で、帳票の角は一枚も折れていない。
棚の上段には勇者案件の棚卸し記録――ユースがかつて温情で抱え込んでいた十四件の正式復元記録と、補足資料四十枚超が、崩れない塔のように立っている。
中段には照会の転送控え。五十五件分の写しが、日付順に、一件の欠落もなく並んでいた。
下段には――それ以前の、勇者支援課時代からの案件履歴が積まれていた。聖剣使用許可の更新台帳、補給認可の起票控え、治療申請の照合結果、通行証発行記録。
ギデオンの部下の一人が、その量に目を止めた。
視線が棚の左端から右端へ動き、上段から下段へ降り、もう一度上段へ戻った。
戻ってこなかった。
もう一人の部下は、鞄の取っ手を握り直していた。握り直した手が、もう一度握り直された。
ギデオンだけは表情を変えなかった。
少なくとも、変えたようには見えなかった。
「――大した整理能力だ」
ギデオンは棚から目を戻し、ユースに向き直った。
「だが、整理された記録は記録でしかない。制度の前提が変われば、記録の意味も変わる」
ユースは答えなかった。
転送票を一枚引き寄せ、日付を記入した。
ギデオンは、その手元を数秒間だけ見つめた。
それから背を向けた。
「失礼した。有意義な確認だった」
部下の二人がぎこちなく頭を下げ、ギデオンの後に続いた。
廊下に三人分の革靴の音が遠ざかっていく。
先頭の足音だけが、来た時より速かった。
*
足音が完全に消えてから、セフィアが口を開いた。
「有意義、と仰っていましたが」
「確認しに来たんです」
ユースは転送票の日付欄を書き終え、管轄外の印を押した。
「何を、です?」
「窓口を潰すかどうかを」
セフィアの指が台帳の上で止まった。
「潰す、というのは」
「特例で迂回しても照会は止まらない。止まらない理由は、現場がまだ窓口を頼っているからです」
ユースは次の転送票を取り出した。
「窓口そのものを閉じれば、現場は法務局へ直接聞くしかなくなる。それが彼の目的の一つです」
「でも、窓口権限は――」
「権限があっても、処理対象がなければ機能しません」
セフィアは少しだけ黙った。
「棚、見ていましたね。ヴァルカス次長」
「見ていました」
「部下の方はかなり長く見ていました」
ユースは印を押す手を止めなかった。
「あの棚に何があるか、ヴァルカス次長は分かっています。分かったうえで、記録は記録でしかないと言った」
セフィアは首を傾げた。
「それは――本当にそう思っているんでしょうか」
ユースは転送票を封筒に入れ、発送箱へ落とした。
「思っていないから、確認しに来たんです」
封筒が箱の底に落ちる音がして、旧棟の廊下がまた静かになった。
*
その日の午後。
照会は十一件に達した。
教会から四件。補給中継所から三件。宿泊精算から二件。辺境砦経由が二件。
すべて管轄外。すべて法務局特例処理室へ転送。
ユースは一件ずつ転送票を起こし、控えを綴り、台帳に番号を記入した。
セフィアが最後の転送票を封筒に入れながら、呟いた。
「十一件。昨日より二件増えてます」
「明日はもう少し増えます」
「根拠は」
「辺境砦の転送認可番号がまだ直っていません。砦側が再照会を出すまで、あと一日です」
セフィアは封筒を発送箱に入れ、受付台に肘をついた。
「ヴァルカス次長の次の手は、何だと思いますか」
ユースは台帳を閉じ、棚の所定位置へ戻した。
背表紙が隣の帳票とぴたりと揃い、棚の列が一筋の線になった。
「窓口を迂回しても照会が止まらない。照会を窓口に転送しても窓口は補填しない。であれば――」
「であれば」
「窓口の権限ごと外すのが、制度を作る側の回答です」
セフィアの笑みが、ほんの少しだけ消えた。
「それは――合法的に、できるんですか」
ユースは受付台の鍵を引き出しから取り出した。
「できます」
その一言は、予測ではなく確認だった。
「戦時運用規程には、窓口機能の一元化に関する例外条項があります」
セフィアの目がわずかに見開かれた。
「ご存じだったんですか」
「読んでいました」
ユースは鍵を手のひらで一度回し、受付台の施錠口に差し込んだ。
夕方の光が棚の帳票を横から照らし、背表紙の管理票が一列に白く光っている。
「来ますか」
セフィアの声は小さかった。
「来ます」
ユースは鍵を回した。
錠が落ちる音が、旧棟の廊下に短く響いた。
帳票の列の影が、受付台の上をゆっくりと横切っていった。
照会は明日も来る。
そして――制度を作る側の次の手も。




