第20話「特例法案の悪用」
それは、三日後の朝だった。
内部便の封筒は、いつもより厚い。
セフィアが受付台の上で封を切ったとき、中から出てきたのは申請書ではなかった。
施行通達。
王都中央庁の朱印が押された、正式な法令施行の告知書。
「……臨時戦時特例」
セフィアが表題を読み上げた声が、旧棟の空気に吸い込まれた。
ユースは帳票を整える手を止めず、視線だけを通達へ移した。
三枚綴り。表紙に法務局次長の署名。裏面に監督院管理部の受理印。添付に適用対象の案件分類表。
勇者案件。
補給認可、治療申請、通行証更新、公費精算――すべて、勇者パーティーに関連する案件だけに適用される「戦時特例処理枠」の新設。
平たく言えば、窓口審査の一部を迂回できる。
窓口そのものが閉じるわけではない。
ただ、勇者案件だけが、第三窓口を通らずに上位処理枠へ流される。
セフィアが通達の本文を目で追いながら、声を落とした。
「これ……窓口を通さなくても、法務局の承認印だけで処理が通るということですか」
ユースは通達を受け取り、一度だけ目を通した。
そして、受付台の脇に静かに置いた。
「来ましたね」
それだけだった。
*
昼前。
中央庁の本棟三階、会議室の扉が開いていた。
ユースが本棟へ出向いたのは、監督院管理統括部への定例報告書を提出するためだった。それ以上でも以下でもない。
だが、廊下を歩く途中で、開いた扉の隙間から会議室の中が見えた。
長机に書類が並んでいる。
ギデオン・ヴァルカスが、上層部の担当者二名を前にして、穏やかな声で何かを説明していた。身振りは小さく、声は廊下までは届かない。ただ、書類を一枚ずつ机に並べていく手つきだけが、妙に丁寧だった。
ユースの足が止まったのは、一瞬だけだった。
廊下の端から、机の上に並んだ書類の綴じ位置が見えた。
七枚綴りが三部。表紙の法令引用、添付の配置、署名欄の位置。すべて法務局仕様の標準配列。
ユースはそのまま歩き出した。
すれ違いざま、廊下にいた法務局の下位職員――先日、差戻し理由を聞きに来た男と目が合った。
男の表情には、今度は余裕があった。偽造を見抜かれた前回とは違い、今回は正規の法案だ。窓口で止められる類の書類ではない。
ユースは男の横を通り過ぎながら、独り言のように言った。
「綴じ位置、雑ですね」
男が振り返った。
ユースはもう歩いている。
「……綴じ位置?」
男は会議室の方を見た。書類は整然と並んでいる。署名も引用も配置も正しい。綴じ位置が「雑」だという指摘の意味が分からなかった。
男は首を傾げたまま、会議室へ戻った。
*
施行から二日目。
旧棟臨時窓口は、静かだった。
いつもなら午前中に三件は来る照会や申請が、今日はまだ一件もない。
勇者関連の案件が、窓口を経由せずに法務局の承認印だけで処理されている。補給認可は法務局経由で発行され、治療申請は特例枠の簡易承認で教会へ直接回り、通行証の更新手続きも特例処理室が代行していた。
窓口が、迂回されている。
セフィアは受付台の前に座ったまま、帳票棚を見た。新しい帳票が一枚も増えていない。
「……暇、ですね」
その言葉に、別の感情が混じっていた。
窓口が暇であること自体は、本来なら問題ではない。案件が減れば処理も減る。それだけのことだ。
だが、減ったのではない。迂回されたのだ。
セフィアは照合台帳を開いた。勇者案件の最終受理日が、三日前で止まっている。それ以降のページは白紙だった。
「ユースさん」
「はい」
「特例処理で通った案件の写しは、こちらに来るんですか」
「来ません」
ユースの答えは短い。
「特例処理枠は法務局の内部処理として完結する建付けです。窓口への回付義務はありません」
セフィアの指が、白紙のページの上で止まった。
つまり、何が通って何が止まっているのか、この窓口からは見えない。
権限を奪われたのではない。権限の外側に、別の道が作られた。
ユースは受付台に目を落としたまま、帳票の角を揃えている。その動作はいつもと変わらない。
だが、揃える帳票の数が少ない。
*
異変が聞こえてきたのは、その夜ではなかった。
翌朝――施行三日目の朝だった。
セフィアが教会連絡便を確認すると、教会の治療認可窓口から旧棟宛てに、一通の照会が入っていた。
通常なら来ないはずの照会だった。特例処理で教会側へ直接回った治療申請について、起票時刻が記載と合わないという問い合わせ。
「起票時刻の不整合……」
セフィアが照会書を読み上げると、ユースが手を止めた。
「治療申請の起票番号は」
「えっと――四七三二号です」
「補給認可の方は」
セフィアは少し間を置いて、教会側の添付を確認した。
「四七三五号。治療の方が先に起票されて、補給が後です」
ユースは何も言わなかった。
ただ、受付台の端に置いた施行通達を、もう一度見た。
セフィアは気づいた。ユースが見ているのは、通達の本文ではない。添付の案件分類表――補給認可と治療申請の処理順序を定めた欄だった。
「……逆、ですか」
セフィアの声が小さくなった。
通常の窓口処理では、補給認可が先に起票され、その番号に紐づいて治療申請が後続する。遠征先で負傷した場合、まず補給(搬送・物資)が認可され、次に治療が起票される。この順番が逆転すると、教会側の照合システムで「治療だけが先に通り、搬送手段がない」という矛盾が生じる。
窓口を通していれば、ユースが起票順を整えてから両方を同時に通す。
だが特例処理では、法務局の承認印が別々に押される。順番を見る目がない。
「ユースさん、これ――」
「一件だけなら、現場で調整できます」
ユースの声は平坦だった。
「ただ、今朝の照会が一件だけで終わるかどうかは、別の話です」
*
終わらなかった。
施行三日目の昼までに、照会は三件に増えた。
教会の治療認可窓口から二件。辺境方面の補給中継所から一件。
いずれも、特例処理で通った案件の起票順や伝票番号が現場と噛み合わないという内容だった。
照会の宛先は旧棟臨時窓口――つまり、特例処理を通した法務局ではなく、以前その案件を扱っていたユースの窓口に来ている。
現場は、困ったときに以前の担当へ聞く。
セフィアは三件目の照会を処理しながら、小さく呟いた。
「特例で通したのは法務局なのに、照会がこっちに来るんですね」
「窓口は変わっても、記録番号の起点はここです。現場の台帳に残っている連絡先が、まだ書き換わっていないだけでしょう」
ユースはそう言って、照会への回付票を書いた。
回付先は法務局特例処理室。
「当窓口の管轄外案件につき、特例処理室へ転送します」
一行だけの事務処理。
だが、その一行が法務局に届くたびに、特例処理室の机に「現場が混乱している」という事実が積まれていく。
*
施行四日目の朝。
ユースは旧棟の閲覧室にいた。
窓口業務ではない。臨時整理要員としての閲覧権限で、監督院の公開記録棚から過去の施行通達の運用実績を確認していた。
本来、必要のない作業だった。特例処理はユースの管轄外であり、閲覧する義務も権限上の理由もない。
だが、閲覧は禁止されてもいない。
公開記録棚の過去事例。戦時特例が施行された前例は、二十年前に一件だけあった。そのときは三ヶ月で廃止されている。廃止理由の欄には、一言だけ。
「現場運用との不整合により」
ユースは記録を閉じた。
閲覧室を出ると、旧棟の受付台ではセフィアが照会書を揃えていた。
「今朝までで五件です」
声に疲労はない。だが、照合台帳を開く手つきが、昨日より少しだけ速くなっている。
ユースは受付台に着き、転送票の束を確認した。すべて法務局特例処理室宛て。
教会から二件、補給中継所から二件、宿泊精算の照会が一件。
宿泊精算の照会は、旧様式と新様式の精算書が混在しているという内容だった。特例処理で新様式が適用された案件と、窓口時代に旧様式で処理された案件が、同じ精算束に綴じ込まれている。
経理担当が計算できない。
*
同じ日の昼を過ぎた頃から、照会の頻度が変わった。
午後だけで四件。
辺境砦経由で補給中継所からの転送認可番号に関する照会が一件加わり、合計は九件に達した。
セフィアがその一件を手に取った。
「これ――補給中継所経由の転送認可番号が、特例処理の起票番号と二桁ずれています。中継所側は窓口時代の連番を使っていて、特例処理室は新しい連番を振っている。同じ物資なのに、番号が二つある状態です」
ユースは照会書を受け取り、一読した。
そして、転送票に「管轄外」とだけ書いて封筒に入れた。
「……ユースさん。直接、正しい番号を教えてあげた方が早くないですか」
セフィアの問いは、実務者として当然のものだった。
ユースは封筒を内部便の発送箱に入れながら、答えた。
「早いです。ただ、それをすると、特例処理の不備をこちらが補填したことになります」
セフィアの手が止まった。
「補填した実績ができれば、特例処理は『問題なく運用されている』という記録になります。窓口が裏で直しているだけで」
その言葉を、セフィアは黙って受け取った。
かつて勇者パーティーの案件を、ユースが裏で直し続けていたときと同じ構造だった。
直せば、直したことが見えなくなる。
見えなくなれば、壊れていることにも気づかない。
ユースは次の転送票を書き始めた。
「今回は、直しません」
その夕方。旧棟の窓から見える中央庁の廊下を、法務局の職員が何度も往復していた。
書類を抱え、走り、戻り、また走る。
セフィアは窓の外を見て、言った。
「大変そうですね」
ユースは答えなかった。
*
施行五日目。
法務局特例処理室から、旧棟臨時窓口宛てに初めて連絡が来た。
照会ではない。依頼だった。
「特例処理案件の照合について、第三窓口臨時の過去記録との突合をお願いしたい」
セフィアが文面を読み上げたとき、少しだけ声が弾んだ。
ユースは依頼書を一読し、受付台の端に置いた。
「対応できません。当窓口は特例処理の管轄外です。法務局内で完結してください」
返答は一行。
セフィアは一瞬、口を開きかけた。だがすぐに閉じた。
ユースが帳票を揃える手は、いつもと同じ速さだった。
*
施行六日目の夕方。
照会は、今日だけで九件。
もはや日常の件数として定着しつつあった。すべて「管轄外につき転送」で処理した。
受付台の内部便発送箱には、転送票の封筒が整然と並んでいる。
セフィアは発送箱を見下ろし、それから照合台帳を閉じた。白紙のページが、六日分に増えている。
「……ユースさん。あの特例、どれくらい持つと思いますか」
ユースは最後の帳票を揃え終え、受付台の灯りを落とした。
「特例そのものは持ちます。法案ですから、廃止しない限り有効です」
「じゃあ――」
「ただ、特例で通した案件の整合は、日を追うごとに崩れます。窓口が見ていた順序を、誰も見ていないので」
セフィアの指が、台帳の表紙の上で止まった。
「通したからです」
ユースは窓口の鍵を回しながら、静かに言った。
「正しく通していないので」
旧棟の廊下に、鍵の音が響いた。
夕暮れの光が窓から差し込み、受付台の上に長い影を引いている。
発送箱の封筒が、その影の中に沈んでいった。
*
翌朝――施行七日目。
内部便に、一通の書簡が入っていた。
法務局の朱印。宛名は「第三窓口臨時担当殿」。
差出人の署名は、ギデオン・ヴァルカス。
内容は短かった。
「第三窓口臨時の運用状況について、直接協議の場を設けたい」
日時指定は、明日の午前。場所は、旧棟臨時窓口。
セフィアが書簡を読み終え、顔を上げた。
「来ますね」
ユースは書簡を受付台の端に置き、いつもの帳票に目を戻した。
「来ます」
朝の光が受付台を横切った。
帳票の角が白く光り、影が書簡の方へ伸びている。
ユースは次の転送票を取り出し、日付を記入した。
窓口は今日も開いている。
申請者は来ない。照会だけが来る。
そして明日、制度を作る側が来る。




