第2話「徹夜で救って、翌朝追放」
万年筆が走った。
緊急案件処理票の冒頭欄――通報区分、発報元、日時。赤い点滅の情報をそのまま転記する。手が覚えている。様式と記入位置は目を閉じても間違えない。
問題はその先だ。
ユースは処理票を脇へ置き、先ほど棚から引き抜いた聖剣使用許可の事由認定調書を広げた。
遡及更新のために今日一日かけて組み上げた一式。事由認定の根拠構成。照会票。職権補正通知。
全て、「聖剣使用許可が失効していたが、やむを得ない事由により遡及更新を認める」という前提で作られている。
今、その前提が変わった。
失効中の聖剣で広域殲滅技を無認可使用。しかも避難誘導の完了前に。民間被害あり。
遡及更新を通すだけでは足りない。このまま処理すれば、勇者資格の停止どころか――差押え、聖剣の封印凍結、公費全面停止。勇者パーティーの社会的な死だ。
ユースは事由認定調書の余白に視線を落とした。
一つだけ、道がある。
被害全体を「緊急災害対応」の枠へ移す。通報内容から逆算して、魔獣掃討の戦況悪化を客観記録で裏付け、聖剣の使用を「緊急回避行為」として再認定する。同時に、避難民被害を災害補償の受付ラインに乗せ、勇者案件とは別枠の処理へ切り離す。
机の上に、新しい様式を五枚並べた。
緊急災害認定調書。
事由差替申請。
被害区分振替通知。
照会票の改訂版。
補償受付移管票。
五枚を同時に書き進めなければ、整合が取れない。一枚でも矛盾すれば、全部が崩れる。
ユースは椅子を引き直し、万年筆の蓋を外した。
*
最初の一枚が終わったのは、深夜二時を回った頃だった。
緊急災害認定調書。前線監視塔の通報記録を時系列で引き直し、魔獣の出現密度と避難開始時刻の関係を組み立てる。手元にある帳票だけでは足りない。照会を飛ばすにも閉庁後だ。
だから、過去の処理簿から引いた。
ユースの処理簿には、勇者案件に関わる全ての数字が残っている。いつ、どこで、どの規模の魔獣が出て、補給がどれだけ動き、聖剣の使用申請が何時何分に提出されたか。
三年分。全部、頭に入っている。
それだけでは根拠にならない。だから処理簿の該当頁を開き、記録番号を一つずつ転記して、緊急災害認定の裏付けにする。
二枚目、事由差替申請。
「聖剣使用許可の失効中における使用」を、「緊急災害対応下での例外行使」へ書き換えるための様式だ。
ここが一番危うい。
書き方を一行でも間違えれば、逆に「失効を知りながら使用した」という証拠になる。
ユースは下書きを三回書き直した。万年筆のインクが紙面で乾く時間すら惜しくて、左手で処理簿をめくりながら右手で清書する。
窓の外は、まだ暗い。
*
二日目の昼。
中央庁は通常業務に入っていた。窓口が開き、職員が動き、番号札が呼ばれる音が遠くから聞こえる。
ユースは事務スペースにいた。
三枚目の被害区分振替通知の清書に入っていた。避難民荷車列の被害と倉庫区画の焼失を、勇者案件の付随被害ではなく、災害補償の独立案件として切り出す。
この一枚がないと、被害者への補償ラインが開かない。同時に、勇者案件から被害を分離しなければ、アルヴェインの処分は不可避のまま残る。
「――グレイナー、まだいたのか」
廊下から声が飛んだ。同じ階の職員だ。ユースの机の上に積まれた帳票と、減りかけたインク瓶を見て、一瞬だけ足を止めた。
「勇者案件ですか」
「はい」
「……頑張ってください」
それだけ言って、足音が遠ざかる。
ユースは万年筆の先を拭い、次の行に進んだ。
*
二日目の夜。
四枚目、照会票の改訂版。
朝の通常業務で前線司令部への回線が使えたため、昼のうちに照会を飛ばしておいた。返答はまだ来ていないが、照会票の様式自体を緊急災害対応の書式に合わせて書き直さなければ、返答が届いても受理できない。
ユースは照会票の参照番号を一つずつ書き換えていた。
指先が、ほんの少しだけ文字を揺らした。
万年筆を置く。
右手を開いて、閉じる。
三秒。
また書き始めた。
事務スペースの蛍光灯が、微かに明滅した。古い照明だ。深夜になるといつもこうなる。
ユースはその光の下で、参照番号の残りを埋めていった。
*
三日目。
夜明け前の空気は、冷たかった。
五枚目、補償受付移管票。
これが最後の一枚だった。被害を受けた避難民の荷車列と倉庫区画の情報を、災害補償の受付台帳へ移管するための票。記入欄は二十八項目。うち十二項目は他の四枚の書類との相互参照が必要で、番号が一つでもずれれば不受理になる。
ユースは五枚を扇形に広げ、万年筆で一項目ずつ照合しながら書き進めた。
最後の参照番号を記入し、照合印を押す。
五枚の書類が、机の上に並んでいる。
緊急災害認定調書。事由差替申請。被害区分振替通知。照会票改訂版。補償受付移管票。
その下には、元の事由認定調書一式、職権補正通知、みなし調書――あの夜に仕上げた全てが、修正済みの状態で紐づけられている。
緊急案件処理票の末頁に、日付と署名を入れた。
これで、書くべきものは全て書き終わった。
ユースは帳票を揃え、提出用の原本を正しい順番に綴じた。それから一枚ずつ窓口控えを転記し、控えの束を別に整える。
提出用原本。窓口控え。二つの束が、机の上で向かい合った。
窓口控えを帳票棚に収める。
万年筆のインクを丁寧に拭った。黒銀のクリップを胸ポケットの縁に引っかけ、いつもの位置に挿す。
窓の外が、薄く白み始めていた。三日の間に何度もインクを吸い直した万年筆の軸は、握り続けた体温で、もう金属の冷たさを忘れていた。引き出しから出した予備のインク瓶は、底近くまで減っている。
終わった。
これで、勇者パーティーの資格停止は回避される。聖剣の封印凍結も、公費全面停止も起きない。被害者への補償ラインも開く。
全部、一人の受付係が、閉庁後の事務スペースで三日かけて繋ぎ止めた。
ユースは提出用原本の束を手に取り、席を立った。
朝の光が事務スペースの窓に差し込む中、提出窓口へ向かった。
*
中央庁の正面広場は、朝から人が多かった。
開庁を待つ申請者の列。出勤する職員。街路の商人たち。
その中に、光があった。
アルヴェイン・クロスが、勇者パーティーを率いて広場に立っていた。
白銀の鎧。腰に佩いた聖剣の柄が、朝日を弾く。端正な横顔に、王都の民衆が振り返る。光焔の勇者。誰もが知る名前だ。
ユースは中央庁の入口から広場に出たところだった。
提出用原本を提出窓口に届けた帰りだ。三日ぶりの外の空気が、少しだけ冷たい。
「おい」
アルヴェインの声が、広場に響いた。
ユースの足が止まる。
「グレイナー。こっちへ来い」
周囲の視線が集まった。勇者が名指しで呼んでいる。広場の人々がざわめき、道を開ける。
ユースは歩いた。
アルヴェインの前に立つ。
三日間の徹夜明けだ。制服に皺はない――着替えてはいた。だが目の下の影は隠しようがない。
アルヴェインは腕を組み、ユースを見下ろした。
「お前に言うことがある」
広場の群衆が、足を止めていく。勇者が何かを宣告する。それだけで人は集まる。
「お前はクビだ、グレイナー」
声が、広場に落ちた。
「――は?」
周囲のざわめきが、一瞬止まった。
アルヴェインは構わず続けた。
「勇者パーティーの支援窓口に、お前はもう要らない。理由は分かるだろう。お前は陰気で、見栄えが悪い。勇者パーティーの顔に泥を塗っている」
斥候が、アルヴェインの後ろで目を逸らした。僧侶も武闘家も、何も言わなかった。
「窓口業務しかできない無能を、いつまでも飼っておく義理はない」
群衆の中から、小さな声が漏れた。
「まあ、勇者様がそう仰るなら……」
「受付の人でしょう? 代わりはいくらでも」
アルヴェインは満足そうに顎を上げた。群衆の反応は、いつも彼の味方だ。光焔の勇者が不要だと言った。ならば不要なのだろう。それが、この広場の空気だった。
ユースは、何も言わなかった。
アルヴェインが一歩近づいた。
「それと――」
長い指が、ユースの胸ポケットに伸びた。制服の縁から覗いていた黒銀のクリップを掴み、万年筆を抜き取る。
「こんな安物にいつまで縋りついてるんだ。みっともない」
両手で軸を掴み――
折った。
硬い音が、広場に響いた。
黒銀の軸が二つに割れた。折れた断面から、拭いきれなかったインクの残りが黒い筋になって滲み、アルヴェインの指先を汚した。
アルヴェインは顔をしかめ、折れた二片を足元に投げ捨てた。汚れた指を鎧の裏布で無造作に拭う。
「さっさと荷物をまとめて出ていけ。勇者命令だ」
広場は静まっていた。
群衆は勇者を見ていた。誰も、石畳に転がった万年筆の破片を見ていなかった。
ユースの視線は、足元の黒銀に向いていた。
折れた軸。断面に残る、僅かなインクの黒。
三日間、この万年筆で書いた。聖剣使用許可の遡及更新。緊急災害認定調書。事由差替申請。被害区分振替通知。照会票改訂版。補償受付移管票。
全部、この軸で――。
「承知しました」
ユースの声は、いつもと同じだった。
音量も、抑揚も、何一つ変わらなかった。
アルヴェインが眉を上げた。怒りも、懇願も、動揺もない。窓口で「次の方どうぞ」と言うのと変わらない声だった。
ユースは一度だけ、アルヴェインの後ろに立つ斥候と僧侶と武闘家を見た。
三人とも、目を合わせなかった。
ユースはそれ以上何も言わず、身を屈めた。
石畳の上から、折れた万年筆の二つの破片を拾い上げる。インクで汚れた指先を拭いもせず、懐にしまった。
背を向け、中央庁の入口へ歩き出す。
広場の群衆が、また道を開けた。今度はユースのために。ただし、敬意ではなかった。勇者に切り捨てられた男の周囲から、自然と人が避けただけだ。
*
第三窓口の事務スペースは、朝の光で明るかった。
ユースは自分の机の前に立った。
引き出しを開ける。私物はほとんどない。予備のインク瓶と、清掃用の布が一枚。それだけだ。
帳票棚に目を向けた。
三年分の勇者案件の窓口控え。処理簿。差戻し記録。照会票の控え。
そして――三日前の夜から今朝まで、不眠で組み上げた緊急災害対応一式の窓口控え。提出用の原本はさっき提出窓口に届けた。ここに残っているのは、第三窓口が処理した記録だけだ。
あの書類が受理されれば、勇者パーティーの社会的死亡は回避される。聖剣の封印凍結も起きない。避難民への補償ラインも開く。
ユースが三日かけて繋いだ命綱を、アルヴェイン本人が自ら切り離したことになる。
だが、それはもうユースの仕事ではない。
机の上に、窓口証を置いた。
小さな金属板だ。「世界法運用局・勇者支援課・第三窓口」の刻印がある。
置いた。それだけだ。
ユースは振り返らなかった。
事務スペースを出て、廊下を歩り、中央庁の裏口から外へ出た。
朝の風が頬に当たった。三日ぶりに、処理すべき帳票のない朝だった。
懐の中で、折れた万年筆の破片が微かに触れ合った。
黒銀の冷たさだけが、まだそこにあった。
*
その日の午後。
中央庁の提出窓口で、勇者案件の緊急災害対応書類が正式受理された。
担当職員は受理印を押しながら、ふと首を傾げた。
書類の完成度が異常だった。相互参照の番号は全て一致し、時系列の裏付けには過去三年分の記録番号が正確に引用されている。一人の受付係が三日で組み上げたとは思えない精度だった。
だが、提出者の所属欄に記された名前――ユース・グレイナー――は、今朝付で勇者支援課から外れていた。
担当職員は書類を綴じ、処理棚に収めた。
その隣の棚には、勇者パーティーの未処理案件が並んでいる。
聖剣使用許可の次回更新。
討伐報酬の精算残。
治療申請の継続分。
補給認可の次期申請。
通行証の期限管理。
ユースが一人で回していた全てが、担当者不在のまま残されていた。
誰も、まだ気づいていなかった。
その帳票の束が、明日から何を意味するのかを。




