第18話「腐敗官僚ギデオン」
翌朝、セフィアは腕に革装の冊子を抱えて旧棟の廊下を歩いてきた。
いつもより足が速い。
「取れました」
受付台の端に冊子を置く。表紙には『監督補佐官 権限規程写(教会書庫保管本)』と墨書されていた。
ユースは処理中の帳票から手を離さず、視線だけを冊子へ落とした。
「昨日の閉庫直前に申請して、今朝の開庫と同時に受け取りました。審査補佐官見習いの閲覧範囲ぎりぎりでしたけど」
セフィアが少し得意そうに言う。
ユースは帳票の最終行に印を入れてから、冊子を手に取った。
革の綴じ紐を解く。紙は古いが、転写は正確だった。
頁をめくる速度は、通常の帳票を確認するときと変わらない。
七頁。
指が止まった。
「第三条第二項」
セフィアが覗き込む。
「――『上位監督機関の指示に対する異議申立権を有する。ただし、当該指示が戦時運用規程に基づく場合はこの限りでない』」
ユースは頁を閉じた。
「穴です」
「……戦時運用規程。平時には使われない条項ですよね?」
「使われないだけで、死文ではありません」
セフィアの笑みが消えた。
ユースは冊子を受付台の奥、封書の隣に並べた。
「回答は、もう少し後にします」
*
午前の鐘が鳴った。
通常案件を三件。辺境砦からの補給再認可の追加書類が一件。いずれも不備なく処理が進む。
四件目の封筒は、色が違った。
王都中央庁の通常便ではない。監督院の内部便封筒――薄い灰色に金の細線が入った、法務関連部署の書式だった。
ユースは封を切り、中身を取り出した。
予備照会書。
勇者パーティー関連の補給再認可について、第三窓口臨時担当への事前確認を求める書面だった。
一枚目。書式番号、日付、案件概要。正確。
二枚目。関連法令の引用、先行判例の整理、必要添付の一覧。すべて現行様式に準拠している。
三枚目。照会の具体的論点。補給停止の根拠条文と、再認可に必要な手続きの照合。法令番号に一桁の誤りもない。
ユースの指が、起案欄の上で止まった。
**起案:財務監督院法務局 ギデオン・ヴァルカス**
三枚とも、隅々まで正しかった。
勇者案件でこの精度の書類が届いたことは、一度もない。
ユースがアルヴェインの不備を一人で直していた頃にも、こんな品質のものは見たことがなかった。なぜなら、勇者側にこれを書ける人間がいなかったからだ。
「セフィアさん」
名前を呼ばれて、セフィアが受付台の横から覗いた。
ユースは起案欄を指で示した。
セフィアの視線がその名前に触れた瞬間、彼女の口元からいつもの柔らかさが消えた。
「……ギデオン・ヴァルカス」
復唱する声が、半音低い。
「ご存じですか」
「名前だけは」
セフィアは冊子の上に両手を重ね、少し間を置いてから言った。
「財務監督院法務局の次長です。教会の認可審査でも、たまにこの方の名前が書類に載ることがあります」
「評判は」
「――温厚で、丁寧で、絶対に声を荒らげない方だそうです」
それだけ聞けば美徳だった。だがセフィアの声には、称賛の色が一切なかった。
「教会の先輩審査官が一人、この方の案件で配置換えになりました。書類上は自己都合です。でも、異動の直前に照合で一箇所だけ疑義を出したんです。その翌週でした」
ユースは照会書に視線を戻した。
「窓口で怒鳴る相手とは、違いますね」
セフィアの声に、初めて硬さが混じった。
「ええ。怒鳴らない代わりに、条文で人を消す方です」
*
ユースは予備照会書を、受付台の処理棚に入れた。
右端ではなく、中央の「保留」の仕切りだった。
「……受理しないんですか?」
セフィアが訊いた。
「予備照会です。正式申請ではありません」
「不備は」
「ありません」
セフィアが首を傾げた。
不備がないなら、回答を返すのが通常の処理だ。差戻す根拠がなければ、保留にする理由もない。
だが予備照会には、正式申請と違って回答期限に猶予がある。三営業日。規程上、即日回答の義務はない。
「不備がないことが不備です」
ユースは短く言った。
セフィアはその言葉を、数秒かけて噛んだ。
勇者案件で、不備のない書類が届くことは、本来ありえない。それが届いたということは、勇者パーティーの外に書類を書いた人間がいる。
そしてその人間は、第三窓口の処理基準を正確に知っている。
「……この照会自体が、偵察ですか」
ユースは答えなかった。
帳票棚から次の案件を取り出し、通常業務に戻った。
*
その日の処理は、十一件。
補償関連の返送が二件、辺境砦の追加書類確認が一件、教会経由の治療認可照合が三件、その他通常案件が五件。いずれも過不足なく処理された。
窓口を閉める頃、西日が旧棟の廊下に差し込んでいた。
セフィアが先に退出し、ユースは受付台の帳票を整え終えてから席を立った。
廊下に出る。
旧棟の通路は、本庁舎と違って人通りが少ない。壁の漆喰は古く、窓枠の木は乾いている。夕方のこの時間帯は、自分以外の足音を聞くことはほとんどない。
だが今日は、あった。
向こうから一人、歩いてくる。
外套の仕立てが上等だった。生地の厚みと縫い目の間隔で分かる。中央庁の制服ではない。監督院系統の、しかも上位の仕立て。
男はユースの三歩手前で立ち止まった。
「お疲れさまです。臨時窓口の方ですね」
穏やかな声だった。
昨夜、アルヴェインに声をかけた男の特徴が、ユースの記憶と重なった。――上等な外套。終始柔らかい表情。そして、
足音。
革靴ではない。廊下の木板の上なのに、ほとんど音がしない。絨毯の上を歩くような足取り。
「法務局のギデオン・ヴァルカスと申します。本日、予備照会をお送りしました」
男は丁寧に名乗った。微笑みは崩れない。
「先ほど保留棚に入れていただいたようですね。回答期限内にご対応いただければ結構です」
ユースは一つだけ確認した。
保留棚に入れたのは、窓口の内側の処理だ。外部からは見えない。
この男は、窓口の中を見ていたか、見ていた人間から聞いている。
「ご丁寧にありがとうございます。回答は期限内にお返しします」
ユースはそれだけ返した。
ギデオンは微笑んだまま、軽く頭を下げた。
「よろしくお願いいたします。――良い窓口ですね。整理が行き届いている」
世辞には聞こえなかった。
品定めの声だった。
ギデオンはそのまま廊下を歩き去った。足音はやはり、ほとんど聞こえない。
ユースは動かなかった。
廊下に西日が落ちている。ギデオンの影が壁に伸び、角を曲がって消えた。
ユースの右手が、帳票を持つときの位置にあった。
何も持っていないのに、指が帳票の角を押さえる形を取っている。
五秒。
ユースは手を下ろし、歩き出した。
歩幅は普段と変わらない。
ただ、旧棟を出るまで一度も振り返らなかった。
*
翌朝。
受付台の上に、内部便の封筒がもう一通届いていた。
今度は予備照会ではない。
正式申請だった。




