第16話「被害者救済」
朝の鐘が鳴る前に、ユースは旧棟の窓口にいた。
受付台の脇に置いた帳票の束は、昨夜のまま正確にそこにある。七件分。補償申請の一覧。名前。損害品目。金額欄は空白のまま。
ユースはその束に手を伸ばし、一枚目を開いた。
商人ハルト・ベイラー。王都郊外第七倉庫区画、木材・繊維資材の損失。被害届出日から四十一日が経過。補償処理状況、未着手。
二枚目。行商人マルタ・ディエス。荷車二台分の陶器・乾物。避難誘導の混乱で車列ごと焼失。補償処理状況、未着手。
三枚目。倉庫区画の管理人。四枚目。露店商。五枚目。馬車の御者。六枚目、七枚目。
どの帳票にも、同じ文言が貼りついている。
「算定根拠の基礎資料に不備あり。処理保留」
ユースはその「基礎資料」が何を指しているか、誰よりも知っていた。
自分が書いた。
あの夜、三日間眠らずに組み上げた「緊急災害対応」の法的整理。アルヴェインの無認可聖剣行使を、制度上の破滅から救うために、現場報告書の虚偽を土台にして全体を再構成した書類。
その書類が、補償の算定根拠になっていた。
虚偽の報告書が基礎にある以上、被害面積も損害規模も正確に算定できない。算定できなければ、補償額は確定しない。確定しなければ、支払われない。
四十一日間、七人の被害者は待っていた。
ユースは七件の帳票を受付台の上に広げ、照合用の白紙を束から数枚引いた。
朝の鐘が鳴った。
ユースのペンは、鐘の余韻が消える前から動いていた。
*
セフィアが窓口に着いた頃には、朝の鐘からかなりの時間が経っていた。
受付台の上には七件分の帳票がすべて開かれている。ユースが中身を確認し、損害品目と届出内容を突き合わせた痕跡が残っていた。そのうち三件分には、照合票の枠組みが添えられている。
被害者側の届出資料から転記できる項目――氏名、損害品目、届出日、被害面積の申告値。それらは帳票と突き合わせるだけで埋まる。だが照合票の右半分、教会の治療記録や第三者施術データに基づく欄は、まだ白いままだった。
「おはようございます」
返事はなかった。いつものことだ。だがセフィアは、受付台の上に広がった七件分の帳票と、三件分にだけ添えられた照合票を見て足を止めた。
昨日、受付台の脇にまとめて置かれていた束が、一夜明けて作業の形に変わっている。算定根拠の再構成が、すでに始まっていた。
セフィアは自分の席に着き、照合権限の台帳を開いた。
「教会側の治療記録、要りますか」
「焼傷と煙害の施術記録。被害届出日前後の三日分」
「照会先は」
「第四施術所と、王都南門の仮設診療所」
セフィアの筆が動き始めた。質問はそれだけで済んだ。
*
午前の通常案件を三件処理しながら、ユースは合間ごとに補償帳票へ戻った。
作業は単純ではなかった。
虚偽の現場報告書を基礎から外す。つまり、アルヴェインが提出した報告書に記載された被害範囲、時刻、原因の記述をすべて無効化する。その上で、被害者側の届出、教会の治療記録、避難誘導記録、倉庫区画の資産台帳を照合し、正確な算定根拠を再構成する。
問題は、ユース自身が組んだ「緊急災害対応」の法的整理が、虚偽報告書と不可分に接続されていたことだった。
補償の算定根拠だけを差し替えることはできない。虚偽報告書を基礎から外せば、「緊急災害対応」として整理した枠組みそのものが揺らぐ。
つまり、勇者パーティーを救済するために組んだ法的整理を、自分の手で解体することになる。
ユースのペンが止まった。
一秒。二秒。
窓口の外で、鳩が屋根を蹴る音がした。乾いた、軽い音だった。
ペンが動いた。
四件目の照合票に、算定根拠の差し替え理由を書き込む。
「基礎資料の信頼性に疑義あり。被害者側提出資料および第三者記録に基づき再算定」
一行。迷いのない筆跡だった。
*
昼を過ぎた頃、セフィアが教会側の照合結果を持ってきた。
「第四施術所の治療記録、七件中五件分が一致しました。残り二件は仮設診療所の管轄です。照会は出しましたが、返答は明日以降になります」
「分かりました」
ユースは五件分の治療記録を受け取り、朝から枠組みだけ作っておいた照合票と突き合わせた。
焼傷の面積。煙害による呼吸障害の程度。治療に要した日数と施術回数。
商人ハルト・ベイラー。右腕と背面に中度の焼傷。施術三回。治療期間八日。その間、商売は完全に停止していた。
帳票の損害品目欄には、木材と繊維資材の明細が並んでいる。仕入れ元の伝票番号。納品予定日。すべて灰になった日付。
ユースはその数字を、照合票の空欄へ転記した。
感情は要らない。正確な数字だけが、この人たちを救う。
*
五件目の照合票を書き終えたとき、セフィアが小さく声をかけた。
「一つ、確認してもよろしいですか」
「どうぞ」
「この七件の補償を正式ルートへ戻すと、緊急災害対応として処理した枠組みが崩れます。それは――勇者案件の法的整理が、最初から虚偽報告書に基づいていたことが公式記録に残るということですが」
ユースはペンを置かなかった。六件目の照合票に、倉庫区画の資産台帳から転記を続けている。
「残ります」
「勇者パーティーへの追加処分の根拠になり得ます」
「なり得ます」
セフィアは少しだけ間を置いた。
それから、照合台帳の次のページを開いた。
「仮設診療所の照会、催促をかけておきますね」
ユースの筆は止まらなかった。
*
夕方。
七件中五件の補償申請が、正式な算定根拠を添えて再構成された。残り二件は仮設診療所の照合待ちだが、届き次第すぐに処理できる状態まで整えてある。
ユースは五件分の帳票を揃え、所定の提出順に並べた。
明朝、補償処理の正式ルートへ送付する。四十一日間止まっていた七人の補償が、ようやく動き出す。
帳票を揃え終えたユースは、受付台の下段にある旧案件の棚を見た。
勇者案件。ユースが三年間、温情で繕い、不備を埋め、虚偽を法的に包み直して、破綻させなかった案件群。
その温情が、七人の補償を止めていた。
ユースは旧案件の棚から、「緊急災害対応」の綴りを引き出した。自分が三日間眠らずに組み上げた書類。あの時は、これが最善だと思っていた。勇者パーティーの社会的死亡を防ぐことが、制度を守ることだと。
だが制度は、正しく運用されなければ人を守らない。
虚偽の上に組んだ制度は、救うべき人を見殺しにする。
ユースは「緊急災害対応」の綴りを、旧案件の棚の最奥ではなく、正式照会対象として受付台の上へ移した。
もう、戻さない。
*
セフィアが窓口を閉める準備を始めた。
帳簿を閉じ、照合台帳の栞を挟み、窓口札に手を伸ばす。
「明日、補償の送付と一緒に、仮設診療所への催促も朝一で出します」
「お願いします」
「それと」
セフィアは窓口札を手に取ったまま、受付台の上に置かれた「緊急災害対応」の綴りを見た。
旧案件棚の最奥にあったはずのそれが、受付台の上にある。正式照会対象の位置に。
セフィアはその意味を理解していた。
三年間、勇者を庇い続けた人が、自分の手でその庇護を解体している。七人の名前のために。
だがセフィアは何も言わなかった。慰めも、称賛も、この窓口には要らない。
窓口札を裏返した。
「本日の受付は終了しました」
*
ユースが最後の帳票を整え終え、席を立とうとしたとき。
旧棟の廊下の向こうで、足音が止まった。
窓口の外。受付札が裏返った後の、閉まった窓口を見つめるように、誰かがそこにいた。
ユースは気づいていた。午後の遅い時間から、窓口の外を何度か人が通った。通常の連絡係や若手職員とは違う足音だった。革靴の踵が、旧棟の石廊下に少しだけ長く残る歩き方。
だがユースは振り返らなかった。
明日の窓口には、五件の補償送付と、二件分の照合催促と、勇者案件の旧法的整理に対する正式照会がある。
それだけで十分だった。
旧棟の窓に、夕暮れの最後の光が差している。
受付台の上には、七人分の名前が並んだ帳票と、もう庇護の棚には戻らない綴りが、並んで置かれていた。




