第15話「四天王も並び、勇者も並ぶ」
朝の鐘が鳴った。
ユースは窓口札を表に返し、受付簿を開いた。予約欄に二件。昨夕確認した通りだった。
セフィアが照合票の束を補佐席に広げている。通常案件用と、外交照会用の対照書式を並べてあった。
「おはようございます。今朝の回付は三件、うち辺境方面が一件です」
「先に辺境を」
「はい」
旧棟の廊下はまだ薄暗い。中央庁の本棟に比べれば人の出入りも少なく、窓から差す朝日だけが受付台の木目を白く照らしていた。
辺境方面の経路認可照会を処理し終えた頃、最初の来訪者が廊下の向こうに現れた。
勇者支援課の連絡票を手にした男だった。革鎧に旅装。腰に短剣。冒険者寄りの装いだが、胸元に勇者パーティーの紋章入り連絡布をつけている。
男は旧棟の廊下を見回した。本棟の窓口とは違う。天井が低く、壁の漆喰が古い。受付台は一つしかない。
「……ここが、臨時窓口ですか」
「番号札をお取りください」
ユースの声に、感情はなかった。窓口横 oculi 木箱から番号札が一枚突き出ている。
男は札を取った。「壱」と刻まれていた。
「お掛けになってお待ちください。順番にお呼びします」
待合の長椅子は三脚。男はその一番手前に腰を下ろした。連絡票を何度か確認し、膝の上で書類を整えている。
ユースは受付台の書類に目を戻した。
七分ほどが過ぎた。
廊下の空気が変わった。
音ではない。温度でもない。ただ、旧棟の古い木の壁が、かすかに軋んだように感じた。
足音が近づいてくる。二つ。
一つは革靴。もう一つは――硬い。石か、あるいは爪か。床板を踏むたびに、乾いた音が規則正しく響く。
現れたのは、長衣の人物だった。
深い藍色の外套。フードを目深に被っているが、外套の裾に刺繍された紋章が見えた。昨日の予約票にあったものと同じ記号だった。
その半歩後ろに、従者らしき者がいる。灰色の肌。首元に薄い鱗。金色の瞳が、旧棟の薄暗い廊下で鈍く光っていた。
勇者パーティーの使者が、長椅子から腰を浮かせた。
「――魔族」
その一語が、待合室の空気を凍らせた。
使者の手が、無意識に腰の短剣へ伸びる。従者の金色の瞳が細まり、口元にわずかな緊張が走った。
「番号札をお取りください」
ユースの声が割り込んだ。
先ほどと同じ声量。同じ速度。同じ抑揚。
長衣の人物がフードの奥からこちらを見た。数秒。それから木箱へ手を伸ばし、番号札を取った。「弐」。
「お掛けになってお待ちください」
長衣の人物は、勇者側の使者が座る長椅子の――隣ではなく、一脚空けた三番目の椅子に腰を下ろした。従者はその背後に立つ。
使者の手はまだ短剣の柄にあった。
セフィアが補佐席から立ち上がり、柔らかく言った。
「窓口内での武器への接触はお控えください。規程第四条第二項により、窓口空間では一切の武力行使が禁じられております」
声は穏やかだった。微笑みすら浮かべている。だがその目は、使者の右手だけを見ていた。
使者の手が、ゆっくりと短剣から離れた。
待合室に沈黙が降りた。
勇者側の使者は前を向いている。四天王の代理人もフードの中で前を向いている。どちらも相手を見ない。見ないが、意識はしている。
二人の間にある空の長椅子が、境界線のように静かにそこに在った。
ユースは受付台の回付書類の最後の一枚に処理印を押し、所定の位置に戻した。
「壱番の方、どうぞ」
*
使者は受付台の前に立ち、書類を広げた。
勇者パーティー名義の補給再認可申請。聖剣関連の使用許可確認照会。討伐報酬の精算再開申請。三件を束ねて持ち込んでいた。
ユースは一枚目を手に取った。
紙の質は悪くない。書式は第四様式。案件番号も記載されている。
「補給再認可は、停止理由の解消証明が添付されていません」
「……解消証明?」
「現在の停止は聖剣使用許可の更新失効に起因します。使用許可が復活しない限り、補給認可の再開要件を満たしません」
使者の顔が強張った。
「では聖剣の方を先に――」
「使用許可確認照会ですね」
ユースは二枚目を見た。
「こちらは照会先の指定が空欄です。聖剣使用許可の管轄は王国兵装管理局です。管轄名と照会先担当部署名の記載がなければ、照会を飛ばせません」
「それは――あの、勇者支援課から書式をもらった時には――」
「勇者支援課が渡した書式自体は正しいものです。記入漏れは申請者側の責任になります」
三枚目。討伐報酬の精算再開。
ユースの目が、添付の戦果証明書に止まった。
「この戦果証明は、討伐管理局の受領印がありません」
「え――ないんですか?」
「ありません。原本照合印もありません。これでは討伐実績として認定できません」
使者は三枚の書類を見下ろした。
一枚は添付不足で差戻し。一枚は記入漏れで差戻し。一枚は受領印なしで差戻し。三枚とも通らなかった。
「……あの、勇者が――アルヴェイン様が、今日中に何か一つでも通してほしいと――」
「口頭の要請では処理できません。不備を解消して再提出してください」
ユースは三枚の書類を揃え、差戻し票を貼り、使者の前に戻した。
「差戻しです。次の方、弐番でお待ちの方、どうぞ」
*
使者が差戻し書類を抱えたまま、呆然と受付台の前に立っている。
その横を、長衣の人物が通り過ぎた。
フードを下ろした。
銀灰色の髪が肩まで流れた。鋭角的な顔立ち。耳が、わずかに人より長い。肌の色は人間に近いが、左のこめかみから顎にかけて、淡い藍色の紋様がうっすらと浮いている。
魔王軍上位の証。
背後の従者が、革の筒から書類束を取り出し、代理人の手元へ渡した。
代理人は書類を受付台に置いた。
「魔王軍第三補給管区の契約更新照会。および、眷属維持契約の条項確認」
声は低く、抑制されていた。敵意はない。しかし友好でもない。
ユースは書類を手に取った。
紋章印。外交照会窓口の経由印。案件種別票。通し番号。
一枚ずつ確認していく。
「契約更新照会の方は、経路認可の有効期限が記載されています。……ただし、第三補給管区の管区番号が旧表記のままです」
「旧表記?」
「昨年度の管区再編で、番号の振り直しが行われています。旧番号では照会先が特定できません。新番号への書き換えが必要です」
代理人の眉がわずかに動いた。だがそれだけだった。
「もう一件。眷属維持契約の条項確認ですが、こちらは契約原本の写しが必要です。添付にあるのは概要のみで、条項番号の対照ができません」
「原本の写しは、こちらでは持ち出し権限の関係で――」
「であれば、持ち出し権限を有する者の委任状、もしくは外交照会窓口を通した正式な原本開示請求が必要です」
代理人は黙った。三秒ほど。
「……一件目の管区番号の書き換えは、ここで訂正できるか」
「訂正印と、正しい新番号の記載があれば可能です。新番号はお持ちですか」
「ある」
代理人は従者に目配せした。従者が革の筒からもう一枚の紙を出す。管区番号の対照表だった。
ユースは対照表を確認し、訂正箇所を指差した。
「ここに旧番号を二重線で消し、右に新番号を記入。訂正印を押してください」
代理人は筆を取り、指示通りに訂正した。訂正印を押す手つきは慣れていた。
ユースは訂正後の書類を確認した。
「契約更新照会は受理します。照会結果は五営業日以内に外交照会窓口経由で通知されます」
受理印を押した。
「眷属維持契約の条項確認は、原本の写しまたは正式開示請求が揃い次第、改めてご提出ください。差戻しとします」
差戻し票を貼った。
一件は受理。一件は差戻し。
代理人は書類を受け取った。
「……窓口の処理は、勇者側も我々も同じ基準か」
「はい」
「魔族であっても」
「申請内容が正しいかどうかを確認しています。申請者が誰であるかは、書式と規程の要件に含まれません」
代理人はユースの顔を見た。
無表情だった。嘘や建前を言っている目ではない。本当に、紙の上の整合しか見ていない目だった。
代理人はかすかに頷いた。
「次回は原本の写しを用意する」
「お待ちしております」
長衣を翻して去る代理人の背を、勇者側の使者がまだ受付台の脇で見ていた。
差戻し書類を抱えたまま、使者は呟いた。
「……受理されてる。魔族の方が、通ってる――」
「不備のない申請が通り、不備のある申請が戻されただけです」
ユースは受付台を拭いた。
「他にご用件がなければ、次の案件に移ります」
使者は何か言いかけ、口を閉じ、差戻し書類を鞄に押し込んで去っていった。
*
昼を過ぎた。
通常案件がいくつか処理された後、旧棟の廊下は静かになった。
セフィアが照合票を整理しながら、声を落とした。
「勇者側は三件全て差戻し。魔王軍側は一件受理、一件差戻し」
「書類の出来がそうだった、というだけです」
「ええ。ただ――」
セフィアは照合票を帳簿に綴じる手を止めた。
「今日の光景は、明日には噂になりますね」
ユースは答えなかった。
旧棟の窓口に、勇者側と魔王軍側が同じ列に並んだ。勇者側は全件差戻し。魔王軍側は一件通った。
事実としてはそれだけだ。だが窓口の外の人間が、事実だけを見るとは限らない。
「連絡係の方、朝から三回こちらを覗いていましたよ」
「知っています」
「若手の方も、廊下で二回すれ違いました。二回とも、窓口の中を見ていました」
ユースは帳簿を閉じた。
噂は制御できない。しかし、窓口で下した判断に不備はない。書式を確認し、規程に照らし、正しいものを通し、足りないものを戻した。それ以上でもそれ以下でもない。
「午後の残件を片付けます」
「はい」
旧棟に西日が傾き始めた頃、ユースは当日分の処理を終え、旧案件の棚卸しに手をつけた。
勇者パーティーの過去案件。ユースが勇者支援課にいた頃に処理したもの。退職時に引き継ぎ資料として複写を残してある。
帳簿の背表紙を開く。時系列順に綴じられた案件票。一枚ずつ、記載内容を確認していく。
七枚目で、ユースの指が止まった。
王都郊外・魔獣掃討作戦。避難区域焼失に関する被害報告書。
ユースが三日徹夜で「緊急災害対応」として法的に整理した案件だった。
被害報告書の末尾に、被害者補償の進捗管理欄がある。
空欄だった。
ユースは関連帳票を引いた。補償申請の受付記録。処理状況。照会先。
すべて、止まっていた。
アルヴェインの現場報告書は虚偽だった。ユースはそれを知った上で、勇者パーティーの社会的死亡を防ぐために「緊急災害対応」として整理し直した。だが、虚偽の現場報告書が基礎になっている以上、被害者補償はその上に組み立てられていた。
報告書が虚偽である限り、補償の算定根拠が成立しない。算定根拠が成立しなければ、補償は支払われない。
あの火災で荷車列を焼かれた商人。倉庫区画を失った住人。
彼らの補償が、止まっている。
ユースは帳票を閉じなかった。
被害者の名前が、補償申請の一覧に並んでいる。七件。
ユースはその一覧を、所定の位置には戻さなかった。
受付台の脇に、明日の処理対象として置いた。
セフィアが窓口を閉める準備をしながら、その帳票に気づいた。
「……それは」
「明日、正式な照合が必要です」
ユースの声は、朝と同じだった。
だがセフィアは、受付台の脇に置かれた帳票の意味を理解していた。温情で繕った嘘の上に、誰かの補償が乗っていた。その嘘を繕ったのは、目の前にいるこの人だった。
セフィアは何も言わなかった。
窓口札を裏返した。
「本日の受付は終了しました」
旧棟の廊下に、夕方の光が長く伸びている。
明日の窓口には、七件分の名前が待っている。




