第14話「元勇者専用相談窓口」
翌朝。
旧棟の窓口を開ける前に、ユースは昨日の処理済み束を確認した。辺境砦方面の臨時補給ルート照会は物資品目の確認まで終えている。あとは通行管理局管轄の経路認可待ち――こちらから催促する筋ではない。
束を棚へ戻し、窓口札を表に返した。
「本日の受付を開始します」
誰に言うでもなく、ユースはいつもの声量で告げた。旧棟の臨時窓口に行列はない。中央庁本庁舎とは違い、ここへ来るのは監督院からの回付案件か、本庁で弾かれた再照会の類が大半だった。
セフィアが教会からの連絡袋を抱えて入ってきた。
「おはようございます。昨晩のうちに教会監査室から承認印つきの回付が二件。それと、辺境方面の治療資材追加要請の様式が更新されたそうで、新旧対照表が一枚」
「確認します」
ユースは連絡袋を受け取り、中身を展開した。回付二件は補助認可の形式確認。新旧対照表は項目の並び替えと記載欄の追加が三箇所。
十分もかからず処理を終え、次の帳票へ手を伸ばした。
旧棟の廊下を、若い足音が通り過ぎていった。立ち止まり、窓口の方を覗き、また去っていく。最近そういう気配が増えていた。
セフィアが視線だけでそちらを追い、小さく口の端を上げた。
「人気が出てきましたね、この窓口」
「業務に関係ありません」
「ええ、関係ありませんとも」
セフィアは自分の補佐席で照合票の束を広げた。それ以上は何も言わなかった。
静かな朝だった。
*
その静けさが破られたのは、午前の鐘が三つ鳴った直後だった。
旧棟の廊下に、場違いな足音が響いた。
重い。速い。そして、周囲を避けさせることに慣れた歩調だった。
「――どこだ」
声が先に届いた。
壁板が微かに振動するほどの声量。旧棟の薄い建材では遮音など期待できない。
「ここか。おい、ユース・グレイナー」
扉が開いた――というより、押し開けられた。蝶番が軋む音がして、旧棟の臨時窓口に外光が差し込んだ。
アルヴェイン・クロス。
王国公認勇者パーティーのリーダー。光焔の勇者。
端麗な顔は青白く、頬がわずかに削げていた。装備は一見して華やかだが、留め金の一つが外れかけていた。宿の手入れを受けられていない装備は、こういうところから綻ぶ。
隣の帳票棚で作業をしていた若手の連絡係が、息を詰めて壁際に寄った。
アルヴェインの視線が窓口を捉えた。仕切り板の向こう、いつもと同じ位置に座るユースの姿を。
「戻れ」
一語だった。
「パーティーに戻れ。今すぐだ。条件は――」
ユースは帳票から顔を上げなかった。
左手が、仕切り板の横に置かれた書類の束から一枚を引き抜いた。薄い用紙が窓口の受渡し台に滑り出る。
「復帰要請に関する必要書類一覧です。口頭では受理できません」
アルヴェインの言葉が、途中で止まった。
視線が、受渡し台の紙に落ちた。
様式番号。記載項目。添付書類の一覧。訂正印の規定。提出期限。照会先窓口。
文字がびっしりと並んでいた。
「……なんだこれは」
「必要書類一覧です」
「聞いてるんじゃない。俺は――勇者命令だ。戻れと言っている」
ユースの筆は止まらなかった。処理中の帳票に記入を続けながら、同じ温度で答えた。
「勇者命令は、勇者支援課を通じた正式な指揮系統命令書として発行されます。口頭による復帰命令は運用規程上、受理要件を満たしません」
アルヴェインの拳が、仕切り板を叩いた。
旧棟の窓口は本庁舎と違い、仕切り板が薄い。衝撃で受渡し台の書類が数枚ずれた。
「書類だの規程だの――そんなものは後でいい! 今、俺たちがどうなってるか分かってるのか!」
補給が止まっている。宿にも泊まれない。治療も通らない。通行証も切れた。
アルヴェインの声が、それらの事実を怒りに変換して旧棟の壁に叩きつけた。
ユースはずれた書類を元の位置に戻した。
「存じています」
それだけ言って、次の記入欄に筆を走らせた。
「存じて――」
アルヴェインの声が裏返った。
「存じていて、何もしないのか! お前がいなくなってから全部止まってるんだぞ!」
「はい」
「はい、じゃないだろう!」
「事実の確認です。勇者パーティーの許認可案件が停滞しているのは、各申請の不備が解消されていないためです。窓口担当の有無とは関係ありません」
嘘だった――とは言わない。嘘ではないからだ。
不備は最初からあった。それを一人で埋め続けていたのがユースだっただけで、不備そのものは勇者パーティー側が生み出したものだった。
アルヴェインにはそれが理解できない。
「俺は勇者だぞ」
その一言が、旧棟の空気を変えた。
廊下で足を止めていた若手職員たちが、息を潜めた。連絡係は帳票棚の陰から動けなくなっていた。
ユースの筆だけが、変わらず紙の上を走っていた。
「勇者であることと、申請要件を満たしているかどうかは、別の事柄です」
「――っ」
アルヴェインが仕切り板に身を乗り出した。窓口の奥へ手を伸ばそうとした。
「触れないでください。窓口内の書類および備品への接触は、規程により制限されています」
ユースの声に、怒りはなかった。感情の色が、どこにもなかった。
伸ばしかけた手が、宙で止まった。
アルヴェインの目が、ユースの顔を正面から見た。灰色の髪。整った制服。乱れのない姿勢。追放したあの日と同じ顔が、同じ温度で書類を処理していた。
自分がここにいることすら、業務の中断程度にしか扱われていない。
その事実が、アルヴェインの表情を歪ませた。
「お前は――俺に恨みがあるのか」
「ありません。書類の話をしています」
「嘘をつけ! 俺を追い出した仕返しに――」
「追放したのはそちらです」
ユースの筆が、初めて止まった。
ただし顔は上げなかった。
「復帰要請であれば、先ほどの書類一覧に沿って必要様式を揃え、勇者支援課経由で正式に提出してください。照会期間は通常十営業日です」
「十営業日だと……!? 今日明日の話をしてるんだ!」
「緊急扱いの要件も一覧に記載されています。三枚目の下段です」
アルヴェインの視線が、受渡し台に置かれたままの書類一覧へ落ちた。
三枚あった。
三枚目まで読む気力が、今の彼にあるかどうか。ユースは確認しなかった。確認する必要がなかった。
「……こんなもの」
アルヴェインが書類一覧を掴み上げた。皺が寄った。
「こんな紙切れ一枚で――」
「三枚です」
セフィアの声だった。
振り向いたアルヴェインの視線の先に、補佐席から立ち上がったセフィアがいた。淡い金髪。清楚な美貌。微笑み。
その微笑みの温度が、正確に零度だった。
「必要書類一覧は三枚構成です、元・勇者様。一枚目が復帰要請の基本様式、二枚目が添付書類と照会先の一覧、三枚目が緊急扱いの要件と訂正印の規定。よろしければ、数えてさしあげましょうか?」
「な――」
「それから」
セフィアは一歩も動かなかった。補佐席の横に立ったまま、柔らかい声で続けた。
「もし様式の書き方がお分かりにならないようでしたら、教会で月に一度、初等部向けの申請講座を開いております。次回は来週の水曜日ですので、ご予約いただければお席をご用意しますが」
旧棟の廊下が、凍った。
若手職員が口を押さえた。連絡係が帳票棚の陰で硬直した。
初等部向け。
子供向けの講座を、王国公認勇者に案内している。
アルヴェインの顔に血が上った。首筋まで赤くなった。
「ふざけるな……! 俺を誰だと――」
「アルヴェイン・クロス様。王国公認勇者パーティーリーダー。現在、聖剣使用許可の更新失効中、公費精算停止中、通行証期限切れ、補給認可停止中。――窓口の記録では、そうなっております」
セフィアは微笑んだまま、一つも間違えなかった。
アルヴェインの口が開いた。閉じた。もう一度開いた。
言葉が出なかった。
「書類をお持ち帰りください」
ユースの声が、横から入った。静かだった。
「窓口前での長時間の滞留は、後続の申請者の妨げになります」
後続の申請者。
旧棟の臨時窓口に行列はない。だが、規程上はそう告げる権限がユースにはあった。
アルヴェインは書類一覧を握りしめたまま、数秒間動かなかった。
やがて、手の中の紙を見下ろした。皺だらけになった三枚の紙。文字は読めるが、意味が頭に入ってこない――そういう顔をしていた。
「……覚えてろ」
それだけ言って、アルヴェインは背を向けた。
旧棟の廊下を、来た時と同じ重い足音が遠ざかっていく。ただし速度は遅かった。肩が下がっていた。
扉が閉まった。
蝶番が、もう一度軋んだ。
*
静寂が戻った。
連絡係が帳票棚の陰からようやく顔を出した。若手職員たちの足音が、廊下の奥へ散っていった。
セフィアが補佐席に座り直した。何事もなかったように照合票の束を開いた。
ユースは仕切り板の位置を確認した。ずれてはいなかった。受渡し台の書類を揃え直し、必要書類一覧の予備を補充した。
一枚減ったから、一枚足す。
それだけのことだった。
「――持って帰りましたね、あの一覧」
セフィアが、照合票に目を落としたまま言った。
「持って帰りました」
「読めますかね」
「三枚目までは難しいかと」
「でしょうね」
セフィアの筆が照合票の上を走った。
沈黙が数秒あった。
「……初等部向け講座の案内は、窓口業務の範疇ですか」
ユースが訊いた。声に感情はなかった。
「教会の公開講座は一般案内の対象です。窓口で案内して何の問題もありません」
「対象年齢は」
「八歳からです」
ユースは何も言わなかった。次の帳票を開いた。
セフィアの口元だけが、ほんの少し緩んでいた。
*
午後に入り、通常の案件処理が続いた。
辺境方面の治療資材追加要請に新様式を適用し、旧様式との対照確認を二件分こなした。教会監査室からの回付案件も処理済みの束に入った。
夕方の鐘が近づく頃、連絡係が一枚の伝票を持ってきた。
「あの……旧棟窓口宛てに、明日の来訪予約が二件入っています」
ユースは伝票を受け取った。
一件目。勇者支援課経由。案件番号つき。――勇者パーティー関連の使者からの照会申請。今朝のアルヴェインの来訪とは別口だった。書式は一応整っている。
二件目。
ユースの筆が止まった。
予約経路が、通常の行政系統ではなかった。監督院の外交照会窓口を経由していた。案件種別には「契約関連照会」とだけ記載されている。
申請者名の欄に、見慣れない紋章記号が押されていた。
ユースはその記号を三秒ほど見つめた。
伝票を受付簿に綴じた。
「明日の窓口開始を通常通り朝の鐘に設定してください」
連絡係が頷いて去った。
セフィアが補佐席から顔を上げた。
「二件目の経路、珍しいですね」
「ええ」
「外交照会窓口経由ということは」
「明日、確認します」
ユースはそれ以上言わなかった。
旧棟の窓から差す光が、昨日と同じ角度で橙色に傾いている。
窓口札を裏返した。
「本日の受付は終了しました」
明日の窓口には、二つの案件が待っている。
一つは勇者側。もう一つは――まだ確定していない。ただ、外交照会窓口を通るということは、王国内部の申請者ではないということだった。
ユースは受付簿を閉じ、所定の位置に戻した。
明日の準備は、明日の朝にやる。
今日の業務は、終わった。




