第10話「勇者、自分で書類が書けない」
朝の旧棟は静かだった。
ユースは窓口の木札を表に返し、帳票の束を確認する。昨日の受付分、処理済み七件、差戻し二件、保留一件。保留の一件は辺境砦向けの物資輸送認可で、添付の経路図に記載漏れがあった。申請者には今朝、補正箇所を伝える。
いつもの手順。いつもの朝。
セフィアの席は空だった。
昨夜の別れ際に「午前中は教会の工房へ寄ります」と言っていた。万年筆の修繕――というより、素材の鑑定を依頼するためだという。あの折れた軸の金属組成がわかれば、製造時期の推定に繋がる。
ユースは特に何も言わなかった。好きにすればいい。
窓口に最初の申請者が来る。商会の経理担当らしい中年の男が、補給物資の通関認可を持ってきた。添付は揃っている。署名欄も日付も正しい。
「受理します」
判を押し、控えを渡す。男は軽く頭を下げて去った。
二人目。三人目。淡々と進む。
旧棟の臨時窓口は本庁舎から渡り廊下一本で繋がっているが、申請者の動線としては裏口に近い。来るのは制度に慣れた実務者が多く、不備率は低い。
昼前、ユースは処理済み帳票ের束を本庁舎の記録室へ運ぶため、渡り廊下を渡った。
本庁舎の一階は、いつもと空気が違った。
窓口の前に、見慣れない滞留が起きている。
正確には――窓口の前で立ち尽くしている人間がいた。
僧侶だった。
勇者パーティーの回復役。白い法衣の肩が強張り、両手で一枚の用紙を握っている。その用紙の上半分は、すでに二箇所の書き損じが黒く塗り潰されていた。
窓口の職員が、抑揚のない声で言う。
「様式番号が異なります。治療再登録は甲種第七号ではなく、乙種第三号の二です」
僧侶の指が、用紙の端で止まった。
乙種第三号の二。
その番号を、おそらく初めて聞いたのだろう。
僧侶は窓口の横に積まれた様式見本の棚を見た。五十種以上の用紙が、番号順に仕切り板で区切られている。僧侶の目が棚の端から端まで往復し、結局どこにも手を伸ばせないまま止まった。
ユースは足を止めなかった。記録室は二階だ。階段へ向かう。
途中の廊下で、もう一人。
斥候が壁際にしゃがんでいた。
膝の上に広げているのは、通行証更新申請の添付書類一覧。ユースの記憶では、通行証の更新には本人確認書、所属証明、直近の行動記録写し、前回通行証の返納届、そして更新事由書が要る。遠征用であれば、さらに経路申告と補給認可の写しが加わる。
斥候の手元にあるのは、本人確認書だけだった。
それも、署名欄が空白のままだ。
斥候は一覧表の項目を一つずつ指で辿っていた。その指が、途中で何度も同じ行に戻る。読んでいるのではない。読めてはいるが、何をすればいいのかがわからないのだ。
ユースは横を通り過ぎた。
階段を上がる途中で、一階の待合椅子が見えた。
武闘家が座っていた。
座っている、というより――椅子に預けている。背もたれに上体を傾け、左腕で脇腹を庇うようにしている。額に薄く汗が浮いていた。昼前の庁舎内は涼しいはずだが、武闘家の首筋は赤みを帯びている。
呪毒だろう。
教会の治療登録が生きていれば、浄化処置の申請を通せる。だが登録が失効している以上、窓口は受け付けない。自費での民間治療師なら制度外だが、呪毒対応ができる民間治療師は王都にほとんどいない。
武闘家の唇の色が、記憶よりも薄い。
ユースは記録室へ入り、帳票を提出した。受領印をもらい、控えを受け取る。
階段を降りる。
一階の窓口前は、先ほどより空気が硬くなっていた。
僧侶がまだ立っている。手元の用紙が変わっていた。乙種第三号の二を見つけたらしい。だが今度は、患者情報の記入欄で止まっている。
「登録番号の記載が必要です」
窓口職員が言う。
「登録番号……」
僧侶が繰り返した。自分たちの治療登録番号を、僧侶は知らなかった。
知る必要がなかったからだ。
ユースが全部やっていた。
患者登録の初回申請も、更新も、番号の管理も。僧侶は治療が必要なとき「ユース、教会に出しておいて」と言えばよかった。翌朝には受理済みの控えが机に置かれていた。その控えすら、読んだことがあったかどうか。
僧侶は用紙を下ろした。
窓口職員は次の番号を呼んだ。
*
渡り廊下を戻りながら、ユースは足を速めも遅めもしなかった。
旧棟の窓口に戻ると、午後の申請者がすでに一人待っていた。鍛冶組合の帳簿担当で、素材調達認可の更新。不備なし。受理。
次。
薬種商の仕入れ許可。添付の産地証明に日付の転記ミスがあった。指摘し、補正箇所を示し、差戻し。
次。
淡々と回る。
窓口業務というのは、こういうものだ。正しいものを通す。間違ったものを止めて、直し方を示す。それだけのことを、毎日、何十件も繰り返す。
午後の半ば、渡り廊下の向こう――本庁舎の方角から、怒声が届いた。
壁と距離に削られて言葉の輪郭は曖昧だったが、声の質には覚えがあった。
アルヴェイン・クロス。
ユースは窓口の処理を続けた。
声は断続的に聞こえた。
「――のくせに――」
「――勇者が――」
「――通せと言って――」
その合間に、窓口職員の声は聞こえない。聞こえないのは声量の差ではなく、職員が声を張っていないからだ。規程通りの対応を、規程通りの音量で返しているだけだろう。
怒声がもう一段上がった。何かが硬い面に叩きつけられる音。机か、カウンターか。
ユースの窓口の前に座っていた申請者――鍛冶組合の老人が、本庁舎の方を見て眉をひそめた。
「騒がしいですな」
「本庁舎の方です。こちらの処理には影響ありません」
ユースは認可印を押し、控えを渡した。
「次の方、どうぞ」
*
夕方近く、申請者の列が途切れた頃、セフィアが戻ってきた。
教会の工房への出入りに使う薄い革鞄を肩にかけ、補佐席に座る。鞄の中身を出す前に、彼女はまず言った。
「本庁舎で、勇者パーティーが窓口を占拠していたそうですね」
「占拠はしていないでしょう。申請に来ていただけです」
「申請、できていましたか?」
ユースは答えなかった。答える必要がなかった。
セフィアは鞄から教会書庫の閲覧記録控えを取り出しながら、続けた。
「教会の受付にも来ていたそうです。僧侶の方が。治療再登録の件で」
「乙種第三号の二ですね」
「ええ。様式は見つけたようですが、患者登録番号がわからなくて帰ったと聞きました」
セフィアの声は柔らかかった。報告としての温度を正確に保っている。嘲りも同情も、そこにはない。
ただ、事実を述べている。
「それと」
セフィアが少し間を置いた。
「戻りがけに本庁舎の渡り廊下を通ったのですが、窓口の職員が話していました。勇者様ご本人も午後にいらしたそうです」
ユースの手が止まることはなかった。帳票の整理を続けている。
「窓口で『こんなものは部下の仕事だ』と仰って、書類を投げて帰られたと」
「申請は」
「未提出です。様式すら手に取っていなかったそうです」
ユースは帳票を揃え、紐で綴じた。
あの男は、そうだろう。
書類を書かなかったのではない。書けなかったのでもない。
書類というものが自分の手で触るべきものだと、今でも思っていない。
勇者の仕事は剣を振ることで、紙を捌くのは下の人間の役割だ。そう信じていて、そう信じたまま、その「下の人間」を自分で切り捨てた。
切り捨てた結果がどうなるか、考えたことすらなかっただろう。
考える必要がなかったからだ。いつも誰かが――ユースが――後始末をしていたから。
「それと、もう一つ」
セフィアの声がわずかに低くなった。
「同じ職員が言っていたのですが――斥候の方が、廊下で独り言を漏らしていたそうです」
ユースは顔を上げない。
「『あいつがいれば、こんなことにはならなかった』と」
静かだった。
旧棟の窓口に、夕方の光が差している。埃が光の筋の中をゆっくり流れていた。
ユースは何も言わなかった。
言うことがない。
斥候がそう思ったとしても、ユースの窓口に戻る理由にはならない。そもそも戻る場所がない。勇者支援課第三窓口という席は、追放と同時にユースの手を離れた。今のユースは監督院付の臨時整理要員で、旧棟の臨時窓口を預かっているだけだ。
そして――
「あいつがいれば」という言葉は、感謝ではない。
便利な道具がなくなった、という嘆きだ。
ユースはそれを長い間知っている。
「万年筆の件は」
話題を変えた。
セフィアは一拍だけ間を空けてから、鞄の中の小さな紙片――工房の預かり証を取り出して机に置いた。
「工房に預けました。金属組成の鑑定に数日かかるそうです。軸に使われている合金が、通常の筆記具とは配合が違うと――工房長が首を傾げていました」
「そうですか」
「結果が出たら、すぐにお伝えします」
ユースは頷いた。
それから、席を立った。
窓口の奥――旧棟の記録保管棚が並ぶ一角へ歩く。
この棚は、ユースが臨時整理要員として配属された際に引き継いだものだ。大半は処理済みの古い案件記録で、整理番号順に並んでいる。
その中に、一束だけ、背表紙の色が違う帳票群がある。
ユースはその束に手を伸ばした。
背表紙には、ユース自身の筆跡で書かれた文字がある。
「旧勇者案件――温情処理一覧」
ユースがかつて、勇者支援課の第三窓口で抱えていた案件群。聖剣の無認可行使を緊急災害条項で通したもの。公費の二重計上を経理誤りとして処理したもの。虚偽記載を訂正扱いにして監査を回避したもの。
すべて、ユースが勇者パーティーのために――正確には、勇者パーティーの社会的生命を維持するために――規程の隙間を縫って温情で処理した記録だ。
追放された日に、すべてを持ち出した。
当時はまだ、自分でも理由がわからなかった。ただ、窓口証を置いて去る時に、この束だけは棚から抜いて鞄に入れた。
今ならわかる。
これは、温情の記録であると同時に、不備の記録だ。
ユースが温情で覆い隠していたものを元に戻せば、そこにあるのは純然たる違反と虚偽の集積になる。
帳票の束を、机に置いた。
紐を解く。
一枚目。聖剣使用許可の更新漏れに対する遡及処理。ユースが事由認定調書を起こし、第四十二条の三に基づいて受理を通した。
二枚目。王都郊外の広域殲滅技使用に関する被害報告の差し替え。「緊急災害対応」として再整理した際の経路図と、避難完了時刻の照合表。
三枚目――
「ユースさん」
セフィアの声が、背後から届いた。
ユースは手を止めず、三枚目をめくった。
「それは」
「旧勇者案件の棚卸しです」
短く答えた。
セフィアは数秒、黙っていた。
それから、補佐席に座り直す気配がした。引き出しから照合用の筆記具を取り出す音。
「手伝います」
「明日からで構いません。今日は目を通すだけです」
「でしたら、私も目を通します。照合は二人の方が早いので」
ユースは振り返らなかった。
帳票を一枚ずつ、めくっていく。
温情で隠していたものを、正しい場所へ戻す。
それは勇者パーティーへの復讐ではない。
不備を不備として記録に残すことは、窓口業務の基本だ。
ユースがやるべきだったことを、ユース自身が怠っていた。追放されたから始めるのではない。追放されたから、ようやく――温情という名の歪みを、正す理由ができた。
旧棟の窓口に、夕暮れの光が長く伸びていた。
帳票の頁をめくるたびに、紙の擦れる音だけが響く。
セフィアが隣の机で、同じ種類の音を立てている。
窓口の木札は、まだ「受付中」のまま表を向いていた。




